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2024年06月12日 イイね!

トヨタなど自動車メーカーの反論にお上が反撃、\(゜ロ\)(/ロ゜)/。

トヨタなど自動車メーカーの反論にお上が反撃、\(゜ロ\)(/ロ゜)/。トヨタなど自動車メーカーの型式認証不正でお上が反論している、\(゜ロ\)(/ロ゜)/😣💦⤵️(ーー;)。曰く「重い台車で衝突試験をしたからと言って必ずしも安全性が高いとは言えない。歩行者衝突試験も同様でいくつかの試験結果については問題がある。また同様にいくつかの試験結果については欧米やアジアなどの国連安全基準を満たしていない可能性があることから欧米やアジア各地での生産ができなくなる恐れがある」そうだ。

具体的に何がどうということは書かれていないので具体的な理由は不明だが、日本の周りのいくつかの国ならやりそうだが、トヨタなど日本の自動車メーカーがそんなことをするとは考えにくい、(ーー;)😖🌀⚡。メーカーの不正問題に対する反論についてこれはお上の反撃だろうか、\(゜ロ\)(/ロ゜)/😣💦⤵️(ーー;)。基本許可を申請する側と許可を与える側では許可を与える側が絶対権力なのは明らかではあるが、型式認証不正もお上とメーカーの対決の様相を呈してきた。

でもこれはお上の絶対勝利だろう。日本の自動車メーカーをリードするトヨタが楯突いたことへの報復だろうか。でも世界一、二を争うトヨタが国連基準を満たさないような安全基準試験をするとは考えられない。それはとりもなおさず自分の首を締めることになるのだから。型式認証不正はなんだかお上とメーカー、主にトヨタだが、トヨタの泥仕合の様相を呈してきたが、まあ最終的にはメーカー側がお上の基準で試験をやり直して頭を下げることで決着するのだろう、😁🌀😱💧😅。しかしどうもスッキリしない展開ではある、\(゜ロ\)(/ロ゜)/😣💦⤵️(ーー;)😁🌀😱💧😅。


Posted at 2024/06/12 19:00:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2024年04月27日 イイね!

一番驚いた車はソアラ、乗りたかった車はセリカGT-four、\(^_^)/。

一番驚いた車はソアラ、乗りたかった車はセリカGT-four、\(^_^)/。今までに販売された新車でもっとも衝撃的だったのは初代ソアラで日本でこんな車🚙が作れるのかと驚いた。流麗なセミノッチバッククーペスタイルでエンジンは2.8リッター直6ツインカム170馬力、車両価格は275万だったので諸経費込みだと300万超だろうけど当時としては気軽に買える価格ではなかった。そんなこともあって始めから諦めていた。

一番乗りたかった車🚙はセリカGT-fourでけっこう真剣😍💓💓に購入を考えたが、余計なのがいたので諦めた、(ーー;)😵⤵️。LF-Aには計画当初から注目していたが、所詮宮仕えの給料🏢💴で手が届く価格ではないので高嶺の花と諦めていた。初代ヴィッツも日本でこんなおしゃれな車🚙ができるのかとちょっと驚いた車🚙ではあった、\(^_^)/👀‼️。ヴィッツには乗らなかったが、この車🚙とシャーシーを共有するwillCYPHAに乗っていた。悪くはないが、まあまあ普通のCカーだった。ただけっこう実用性にこだわった真面目な車🚙でせっかくあんな車🚙を作ったのだからもっと遊べば良かったように思う、(ーー;)😁🌀😱💧😅。

CYPHAの次からは独り身になってあれこれ言うのもいなくなったのでまずはコペンを買ってそれから86GR、GRヤリスとこれまでできなかったことをやりまくっている。高級車に乗りたいとも思わない。無理して高級スポーツカーに乗りたいとも思わない。車🚙は何と言ってもトヨタである。だって今のトヨタはWECではポルシェ、フェラーリ、BMW、ランボルギーニなどのスポーツカーメーカーをなで切りにして優勝しているじゃないか、\(^_^)/🙆🆗🚙💨。

車はパワーがあって足がしっかりしていてステアリングの切れが良くてしっかり身体を支えてくれるシート💺があればそれでいい。86GRも素晴らしかったしGRヤリスもいい車🚙ではある、\(^_^)/🚙💨🙆🆗🎃🐲⛩️。まあまあ満足ではある、\(^_^)/🚙💨🙆🆗。

