2026年10月28日
何時までも暑い🥵💦🌡️と思っていたら昨日は夜から風がビュービュー吹いてきて急に寒くなった、(^_^;)😇😅😰。最近は春とか秋をすっ飛ばして冬から夏🎐、夏🎐から冬にいきなり気候が変化する、(^_^;)😇😅🎐。昨日もタオルケットで寝ていたら朝方寒くて目が覚めた、(^_^;)😇😅😰。毛布を出すのも面倒なので長袖を羽織って寝ていたが、ずっと寒かった、(^_^;)😇😅😰。
これはもう毛布を出さないとダメだなと思ったが、なんか毛布が暑苦しいイメージがある、(^_^;)😇😅😰。それでも太平洋の沖合には台風🌀があって西に進んでいるが、西高東低の冬型の気圧配置になると日本には近づけないだろう、(^_^;)😇😅🌀🌧️☔️。それにしても11月の台風🌀というのも異常ではあるが、最近の日本は10月までは夏🎐なのでそれもありかもしれない、(^_^;)😇😅🌀🌧️☔️。
11月の前半はちょっと秋、3月の後半がちょっと春、後は夏と冬という気候になってしまった日本だが、そう言えば街の人の服装も様々で半袖もいればセーターにジャケットなんて重装備の人もいる、(^_^;)😇😅👕🧥。暑さ寒さの感じ方は人それぞれだが、さすがに半袖はおしまいかな、(^_^;)😇😅👕。明日から長袖にするか、(^_^;)😇😅🧥。
でも袖をまくっていれば一緒だけど男も女もシャツの上に1枚ジャケットを羽織る人が多くなった、(^_^;)😇😅🧥。さすがに衣替えの時期だろうか、(^_^;)😇😅👕🧥。日本の気候も温暖化でずいぶん変わった、(^_^;)😇😅🎐。
個人的には暑いよりも寒い方がずっと耐えやすい、(^_^;)😇😅👕🧥。今年は雨が多くて暑さはさほどでもなかったが、また来年は暑い夏が来るんだろう、(^_^;)😇😅🥵💦🌡️。何とかしてほしいところではあるが、どうにもならないだろうなあ、(^_^;)😇😅🥵💦🌡️。
Posted at 2026/10/28 18:08:06 | |
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2026年10月28日
織田信長の生涯でもっとも危ない戦の一つは金ヶ崎の退き口だろう、(^_^;)😇😅⚔️。織田信長は足利義昭を擁立して各大名に上洛の指示を出したが、再三の要請にも朝倉義景はこれに応じなかった、(^_^;)😇😅⚔️。そのために朝倉義景を成敗するために織田信長は3万の大軍を率いて越前に向かった、(--〆)🤬😠😅⚔️。そして敦賀の金ヶ崎城🏯攻めまでは順調だったが、義弟の浅井長政の裏切りが知らされた、(゜o゜;🤬😠⚔️。
浅井は朝倉と長年の同盟関係にあり織田方との同盟締結の際に「朝倉を攻める時は事前に一報する」ことになっていたが、織田方がこれをしなかったことや織田家の強大化によって対等な同盟関係から徐々に主家と臣下の関係になっていたことに不満が募って長政は織田との同盟を破棄する決断をして近江から敦賀に軍を進めた、(--〆)🤬😠😅⚔️。
諸将が「浅井は朝倉について兵を進めている」と報告しても信長は「そんなバカなことがあるか。長政には十分な利益を与えている」と信じなかった、(^_^;)😇😅⚔️。信長は「武将は利益で動く」と単純に信じていたようだ、(^_^;)😇😅⚔️。しかし続々と入ってくる浅井裏切りの通報に信長も信じざるを得なくなり木下秀吉に殿軍を命じると身の回りの手勢数十騎を率いて京都に向かって退却したが、琵琶湖の東岸、西岸は浅井の影響が強くて危険なので山路朽木を抜けて京都に至る経路を選んだ、(^_^;)😇😅⚔️。
しかし朽木には浅井と同盟関係にある朽木元綱がいた、(^_^;)😇😅⚔️。朽木氏は足利将軍の直臣だったが、隣接する浅井氏とも同盟関係にあった、(^_^;)😇😅⚔️。もしも朽木氏が信長を討ち取ろうとしたら信長は間違いなく殺されていて秀吉の天下取りも家康の幕府創設もなかったかもしれない、(^_^;)😇😅⚔️。ここで松永久秀が朽木元綱を説得、朽木元綱は織田方について安全に信長を京都に送り出した、(^_^;)😇😅⚔️。京都に到着した信長は紙一重で京都に戻ったことなど全く何事もなかったように振る舞ったというが、討ち取られても何の不思議もない状況ではあった(^_^;)😇😅⚔️。
