2026年09月20日
山本五十六は真珠湾攻撃や英国艦隊撃滅で当時の海軍の第一人者として有名ではある、(^_^;)😇😅。また海軍次官として英米との緊張防止に努めるとともに米内、井上と共同で三国同盟に反対して海軍左派と呼ばれた、(^_^;)😇😅。山本五十六は軍令畑、軍政畑、どっちが向いていたのだろうか、(^_^;)😇😅。
結論から言えば山本五十六は軍政畑に向いていたし本人もそっち方面に興味があったように思う、(^_^;)😇😅。山本五十六は連合艦隊司令長官として航空機による真珠湾攻撃や英国艦隊を航空機で撃沈するなど航空主兵の扉を開いたが、真珠湾攻撃にしてもミッドウェー島攻略にしても作戦が不徹底あるいはやらなくてもいい無駄が多いように思う、(^_^;)😇😅。
真珠湾攻撃では地上施設を手付かずで残しているしミッドウェー島攻略ではダッジハーバー空襲などやらなくてもいい作戦を行って兵力を分散しているし作戦目的もミッドウェー島攻略なのか米軍機動部隊撃滅なのか、明確にしない点も問題ではある、(^_^;)😇😅。しかしこの点については軍令部との確執やら部隊司令官が軍令部系といったことも影響していたと思う、(^_^;)😇😅。
山本自身は吉田善吾の下で次官として彼を支えても構わないと言って軍政畑に残りたいことを暗に伝えているが、暗殺を心配した米内光政が山本を連合艦隊司令長官に推挙して海上に逃れさせている、(^_^;)😇😅。もしも山本五十六が東京に残って海軍大臣になっていたら御前会議などの場で「海軍は米国と戦えば負ける」と言ったのではないか、(^_^;)😇😅。
連合艦隊司令長官としてそれを言えば海軍の士気は崩壊する可能性があるので「半年や1年は暴れてみせるが、2年3年となったら全く確信が持てない」と言うのが精一杯だったのだろう、(^_^;)😇😅。井上成美はそれを批判しているが、やむを得ないことだろう、(^_^;)😇😅。また山本五十六が海軍大臣だったとしても対米戦は阻止できなかったかもしれない、(^_^;)😇😅。
海軍は負けると言って戦争を回避すればその結果起こる全てが海軍の責任で処理することになるが、海軍にその覚悟があったかどうかは疑わしい、(^_^;)😇😅。いずれにしても山本五十六は連合艦隊司令長官よりも軍政畑の海軍大臣が適していたと思われる、ヽ(^。^)ノ😇😉。しかしそれで日米開戦が回避されたかと言うと難しいのではないか、(^_^;)😇😅。
Posted at 2026/09/20 20:37:29 | |
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軍事 | 日記
2026年09月20日
日本が対米戦を決心したのはどう考えても暴挙どころではない、(ーー゛)🤬😅。こうすれば日本が勝てたなんて書物があるが、何をどうしても日本は米国には勝てなかった、(ーー゛)🤬😅。
開戦劈頭ハワイを完膚なきまでに破壊しても半年もすれば米国はそれを復活させただろう、(ーー゛)🤬😅。ミッドウェー海戦で米海軍の機動部隊を壊滅させても翌年末にはエセックス級航空母艦が続々就役して日本海軍を圧倒しただろう、(ーー゛)🤬😅。ガダルカナル島争奪戦で連合艦隊の総力を挙げてガダルカナル島の米軍を粉砕してこれを奪還してもまたすぐに取り返されただろう、(ーー゛)🤬😅。
それは日本の20倍ともいう巨大な工業生産力と日本の600倍という石油生産量には米本土に侵攻できない日本は一切手が付けられないからだ、(ーー゛)🤬😅。当時の日本はミッドウェー島でも補給が続かないと言っていたのでハワイどころか米本土には手も足も出ない、(--〆)🤬😠😈😅。そうすると米国の巨大な工業生産力がフル稼働すれば1年で日本の軍事力を圧倒するだろう、(ーー゛)🤬😅。
それが整うまでは潜水艦などによる日本の長く伸びた補給ラインの攻撃などでじわじわと日本の補給路を締め上げてくるだろう、(ーー゛)🤬😅。その対応に手を焼いているうちに米軍の巨大な工業生産力に支えられたスーパー機動部隊がアッツ、キスカ島を取り返したようにミッドウェー島やガダルカナル島を取り返して後は歴史の事実にあるように日本に迫ってくるだろう、(ーー゛)🤬😅。
