2026年10月25日
織田信長は桶狭間の合戦以降危ない博打的な戦いはしなかったと言うが、本当にそうだろうか、(・・?😇😅⚔️。実際にはその後も紙一重のような危ない戦いを何度も繰り返してやっている、(゜o゜;🤬😠😅⚔️。美濃攻めの時は軽装備少数の部隊を率いて前線視察を行なったが、その際斎藤勢の急襲を受けて殿部隊が全滅、自身もかろうじて逃げ延びている、(^_^;)😇😅⚔️。
金ケ崎の退き口でも少数の馬廻りなどを率いて京都に退却したが、途中浅井方の武将の朽木氏の領地があり場合によっては捕らえられたり殺されたりしかねなかったが、松永久秀の交渉で朽木氏が味方して事なきを得た。(^_^;)😇😅⚔️。また自分が擁立した足利義昭が三好勢に襲われると身の回りの部下を率いて京都に救援に向かっている、(^_^;)😇😅⚔️。
野田城・福島城の合戦では三好勢や本願寺勢などと戦況が膠着すると僅か数十騎を引き連れて弾の飛び交う戦場に飛び出して敵陣に突撃しようとして家臣に制止されている、(^_^;)😇😅⚔️。また天王寺砦の合戦では本願寺勢1万5千に対して3千の部隊を率いて雑賀衆の銃撃の中で敵陣に突撃して天王寺砦に入って砦を守っている、(^_^;)😇😅⚔️。しかしその際に信長は足に敵弾を受けて負傷している、(^_^;)😇😅⚔️。
いずれの合戦も一つ間違えば自分が命を落としかねない合戦ばかりではある、(^_^;)😇😅⚔️。信長がこのような危険を冒したのは味方の裏切りなど不測の事態や戦線の膠着に対する本人の短気、いざとなると最前線に立ちたがる本人の気性などがあるが、それが味方の士気を高める効果もあった、(^_^;)😇😅⚔️。そしてもう一つの理由は本人が構築しようとしているシステムが危機にさらされると理屈抜きでそれを守ろうとして飛び出してしまうという信長の性格のせいだろう、(^_^;)😇😅⚔️。
いずれにしても総大将がこれほど最前線に立って戦うというのは例がないが、短気と言えばそうだが、この積極性が配下の士気を高める効果は大きかっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。家臣にとっては誠に扱いにくい困った総大将だろうが、その指揮官先頭、突撃精神が織田信長の魅力でもあるのだろう、ヽ(^。^)ノ😇😅⚔️。
Posted at 2026/10/25 18:38:45 | |
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歴史 | 日記
2026年10月25日
安土城は織田信長が造った当時最大の近代的城郭で5層7階の天主郭に幅広い直接的な大手道を備えた豪壮な城郭だったそうだ、(^_^;)😇😅🏯。天主閣は下層は大きいが、上層は小ぶりではあるが、当時の建築技術では上層階に大きな建造物を載せるのは限界があったそうだ、(^_^;)😇😅🏯。大手道の両側には家臣の屋敷が軒を連ねていたという、(^_^;)😇😅🏯。
天主閣は黒門を入ったところにあったそうだが、現在は野面積みの石垣が残るだけではある、(^_^;)😇😅🏯。野面積みでは3段が限界というが、完成した石垣の上に更に石垣を積み重ねて12段まで高く積み上げたそうだ、(^_^;)😇😅🏯。
本丸には天皇の住まいの清涼殿と同じ造りの御殿があったそうでそのことから「信長は天主閣に住んで天皇を足下に住まわせようとした」などと言うが、もしも天皇が行幸したら信長は下の信忠の屋敷辺りに移っただろう、(^_^;)😇😅🏯。信長は世間の評判に極めて敏感だったそうだから「天皇を足下に住まわせた」などと言われないように配慮しただろう、(^_^;)😇😅🏯。
安土城の天主台は多角形で正方形あるいは長方形ではないが、多角形の天主台に天主閣を建てるにあたっては犬山城の天主閣を参考にしたのではないかと言われる、(^_^;)😇😅🏯。信長は入城料を取って安土城🏯を見学させて信長自身が料金を受け取ったそうだ、(^_^;)😇😅🏯💴💸💷。
