新選組と「鳥羽伏見の戦い」の京都・淀を歩く♪【前編】の続きです。
●唐人雁木跡碑
朝鮮通信使【画像】の船着場に雁行する石段が唐人雁木である。
江戸時代、将軍の代替わりや慶事に際して派遣された使節の一行がここに上陸し、江戸へ向かった。
●六番組頭・井上源二郎の首級埋葬地
欣浄寺(ごんじょうじ)跡
市川三千代さん(日野新選組ガイドの会の会員さん)が発見した。
源三郎の甥・井上泰助【画像】は11歳で新選組に入り、近藤勇の小姓を勤め、「鳥羽伏見の戦い」では源三郎と共に戦った。
銃弾を受けて倒れた源三郎の壮烈な最後を目撃し、首と刀を持ち大阪へ引き揚げるべく歩き出した。写真は泰助が歩いた道。
しかし、余りの重さによろよろ歩く姿に他の隊士から「―行から遅れると敵に捕まってしまうから残念だが捨てろ」と言われ、仕方なく途中の寺の門前の田んぼを掘り埋めたという。
また泰助は「いつか京・大阪へ行く事があったらお参りして来い」と首を埋めた寺の名前を井上源三郎資料館・井上館長の祖母ケイさんに言ったが、ケイさんが老齢の為、寺の名を思い出せず残念だと伝えられていた。
祖母のケイさんは埋首地を「欣浄寺」と言ったが、家の前にも同じ名前のお寺がある為、「ボケてしまった」と思われ、信じてもらえなかったことが判明した。
ちなみに「欣浄寺」は安政年間に廃寺になり、明治6年にその土地は払い下げられた。今はうどん屋さんになっているが観光客にはうるさいらしいので注意。
●淀小橋
宇治川にかかっていた橋で、敗走する旧幕府軍が焼き払った。
長さ:72間(約130メートル)幅:4間(約7メートル) 淀小橋が焼け落ちたため、新政府軍は仕方なく船で宇治川を渡った。
ちなみにこの駒札は一部間違っている。城の留守は田邊治之助が守っていたの言うのが事実です。
●淀大橋
木津川にかかっていた橋。
100間(約181メートル)や137間(約247メートル)とも。
●八番楳木戦跡碑
(千両松激戦地跡、井上源三郎の戦士地)
千両松【画像左上】には見事な松並木があり、豊臣秀吉が千両の価値があるといったという。
土方歳三【画像上】が率いる新選組と佐川官兵衛【画像下】が率いる会津藩が、ここで新政府軍と激戦を繰り広げた。
この付近一帯は湿地帯で、組織的な行動には向かず、防御するのに有利だった。
長州振武隊の隊長だった石川厚狭介(あさのすけ)正臣が戦死した。
長州騎兵隊の三浦梧楼【画像】が足に銃弾を受けて、土手から転がり落ちたが、それでも指揮を執り続けていた。
のちに三浦の奮戦は錦絵の題材にもなった【画像】。
千両松での新選組の戦死者は、「横倉甚五郎日記扣」には、井上源三郎や山崎丞など14名と書かれている。
●千両松の碑文
碑の表には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。それが日本人同族の争いでもあり、いづれもが正しいと信じたるままに、それぞれの道へと己等の誠を尽した。然るに流れ行く一瞬の時差により、或る者は官軍となり、或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。百年の歳月を閲し、其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し、慰霊碑の建つるを見る。在天の魂以て冥すべし。昭和四十五年春 中村勝五郎識す」とある。
また碑の裏には「慶応四年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、悲命に斃れた会津桑名の藩士、及び新選組並びに京都所司代、見廻組の隊士の霊に捧ぐ。昭和四十五年六月四日 日本中央競馬馬主協会連合会長 中村勝五郎(以下略)」とある。
●土方歳三が淀で…
「史談会速記録第二十三輯」には、5日の夕方、淀にいた旧幕府軍の兵士の話が書かれている。
兵士は「松平豊前守様【大河内正質(まさただ)】と約束して、お互いにここを死に場所と覚悟を決めたので一歩も動かないつもりです」と答えたが…。
●譜代大名の統治が長かったこともあり、淀の住人は徳川贔贋だった
●会津の小鉄【画像】【本名:上坂(こうさか)仙吉(せんきち)】
慶応4年、鳥羽伏見の戦いに子分500人を動員し、軍夫をさせた。
小鉄は子分とともに放置されていた会津藩士の遺体を収容し、会津藩の本陣があった黒谷・金戒光明寺に葬った。
この後、小鉄は大坂に敗走し、会津藩士の遺品を会津若松へ運んだ。
この時、近藤の首と、近藤の愛刀・阿州吉川六郎源祐芳を手下とともに会津まで運んだ。
●光明寺跡戊辰役東軍戦死者埋骨地碑
淀城への入城を拒否された旧幕府軍の戦死者は賊軍として埋葬は許されず、遺体が野ざらしになっていた。
その遺骸を地元の村人や寺が宗派や思想を超えて葬った。
光明寺は浄土宗だった。
大専寺(真宗大谷派)、文相寺(浄土真宗本願寺派)、長円寺(浄土宗)、東運寺(曹洞宗)にも「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」が建っている。
●長円寺(浄土宗)
慶応4年1月5日、1日幕府軍の野戦病院になる。
榎本武揚【画像】の書による「戊辰之役東軍戦死者之碑」(明治40年)が建っている。
先生によるとこのあたりには同じ石碑がたくさんあるそうです。鳥羽・伏見の戦いによる戦没者数は、新政府軍110名、旧幕府軍280名で負けた幕府軍のほうが死者は多かったそうです。
この日はけっこう歩いてかなり疲れましたが、先生と楽しい1日を過ごすことができました♪
撮影機材
Canon EOS R6 MarkⅡ
Canon RF14-35mm F4L IS USM
最後までご覧いただき有難うございました!☺️
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史跡めぐり | 日記
Posted at
2025/02/16 18:01:31