車は車両価格で500万までと線引きしているのは庶民的貧乏性🈳😢👛のせいだろうか。これまでにソアラ以上に驚いた👀‼️車🚙はなかったが、乗りたいとは思わなかった。あの車、今出て来たら間違いなく1千万超だろう。カッコいい車🚙だった、\(^_^)/🚙💨🙆🆗。これからどんな車🚙が出るだろう、\(^_^)/🚙💨🙆🆗。あと2、3台は買えるので乗れるうちは楽しもう、\(^_^)/🎃🚙💨🙆🆗🐲⛩️。

Posted at 2024/04/27 19:42:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年07月10日 イイね!

破天荒な人物ではなく意外に常識人だった織田信長、・・(◎_◎;)。

破天荒な人物ではなく意外に常識人だった織田信長、・・(◎_◎;)。NHK大河ドラマ「どうする家康」第26話は「ぶらり富士遊覧」。織田信長(岡田准一)や徳川家康(松本潤)を苦しめてきた甲斐の大名・武田勝頼(眞栄田郷敦)の最期が描かれました。長篠合戦(1575年)の敗戦後、勝頼は小田原の後北条氏との戦いに注力。遠江国に目を向ける余裕がなくなり、同国の重要な拠点であった高天神城が徳川家康に攻められても、救援に向かうことはありませんでした。

同城は、天正9年(1581)3月、ついに落城します。高天神城を見捨てたことは、勝頼の求心力を低下させました。その影響は、翌年(天正10年=1582年)に大きく現れます。武田信玄の娘婿・木曾義昌が織田方に寝返ったのです。その報は、すぐに信長にも届けられました。武田家を壊滅させるチャンスと見た信長は、迅速に動きます。軍勢を武田領に向けて、進発させたのです(2月3日)。

織田軍の侵攻に、武田方の諸城は、次々に降伏していきました。信玄の娘婿・穴山梅雪も寝返る有様でした。3月2日には、高遠城(長野県伊那市)が織田信忠軍により攻められ、籠城方も奮戦しますが、落城してしまいます。勝頼は新府城(山梨県韮崎市)にいましたが、織田軍迫るの報に、武田方の人々は次々と逃亡。勝頼自身も、新府城から退城します(3月3日)。勝頼一行は、小山田信茂の岩殿山城(大月市)を目指すも、信茂もまた寝返ってしまうのです。家臣らが次々と逃亡してしまい、哀れな状況となった勝頼。3月11日、田野(甲州市)にいるところを、織田方の軍勢に包囲されてしまいます。ここで、最後の抵抗が行われますが、最早これまでと悟った勝頼は自刃。勝頼の子・信勝は16歳ではありましたが、自害して果てました。勝頼・信勝親子の首は、信長に進上されます。勝頼の首を見た信長は「日本にまたとない武人であったが、運が尽きて、こうなられたことよ」と言ったとされます(『三河物語』)。信長を苦しめてきた勝頼でしたが、それ故に、信長は勝頼を一流の武将として認めていたのでしょう。

 さて、信長は武田征伐の帰途に、富士に立ち寄るが、その際、家康は富士の裾野に茶屋を予め建てておき、信長を接待しました(『信長公記』)。大宮(静岡県富士郡)においても、家康は金銀を散りばめた豪華なご座所を設けて、信長を歓待したと言います。その他の地域でも家康の接待は続き、その心遣いに信長も感動し、大層、喜んだようです。信長が武田勝頼を滅ぼしたのは、天正10年(1582)。そう、それは本能寺の変が起きた年でもありました。(歴史学者・濱田 浩一郎)