安土城は直線で長い大手道や曲がりくねった城内の通路、武者返しや石落としなど防御設備がなく防御力が弱いと言われるが、信長は籠城戦など考えておらず政治的な拠点と権威の象徴として安土城を造ったのだろう、(^_^;)😇😅🏯。また天主閣内の装飾や城内に総見寺を置くなど宗教的な色合いが濃い城ではある、(^_^;)😇😅🛕。
安土城には20回以上も登ったが、入り口から天主台までは高度差が100メートルもあってけっこうキツいものがある、(^_^;)😇😅🏯。現在残っている建築物は総見寺の仁王門と金剛力士像に三重塔だが、いずれも重要文化財ではあるが、保存状態はあまりよろしくない、(^_^;)😇😅🛕。城の正面は復元整備されているが、裏手はまだ復元はされていない、(^_^;)😇😅🏯。
安土城の石段を登っていると430年前に織田信長が歩いた石段を踏んでいるかもしれないと思うと感無量ではある、(^_^;)😇😅🏯。城🏯の正面は今は埋め立てられて田んぼになっているが、当時は入江で舟🛶が往来していたのだろう、(^_^;)😇😅🏯。その後は秀吉の大阪城🏯や家康の江戸城🏯など近代的巨大城郭が造られたが、安土城🏯は日本の城郭史では画期的な近代城郭だった、(^_^;)😇😅🏯。
Posted at 2026/10/25 18:36:56 | |
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歴史 | 日記
2026年10月25日
明智光秀は若い頃は生活苦に非常に苦しんだという、(^_^;)😇😅💴💸💷。連歌の会の会費が工面できずに奥さんが髪を売って金を作ったりもしていたそうだ、(^_^;)😇😅💴💸💷。だから貧困は光秀にとっては最大の恐怖😱だった、(^_^;)😇😅💴💸💷。織田信長に仕えてからは生活は安定して後には坂本に城を築いて一国の領主にまで成り上がった、ヽ(^。^)ノ😇😉🏯。光秀にとっては領地と城は何よりも大切な自分と一族郎党の命の糧だった、(^_^;)😇😅💴💸💷。
一方で信長は地方大名の嫡男で今日の食い物に困ると言うような生活はあり得ない立場だった、(^_^;)😇😅🏯。信長にとって領地も城も目的を達成するためのステップで清須、小牧、岐阜、安土と次々と城を代えて自身の権力の象徴として建てた安土城も大阪の本願寺跡地に城を造れば惜しげもなく放り出しただろう、(^_^;)😇😅🏯。
光秀は手塩にかけた坂本や丹波を一族郎党のために残してやりたかったが、そこに佐久間、林などの織田家重臣の追放事件が起きた、(゜o゜;🤬😅。また四国の長宗我部氏の処遇に関する意見が異なるなど信長との間に溝が生じていることも不安材料だった、(^_^;)😇😅🏯。「年を取ったら佐久間や林のように切り捨てられるかもしれない」という不安が大きくなっていった、(^_^;)😇😅🏯。
信長にいじめられたとか人質の母親を信長のせいで殺されたとか坂本や丹波を召し上げて出雲石見を切り取り次第とか言うのは江戸時代の創作で事実ではないそうだ、(^_^;)😇😅🏯。ただ信長は気に入らないことがあると誰彼なくすぐにキック🦵したというので蹴飛ばされたことはあったかもしれない、(^_^;)😇😅🦵。領地の安堵と一族郎党の生活の保障が何よりの光秀の心の中で信長に対する不信感が徐々に大きくなっていった、(ーー゛)🤬😅。
そんな時に信長から中国攻めの秀吉を支援するよう命令があった、(ーー゛)🤬😅。そして信長と織田家を継いだ信忠が僅かな護衛しか伴わずに京都に滞在することを知った、(--〆)🤬😠😅🏯。「京都周辺で大軍を動かせるのは自分だけ。今なら信長と信忠を討てる」光秀はそう思ったが、ずいぶん悩んだのだろう、(^_^;)🤬😠😅。そして一族郎党の将来の安寧のために決心した、(--〆)🤬😠😅🏯。本能寺の変の記録が何もないのは光秀一人が頭の中で考えて決心したからで黒幕などはいなかったし、記録なども何も残さかった、(--〆)🤬😠😅🏯。本能寺の変はクーデターとしてはこれ以上ない成功を収めたのだから黒幕がいればすぐに動き出すだろう、(--〆)🤬😠😅🏯。
