若江の古戦場から八尾に南下します。
八尾はかって四国土佐を平定した長宗我部元親の子、長宗我部盛親が豊臣方の武将として東軍の藤堂高虎と激突した地です。長宗我部勢約5,300の兵はこの長瀬川を挟んで藤堂勢5,000の兵と向かい合ったのです。当時はもっと川幅があり西軍側は高い川土手の影に隠れ、川を渡ってきた東軍に一斉攻撃をしたと伝えられています。
長瀬川 posted by
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近くには長宗我部側にゆかりの松の遺址があります。ここに大きな松があってよじ登って敵城偵察をしたと伝えられています。
八尾には八尾城が八尾神社のあたりにあったと伝えられ、夏の陣当時も激戦の中心となったと伝えられています。八尾神社には石碑が建っています。
八尾神社 posted by
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戦術に優れた長宗我部盛親は、藤堂勢を壊乱させ夏の陣で唯一の局地的勝利を西軍にもたらしました。敗れた藤堂勢の惨敗は手ひどく、一門の高刑、氏勝をはじめとして名ある大将を含めた71名の兵を失いました。
ただ、木村重成軍の壊滅の報を聞いた長宗我部は大阪城へ撤退を決め、その撤退の際に多くの兵を失います。盛親は大坂城には帰り着いたもののその後逃亡して捕らえられ斬首され、長宗我部氏は滅亡しました。
激戦地にあった常光寺の方丈には藤堂側が西軍の兵の首級を並べた板を天井にした「血天井」が今も残っています。こちらの建物は老朽化が激しいそうで近々取り壊されるのだそうです。このお寺は徳川方ゆかりのようで、葵紋の瓦が今でも残っています。
常光寺 posted by
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常光寺 石庭 posted by
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常光寺の奥まったところには藤堂側の家臣71士の墓もひっそりと建っています。
藤堂家家臣七十一士墓 posted by
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藤堂家家臣七十一士墓 posted by
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この八尾の戦いでの双方の死者は若江の戦いの倍近い900名近くだったそうです。この戦いで勝利した井伊家は徳川幕府の譜代大名として彦根藩、藤堂家は外様大名ながら伊勢津藩を幕末まで治めることになります。勝者は一刻の主、敗者は斬首ですから明暗悲喜こもごもです。
大阪冬の陣、夏の陣は豊臣秀吉亡き後の跡目相続に伴う政治的内紛で、一般的には秀頼が継ぐべき跡目を徳川家康が乗っ取ったようにいわれています。しかし安定した治世を求めれば実力者の家康の世になるのは当然の流れだったのかもしれません。人々は戦乱の世に厭き、争いのない平和な世の中を待ち望んでいたのでしょう。
近くにある八尾天満宮も訪れました。
八尾天満宮 posted by
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穴太神社も歴史のある神社のようです。
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江戸時代のまちなみが残る寺内町久宝寺も訪れました。
八尾 寺内町 posted by
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久宝寺御坊 顕証寺の大きさには驚きました。まるで要塞のようでした。
顕証寺 posted by
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夏の陣の際は一向宗は中立を保ったのだそうです。
顕証寺 posted by
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最後に夏の陣で戦災に遭った真観寺に訪れました。
真観寺 posted by
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境内には若江城主であった戦国武将三好長慶、義継らの墓と宝塔がありました。
真観寺 posted by
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真観寺 posted by
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春らしいのどかな天候でのんびり大阪夏の陣の空気にふれることが出来ました。かの戦いから約400年、今ではその面影もわずかに残るばかりとなりました。
この辺りは道路がよく混んでいて場所がわかりにくいことも多く行ったり来たりしたので、車ではなくクロスバイクで来て正解でした。
本日の自転車走行距離 17.5km (Yahooルートラボにて計測)
最大標高差 8m
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今回のルートは道中にスマホでネットを検索し、お友だちの
ピスモさんのブログなどを閲覧しながら次の目的地を決めました。そしてGoogleナビの案内で移動したので楽ちんでした。あと今回の写真はすべてGalaxy Note3で撮りました。朝9時半から15時位までGPSをフルに使って、バッテリー残はまだ50%余とまだまだ余裕でした。便利になったもんです(^^)
ホントに最後にというか・・・、このあとが本来の目的の温泉オフでした♪
いつもの仲間のTarosaさん、ちゅわわさん、Jamesさん、ひでぼうさん、Fさん、そして私の6名で居酒屋→温泉→宿泊と楽しい2日間となりました。
最後までご覧いただきまして有難うございましたm(__)m
Posted at 2014/04/20 21:31:27 | |
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