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2025年02月08日 イイね!

新選組と「鳥羽伏見の戦い」の京都・淀を歩く♪【後編】

新選組と「鳥羽伏見の戦い」の京都・淀を歩く♪【後編】新選組と「鳥羽伏見の戦い」の京都・淀を歩く♪【前編】の続きです。






●唐人雁木跡碑
 朝鮮通信使【画像】の船着場に雁行する石段が唐人雁木である。




 江戸時代、将軍の代替わりや慶事に際して派遣された使節の一行がここに上陸し、江戸へ向かった。

●六番組頭・井上源二郎の首級埋葬地

 欣浄寺(ごんじょうじ)跡

 市川三千代さん(日野新選組ガイドの会の会員さん)が発見した。


 源三郎の甥・井上泰助【画像】は11歳で新選組に入り、近藤勇の小姓を勤め、「鳥羽伏見の戦い」では源三郎と共に戦った。


 銃弾を受けて倒れた源三郎の壮烈な最後を目撃し、首と刀を持ち大阪へ引き揚げるべく歩き出した。写真は泰助が歩いた道。




  しかし、余りの重さによろよろ歩く姿に他の隊士から「―行から遅れると敵に捕まってしまうから残念だが捨てろ」と言われ、仕方なく途中の寺の門前の田んぼを掘り埋めたという。

 また泰助は「いつか京・大阪へ行く事があったらお参りして来い」と首を埋めた寺の名前を井上源三郎資料館・井上館長の祖母ケイさんに言ったが、ケイさんが老齢の為、寺の名を思い出せず残念だと伝えられていた。
 
 祖母のケイさんは埋首地を「欣浄寺」と言ったが、家の前にも同じ名前のお寺がある為、「ボケてしまった」と思われ、信じてもらえなかったことが判明した。

 ちなみに「欣浄寺」は安政年間に廃寺になり、明治6年にその土地は払い下げられた。今はうどん屋さんになっているが観光客にはうるさいらしいので注意。


●淀小橋
 宇治川にかかっていた橋で、敗走する旧幕府軍が焼き払った。



 長さ:72間(約130メートル)幅:4間(約7メートル) 淀小橋が焼け落ちたため、新政府軍は仕方なく船で宇治川を渡った。



ちなみにこの駒札は一部間違っている。城の留守は田邊治之助が守っていたの言うのが事実です。


●淀大橋
 木津川にかかっていた橋。

 100間(約181メートル)や137間(約247メートル)とも。

●八番楳木戦跡碑
 (千両松激戦地跡、井上源三郎の戦士地)
 千両松【画像左上】には見事な松並木があり、豊臣秀吉が千両の価値があるといったという。







 土方歳三【画像上】が率いる新選組と佐川官兵衛【画像下】が率いる会津藩が、ここで新政府軍と激戦を繰り広げた。





 この付近一帯は湿地帯で、組織的な行動には向かず、防御するのに有利だった。

 長州振武隊の隊長だった石川厚狭介(あさのすけ)正臣が戦死した。

長州騎兵隊の三浦梧楼【画像】が足に銃弾を受けて、土手から転がり落ちたが、それでも指揮を執り続けていた。



 のちに三浦の奮戦は錦絵の題材にもなった【画像】。



 千両松での新選組の戦死者は、「横倉甚五郎日記扣」には、井上源三郎や山崎丞など14名と書かれている。


●千両松の碑文



 碑の表には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。それが日本人同族の争いでもあり、いづれもが正しいと信じたるままに、それぞれの道へと己等の誠を尽した。然るに流れ行く一瞬の時差により、或る者は官軍となり、或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。百年の歳月を閲し、其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し、慰霊碑の建つるを見る。在天の魂以て冥すべし。昭和四十五年春 中村勝五郎識す」とある。