光秀は信長を討ち取った後に朝廷を動かして勅諭をもらえば自分の行動は正当化されるし味方につくものも出てくるだろうと踏んでいたが、同調する者は誰もいなかった、(--〆)🤬😠😅🏯。最大の同盟者だった細川も配下の筒井も味方をしなかった、(^_^;)😇😅。そして秀吉が中国から10日で戻ってきたのは大誤算だった、(^_^;)😇😅🏯。光秀は信長配下の武将が京都に戻ってくるのは早くても一月二月はかかると踏んでいたのだろう、(^_^;)😇😅🏯。その間に体制を固めて朝廷から勅諭をもらって迎え撃てばいいと考えたのだろう、(^_^;)😇😅🏯。
そして山崎で秀吉軍に敗れて敗走途中に落ち武者狩りに殺されたとか、(^_^;)😇😅🏯。本能寺の変はただただ一族郎党を思う光秀が千載一遇の機会を得て自己と一族郎党の保身のために起こしたクーデターだったというのが真相だろう、(^_^;)😇😅🏯。ところで山崎の合戦では秀吉は間に合わずにその郎党が戦って光秀軍を破ったのだそうだ、(^_^;)😇😅🏯。秀吉は決戦の翌日山崎に到着したそうだ、(^_^;)😇😅🏯。
本能寺の変は歴史上最大の謎と言うが、それは千載一遇の機会を得た光秀が一人で考えてやったことで記録などは何も残さなかったし関係者は皆死んでしまったからだろう、(^_^;)😇😅🏯。若い頃に貧困に苦しんだ光秀が一族郎党と自分の保身のために起こしたクーデターが本能寺の変だったというのが真相だろう、(^_^;)😇😅🏯。そして光秀の家族思いが千年に一人出るか出ないかの天才戦略家を葬ってしまった、(ーー゛)🤬😠😅😞。
Posted at 2026/10/25 18:34:45 | |
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歴史 | 日記
2026年10月25日
桶狭間の戦いは織田信長が地方企業の社長から全国レベルの大企業の仲間入りをしたデビュー戦だが、戦闘の状況は江戸時代や明治時代の陸軍参謀本部によって全く事実とは違った形に書き換えられている、(^_^;)😇😅⚔️。まず今川方だが、参加兵力は石高100万石で動員兵力は3万、残留部隊5千を除くと2万5千程度、戦闘部隊は1万5千程度、残りの1万は兵站補給部隊というところだろう、(^_^;)😇😅⚔️。
織田方は動員兵力は尾張60万石で1万5千ほどだが、当時の信長の支配地は尾張の半分程度だったので6、7千ほどだろう、(^_^;)😇😅⚔️。今川方の目的は小学校では上洛とか習ったが、実際は織田方との領土紛争を決着するためでうまくいけば信長を排除して今川寄りの者を領主につけて尾張を取り込もうと目論んでいたのだろう、(^_^;)😇😅⚔️。織田方は兵力にかなりの差があることから対応に苦慮していたが、信長としては今川方の本陣を急襲して敗走させればそれで「勝った」と言えるのでその辺を狙っていたのだろう、(^_^;)😇😅⚔️。
今川方は大高、鳴海の城を分断していた織田方の丸根、鷲津の両砦を攻め落として勝ち戦に酔いしれていたが、戦闘部隊の大部分は前線に出ていて本陣には兵站補給部隊を含めて5千程しかいなかったのだろう、(^_^;)😇😅⚔️。織田方は清須城残留部隊や砦に派遣していた部隊を除くと信長の手元には3千程が手兵として残っていたが、情報によれば今川方の本陣には戦闘部隊は3千程度で勝ち戦に油断しているようなので精鋭の馬廻りや小姓部隊2千で急襲すれば勝てると踏んだのだろうが、義元を討ち取れるとは思ってはいなかっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。
