
【新選組】幕末研究者・木村先生と激突の淀へ!戊辰戦争、落日の新選組を追う
~その時歴史が動く!名門淀藩の裏切り、無念の千両松、花と散った隊員たち~
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」学芸課長・木村武仁さんがご案内、戊辰戦争の激戦地・淀へ!
京都盆地で最も標高が低く桂川・宇治川・木津川が合流する地は、まさに水に浮かぶ城下町。
名城「淀城」の石垣や堀。新選組六番組頭・井上源三郎が花と散った、涙の千両松。
激戦地に建つ、感動的な碑文。戦死者たちが眠る文相寺、長円寺、東運寺、光明寺跡。
老中を輩出する名門の淀藩は、なぜ徳川幕府を裏切ったのか?
旧幕府軍が淀藩に入城を拒否され悲惨な敗戦を喫した、無念の淀。
落日の新選組を追いかけました。
●鳥羽伏見の戦い【戦場の推移】慶応4年(1868)1月3日開戦
1月3日 鳥羽め小枝橋や赤池など 伏見の伏見奉行所と御香宮など
1月4日 下鳥羽、横大路、富ノ森など 伏見・中書島など
1月5日 富ノ森など 淀・千両松など【画像下】
昼前や夜、敗走する旧幕府軍が淀城に入城を求めたが拒否された。
1月6日 八幡、男山など 橋本など
●戦闘の実情
1月4日の午後、旧幕府軍の大日付・滝川播磨守らが淀から大坂城に手紙を出した。
手紙には「とにかく夜が寒く、戦いが順調に進みません。人夫が衣服や食料を入れた長持ちを持ったまま、開戦と同時に逃げてしまったので、食べるものも着るものもありません」と書かれていた。
旧幕府軍の遊撃隊士は、稽古着の上に鎖帷子と羽織という格好で寒さと空腹に苦しんだ。
●淀の水車
淀城内に水を運ぶため、大型の水車が2基設置されていた。「淀の川瀬の水車、誰を待つやらくるくると」と詠われた。
大きな方の水車は9間(約16メートル)もあり、城の西南と北のニカ所に設置されていた。写真は淀駅前に復元された模型です。
●淀という地名
桂川・宇治川・木津川の三川や巨椋池の下流が合流して淀川になるが、水がうまく流れずに「よどむ」ことから淀と呼ばれた。
●淀城は主に3つ存在した
①中世淀城(古淀城)・…管領・細川政元が築城。
②淀古城
豊臣秀吉が、茶々【画像】のために細川氏の淀城を改修した。

そのため茶々は「淀の方」「淀君」「淀殿」と呼ばれた。
江戸時代の淀城から北へ約500メートル離れた納所(のうそ)にあった。
③淀城
江戸時代の淀城。山城国唯一の大名家の居城である。
徳川二代将軍の秀忠は、元和5年(1619)に伏見城を廃城とした。
そして桂川・宇治川。木津川の三川が合流して淀川になる水陸の重要地。淀の川中島に築城を命じ、松平定綱が築いた京都の防衛ラインを伏見から淀へ南下させたのである。
川の流れの変遷に伴って淀古城跡の対岸に築かせた。
淀城【画像】は幕末、淀藩稲葉家(10万2000石)の居城となった。
●淀藩12代藩主・稲葉正邦
稲葉家の先祖には、徳川家光の乳母だった春日局【画像】がいた。
稲葉正邦【画像】は、陸奥国二本松藩主・丹羽(にわ)長富(ながとみ)の7男として生まれる。
のちに淀藩稲葉家の養子となる。
兄に11代の二本松藩主となる丹羽長国(ながくに)がいる。
淀藩では代々、城代家老の田辺家が藩政をとりしきる慣わしだった。
家老の田辺権太夫は穏健派で、藩主の稲葉正邦は佐幕急進派だった。
文久3年(1863)、正邦は京都所司代となる。
①松平容保【画像】と協力して尊攘派の取り締まりを行う。
②孝明天皇【画像】の大和行幸を中止させる。
③8月18日の政変の立役者の1人である。
その後、老中となり、第一次長州征伐では長州三家老の首実検を行った。
第二次長州征伐にも出兵を決めるが、主席家老・田辺権太夫の反対で断念した。以降、2人の対立が激化する。
●淀城の天守
淀城の天守は、伏見城から移築される予定だったが、伏見城の後水尾天皇の行幸が行われる二条城に移築された。
そこで大和郡山城【画像、CGによる再現】から、二条城に移築されていた天守が淀城に移築されることになった。
●明治天皇御駐躍(ごちゅうひつ)址
慶応4年(1868)3月21日、明治天皇は新政府軍の海軍を視察するため大坂行幸に出発された。
その時、行きは淀城で休憩され、帰りは淀城に宿泊された。
●なぜ淀藩は旧幕府軍を裏切ったのか?
鳥羽伏見の戦いが起こる一ヶ月ほど前、1日幕府軍は淀藩に対して、城を貸してほしいと依頼した。
この時、留守家老たちは藩主の不在を理由に入城を断り、代わりに藩校の明親館を提供した。
旧幕府軍は藩校・明親館に本陣を置いた。
敗走してきた旧幕府軍が入城を迫ると、淀藩留守家老の八太(はった)監物(けんもつ)は、藩主の不在を理由に旧幕府軍の入城を拒んだ。
●主席家老・田辺権太夫の弟・田邊治之助
戦いの時、淀藩主や主席家老である田辺権太夫は江戸にいた。
そこで田辺権太夫の弟である田邊治之助は、中立を保ち、城門を閉ざして、1日幕府軍を城内に入れなかった。
しかし、慶応4年(1868)1月5日、敗走する旧幕府軍の数名が大手門を破って城内に入った。
大手門を守っていた田邊治之助はその責任をとって自害し、藩主が朝敵にならないように淀藩の立場を明確にした。享年37歳。
長くなるので続きます。