 また碑の裏には「慶応四年戊辰正月、伏見鳥羽の戦いに敗れ、ここ淀千両松に布陣し、薩摩長州の西軍と激戦を交し、悲命に斃れた会津桑名の藩士、及び新選組並びに京都所司代、見廻組の隊士の霊に捧ぐ。昭和四十五年六月四日 日本中央競馬馬主協会連合会長 中村勝五郎(以下略)」とある。

●土方歳三が淀で…
 「史談会速記録第二十三輯」には、5日の夕方、淀にいた旧幕府軍の兵士の話が書かれている。

 兵士は「松平豊前守様【大河内正質(まさただ)】と約束して、お互いにここを死に場所と覚悟を決めたので一歩も動かないつもりです」と答えたが…。


●譜代大名の統治が長かったこともあり、淀の住人は徳川贔贋だった

●会津の小鉄【画像】【本名:上坂(こうさか)仙吉(せんきち)】
 慶応4年、鳥羽伏見の戦いに子分500人を動員し、軍夫をさせた。



 小鉄は子分とともに放置されていた会津藩士の遺体を収容し、会津藩の本陣があった黒谷・金戒光明寺に葬った。

 この後、小鉄は大坂に敗走し、会津藩士の遺品を会津若松へ運んだ。

この時、近藤の首と、近藤の愛刀・阿州吉川六郎源祐芳を手下とともに会津まで運んだ。


●光明寺跡戊辰役東軍戦死者埋骨地碑



 淀城への入城を拒否された旧幕府軍の戦死者は賊軍として埋葬は許されず、遺体が野ざらしになっていた。

 その遺骸を地元の村人や寺が宗派や思想を超えて葬った。

 光明寺は浄土宗だった。



 大専寺(真宗大谷派)、文相寺(浄土真宗本願寺派)、長円寺(浄土宗)、東運寺(曹洞宗)にも「戊辰役東軍戦死者埋骨地碑」が建っている。









●長円寺(浄土宗)
 慶応4年1月5日、1日幕府軍の野戦病院になる。



 榎本武揚【画像】の書による「戊辰之役東軍戦死者之碑」(明治40年)が建っている。





先生によるとこのあたりには同じ石碑がたくさんあるそうです。鳥羽・伏見の戦いによる戦没者数は、新政府軍110名、旧幕府軍280名で負けた幕府軍のほうが死者は多かったそうです。



この日はけっこう歩いてかなり疲れましたが、先生と楽しい1日を過ごすことができました♪

撮影機材
Canon EOS R6 MarkⅡ
Canon RF14-35mm F4L IS USM

最後までご覧いただき有難うございました!☺️
Posted at 2025/02/16 18:01:31 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡めぐり | 日記
2025年02月08日 イイね!

新選組と「鳥羽伏見の戦い」の京都・淀を歩く♪【前編】

新選組と「鳥羽伏見の戦い」の京都・淀を歩く♪【前編】【新選組】幕末研究者・木村先生と激突の淀へ!戊辰戦争、落日の新選組を追う
~その時歴史が動く!名門淀藩の裏切り、無念の千両松、花と散った隊員たち~




幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」学芸課長・木村武仁さんがご案内、戊辰戦争の激戦地・淀へ!


京都盆地で最も標高が低く桂川・宇治川・木津川が合流する地は、まさに水に浮かぶ城下町。

名城「淀城」の石垣や堀。新選組六番組頭・井上源三郎が花と散った、涙の千両松。

激戦地に建つ、感動的な碑文。戦死者たちが眠る文相寺、長円寺、東運寺、光明寺跡。

老中を輩出する名門の淀藩は、なぜ徳川幕府を裏切ったのか?

