2017年01月23日
翼の向こうに(46)
味気のない思いで握り飯をほお張ってお茶で腹の中に流し込むと自分の機体を点検に出かけた。頭の中は混乱していたがゆっくりと足を踏みしめて歩くことで自分を落ち着かせようとした。
「乗り物はどうか。」
私は機体を見ていた整備長に声をかけた。
「快調ですな、被弾もありません。腕を上げましたな。」
整備班長は笑顔で応じた。
「激戦だったようですが、三十機近くも撃墜せば勝ち戦ですな。午後も頼みます。」
整備長の言葉を背中に受けながら私は考えていた。
『敵の戦闘機、千数百機のうちの三十機を撃墜するのに六十機ほどしかない戦闘機を十五機も失って、それが一体勝ち戦と言えるのだろうか。』
機体を一周しているうちに心に湧き上がった疑問を悟られないように無理に笑顔を作って整備員に礼を言うと待機所に戻った。椅子に体を投げ出して放心したように空を見上げている間も片時も止む間もなく爆音を響かせて特攻機が出撃して行った。零戦、九七艦攻、九九艦爆、いずれももう第一線機としては使用に耐えなくなった古い機体がほとんどだった。そして重い爆弾を吊った機体は疲れた老人のようによろよろと揺れながら離陸しては編隊も組めずに三々五々西の空に消えていった。
『たとえ出て行っても敵に取り付けるのは一機か二機だろう。それに二十五番くらいの爆弾を零戦の急降下速度くらいで敵艦にぶつけても大型艦に大きな損傷を与えることはできない。俺は実際にこの目で見てきたからよく分かる。』
寂しそうに話していた高瀬の言葉を思い出した。
「搭乗員、指揮所前に集合五分前。搭乗員集合五分前。」
スピーカーが割れた声で告げた。体が反射的に動いた。集合の号令を聞くと体は考えることなく指揮所に向かって駆け出していた。滑走路にはいつの間にか戦闘機が引き出され発動機の始動が始まっていた。
「ご苦労だがもう一度行ってもらう。徹底的に撃墜して来い。そして全機無事に帰って来い。」
司令の訓示は例によって短かった。
「大村空から零戦隊が出る。協力して敵に当れ。勝負は一撃で決めろ。長居は無用だ。」
飛行長は一撃離脱を指示した。
「行くぞ、ついて来い。」
山下隊長は一言そう言った。
「離れるな、編隊を崩すな。一緒に戦えば生きて帰れる。生きて帰ってまた戦え。」
私は午前中高瀬が小隊員に言った言葉をそのまま口にした。離陸すると先に上がった零戦隊の後を追って進路を南西に取った。零戦隊は高度五千を、我々はそれよりも約千メートル高い高度を飛んだ。一時間もしないうちに敵の防御線にぶつかった。敵は三梯団に分かれて待ち構えていた。零戦隊は真直ぐに先頭の梯団に向かって行った。我々は高度を上げながら回り込んで最後尾の梯団を狙うことにした。
下方では零戦隊と敵の空戦が始まっていた。整然と動いていた編隊が崩れて互いに敵の後に回り込もうと思い思いの方向に蠢き始めた。中には早くも赤い炎や黒い煙を長く引きながら落ちていく機体もあった。
敵の最後尾の梯団は我々に気がついて頭を振ってこちらに向かって来た。双方の距離が適当に近づいたところで山下隊長は機体を背面にするとそのまま敵に向かって急降下していった。高藤兵曹長以下、一、ニ小隊が次々にそれに続いた。第三小隊長の安藤大尉は機首を返して敵の第二梯団に向かった。手付かずの第二梯団が襲いかかってくれば敗戦は火を見るよりも明らかだった。
敵は先頭の零戦隊と空戦を続ける第一梯団に気を取られて我々には気づいていない様子だった。それを後上方から襲った。我々は敵編隊のど真ん中を突き抜けた。狙いを定めて連射した四門の二十ミリ機関砲は敵に命中はしたが、機体の一部が砕けて外板や部品が飛び散るのが見えただけで撃墜を確認することはできなかった。
急降下の余勢を駆って上昇反転して今度は前方から敵編隊を襲った。しかし今回は敵も備えていたために有効な命中弾を与えることは出来なかった。敵機を振り切るために急降下で高度千メートルくらいまで降りてから区隊員の無事を確認して編隊を組み直すと全速力で戦闘空域から離脱して大村に向かった。後方から敵の十数機が追ってきたが紫電の方が若干優速なようで追ってきた敵機を振り切ることができた。
基地に降り立った時にはもうすでに第一、第二小隊は帰還していた。敵に絡みつかれた第三小隊の帰還が遅れたが、それでも二機の損害を出しただけで済んだ。撃墜した敵機は七機、味方の損害は四機だった。私の隊には未帰還機はなかった。
私は待機所に戻って崩れ落ちるように椅子に体を投げ出した。気持ちが昂ぶって頭の中が真っ白で何も考えることができなかった。高瀬が未帰還であることが何よりも気がかりだったが、そのことさえ深く考えることができなかった。何より高瀬が未帰還になるということ自体、私には現実として受け止め難いことだった。
夕方も五時を過ぎた頃に長かった待機は解除になった。機体は滑走路脇から移動され飛行場はようやく静けさを取り戻した。用意されたトラックの荷台に上がろうと手をかけた時伝令がこちらに向かって走ってきた。