武田氏討伐の主力は信忠軍で信長は貴族などを引き連れて後方からついて行ったに過ぎない。信長自身は実際に戦闘は行ってはいない。武田勝頼の首級を見た信長は「バカな奴だ」と足で首を蹴飛ばしたとか言う話があり、これが光秀の謀反の一因になったなんて話もあるが、これも江戸時代の作り話だろう。信長は今で言う世論を非常に気にしていたという。自分がこういうことをしたら世間は何というだろうかといつも考えていたそうだ。周囲が「殺すべきだ」といくら言っても何度も歯向かった足利義明を殺さなかったのも「主殺し」と言う評判を嫌ったからだという。明智光秀の謀反は自分の一族郎党を守るためで黒幕など共謀者はいない。光秀は自分の息子に坂本、丹後の領地を継がせたかったという。信長を殺して京都を制圧すれば自分に従うものも出てくるだろうからそうした勢力をまとめて織田の残党と戦えば勝機はあると踏んだのだろう。あれだけ見事にクーデターを成功させたのだから黒幕がいれば必ず動き出すが、それがないのはいなかったからだろう。また光秀に従う者もいなかったのは光秀にとって大誤算だっただろう。信長は少数の護衛で上洛したりあちこち動き回ったりとけっこう危ないことをしているが、本能寺の変の際は絶対に安全と思っていただろう。せめて3千程度の兵を従えていれば光秀も謀反を思い止まっただろう。織田信長と言う人物は超合理主義者だが、意外に常識人なので本能寺の変がなかったとしてもびっくり仰天するようなことはしなかったかもしれないが、それでも時代を超越した不世出の天才的戦略家だったのは間違いないのであそこで命を落としたことは何とも残念ではある、・・(>_<)。
Posted at 2023/07/10 13:56:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年06月28日 イイね!

「女は苦しからず。急ぎまかり出でよ」、自らの死に際してこんなことが言えるだろうか、・・。

「女は苦しからず。急ぎまかり出でよ」、自らの死に際してこんなことが言えるだろうか、・・。日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、織田信長が生涯最後に発した、女房衆に対してのひと言をご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を再発信する。

すべてを悟った信長の最期
本能寺を包囲した明智光秀の兵は、間を置かずに信長のいる本殿へと討ち入って来る。勝ち負けではなく、光秀の目的はただ信長の死だった。なぜ光秀は謀反(むほん)したか。当時から今日にいたるまで、さまざまな説が取り沙汰されている。怨恨(えんこん)とか、野望とか、義憤に駆られたとか。本当のところはわからない。当の光秀にしても案外、ひとつの理由を挙げることはできないのではないか。

信長は光秀の才能を高く評価し、政権内でも高い地位を与えた。信長が光秀の働きを激賞した文書も残っている。信長が大軍を率いた光秀の動きを警戒していないことから考えても、ふたりの間に不和はなかった。確かなのは、ふたりが急成長する組織のトップと、その右腕的関係にあったということだ。常に尋常ならざる過大な成果を求める上司と、その成果を出し続ける有能な部下。そういう上司と部下の間には複雑な感情が渦巻くものだ。尊敬し愛情さえ感じる相手に、同時に恨みや反感を抱いていることも珍しくはない。

まして彼らは何千何万の敵を殺戮(さつりく)したことを誇り、首を狩るのが手柄であった時代に生きていた。彼らの心中を現代人の理性で推し量(はか)るのは間違いだ。信長の急激な勢力拡大によって生じた広大な軍事的空白地帯の中心である都に裸同然の信長がいて、そこに自らの一万の兵力が居合わせるという偶然に巡り合わせた時、光秀の心は大きく揺れたのだ。そして彼はそれを奇貨(きか)とした。これは千載一遇の自分の運である、と。主君に反逆する以上、失敗は許されない。まして相手は、日本全土の事実上の絶対君主にあと一歩というところまで上り詰めた信長だ。万が一にも討ち漏らすことがあれば、残虐な死が光秀とこの反乱に加担した家臣一族、女子どもにいたるすべての人に降りかかる。その場において光秀の正義は信長の首を挙げることにのみかかっていて、それは本能寺に討ち入ったすべての兵士にとっても同じだった。

信長も警護の小姓や中間(ちゅうげん)たちも、それは完全に理解していたはずだ。そしてそれが一万人対数十名の戦いである以上、自分たちに残されたのは、戦って死ぬという道だけだった。『信長公記』の最終巻、巻十五には信長の首ひとつを目掛けて殺到する光秀の兵と、これを防ぐ小姓や中間たちの絶望的な戦いが記されている。とは言え、書かれているのは斃(たお)された信長方の長い人名の列だけだ。戦記には敵味方に関わらず戦場で討たれた人の名が記されるものだが、そこには信長方の人名しかない。完全武装の一万の兵と先刻まで寝床にいた数十名の戦いだ。戦いというより、実質的には一方的な殺戮だったのだ。

