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2024年04月29日 イイね!

幕末動乱の京都 河原町、木屋町を歩く♪ 【後編】

幕末動乱の京都 河原町、木屋町を歩く♪ 【後編】幕末動乱の京都 河原町、木屋町を歩く♪ 【前編】の続きです。

【木屋町】幕末研究者・木村先生と巡る、藩邸ひしめく激闘の木屋町へ
~今も残る龍馬の隠れ家、新選組・急襲の池田屋事件、龍馬最期の地まで~
https://www.maimai-kyoto.jp/event/ky24b1910/

まいまい京都のツアーで幕末維新ミュージアム・霊山歴史館学芸課長、木村武仁さんにご案内いただいております。

1.独身時代 お龍寓居跡碑(ただしTOPの画像は別人)

お龍の父は、医師の「楢崎将作」で青蓮院宮朝彦親王の侍医も努めた。
もともと「柳馬場三条下る東側」に住んでいたが、木屋町に引っ越してきた。
このあと一家は離散し、お龍は七城新池・扇岩の仲居になった。
母・貞と妹・君江は土佐脱藩浪士の潜伏場所である方広寺南門(三十三間堂南門)前にあった河原屋五兵衛宅に住み込みで働いた。






2. 土佐藩邸跡碑
龍馬は脱藩罪が赦されたが、7日間藩邸で謹慎させられた。
「明保野亭事件」で、会津藩士・柴司と土佐藩士・浅田時太郎がせっぷくさせられたが…。






3. 土佐稲荷岬神社

以前は鴨川の中洲にあったことから「岬神社」と呼ばれていた。土佐藩邸内に移されたが一般の人も参拝できるようにしてあった。



坂本龍馬の像


坂本龍馬の写真とあるが実際は絵らしい。





4. 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地跡(近江屋跡)

中岡慎太郎は龍馬に「三条大橋制札事件」で捕縛されていた宮川助五郎の身の振り方で相談に来ていた。当初は新選組の仕業と思われていたが実際は見廻組の犯行。



正しくはこの「パチンコ・キング」の場所である。碑の2軒左隣り。
(これは本などで見ていたが実際のパチンコ屋を見たのは初めて)


河原町通が拡張され、近江屋跡は西半分になった。この道路の上に近江屋はあった。
向かい側には土佐藩邸があったので、もし近江屋の土蔵に龍馬が隠れていたら見廻組が来た際、土佐藩邸に逃げ通せたかも知れない。





5. 中岡慎太郎寓居跡碑

菊屋峯吉が、寺井万次郎に京都市教育会が建てる石碑について場所を指南したという。



今はおしゃれなカフェになっている。





6. 谷干城寓居跡
土佐藩士。慶応3年3月に小監察(目付)になり、ここに住んでいた。
龍馬が襲撃された時、ここから駆けつけ、瀕死の中岡から聞き取り調査をした。
そして新選組だと断定したのもこの人。
①「こなくそ」という方言②瓢亭の下駄③現場に落ちていた鞘…薩摩藩邸に匿われていた御陵衛士の残党に確認したところ「原田左之助の鞘」だということになった。(実際は黒くて誰の鞘かは判別できなかったはず)

西南戦争では熊本鎮台司令長官として、50日に及ぶ熊本城での籠城戦を戦い抜いた。






7. 古高俊太郎邸跡
勤王の志士・梅田雲浜の弟子。宮部鼎蔵の下僕。忠蔵が南禅寺で捕らえられて発覚したという説がある。



池田屋事件の発端となった新選組の拷問の犠牲になったのがこの人“枡屋喜右衛門こと古高俊太郎”です。土方歳三が旧前川邸の土蔵で足に五寸釘を打つシーンは有名。



この枡屋を新選組が探索してみたところ、武器や弾薬がゴロゴロでてきてビックリしたらしい。






8. 中村半次郎寓居跡(今はマクドナルドがあるあたり)
薩摩藩の桐野利秋。別名人斬り半次郎。
村田煙管店の「村田さと」と恋仲だった。
「京在日記」日記によると足繁く通っていることがわかる。
青蓮院宮の警護を務めていたが。「姉小路公知殺害事件」で解任され、薩摩藩も乾門の警護を解任された。






