2026年10月03日
ガダルカナル島に海軍が作った飛行場を米軍に奪還されたことで連合艦隊は慌てて奪還作戦を練り始めるが、陸軍は米軍を舐めていて大兵力の投入をしなかった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。一木支隊、丸山兵団など軽装備の部隊を逐次投入しては撃破されて本格的反攻のために大兵力を投入しようとしてもガダルカナル島の米軍航空兵力が整ってしまうと大兵力を上陸させることが困難となって兵員は上陸したが、資材や重装備は輸送船ごと撃沈されたり浜辺に積み上げておいて米軍の攻撃で焼かれてしまったりして兵員はいるが、武器弾薬や食糧がないという最悪の状況に陥ってしまった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
ガダルカナル島は飢島と呼ばれて戦闘で戦死したものよりも餓死したものの方が多かったそうだ、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。仮に連合艦隊がガダルカナル島争奪戦の初期に総力を挙げて奪還を図ったらガダルカナル島の飛行場を奪還できただろうか、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
もしも陸海軍が総力を挙げて奪還を企てたら一度は奪還できた可能性が高いと思う、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。しかしその後は日本軍の輸送路を巡って日米の壮絶な戦闘が続いて最終的には日本軍は補給路を断たれて1年以内に再度米軍に飛行場を占領されただろう、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。そしてそこで日本軍は大量の艦船、航空機などを失って史実と同じ結果になっただろう、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
国家総力戦というのは軍隊同士が戦うのではなく戦闘を行う軍隊を支える工業生産力や輸送力、資源などまさに国を挙げての戦いになるのでそれを考慮しておかないとエライことになってしまう、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。当時の日本には赤道を超えて大軍に物資や燃料を補給するような能力はなかった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
最大の悲劇は国を動かしている者にそうした認識がなかったこと、あるいはあったとしても組織の存続と国内の安定のために本来内に向けるべき努力を外に向けてしまったことだろう、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。「米国と戦えるのは2年」それが分かっていながら国内の和を保つために対米戦を開戦したのは愚かなことだった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
日本は日露戦争の一撃講和を当てにして対米戦を決心したが、国家総力戦には一撃講和はあり得ない、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。明治の小銃で昭和の戦争を戦ったなどと言うが、明治の一撃講和を当てにして昭和の国家総力戦を戦おうとしたことは愚かどころの騒ぎではない、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。その結果は歴史の通りではある、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
Posted at 2026/10/03 21:45:28 | |
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軍事 | 日記
2026年10月03日
マリアナ沖海戦とは日本が絶対国防圏としていたマリアナ諸島を米軍の侵攻から防護する国運をかけた戦いだった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。日本海軍は空母9隻、艦載機450機という海軍創設以来最大の機動部隊を編成して侵攻してきた米軍機動部隊の撃破を期した、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。一方米軍は空母15隻、艦載機900機という日本側の2倍の戦力で待ち構えた、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
日本側は国力の全てをつぎ込んた機動部隊だったが、搭乗員の技量低下、訓練未了という問題を抱え込んでいた、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。そこで機動部隊指揮官の小沢治三郎中将は日本機の航続距離が米軍艦載機よりも200キロ程度長いことを利用して米軍艦載機の行動範囲外から攻撃する方法を選択した、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