信長は弓をふたつ、3つと替えながら防戦したとある。信長の周囲では、小姓たちが次々に斃(たお)されていたのだろう。信長は御殿の縁先で、弦が切れるまで弓を射る。弓の替えがなくなると槍を持った。やがて敵の槍を肘に受け戦えなくなると、後ろに下がり、そこで初めて、側に控えていた女房衆に声をかける。
「女はくるしからず、急ぎ罷(まか)り出よ」※
信長の近くに侍(はべ)るという女房たちの職分はこれ以上遂行できない。だから「くるしからず」なのだろう。これが信長最後の言葉となった。「急ぎ」というひと言に、彼女たちの命を気遣う信長の心が微かに偲ばれる。その言葉の後に「追い出され」とある。女たちは残ると抵抗したのだ。女房衆を追い出すと、信長は火の手の上がる御殿の奥に入り、納戸の戸を閉め、自刃して果てた。49年の生涯だった。
※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著 桑田忠親校注)390ページより引用(TEXT=石川拓治)


「女は苦しからず。急ぎまかり出でよ」
斎藤利三の指揮する5千の軍勢に囲まれて絶体絶命、自らの死に際してこういうことを言えるのはやはり普通の人間ではない。織田信長は身内には優しい人間だったという。敵対する勢力には過酷なまでのせん滅を行ったが、それは敵に情けをかければ自分の一族や家臣、兵士がその分死ぬからだろう。光秀が謀反を起こしたのも一族郎党家臣の生き残りをかけてのことだろう。明智光秀の謀反で不世出の天才戦略家は消えた。しかしこの国がある限り織田信長の名前は永久に消えることはないだろう。ハイパー合理主義者織田信長、これ以上の人材はおそらく永久にこの国に現れることはないだろう、・・(^_-)-☆。

Posted at 2023/06/29 00:16:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年05月13日 イイね!

長篠設楽が原の戦い、鉄砲の三段撃ちは事実であったのか、・・(◎_◎;)???

長篠設楽が原の戦い、鉄砲の三段撃ちは事実であったのか、・・(◎_◎;)???今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は家康・織田信長の連合軍と、武田勝頼率いる武田軍が激突した長篠の戦いのナゾに迫る。天正3年(1575)5月21日に行われた長篠の戦い(愛知県新城市)は、日本史教科書でも特筆される合戦である。『高校日本史B』(山川出版社、2014年)には次のように記載されている。織田信長は「1575(天正3)年には、三河の長篠合戦で多くの鉄砲を使って武田氏の騎馬軍団を破り、翌年、近江に壮大な安土城を築きはじめた」と。また、笠谷和比古氏が著した『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016年)にも「武田軍左翼の旗頭である山県昌景は、自ら前線に出て騎馬部隊を率いて突撃を試みたが、織田・徳川方の鉄砲の射撃によってあえなく最期を遂げた。鉄砲の一斉射撃の威力はすさまじく、突撃してきた騎馬部隊の馬上の武士たちが一瞬にして消え去ってしまったという」と記されている。

■明治時代に記述が変わる
信長の鉄砲の一斉射撃という戦術によって、騎馬部隊による突撃を試みた武田軍が撃破されたという点で、先の教科書の記述と同じである。江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した『信長記』には、織田・徳川連合軍は、3000挺もの鉄砲を用意したという。そして、実戦においては、敵を引き付けたうえで、鉄砲隊(1000挺ずつ)に「立ち替わり、立ち替わり、打たせた」とある。ところが明治時代になって、日本陸軍の参謀本部(旧日本陸軍の中央統帥機関)が纏めた『日本戦史・長篠役』(明治36年=1903年)には、鉄砲隊を1000挺ずつ3段に重ね、1列目が射撃、2・3列目が弾込めをし、1列目が射撃を終えると後ろに回り、2・3列目が射撃を行う(その間に1列目が弾込めする)「3段撃ち」という新戦術を信長は編み出したと、記述されている。この見解が広まり、大河ドラマ でもそのようなシーンが繰り返し描かれてきた(例えば、1992年の大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』)。しかし、織田・徳川連合軍による3000挺の鉄砲による三段撃ちは、本当にあったのであろうか。比較的信用できる史料から、実態を探ってみよう。信長に仕えた太田牛一が著した『信長公記』には、戦の直前、信長は家康の陣所がある高松山に登ったという。小高い山に登った信長は、敵の動きを見たうえで、命令が下りしだい、すぐに軍勢が動けるようにしておけと命じたようだ。