9. 岡本健三郎寓居跡(薬種商 亀田屋) ピンクの看板のあるあたり

土佐藩の下横目(下級警察官)。坂本龍馬の警護をしていた。
殺害直前の福井県出張にも同行していた。
龍馬殺害時は恋人の足立たかに会いに行っていた。



岡本健三郎は新選組が龍馬らの仇と信じ、三条河原に新選組局長の近藤勇のさらし首を見に行き、この絵を描いている。よほど警護をしくじったのが悔しかったのであろう。



地図


ここでツアーは終了、解散となりました。
私は桐野利秋の寓居跡のマクドナルドでランチを食べて帰りました。


久々に京都史跡巡りをしてみましたが、先生の説明でより面白く歩くことができました。また自分ひとりで同じルートを歩いてみたいなと思いました。

先生とはまた6月にツアーでご一緒します。またブログに書きたいと思います。

撮影機材
キヤノンEOS R6 MarkⅡ
EF16-35mm F4L IS USM
マウントアダプター EF-EOS R

最後までご覧いただき有難うございます!(^^)
Posted at 2024/05/06 16:13:13 | コメント(9) | トラックバック(0) | 史跡めぐり | 日記
2024年04月29日 イイね!

幕末動乱の京都 河原町、木屋町を歩く♪ 【前編】

幕末動乱の京都 河原町、木屋町を歩く♪ 【前編】まいまい京都のツアーに参加してきました♪
【木屋町】幕末研究者・木村先生と巡る、藩邸ひしめく激闘の木屋町へ
~今も残る龍馬の隠れ家、新選組・急襲の池田屋事件、龍馬最期の地まで~
https://www.maimai-kyoto.jp/event/ky24b1910/

この日の集合場所は「京都市役所前」。阪急「京都河原町」から徒歩で1km歩きます。


まいまい京都のガイドさん2名とTVでもおなじみの幕末維新ミュージアム・霊山歴史館学芸課長、木村武仁さんが説明ガイドをしてくれます。


河原町御池の立地の良さ…三条大橋(東海道五十三次の終点)や「高瀬川の一之舟入」がほど近く、御所からも約2.5kmから離れていない。

南北1km、東西400mの間に藩邸が6つ(北から、長州、加賀、対馬、岩国、彦根、土佐)が建っていた。 現在幕末関係の石碑が20基以上建っている。

1. 長州屋敷跡…慶長の末(江戸時代の初期)からここに藩邸が建っていた。「禁門の変」で京都留守居役の乃美織江が火をつけて退却した。その後、幕府に没収され、維新後は明治4年に勧業場、18年に府立画学校、その後は洋風の常盤ホテルになった。近くには法雲寺があり久坂玄瑞が謹慎していた。






2. 桂小五郎(木戸孝允)像もすぐ横にある。







3. 佐久間象山・大村益次郎・遭難地

料亭幾松(現在は一乗寺に移転)、池田屋跡と長州関連の史跡が多い。







3. 加賀藩邸跡碑

100万石の大藩で、藩主前田斉泰の「斉」は徳川家斉の「斉」の字を賜った。
一方、世子・前田慶寧の側近は勤王派で、両者は対立した。
禁門の変で、世子・前田慶寧は長州藩のために斡旋するが失敗した。
藩主、斉泰は、慶寧を幽閉し、加賀藩は佐幕派となった。
加賀藩は「鳥羽伏見の戦い」では旧幕府軍として出陣するが、旧幕府軍の敗戦を聞いて慌てて引き返した。
維新後は槇村正直邸となる。