織田軍は朝倉浅井連合軍の2倍近い兵力を擁していたが、敦賀は近江からも越前からも山間の狭い通路で繋がる袋小路で大軍を展開するには極めて不利な場所だった、(^_^;)😇😅⚔️。この話には信長の妹の市が信長に袋の両端を結んで中に小豆を入れた袋を送ったという話があるが、これは江戸時代の作り話だそうだ、(^_^;)😇😅⚔️。夫が戦闘態勢で出陣しているのにそんなものを敵方の信長に送るような余裕はないだろう、(^_^;)😇😅⚔️。長政と市の三女の江が徳川二代将軍秀忠の奥さんなので市やその娘を実兄を裏切った悪人にしてはいけないという配慮なのかもしれない、(^_^;)😇😅⚔️。いずれにしても信長の生涯でもワースト3に匹敵する危険な戦だっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。
Posted at 2026/10/28 18:04:32 | |
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歴史 | 日記
2026年10月28日
台風🌀の成れの果ての低気圧で昨日からずっと雨🌧️☔️で何もできない、(ーー゛)🤬😅🌧️☔️。今年は台風🌀の当たり年で13年ぶりに台風🌀の発生数が30を超えたとか、(^_^;)😇😅🌀。しかも真夏は太平洋高気圧が日本を覆っていて台風🌀は大陸の方に行くのだが、今年は高気圧の張り出しが北に偏っていたのでみんな日本の方にやってくる、(^_^;)😇😅🌀。
台風🌀は別に自分の意思で動いているわけではなくて空気の流れに沿って進むのだが、ちょうど高気圧の縁が日本の上空にかかっているのでその縁に沿って日本の方にカーブしてくる、(^_^;)😇😅🌀。ただ海水温があまり高くないのか日本の近くに来るとみんな勢力が衰えて温帯低気圧に変わってしまうので雨🌧️☔️は降るが、風などはさほどのことはないが、今の日本ではその雨🌧️☔️が頭痛😣の種ではあけど、(^_^;)😇😅🌀🌧️☔️。
東京では巨大な地下トンネルを造って雨水を溜めて水害を防止するとか、(^_^;)😇😅🌀🌧️☔️。将来的にはそのトンネルを東京湾に繋いで雨水を流すそうだ、(^_^;)😇😅🌀🌧️☔️。東京は金があるからいいけど日本全国洪水対策は喫緊の課題だろう、(^_^;)😇😅🌀🌧️☔️。治水設備を時間雨量75ミリまで対応できるように改修するという自治体もあるが、時間雨量100ミリ対応くらいにしないとすぐにリミット超えになってしまうだろう、(^_^;)😇😅🌧️☔️。
方法としては河床を掘り下げるとか遊水地を作るとか東京のように巨大遊水施設を作るなどといった方法があるだろう、(^_^;)😇😅🌧️☔️。大雨🌧️☔️が降るとマンホールの蓋がぶっ飛ぶなんてことが日常茶飯時だが、あれは排水可能な容量を雨水がオーバーしているということで改修しないといけない、(^_^;)😇😅🌧️☔️。
でも道路の下の排水設備を改修するのは相当に難しいだろう、(^_^;)😇😅🌧️☔️💴💸💷。日本も雨🌧️☔️の降り方が一昔前とは全く違っているのでできるところから早急に対策を進めていかないといけない、(^_^;)😇😅🌧️☔️。一昔前の雨🌧️☔️は情緒もあったが、今の雨🌧️☔️はただただ人間を困らせるだけではある、(--〆)🤬😠😈😅🌧️☔️🌀。
Posted at 2026/10/28 18:02:01 | |
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その他 | 日記
2026年10月25日
織田信長は桶狭間の合戦以降危ない博打的な戦いはしなかったと言うが、本当にそうだろうか、(・・?😇😅⚔️。実際にはその後も紙一重のような危ない戦いを何度も繰り返してやっている、(゜o゜;🤬😠😅⚔️。美濃攻めの時は軽装備少数の部隊を率いて前線視察を行なったが、その際斎藤勢の急襲を受けて殿部隊が全滅、自身もかろうじて逃げ延びている、(^_^;)😇😅⚔️。
金ケ崎の退き口でも少数の馬廻りなどを率いて京都に退却したが、途中浅井方の武将の朽木氏の領地があり場合によっては捕らえられたり殺されたりしかねなかったが、松永久秀の交渉で朽木氏が味方して事なきを得た。(^_^;)😇😅⚔️。また自分が擁立した足利義昭が三好勢に襲われると身の回りの部下を率いて京都に救援に向かっている、(^_^;)😇😅⚔️。