そして、鉄砲約1000挺を佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、塙直政という5人の奉行に配備。敵のほうに足軽を詰め寄らせた。長篠合戦の前哨戦とも言うべき鳶ノ巣山(とびのすやま)砦攻めの際、信長は鉄砲500挺(『信長公記』)を酒井忠次に付けた。3000挺という鉄砲数は『信長公記』には記載されていない。さらに『三河物語』にいたっては鉄砲数すら記されていない。武田軍の将兵が「雨脚のような鉄砲にあたって、戦死した」と記されているのみである。甫庵『信長記』は信憑性が乏しく、太田牛一『信長公記』は比較的信用できる史料と言われていることからすると、筆者は『信長公記』の記述に重きをおきたい。『信長公記』にも、織田・徳川連合軍の鉄砲の全体数が記されているわけではなく、総数は謎と言わざるをえないが、『信長公記』の記述を基に考えると、最低、1500挺の鉄砲を信長は戦場に持ち込んでいたことがわかる。
もちろん、ほかの部隊にも鉄砲を持たせたであろうから、1500挺より多い鉄砲が長篠に持ち込まれたであろう。ただし、それが3000挺であったか否かは確認できない。

■鉄砲の3段撃ちは実際にあったのか
さて、では鉄砲の3段撃ちはどうであろうか。『信長公記』に依り、長篠合戦の流れを再現してみよう。武田軍は、進軍の合図の推し太鼓を鳴らし、織田・徳川軍に打ち掛かってくる。1番手は、山県昌景の軍勢が来襲してきたが「鉄砲で散々にうち立てられ」退却した。2番手は、武田逍遙軒(信廉。信玄の弟)の軍勢であったが、彼の軍勢は入れ替わり立ち替わり、攻めては退き、退いては攻めを繰り返していたという。織田軍は、逍遙軒の軍勢に銃弾を浴びせ、軍兵の過半を討った。すると、逍遙軒の軍勢は退いていった。3番手・西上野の小幡氏の赤武者が、馬を用いて、推し太鼓を打ちつつ、攻めてきた時も、織田方は「軍兵を揃えて身を隠し、鉄砲で待ち受けて、撃った」。小幡氏の軍勢も鉄砲により、大半が撃ち倒された。4番手の黒武者たちも、これまた織田方の鉄砲により、撃たれる。5番手の馬場信春の軍勢も同じ目に遭う。長篠合戦は、『信長公記』によると、5月21日の日の出から午後2時頃まで続いた。武田軍は、入れ替わり立ち替わり、騎馬武者を差し向けてくるが、織田方の鉄砲により撃退されている。織田方は射撃した後に、足軽を使い、敵方を軽くあしらう程度であった。武田軍は、多くの軍勢が討たれたこともあり、退却を始めるのだが、列が乱れたこともあり、そこを信長により突かれる。山県昌景・馬場信春など武田の重臣が討たれることになる。以上、『信長公記』から、長篠合戦の展開を見てきたが、織田方が鉄砲の3段撃ちをしているとの記載は見られなかった。では『三河物語』はどうであろうか。同書には「武田勝頼も、土屋平八郎、内藤修理、山県三郎兵衛、馬場美濃守、真田源太左衛門尉など度々の合戦で名を馳せた人々を入れかえ入れかえ、ひたすら攻めよせて、退却することもなかったが、これらの人々は雨脚のような鉄砲にあたって、その場で戦死した」とある。『信長公記』の描写と同じく、『三河物語』にも、鉄砲3段撃ちの記述は見られない。よって、鉄砲の3段撃ちはなかったと言っていいだろう。