日本には開戦前から対米戦に勝つという可能性はなかった、(^_^;)😇😅。組織の面子や予算獲得、生き残りのためにそんな戦争を始めるなど愚か極まりない暴挙だった、(--〆)🤬😠😈😅。軍部は物質力を精神力で置き換えるというレトリックを行なったが、精神力は物質力が整っていることが条件で作用するサプリメントのようなもので物質力に取って代われるようなものではない、(--〆)🤬😅。
対米戦は明治政府と薩摩士族の戦いのようなもので使ってしまったら後がない薩摩士族は明治政府に完敗した、(--〆)🤬😅。その成功体験がありながら昭和の政府は薩摩士族の立場で対米戦に踏み出して完敗した、(--〆)🤬😅。対米戦に勝ち目は最初からなかったのに、(^_^;)😇😅。
Posted at 2026/09/20 20:34:58 | |
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軍事 | 日記
2026年09月20日
角田覚治中将は日本海軍の将官で第四航空戦隊司令官、第二航空戦隊司令官、第一航空艦隊司令長官などを歴任したが、日本海軍ではある程度の戦果を挙げると自軍が被害を受けないうちにサッと引き上げる指揮官が多い中で角田は粘り強く攻撃を続けて戦果を拡大した、(--〆)🤬😠😈😅。
開戦後の南方作戦では空母龍驤の飛行隊の反復攻撃で戦果を挙げて後日の会議で上級者の小沢治三郎に「なぜ追撃をせずに引き上げたのか」と追及したそうだ、(--〆)🤬😠😈😅。ミッドウェー海戦の陽動作戦として行われたダッジハーバー空襲ではベテラン不在の飛行隊で戦果を挙げるために巡洋艦搭載の偵察機を配備したり不時着地点をあらかじめ決めておいて搭乗員の救助を図ったりしたが、主隊の敗戦でそうした対策も空振りに終わってしまった、(^_^;)😇😅。またガダルカナル島争奪戦では兵力を小出しにして被害を重ねる連合艦隊司令部に「隼鷹で制空をするので連合艦隊は大和以下全ての艦船を出撃させてガダルカナル島の米軍兵力を徹底的に叩き潰せ」と進言したが、「そんな油がない」と言われて肩を落としたとか、(^_^;)😇😅。
角田覚治の真骨頂は南太平洋海戦でこの時旗艦翔鶴や瑞鳳が損傷して戦線から後退して機動部隊の指揮権を移譲されると翔鶴や瑞鳳の艦載機も隼鷹に収容して第6次まで攻撃を続行、日本軍の攻撃はせいぜい2波か3波と高を括っていた米軍を驚かせた、(--〆)🤬😠😈😅。そして3回目の出撃に「また行くんですか」と驚く搭乗員に「隼鷹は必ず君たちを迎えに行く。」と言って実際に隼鷹を全速で敵に向かって走らせたという、(--〆)🤬😠😈😅。これを見た他艦の乗組員は「まるで槍を構えて敵に突っ込んで行く騎馬武者のようだった」と言ったそうだ、(--〆)🤬😠😈😅。そうした粘り強い戦闘で空母ホーネットを撃沈、ヨークタウンを大破させて米軍は太平洋に展開できる空母がゼロになって青くなったそうだ、(--〆)🤬😠😈😅。
最後は第一航空艦隊司令長官としてテニアン島に司令部を置いて米軍を迎え撃ったが、圧倒的な米軍の兵力の前に配備が遅れて戦力が整わずさらには分散配置していた航空兵力は各個撃破されて決戦兵力とならず角田覚治中将は陸上兵力として上陸してくる米軍と戦ったが及ばず、最後は自決するのではなく手榴弾を抱えて部下とともに米軍に向かって突撃して行方不明になっているそうだ、(--〆)🤬😠😈😅。まさに最期まで燃える闘魂、見敵必戦の司令長官だった、(--〆)🤬😠😈😅。
最期を迎えた際に角田は軍に協力した民間人について連合艦隊司令部には「老人婦女子は爆薬🧨で処断する」と送信したが、実際は「皆さんは民間人だから我々軍人のように死ぬことはないのですよ」と言ってその労をねぎらったという、(^_^;)😇😉。実際テニアン島の民間人の死傷者はサイパン島などに比べると極めて少なかったという、(^_^;)😇😉。角田覚治中将はその勇猛果敢な戦いぶりとは異なって普段は腰が低く礼儀正しい人格者だったそうだ、ヽ(^。^)ノ😇😉。