旧幕府軍が淀藩に入城を拒否され悲惨な敗戦を喫した、無念の淀。
落日の新選組を追いかけました。

●鳥羽伏見の戦い【戦場の推移】慶応4年(1868)1月3日開戦

 1月3日 鳥羽め小枝橋や赤池など 伏見の伏見奉行所と御香宮など
 1月4日 下鳥羽、横大路、富ノ森など 伏見・中書島など
 1月5日 富ノ森など 淀・千両松など【画像下】
    昼前や夜、敗走する旧幕府軍が淀城に入城を求めたが拒否された。
 1月6日 八幡、男山など 橋本など


●戦闘の実情
 1月4日の午後、旧幕府軍の大日付・滝川播磨守らが淀から大坂城に手紙を出した。
 手紙には「とにかく夜が寒く、戦いが順調に進みません。人夫が衣服や食料を入れた長持ちを持ったまま、開戦と同時に逃げてしまったので、食べるものも着るものもありません」と書かれていた。

 旧幕府軍の遊撃隊士は、稽古着の上に鎖帷子と羽織という格好で寒さと空腹に苦しんだ。

●淀の水車
 淀城内に水を運ぶため、大型の水車が2基設置されていた。「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」と詠われた。

 大きな方の水車は9間(約16メートル)もあり、城の西南と北のニカ所に設置されていた。写真は淀駅前に復元された模型です。




●淀という地名
 桂川・宇治川・木津川の三川や巨椋池の下流が合流して淀川になるが、水がうまく流れずに「よどむ」ことから淀と呼ばれた。






●淀城は主に3つ存在した
①中世淀城(古淀城)・…管領・細川政元が築城。
②淀古城
豊臣秀吉が、茶々【画像】のために細川氏の淀城を改修した。

 そのため茶々は「淀の方」「淀君」「淀殿」と呼ばれた。

 江戸時代の淀城から北へ約500メートル離れた納所(のうそ)にあった。

③淀城
 江戸時代の淀城。山城国唯一の大名家の居城である。

 徳川二代将軍の秀忠は、元和5年(1619)に伏見城を廃城とした。

 そして桂川・宇治川。木津川の三川が合流して淀川になる水陸の重要地。淀の川中島に築城を命じ、松平定綱が築いた京都の防衛ラインを伏見から淀へ南下させたのである。

 川の流れの変遷に伴って淀古城跡の対岸に築かせた。

淀城【画像】は幕末、淀藩稲葉家(10万2000石)の居城となった。







●淀藩12代藩主・稲葉正邦
 稲葉家の先祖には、徳川家光の乳母だった春日局【画像】がいた。



 稲葉正邦【画像】は、陸奥国二本松藩主・丹羽(にわ)長富(ながとみ)の7男として生まれる。


 のちに淀藩稲葉家の養子となる。

 兄に11代の二本松藩主となる丹羽長国(ながくに)がいる。

 淀藩では代々、城代家老の田辺家が藩政をとりしきる慣わしだった。

 家老の田辺権太夫は穏健派で、藩主の稲葉正邦は佐幕急進派だった。

 文久3年(1863)、正邦は京都所司代となる。

 ①松平容保【画像】と協力して尊攘派の取り締まりを行う。


 ②孝明天皇【画像】の大和行幸を中止させる。



 ③8月18日の政変の立役者の1人である。

 その後、老中となり、第一次長州征伐では長州三家老の首実検を行った。

 第二次長州征伐にも出兵を決めるが、主席家老・田辺権太夫の反対で断念した。以降、2人の対立が激化する。

●淀城の天守
 淀城の天守は、伏見城から移築される予定だったが、伏見城の後水尾天皇の行幸が行われる二条城に移築された。

 そこで大和郡山城【画像、CGによる再現】から、二条城に移築されていた天守が淀城に移築されることになった。





●明治天皇御駐躍(ごちゅうひつ)址
 慶応4年(1868)3月21日、明治天皇は新政府軍の海軍を視察するため大坂行幸に出発された。

 その時、行きは淀城で休憩され、帰りは淀城に宿泊された。


●なぜ淀藩は旧幕府軍を裏切ったのか?
 鳥羽伏見の戦いが起こる一ヶ月ほど前、1日幕府軍は淀藩に対して、城を貸してほしいと依頼した。

 この時、留守家老たちは藩主の不在を理由に入城を断り、代わりに藩校の明親館を提供した。

