2017年02月22日
翼の向こうに(51)
私達は老提督のところを辞すると離れに入った。相変わらず戦の匂いのしない静かな空間だった。私と高瀬は座敷に仰向けに転がった。
「ああ、静かだな。心が洗われる思いだ。」
高瀬は寝転がって伸びをした。
「今日はここに泊めてもらうか。」
「ええ、こんなところでよろしければいくらでもどうぞ。」
小桜が土間で手を動かしながら答えた。
「そうだ、泊まって行けばいい。狭いところだが寝られないことはない。」
高瀬は驚いた様に飛び起きた。
「馬鹿を言うな、幾らなんでもそこまで野暮じゃない。冗談で言ったんだよ。新婚さんの夜を邪魔したりしたら一生恨まれる。」
「何だ、海軍屈指の撃墜王も形無しだな。なに、そんなことはかまわない。泊まって行ってくれ。どうせ基地に帰っても味気ない兵舎泊まりなのだし、後はどこかの温泉芸者としけ込むくらいしかないのだろう。」
「何も御もてなしは出来ませんけど、どうぞお泊まりになっていってください。今お風呂を沸かしますから。その間に頂いた物で何か作りましょう。」
小桜にまで勧められて高瀬は考え込んでしまった。
「そうか、よし、あのじいさんに母屋に泊めて貰うように頼み込んでみよう。あのじいさん、ばあさん、いやとは言わんだろう。」
高瀬は膝を叩いて出て行ったが、すぐに笑顔で戻って来た。
「うん、二つ返事で了解してくれた。幾らなんでも新婚夫婦の貴重な時間に割り込んだりしたら、一生朴念仁扱いされてしまうと言ったら大笑いして承諾してくれた。でも夕食はこっちでご馳走になろう。じいさん、ばあさんの食事では辛気臭くてやり切れんからな。さて、風呂に水を汲むか。働かざる者食うべからず、風呂に入るべからず。そうだろう。」
高瀬は立ち上がるとズボンを膝まで捲り上げた。
「おい、武田、貴様も亭主面をしてどっかり構えていないでさっさと働け。」
土間に降りながら高瀬は私に向かって呼びかけた。そんな我々の様子を見て小桜は腹を抱えて笑っていた。例によって私と高瀬との間で冗談めいたやり取りがあってから、結局私たちにとってはお客である高瀬が一番風呂に入ることになった。
しばらくして小桜が「背中を流しましょう。」と声をかけると高瀬がまた騒ぎ出したが、結局小桜に押し切られて中を流してもらうことになった。
「いやあ、もう何時靖国神社からお迎えがきても悔いはないよ。」
高瀬は浴衣に着替えると寛いだ表情で座敷に寝転んだ。古くなって色褪せた畳だったが、高瀬はその感触を懐かしむように何度か寝返りを打ってから大きく伸びをした。
「とりあえずこれでも召し上がってください。」
小桜は小さな里芋を丁寧に洗って塩ゆでしたものを小鉢に盛りつけて持って来た。それを手でつまんで口に放り込むと高瀬は目を細めた。
「堪えられんなあ、これは。よし、飲もう。」
部隊で調達してきた一升瓶の口を開けると小桜から受け取った徳利に注いで手勺で飲み始めた。
「うん、ただ流し込むのが当たり前の部隊の茶碗酒とは趣が違う。おい武田、貴様も飲め。」
高瀬は私の前に猪口を置いて酒を勧めた。私も高瀬を真似て手づかみで里芋を口に放り込んで猪口を口に運んだ。高瀬は暗い雲の底が開いて日光が差し込んだように穏やかな明るい表情をしていた。よく飲んでよく食べ、そしてよく笑った。里芋を放り投げて口で受け止めてそれをそのまま飲み込んで見せた。
「これでも海軍航空隊屈指の撃墜王だ。」
口に頬張った里芋を呑み込むと高瀬は笑った。
「飛行機に乗って戦っていらっしゃって怖くはないのですか。」
料理を運んできた小桜が尋ねた。
「こいつは射撃の天才なんだ。一秒の何分の一かのほんの僅かな瞬間を正確に捉えて射撃する。俺なんかにはとても真似は出来ない。」
「何だ、そういう貴様ももう敵機を九機も撃墜したエースじゃないか。何、大したことはない。敵機が近づいてきたら怖いのを堪えて敵のパイロットの顔が見えるほどうんと近づいてやってから、相手に向かってにっこり笑って手を振ってやる。そうすると相手は驚いて動揺するから、そこをダダダッと撃ちまくるんだ。」
小桜がそれを聞いて吹き出した。敵に近づいて撃てというのは事実だったが、とんでもない高瀬の言い方に私まで笑い出してしまった。腹を抱えて笑った後、顔をあげるとそうして冗談に紛らわせて戦争を語る高瀬の顔が海軍予備学生に志願した頃のまだあどけなさを残した青年の顔に変わっているのに気がついた。