4. 佐久間象山寓居邸碑

門下生には勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助、山本覚馬、坂本龍馬がいた。象山は江川太郎左衛門に師事した。
幕命で上京し、京都での三度目の住居で、ここに妾と一緒に住んでいた。
その少し前、梁川紅蘭に金100両を渡して、妾の世話を頼むが断られる…。
白馬に洋風の鞍を置いた馬にまたがり、開国論を吹聴し、孝明天皇を彦根に移す策を提案した。そのことから人切り彦斎こと河上彦斎にらに暗殺された。






5. 武市半平太寓居跡碑

土佐勤王党の盟主で、月形半平太のモデルになった人物。
四国屋の離れ座敷「丹虎」があった場所で、少し前までは料亭「金茶寮」だった。
武市は、土佐藩の応接役である京都留守居加役になった。
妻、富子の「内助の功」が知られている。






6. 吉村寅太郎寓居跡碑

幕末の土佐藩で最初に脱藩した人物。
寺田屋騒動で伏見義挙が失敗し、捕らえられて土佐で牢獄された。
天誅組の挙兵まで寓居にし、平野国臣や藤本鉄石が毎日のように訪れた。








7. 対馬藩邸跡碑

桂小五郎は「池田屋事件」の時、対馬藩邸の控屋敷で京都留守居役・大島友之丞と囲碁を打っていて助かったという。
ただ現在の研究では「桂は池田屋にいた」とされる(乃美織江手記)。

幕末の対馬藩は、英国艦が勝手に対馬近海を測量し、ロシア海軍が上陸したため、尊王攘夷派だった。
対馬藩邸は桂小五郎の隠れ家の一つで、「禁門の変」の後にも潜伏している。
対馬藩邸の出入り業者で小間物商の広戸甚助は、桂に出石に250日間も潜伏させた。









8. 池田屋騒動之跡碑

新選組、出動隊士34名を10名の近藤勇隊と24名の土方歳三と井上源三郎隊(祇園)に分けて探索させた。



現在は旅籠茶屋池田屋はなの舞になっている。



地面には鉄板がはめ込んである。






9. 坂本龍馬寓居跡碑(酢屋)

酢屋6代目、中川嘉兵衛は材木商の元締めだった。
龍馬は長崎から後藤象二郎、長岡謙吉らと一緒に上洛し、寓居にした。
酢屋は海援隊の京都本部(屯所)になった。
南側には「高瀬川五之舟入」や彦根藩邸があった。
彦根藩邸の西側には後藤象二郎の寓居「壺屋」があった。






酢屋の前の道は「龍馬通り」と呼ばれている。(昔は親不孝通りと呼ばれていた。)




10. 後藤象二郎寓居跡碑 (壺屋)
土佐藩御用達の醤油問屋。後藤が土佐藩邸に入ると、龍馬も藩邸近くの「近江屋」に移った。






現在石碑のあるホテルリソル京都河原町三条には、後藤象二郎寓居跡&記念ギャラリーもある




龍馬や象二郎と同じように写真も撮ることができる。









11. 彦根藩邸跡碑…譜代大名35万石

「桜田門外の変」後に、京都警備を罷免され、25万石に減らされた。
「天誅組の変」、「禁門の変」、「第二次長州征伐」では幕軍として出兵。
ところが「鳥羽伏見の戦い」では薩長軍につき、「戊辰戦争」では官軍として出兵した。

会津藩公用方、手代木直右衛門が、龍馬が殺害された翌日、彦根藩士、石黒伝右衛門に宛てた手紙が霊山歴史館に収蔵されている。
石黒は彦根藩の京都留守居役を努めたこともある彦根藩の重臣で、彦根藩家老・岡本黄石(半介)と徳川慶喜の新政府入りを画策した人物でもある。



長くなりますので後編に続きます。

地図

Posted at 2024/05/05 16:07:39 | コメント(10) | トラックバック(0) | 史跡めぐり | 日記

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