野田城・福島城の合戦では三好勢や本願寺勢などと戦況が膠着すると僅か数十騎を引き連れて弾の飛び交う戦場に飛び出して敵陣に突撃しようとして家臣に制止されている、(^_^;)😇😅⚔️。また天王寺砦の合戦では本願寺勢1万5千に対して3千の部隊を率いて雑賀衆の銃撃の中で敵陣に突撃して天王寺砦に入って砦を守っている、(^_^;)😇😅⚔️。しかしその際に信長は足に敵弾を受けて負傷している、(^_^;)😇😅⚔️。
いずれの合戦も一つ間違えば自分が命を落としかねない合戦ばかりではある、(^_^;)😇😅⚔️。信長がこのような危険を冒したのは味方の裏切りなど不測の事態や戦線の膠着に対する本人の短気、いざとなると最前線に立ちたがる本人の気性などがあるが、それが味方の士気を高める効果もあった、(^_^;)😇😅⚔️。そしてもう一つの理由は本人が構築しようとしているシステムが危機にさらされると理屈抜きでそれを守ろうとして飛び出してしまうという信長の性格のせいだろう、(^_^;)😇😅⚔️。
いずれにしても総大将がこれほど最前線に立って戦うというのは例がないが、短気と言えばそうだが、この積極性が配下の士気を高める効果は大きかっただろう、(^_^;)😇😅⚔️。家臣にとっては誠に扱いにくい困った総大将だろうが、その指揮官先頭、突撃精神が織田信長の魅力でもあるのだろう、ヽ(^。^)ノ😇😅⚔️。
Posted at 2026/10/25 18:38:45 | |
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歴史 | 日記
2026年10月25日
安土城は織田信長が造った当時最大の近代的城郭で5層7階の天主郭に幅広い直接的な大手道を備えた豪壮な城郭だったそうだ、(^_^;)😇😅🏯。天主閣は下層は大きいが、上層は小ぶりではあるが、当時の建築技術では上層階に大きな建造物を載せるのは限界があったそうだ、(^_^;)😇😅🏯。大手道の両側には家臣の屋敷が軒を連ねていたという、(^_^;)😇😅🏯。
天主閣は黒門を入ったところにあったそうだが、現在は野面積みの石垣が残るだけではある、(^_^;)😇😅🏯。野面積みでは3段が限界というが、完成した石垣の上に更に石垣を積み重ねて12段まで高く積み上げたそうだ、(^_^;)😇😅🏯。
本丸には天皇の住まいの清涼殿と同じ造りの御殿があったそうでそのことから「信長は天主閣に住んで天皇を足下に住まわせようとした」などと言うが、もしも天皇が行幸したら信長は下の信忠の屋敷辺りに移っただろう、(^_^;)😇😅🏯。信長は世間の評判に極めて敏感だったそうだから「天皇を足下に住まわせた」などと言われないように配慮しただろう、(^_^;)😇😅🏯。
安土城の天主台は多角形で正方形あるいは長方形ではないが、多角形の天主台に天主閣を建てるにあたっては犬山城の天主閣を参考にしたのではないかと言われる、(^_^;)😇😅🏯。信長は入城料を取って安土城🏯を見学させて信長自身が料金を受け取ったそうだ、(^_^;)😇😅🏯💴💸💷。
安土城は直線で長い大手道や曲がりくねった城内の通路、武者返しや石落としなど防御設備がなく防御力が弱いと言われるが、信長は籠城戦など考えておらず政治的な拠点と権威の象徴として安土城を造ったのだろう、(^_^;)😇😅🏯。また天主閣内の装飾や城内に総見寺を置くなど宗教的な色合いが濃い城ではある、(^_^;)😇😅🛕。
安土城には20回以上も登ったが、入り口から天主台までは高度差が100メートルもあってけっこうキツいものがある、(^_^;)😇😅🏯。現在残っている建築物は総見寺の仁王門と金剛力士像に三重塔だが、いずれも重要文化財ではあるが、保存状態はあまりよろしくない、(^_^;)😇😅🛕。城の正面は復元整備されているが、裏手はまだ復元はされていない、(^_^;)😇😅🏯。
安土城の石段を登っていると430年前に織田信長が歩いた石段を踏んでいるかもしれないと思うと感無量ではある、(^_^;)😇😅🏯。城🏯の正面は今は埋め立てられて田んぼになっているが、当時は入江で舟🛶が往来していたのだろう、(^_^;)😇😅🏯。その後は秀吉の大阪城🏯や家康の江戸城🏯など近代的巨大城郭が造られたが、安土城🏯は日本の城郭史では画期的な近代城郭だった、(^_^;)😇😅🏯。
Posted at 2026/10/25 18:36:56 | |
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歴史 | 日記