「飛行長より伝達。高瀬中尉は岸本一飛曹と種子島基地に不時着、無事である。明日早朝当基地に帰還の予定。両名とも負傷等なし。以上。」
伝令は伝達事項を伝えると指揮所に駆け戻って行った。
「よかったなあ、高瀬中尉、無事だったんだ。」
「単機で敵機四機を撃墜したあの天才がそう簡単に撃墜されるわけはないものなあ。」
高瀬の無事を喜ぶ皆の声を聞きながら私は力が抜けてトラックの脇にしゃがみこんでしまった。
「大丈夫ですか、分隊士。なんだか愛しい人の無事を聞いた女子のようですなあ。」
高藤兵曹長の一言に誰もがどっと笑い声を立てた。それでも私は立ち上がることができずに島田一飛曹に引き上げてもらってやっとトラックの荷台に上がりこんだ。
「武田中尉、今日で四機撃墜か。貴様も高瀬中尉と同じ天才かも知れんな。」
山下隊長が私を見て笑った。
「頼もしい限りですな、うちの部隊も。我々も引退ですな、そろそろ。」
私よりも三歳も年が若い高藤飛曹長が山下隊長に応じた。
「おっとまだまだ高藤飛曹長には働いてもらわんと。引退なんかとんでもないぞ。」
「これは参りましたなあ。のんびりはさせてもらえんですか。隊長。」
「靖国神社に行ったら幾らでものんびりしてもらおう。皆、そこで隠居させてやるぞ。」
「これはたまりませんな。」
走り出したトラックの荷台が沸き返った。高瀬たちが無事という報告で搭乗員に明るい表情が戻った。しかし緒戦で部隊の三分の一を失った衝撃は隊員に重く圧し掛かっていた。生き残った隊員は戦死して主のなくなった空のベッドをまるで見てはいけないのでも見るようにそっと視線を向けた。
「持ち物を整理して故郷に送ってやろう。手伝ってくれ。」
私は立ち上がると丸山中尉のベッドの脇に立った。宿舎にいた全員が応じて手分けをして荷造りをしたが、各種の軍服と若干の着替えの他にはこれといったものは何もなかった。ただ印象的だったのは丸山中尉の私物に岩波版の「明暗」があったことだった。普段読書などとは無縁のように見えた丸山中尉の私物に漱石など意外な感じがしたが、興に駆られて頁を繰ってみると最後の頁に『人の本性は善なりや、悪なりや。おそらくはそのいずれも正しからん。』と書き込みがあった。
片付けも終わり味気ない夕食を無理やり腹に押し込んでしまうと後は手持ち無沙汰で時間を持て余した。
「おい、戦勝のお祝いだ。」
掛け声がかかって一升瓶が取り出され酒の注がれた湯飲みが回された。「乾杯。」の掛け声が響いて酒盛りが始まった。他の戦闘機隊が米軍を相手に苦戦する中で三十機を撃墜したことを声高に誇る者もあれば、たった一日の戦闘で戦力の三分の一を失ったことを憂える者もあった。
私は立ち上がる気力もないほど疲れ切っていたが、神経だけは無闇に高揚していて酒を煽ってもほとんど酔いは感じなかった。そうしてゆっくりと酒を口に運びながら話を聞いていると突然声をかけられた。
「武田、貴様は三回の出撃で個人撃墜三、共同一、撃破二、もう海軍航空隊のエースだな。」
声をかけたのは先任の多田中尉だった。
「運が良かっただけです。紙一重のところで私が撃墜されていたかもしれません。」
「戦闘は何時もそんなものだ。紙一重を隔てているだけだ。その紙一重の差を制する者が生き残る。皆も覚えておいてくれ。」
湯飲みを取ると多田中尉はゆっくりと口に運んだ。
「えらそうなことを言っても、俺なんぞ台湾から数えれば、もう何十回も出撃しているのに撃墜したのはまだたったの二機だ。まあ、それでも生き残っているから、何とか紙一重は制しているのかな。」
多田中尉は首を傾げて見せた。そのしぐさに何人かが声を上げて笑った。戦勝のお祝いといって始めた宴会も誰も本当に勝ったという意識は持ってはいなかったに違いない。一人外れ、二人外れ、いつの間にか宴会はお開きになっていた。私は寝台に横になって目を閉じてはいたが、なかなか寝付かれなかった。他の者が眠っているのかどうか確かめることはしなかったが、辺りが静まり返って物音がしなくなるとよけいに目が冴えて眠りを妨げた。
私は立ち上がって外に出た。そして出入り口の盛り土の上に腰を下ろして煙草に火を点けた。一吹かしして周りを見ると灯火管制されて真っ暗闇の中、あちこちに煙草の火が光っているのが見えた。近い明かりに近づいてみようという衝動に駆られたが、そこで煙草を吹かしている者が特攻隊員だった時のことを考えると足を踏み出すことが出来なかった。私は足を忍ばせて自分の寝台に戻るとそのまま横になって毛布を被った。あちこちで寝返りを打つ音が聞こえた。その音にかすかな安堵感を感じながら自分が眠りに落ちるのを待った。
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小説2 | 日記
Posted at
2017/01/23 22:51:06
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