一方米軍はレーダーで日本機の来襲を捉えて艦載機の半数を占める戦闘機を艦隊の前面に配置して日本機を迎え撃った、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。日本側の攻撃機は200機程度、戦闘機はその30%程度で米軍の400機という戦闘機に抗することができず壊滅した、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
よく近接信管でやられたというが、マリアナ沖海戦当時米軍も多数の近接信管は装備しておらず日本側の攻撃機はそのほとんどが米軍戦闘機に撃墜された、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。結果日本側の機動部隊は壊滅したが、米軍機動部隊はほとんど損害はなくその結果海軍は「これまでの正攻法ではもうどうにもならない。搭乗員が技量未熟ならそのまま敵艦に体当たりすればいい」という結論に達して特攻攻撃へとつながっていく、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
その後何隻か空母が就役したが、母艦搭乗員が練成できずに輸送艦などに使用したり回航中に撃沈されたり停泊中に撃沈されたりして機動部隊が再編されることはなかった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。ソロモン方面の一大消耗戦で国力が底を突いた日本にとって米軍に対抗できる戦力を備えることは全く不可能だった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
太平洋戦争は日本側がソロモン方面から撤退した時点で勝負がついていた、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。その後の1年半は米軍の残敵掃討戦だった、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。マリアナ沖海戦の結果は対米戦が当然行きつくゴールだったのだろう、(^_^;)😇😅🛳️🛩️。
Posted at 2026/10/03 21:43:09 | |
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軍事 | 日記
2026年10月03日
今日は久しぶりに晴れた、😇😉☀。35日雨🌧️☔️が続いて東京では観測史上新記録とか、(^_^;)😇😅🌧️☔️。そんなわけで実家がアマゾン状態になっているので雑草せん滅🌿☘️🌾作戦を行うことにした、(--〆)🤬😠😅🌿☘️🌾。本音は面倒なんだけど仕方ないので意を決して出かけた、(--〆)🤬😠😅🌿☘️🌾。
植物には最高の条件である水と気温🌡️で雑草茂り放題のまさにアマゾン状態でその雑草🌿☘️🌾の中をトカゲやバッタが跳ね回っている、🦎🦗。そんな状態なので手鍬を使ってなぎ倒していく、(--〆)🤬😠😅🌿☘️🌾。根を掘り出せるところは根こそぎ引き抜いていく、(--〆)🤬😠😅🌿☘️🌾。
せっかくの家庭菜園も雑草に占領されてネギやニラが雑草🌿☘️🌾に圧迫されているので取れるだけ引き抜いてやった、(--〆)🤬😠😅🌿☘️🌾。そんなこんなでアマゾンがサバンナくらいにはなった、(^_^;)😇😅🌿。ドクダミだのスギナだのカタバミだのわけの分からない雑草だの生え放題で腕💪が疲れた、(^_^;)😇😅💪。引っこ抜いた雑草をゴミ袋に詰めて終了、あとは生垣やらんといかん、(^_^;)😇😅🌲🌳🌲。
雑草せん滅作戦を終えて今度は車🚘️の掃除ではある、(^_^;)😇😅🚘️。車🚘️もカバーはかけているが、雨に打たれっぱなしなのでせめてプラスチック部分くらいはポリメイトしてやらんといかん、(^_^;)😇😅🚘️。ボディはコーティングしてあるのできれいに水は弾くが、プラスチック部分はちょっと汚れているのでササッとポリメイトしてやる、(^_^;)😇😅🚘️。そうすると黒さが復活してきれいになる、(^_^;)😇😅🚘️。
なんだかんだで2時間ばかり、庭も車🚘️も何とかきれいになって帰ろうとしたら何かが上から見ているような気がして見上げるとデカいジョロウグモがこっちを見ている、(^_^;)😇😅🕷️。気持ち悪いのでフマキラーしてやろうかと思ったが、かわいそうなのでそっとしておいた、(^_^;)😇😅🕷️。以前デカいコガネグモにフマキラーかけたらボロボロになって1週間ばかり生きていてかわいそうなことをしたと反省してそれからは無闇矢鱈クモにフマキラーするのは控えている、(^_^;)😇😅🕷️。クモ🕷️は気持ち悪いけど人間に害はしないからな、(^_^;)😇😅🕷️。
もっとも通路に巣を張ったりしたらはたき落とすけどな、(^_^;)😇😅🕷️。そんなこんなで雑草せん滅作戦🌿☘️🌾は無事に終了、車もちょっときれいになって万歳ヽ(^。^)ノではある、ヽ(^。^)ノ😇😅🚘️。
Posted at 2026/10/03 21:40:27 | |
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自動車 | 日記
2026年09月30日
海軍の将官で「こいつはダメ」というのは何人かいるが、陸軍の牟田口廉也のように四方八方どうにも救いようがないというのは見当たらない、(^_^;)😇😅🛳️。いずれも海軍のシステムやら巡り合わせの犠牲になったところもあるが、それでもこいつはダメというのは嶋田繁太郎だろう、(--〆)🤬😠😅。