何時も起居を共にしている私たちはお互いの表情の変化には無頓着だったが、部隊にいる時の高瀬の顔は戦士のそれだった。何度も地獄の淵から底を覗き込んだ人間の荒んだ迫力を漂わせていた。そんな高瀬の顔が以前のあどけない青年の顔に戻っていた。
「遠くまで飛んでいってあんなに広い空で帰る方向が分かるのですか。何か器械はあるんでしょうけど。空を飛んだことのない私には何の目印もない広い空でどうして帰る方向を見つけるのか本当に不思議です。」
私は航法ということを小桜に説明しようとした。そうするとまた高瀬が話に割り込んできた。
「帰る方向が分からなくなったら雲を見るんだ。何度も何度も穴があくほど雲を見つめる。そうすると雲に帰る方向はあっちだよと基地の方向を示す矢印が書いてあるのが見えてくるんだ。」
「だったらうんと天気がよくて雲がなかったらどうするんだ。」
私が混ぜ返すと高瀬は「うん」と考える振りをしてからゆっくりと話し始めた。
「そういう時はな、今度は海を見るんだよ。海を。じっと穴が開くほど海を見つめているとな、海の上にお前が帰る方向はこっちだよと帰る方向を示す矢印が浮いているのが見えてくるんだよ。」
「じゃあ、燃料が足りなくなったらどうするんですか。」
小桜も高瀬の調子に完全に嵌っていた。
「操縦席の中には手でプロペラが回せるようにクランクがついているんだ。燃料がなくなったら、そのクランクを片手でまわしながら片手で操縦桿を押さえて飛ぶんだよ。」
どんなとんでもないことを聞いても高瀬は次から次へと奇想天外な言い訳を考え出しては珍問奇問に答えていった。そして最後に小桜が高瀬に尋ねた。
「じゃあ、どんなことをしても飛行機が墜落していったらどうするんでしょう。」
高瀬の表情に一瞬戦士の厳しさが甦った。その表情を見とめて小桜が顔をこわばらせた。
「そうだなあ、そんな時は改めて驚愕して狼狽して泣き喚いて、それでもだめだったら墜落する前に天皇陛下万歳を叫ぶんだ。」
「ごめんなさい、ばかなことを聞いて。つい調子に乗ってしまって。」
小桜がうなだれた。高瀬は「なあに、かまわんさ、そんなことなんでもない。」と言って猪口を取って酒を口に放り込んだ。
「私、皆さんが九州に行かれてから考えたんです。大家さんの家から本を借りてきて読んでみたり、近所のお寺に行って住職に話を聞いたりして。そうして自分なりに考えてみたんです。高瀬さんがいつかあの河原で言っていたことを。」
小桜は立ち上がって箪笥の引き出しから紙片を取り出して座卓の上にそっと置いた。その紙片を高瀬は手に取って黙って見つめていた。そして、しばらくしてから私に紙片を手渡した。
『アダム、天使ラファエルにつき天の構造を問う。天使答えて曰く、そは神の秘事にして窺い知るべきにあらず、吾人はただ、そを仰ぎ見て歎ずれば足れり。みだりに井蛙の知もて、揣摩臆測するの要なしと。』
紙片には小桜の手でそう書いてあった。
「ミルトンか。なつかしいな。」
高瀬は何かを思い出そうとしているかのように天井を仰いで目を閉じた。
「何も考えずにただ天の命ずるままに生きろと、精一杯生きろと、そういうことなのか。」
小桜は高瀬の顔を見つめながら黙って頷いた。
「そうかも知れん。神々から見れば井蛙の知にも等しい我々の思考で神々の意思を覗おうなどということは、それ自体神々の英知を畏れぬ大罪なのかも知れない。だがな、たとえ蛙や蜥蜴のような知恵しかなくとも、今、自分が生きている時代の中で一体自分が何をすべきなのか、未来に向かって自分に何が出来るのか、それをしっかり考えることが我々に課せられた義務であり責任ではないのか。今、この時代のように科学が発達して社会の体制が出来上がった世の中では時間の流れ方があまりにも早く、そして激し過ぎて良心とか信仰とかあるいは永遠の真理といった、甚だ抽象的で捉え難いものをじっくりと考えている余裕はないかもしれない。だがな、そんな時代だからこそ、今我々のしていることが正しいのか、先に向かってどのような意味があるのか、我々は今どうすべきなのかそう言ったことを考えていかなければいけないのではないのか。」
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小説2 | 日記
Posted at
2017/02/22 17:35:46
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