Posted at 2026/09/20 20:32:23 | |
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軍事 | 日記
2026年09月20日
日本陸軍には精神主義の指揮官が多かったそうだが、合理的かつ理論的で人格者もいたようだ、(^_^;)😇😉。その一人は宮崎繁三郎で大佐の時にノモンハンで歩兵連隊長としてソ連軍と戦ったが、他の部隊がソ連軍の機甲戦力に圧倒されて敗退撤退する中で巧みな対戦車戦を行い陣地を死守して勝ち残るという技量を示した、(^_^;)😇😅。
またインパール作戦では第31師団の歩兵団を指揮してコヒマの英軍を撃退して武器弾薬、食糧、被服など大量の物資を鹵獲、コヒマを確保していたが、師団が撤退して敵中に孤立した際に巧みな撤退戦を行って帰還している、(^_^;)😇😅。
宮崎少将は追撃してくる英軍を巧みな遅滞戦で足止めしながら部隊を撤退させたが、その際「武器は捨てても負傷者は絶対に置き去りにするな。戦死者は必ず埋葬しろ」と厳命して自ら部隊の最後尾を負傷者を載せた担架を担いだり食糧を部下や負傷者に分けたりしながら撤退したという、(^_^;)😇😅。
その後宮崎は第54師団師団長となったが、ここでも上層司令部が勝手に撤退して敵中に孤立したが、粘り強く戦って終戦を迎えたという、(^_^;)😇😅。捕虜収容所でも部下が不当な扱いを受けると英軍に厳重に抗議するなどして部下を守り指揮官としての責任を果たしたという、(^_^;)😇😅。まさに指揮官としてこれ以上ない人物だった、ヽ(^。^)ノ😇😉。
戦後は下北沢で陶器店を経営して多くを語らず静かに余生を送ったそうだ、(^_^;)😇😅。最終階級は陸軍中将だった、(^_^;)😇😅。
Posted at 2026/09/20 20:30:47 | |
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2026年09月16日
土方歳三は言わずと知れた新選組副隊長でその苛烈な組織管理は有名ではある、(ーー゛)🤬😅。土方は農民の出で薬などを行商しながら剣を習い近藤らとともに浪士組に参加、暴虐を尽くす芹沢一派を粛清して組織をまとめて会津藩主松平容保や徳川幕府のためにひたすら力を尽くして働いた、(ーー゛)🤬😅。
しかし鳥羽伏見の戦いや甲府城での新政府軍との戦いに惨敗してもはや刀と槍の時代は終わったと認識して幕府歩兵隊の大鳥圭介やフランス人軍事顧問から新しい欧米の軍隊とその戦い方について学ぶと戦闘の方式を180度転換して新政府軍を各地で痛撃した、(ーー゛)🤬😅。
最後は函館で榎本武揚の軍隊に合流してここでも新政府軍を痛撃したが、銃弾を受けて戦死、遺体は五稜郭のどこかに埋葬されたというが、その場所は不明ではある、(ーー゛)🤬😅。土方は単に武士に憧れた浪人ではなく鳥羽伏見の戦いや甲府城での戦いに敗れるとその原因を追及して新世代の軍隊や戦闘方式を我が身に取り入れる合理的かつ柔軟な思考を持った人物だった、(ーー゛)🤬😅。
もしも新政府が認めたら新しい時代の中でもその才能を発揮して活躍しただろう、ヽ(^。^)ノ😇😉。しかし土方は生きることを選ばなかった、(ーー゛)🤬😠😈😅。その理由は土方とともに戦って死んでいった者たちに対する誠を貫き通すことが土方の思いだったのだろう、(ーー゛)🤬😅。土方はその信念を曲げずに最後まで新政府軍と戦い続けて死んでいった、(ーー゛)🤬😅。
土方は死んでいった者たちに対する誠を貫き通して死んでいったが、最後には苛烈な思考は穏やかに変わって「俺は死んでいくが、生きたいと思う者は生きればいい」と部下を諭したそうだ、(ーー゛)🤬😅。土方か温和に変わったのは自らの誠を貫き通す目処が立ったからだろう、(ーー゛)🤬😅。土方は自らの誠を貫き通して死んでいった、(ーー゛)🤬😅。
Posted at 2026/09/16 18:09:37 | |
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