嶋田は対米戦開戦時の東條内閣の海軍大臣で当時は海軍も「対米戦をやれば負ける」と分かっていても責任回避や組織防衛のために「開戦やむなし」状態だったが、嶋田は東條英機に迎合して対米戦開戦を何ら防止することなく戦争に突入、日本を破滅させた、(--〆)🤬😠😅。嶋田は対米戦をやれば負けることは分かっていただろうが、対米戦開戦に反対した際の混乱の責任を取ることを嫌って何ら防止することなく戦争に突入した、(--〆)🤬😠😅。
その後も東條に習って軍令部総長を兼務するなど東條に結諾々と従って東條の副官と言われた、(--〆)🤬😠😅。東條内閣崩壊後は軍事参議官などの閑職を経て昭和20年1月に予備役に編入、海軍を退職したが、戦後の東京裁判で起訴されると膨大なメモを使って自己弁護を展開して死刑回避を試みた、(--〆)🤬😠😅。
裁判で堂々と自己の意見を述べる東條英機と異なり嶋田はひたすら自己弁護に努めて他の被告たちと衝突したが、開戦時の海軍大臣として責任を取ろうという意思は欠片もなかった、(--〆)🤬😠😅。そして一票差で死刑を免れると死刑判決を受けた者たちの前で生き残ったことを高笑いして喜んだ、(--〆)🤬😠😅。あれほど付き従った東條英機に対する同情の欠片もなかったことが、反発をかった、(--〆)🤬😠😅。戦後海上自衛隊の練習艦隊出港の壮行会に出席して祝辞を述べたことを井上成美が知ると「恥知らずにも程がある。人前に顔を出せる立場だと思っているのか」と激怒したという、(--〆)🤬😠😅。
嶋田と同様に東京裁判で起訴された対米戦開戦当時の軍令部総長の永野修身は裁判で「開戦の全ての責任は自分にある。他の者は最高責任者の自分の決断に従っただけで責任はない」と申し立てて責任を一身に背負って死ぬ覚悟をしていたことは評価に値するが、嶋田は全ての責任を他人になすりつけて自分だけが助かろうとしたことは嶋田の評価を落としてこれを擁護する意見はない、(--〆)🤬😠😅。嶋田繁太郎は国家の命運を左右するような時局の指揮官としての大局観もなければ主体性もない将官だった、(--〆)🤬😠😅。
Posted at 2026/09/30 18:17:24 | |
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軍事 | 日記
2026年09月30日
牟田口廉也という陸軍将官がいた、(--〆)🤬😠😅。盧溝橋事件では独断専行して中国軍に反撃して日中戦争のきっかけを作った、(--〆)🤬😠😅。太平洋戦争ではマレー作戦に従事してそれなりの戦功を挙げている、(^_^;)😇😅。そして1944年にビルマからインドに侵攻するインパール作戦を実行しようとしたが、補給が続かないこと、雨季か近づいていることなどを理由に参加部隊指揮官や軍団参謀は軒並み反対したが、牟田口廉也は「牛に物資を運ばせて不必要になった牛は食糧にしろ。英軍は士気か低いので3週間で片が付く。物資は英軍から奪え」と言って強引にインパール作戦を強行した、(--〆)🤬😅。
しかし牛は思うようには進まず川で流されたり山岳地帯で崖から落ちて物資とともに失われて雨季に入って川は増水して仮橋や筏は流されて山岳地帯の道は泥沼化して日本軍は補給も退路も断たれた、(--〆)🤬😅。それでも佐藤師団は驚異的なスピードで進軍してインパールへの補給路であるコヒマを抑えて2か月間持ち堪えたが、佐藤師団長は補給がないことに激昂して独断で後退、他の参加師団も退却、戦線は崩壊した、(--〆)🤬😅。
退却も英軍の追跡を受けながら泥濘化した山岳地帯や増水したチンドウィン川の渡河で多数の兵員を失いインパールからの退路は白骨街道と呼ばれる凄惨な状態だった、(--〆)🤬😅。その間牟田口司令官は自分の言うことを聞かない師団長を解任、自身は後方で毎日芸者を挙げて飲み食いしていたという、(--〆)🤬😠😈。
インパール作戦は参加兵力10万の半数を失い失敗したが、牟田口は「物資は敵から奪え。武器がなければ手足を使え。死んだら幽霊👻になって敵を倒せ」と精神論ばかり強調して自分は司令部の敷地に礼拝所を作って毎日戦勝祈願をしていたという、(゜o゜;🤬😅。
インパール作戦は佐藤師団の善戦や宮崎兵団の奇跡的な撤退戦などもあったが、太平洋戦争中最も愚かな作戦という評価を受けた、(--〆)🤬😅。しかし牟田口司令官は「作戦が失敗したのは部下の敢闘精神が足りなかったから」と全ての責任を部下に押しつけて戦後もひたすら自らの正当性を主張し続けた、(--〆)🤬😅。
補給の問題や精神論は日本陸軍全ての問題で牟田口司令官だけが異常だったわけでもないが、部隊の最高指揮官として補給についてできる努力をしなかったことや作戦失敗の責任は最高指揮官が取るべきところを全てを部下の責任として省みるところがなかったことは何とも見苦しい限りであった、(--〆)🤬😅。
戦後は戦犯としてシンガポールで裁判を受けたが、「愚かな作戦を実行して日本軍の崩壊を早めた」というわけの分からない理由で無罪となって帰国している、(--〆)🤬😅。「責任は全て本職にある」と言って常に部下を庇い続けた今村大将とは天と地ほども違う見苦しさでまさに陸軍最悪の指揮官だったと言えるだろう、(--〆)🤬😅。階級と立場は取るべき責任の範囲と重さを示したもの、そんなことも分からない者が総指揮官として作戦を指揮した悲劇の結果がインパール作戦だった、(--〆)🤬😠😅。
Posted at 2026/09/30 18:15:59 | |
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軍事 | 日記