 旧幕府軍は藩校・明親館に本陣を置いた。


 敗走してきた旧幕府軍が入城を迫ると、淀藩留守家老の八太(はった)監物(けんもつ)は、藩主の不在を理由に旧幕府軍の入城を拒んだ。



●主席家老・田辺権太夫の弟・田邊治之助
戦いの時、淀藩主や主席家老である田辺権太夫は江戸にいた。

そこで田辺権太夫の弟である田邊治之助は、中立を保ち、城門を閉ざして、1日幕府軍を城内に入れなかった。



しかし、慶応4年(1868)1月5日、敗走する旧幕府軍の数名が大手門を破って城内に入った。

大手門を守っていた田邊治之助はその責任をとって自害し、藩主が朝敵にならないように淀藩の立場を明確にした。享年37歳。

長くなるので続きます。

Posted at 2025/02/16 17:01:31 | コメント(3) | トラックバック(0) | 史跡めぐり | 日記
2025年02月07日 イイね!

STI x CITIZENの腕時計が当選しました♪

STI x CITIZENの腕時計が当選しました♪すでに何してるで報告しましたが、毎年数量限定で発売される「STI SPORTS CHRONOGRAPH 2025」の購入を抽選申込し、幸いなことに当選することができました♪

パーツレビューはこちら
STI SPORTS CHRONOGRAPH 2025




若い頃はHEUER、BREITLINGが好きでしたが、40代以降スマホを使うようになって、歴代私が使う腕時計は実用本位。軽さ、電池交換不要、時間合わせ不要、防水、頑丈、そしてアウトドア性能(方位計、気圧計など)の高さでCASIOのG-SHOCK、PROTREKを選んできました。








発表されてすぐめっちゃ気に入って、買う気満々になったのに、スバルオンラインショッピングがダウンしてしまい、発売が延期されてしまったんですよね。





抽選応募当日も応募フォームの準備が遅れ、朝10時からずっと待ちまして、応募フォームにログインできたのは3時を過ぎた頃でした。





毎年発売されるSTI腕時計。転売ヤーも多くてなかなか入手できないことでも有名です。





ライバルを増やさないために、当選まで一切商品の応募について投稿せず、じっと静かに待っておりました。





そして本日、念願の時計を受け取りました!めっちゃうれしいです。
これが着けた感じです。






スーツだとちょっと派手かな?







カジュアルな感じに似合いそうです。







スバルジャケットに合わせるのが一番合ってますね♪






シチズン時計といえばスーパーチタニウムというくらい、世界でNo.1のチタニウム腕時計メーカーです。






STIとシチズン時計とのコラボレーションはこれまでもありましたが、今回が初めてのスーパーチタニウム腕時計なんです。







文字盤のWRブルーは市販車ではなくニュルブルクリンク24時間レースのSTI NBR CHALLENGEのイメージに近いのも気に入っています♪この色だから買ったとも言えます。




今使っている一番古いG-SHOCKは電池交換もせずもう15年使っています。この時計も大事に長く使っていきたいです。


撮影機材
Canon EOS R6 MarkⅡ
Canon RF50mm F1.8 STM
Canon EF100mm F2.8L マクロ IS USM

最後までご覧いただき有難うございます!☺️
Posted at 2025/02/08 16:37:39 | コメント(18) | トラックバック(0) | デジタルもの | 日記

プロフィール

「@すつーか@BPE さん、
こりゃたいへんですね!」
何シテル?   05/28 12:44
水平対向4気筒エンジンにちなんだHNで”FLAT4(フラットフォー)”と申します。 お出掛けと写真と愛車メンテの記録が中心です。 2006年にみんカラを...

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