■武田は大量の鉄砲を確保できず
武田氏も信玄以来、鉄砲の装備を推進してきたが、大量の鉄砲を確保することは難しく、銃兵の訓練もうまくいっていなかった。武田軍が敗れたのは、鉄砲の数量の差、そして軍勢数の差、織田・徳川連合軍の兵力の実態を掴めず、力攻めをしたことによる。その一方、織田軍は、鉄砲や弾丸・玉薬を大量に用意できていた。それは、信長が京都や堺といった畿内を押さえていたことが大きいだろう。京都や堺においては、鉄砲などを購入することは容易である。『信長公記』によると、武田軍が戦場から退却するときにも、多くの者が討たれている。 その数は「侍・雑兵1万ほど」だったという。山に逃亡し、飢え死にした者、橋から落とされ川で溺死した者も数限りなく存在したということだ。家康は信長の大軍が加勢に来てくれたからこそ、武田軍を撃退し、窮地を脱することができた。約8000の軍勢しか動員できない家康が単独で、1万5000の武田軍と激突していたら、敗北していた可能性もあるだろう。

■家康のピンチを助ける信長
家康は信長の勢威と同盟のありがたさを改めて思い知ったに違いない。ピンチに陥ったときに、家康は信長に加勢を頼むということがたびたびあった。「寄らば大樹の陰」(同じ頼るならば、勢力のある人のほうがよい)の実践が、家康の危機脱出法と言えるだろう。(濱田 浩一郎 :歴史学者、作家、評論家)


長篠設楽が原の合戦では織田方の鉄砲の三段撃ちもなかったし武田軍の騎馬隊もいなかった。設楽が原の合戦が行われた場所を見れば分かるが、低山に挟まれた幅が2、300メートルの低湿地で真ん中を川が流れている。当時もそう変わらない地形だっただろう。あんな低湿地で馬が使えるわけもないし、武田方は徒歩で織田方の陣地に寄せたのだろう。武田の騎馬隊自体が作り話と言う説もある。その織田方は土塁と柵を三重に構えた完全な野戦築城で要するに攻城戦だった。鉄砲隊は1千人程度としてもそれが100から150人程度の部隊に分かれて各々鉄砲足軽大将の指揮で射撃したのでほぼ間断ない射撃が行われていただろう。江戸時代はあまり平穏すぎて民衆が刺激を求めたので戦国時代の合戦などもかなり誇張されて描かれているのでフィクションとしては面白いのだろうが、江戸時代の歴史ものは歴史的資料としてはあまり価値がない。武田方は土塁と柵で固めた織田方の陣地を攻略しようと繰り出したが、兵力が少ない上に織田方の鉄砲に阻まれて撃破された。一般に城などにこもる敵を攻めるには「攻者3倍の原則」と言って防御側の3倍の戦力が必要と言う。兵力的にも織田方は武田方の2.5倍ほどもあるので攻めきれるものではない。織田側は信長の命令で陣地から出ないで鉄砲の射撃で対抗したと言う。武田方は信濃に帰る街道、今の国道151号だろうか、を塞がれて織田方の陣地の突破を目指したが、重臣たちは口々に撤退を進言したと言うが、勝頼はそれを受け付けなかったという。武田方にも鉄砲はあったが、数が少ない上に弾丸や火薬も少なくすぐに撃ち尽くしてしまったそうだ。当時は硝煙も鉛も輸入で貿易港の堺を押さえていた織田軍は豊富に手に入ったが、武田方は手に入らなかったという。武田方の敗因は兵力不足の状況でほとんど城のように防御を固めた織田方の陣地に攻撃を仕掛けたことで配下の武将の言うように領国に撤退して勝手知った領国内で織田軍を迎え撃った方が良かっただろう。ただ配下の武将に弱みを見せられなかった勝頼にはそれができなかったのかも知れない。ただ勝頼も決して無能な武将ではなく非常に能力の高い武将であったそうだ。武田氏を滅ぼした信長が、打ち取られた勝頼の首級を見て「運がなくこのようなことになってしまったが、運があればそれなりの武功をなしただろう」と言ったそうだ。決して無能な武将ではなかっただろうが、武田氏の中継ぎと言う立場が勝頼を必要以上に強くさせたのかもしれない、・・(◎_◎;)。
Posted at 2023/05/13 22:15:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
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