夏の豪雨に隠れて織田方は今川方の本陣に近づいて突撃を開始した時は今川方にすれば青天の霹靂でまさか敵が攻め込んで来るとは夢にも思っていなかったので何が攻め込んで来たのかも分からず総崩れ状態で義元の近衛部隊の旗本や親衛隊300騎程が義元を守って退却していくのを織田方が急追して義元を討ち取った、(^_^;)😇😅⚔️。織田方にしてもまさかの出来事だっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。
義元の首級は確認後に僧侶10人をつけて今川方に送り返して討ち取った場所には慰霊碑を立てたそうだ、(^_^;)😇😅⚔️。この結果は今川方、織田方にとってもまるで予想外のことだっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。信長は数合わせの動員兵力よりも自分が育てた馬廻りや小姓などの精鋭戦闘部隊を信頼して今川方に攻撃をかけたが、信長の頭の中には勝算があってのことだったのだろう、(^_^;)😇😅⚔️。
桶狭間の合戦は地方大名だった織田信長を全国区にデビューさせる合戦だったが、実際に全国区レベルの実力を身につけるのはそれから7年後の美濃攻めが完了した時までかかっている、(^_^;)😇😅⚔️。桶狭間の合戦は織田信長乾坤一擲の合戦だったが、言われているほどに戦力差があったわけではないようだ、(^_^;)😇😅⚔️。しかし織田信長にとっては大きな勝利だっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。
Posted at 2026/10/25 18:32:42 | |
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2026年10月21日
H3ロケット10号機の打ち上げが成功した、ヽ(^。^)ノ😇😉🚀。これで10回打ち上げて8回成功で打ち上げ成功率は80%まで上昇した、ヽ(^。^)ノ😇😉🚀。H3ロケット10号機には火星の衛星フォボスの探査や岩石採取などを行うMMXという衛星が搭載されていてフォボスの観測や岩石などサンプル採取を2回行うとか、(^_^;)😇😅🚀。日本の衛星打ち上げ能力も惑星間航行能力も世界トップクラスまでに成長した、ヽ(^。^)ノ😇😅🚀。けっこうなことではある、ヽ(^。^)ノ😇😉🚀。
しかし日本のGDPはインド、英国に抜かれて世界第6位にまで落ち込んでいる、(^_^;)😇😅💴💸💷。円安の影響もあるだろうが、それにしてもの凋落ではある、(^_^;)😇😅💴💸💷。この先人口が減少して更にGDPは下がっていくだろうが、そんな状況で大事なことはAIや衛星打ち上げ能力、集積回路、航空機開発、医療技術、ロボット開発🤖、スーパーコンピュータなどの高度先端技術でこれには人手はそれほど必要ないし金と知能が解決してくれる、(^_^;)😇😅💴💸💷。
こうした高度先端技術の開発に官民が協力して取り組んで国を富ませていかないといけない、(^_^;)😇😅💴💸💷。どうもこの国バブル🫧がはじけてから手足が縮こまってビビりまくっているように思える、(^_^;)😇😅💴💸💷。お上も莫大な予算を注ぎ込んでも少しもその効果が出ていないように思える、(^_^;)😇😅💴💸💷。
バブル🫧のようなバカ騒ぎもどうかと思うが、国を富ませるための方策は官民で協力して取り組むべきだろう、(^_^;)😇😅💴💸💷。H3ロケット打ち上げ成功はパッとしないこの国でせめてもの明るいニュースではある、ヽ(^。^)ノ😇😉🚀。
Posted at 2026/10/21 16:26:50 | |
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