2016年04月05日
光秀さんは戦国当時としては屈指の秀才武将だった。本能寺の変を起さずにそのまま信長さんに仕えていれば中国、あるいは山陰地方で大大名として残っただろう。光秀さんはとても家族思いだったと言う。40歳までほとんど食うや食わずの生活で奥さんが髪を売って生活を凌いだこともあったと言う。そのために大名になっても決して側室を持たなかったという。信長さんに仕えてから生活が安定して3男4女をもうけたと言うが、非常に家族を大切にしたそうだ。
旧体制を全て破壊して全く新しい支配体制を築こうと言う信長さんと足利幕府を再興して安定社会を作ろうと言う光秀さんとは基本的な思考からして異なっているが、それでも一生懸命全身全霊で信長さんに尽くしたようだ。
比叡山焼き討ちも必死に信長さんを諌めたが、やるとなると徹底的にやったようだ。秀吉君は信長さんの言うことを、「はいはい」と二つ返事で聞きながら実際には女性や子供などは逃がしてやったと言うので自分の裁量で何とかなるところは適当にやっていたようだ。この辺は光秀さんと秀吉君の決定的な差で光秀君はそこまで柔軟な思考は持ち合わせていなかったのだろう。
この功績で坂本を領地として貰い5万石の大名となって坂本城を築城する。領地を持つことが至上命題の光秀さんはさぞうれしかっただろう。その後、丹波の平定を命じられ、長篠の戦、越前一向一揆平定、本願寺包囲戦など様々な戦に従軍しながら苦労して細川藤孝などとともに天正7年にこれを平定、信長さんから感状とともに丹波一国を与えられ34万石の国持ち大名となる。
それと同時に丹後の長岡(細川)藤孝、大和国の筒井順慶等の近畿地方の織田大名が光秀の寄騎として配属され、光秀さんの丹波、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰へ向けた畿内方面軍が成立、これら寄騎の所領を合わせると240万石ほどになり、「近畿管領」」とも言われる軍団長に上り詰める。
これで押しも押されぬ大大名になった光秀さんだが、出世をするほどに頭の中には信長さんとの意見の相違など様々な問題が巡っていたと思う。特に光秀さんは坂本と丹波に非常な愛着を持っており、この地を何とか自分の長男に継がせたかったようだ。また、領民を配慮した善政を布いていたと言う。
一方、信長さんは天正8年に本願寺と和睦して近畿一円の平定を終えると新政権創設に向けた体制作りをはじめる。天正8年に織田家の旧来からの重臣である佐久間信盛、林秀貞などを追放している。重臣と言うだけで大きな知行を得て働きのない者は容赦しないと言うことのようだ。林秀貞追放の際に24年前の謀反を理由にしているのは信長さんの執念深さと言うが、重臣を追放するには相応の理由が必要でそのために過去の謀反を使ったのではないだろうか。そして畿内には子飼いの親衛隊などから選りすぐった行政官を配置しようとした。
光秀さんはこうした信長さんの方針は重々承知していただろうし、また、家臣の問題、四国政策など信長さんと相容れない問題を抱えていた。そんな時の信長さんの重臣追放は光秀さんには衝撃だっただろう。当時の大名は専制ではなく合議制で光秀さんの家臣からも様々言われていただろうし、信長さんは言ってもいうことなど聞く耳は持たないし、光秀さんには頭の痛い問題だっただろう。
それでも近畿方面軍司令官と言う立場にあればそれなりに安泰という気持ちもあっただろう。当時、50代の後半、一説には67歳と言う説もあるが、戦国時代ではもう高齢の光秀さんは、「何とか長男が元服して領地を継承するまでは、」と言う気持ちがあっただろう。
そんな時に信長さんから、「お前、中国征伐に行け」と言われたのは、光秀さんにとって見れば、「近畿方面軍司令官解任、一武将として中国方面軍司令官の秀吉君の配下になれと言うことか。いよいよ俺も人材整理組か」と大ショックだっただろう。
愛宕神社参拝とか、連歌の話とか、こんなものは後で誰かなつなげたのだろう。「天の下知る」は秀吉君かもしれない。ただ、真面目一方の光秀さんにとっては頭の中は揺れ動いていただろう。「旧領召し上げ、代わりに出雲、石見を与える」も後世の創作らしい。だが、山陰方面の制圧ということなので光秀さんにとっては、「また新たに領地を切り取れと言うのか。生きているうちに長男に領地を継がせたいのに、オレにはもうそんな時間がないかもしれない。」と言うのが光秀さんの本音だったのかもしれない。
「信長さんは京都に少数の部下を引き連れただけで滞在中、信忠さんもわずかな手勢を引き連れただけで京都にいる。周囲に大軍を擁する武将はいない。やるなら今だ。明智の未来をかけて、・・」そして亀山城内でごく一部の武将に打ち明ける。斉藤利三などは信長さんに腹を切らせろと言われていたので大賛成だっただろう。
そして、「敵は本能寺にあり」などということは絶対に言わない。これはあまりにも芝居がかっている。そんなことを言ったらびっくりして逃げ出すものがあるかもしれない。信長さんに通報するものがあるかもしれない。そうなったら全てが終わる。そうして粛々と本能寺に向かったのだろう。要は光秀さんは天下を狙ったわけでもなければ黒幕に指示されてやったわけでもない。ただひたすら自分の一族と領地を守りたかったのではないだろうか。
Posted at 2016/04/05 18:02:16 | |
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歴史 | 日記
2016年04月03日
明智光秀さんと言うのは誰知ろう信長さんに反旗を翻し、本能寺で信長さんを自刃に追い込んだ張本人である。光秀さんの出自は明らかではないが、土岐氏明智の支流と言い、斉藤道三に仕えていたが、道三が義龍に殺されて離散したと言う。
その後、浅倉氏に仕え、足利義昭が浅倉氏に身を寄せると義昭に仕えた。義昭は浅倉氏に頼って上洛を試みるが、浅倉氏が動かず、痺れを切らせて信長さんを頼り、そこで信長さんの家臣となったという。
光秀さんは40歳くらいまでは困窮を極めた生活を送っており、信長さんに仕えて500貫の知行を得てやっと落ち着いた生活が出来るようになったようだ。光秀さんは京都の事情に明るく朝廷や公家の儀式や作法にも通じていたことから当初は信長さんと義昭の双方に仕えていたが、その後、信長さんと義昭が不仲になったことから義昭を見限って信長さんの直臣となった。
光秀さんと言う人物は戦国当時の屈指の秀才である。秀才と言うのは権威の元にあって当代の権威を学んで成長する。そのため、光秀さんにとって権威とは足利幕府であり、朝廷であり、そして鎮護仏教であった。そんな光秀さんが目指したのは足利幕府の復権による天下静謐であり、全く新しい体制を築き上げようとしていた信長さんとはその考えの基本において全く異なる。
そして当時の秀才武将がもう一つ目指す大目的は領地の獲得と家名の継承であった。信長さんに仕えた光秀さんは信長さんの考えることが自分とはまるで違うことは分かったはずだ。だが、領地を得て家名を継承するために必死になって仕えたのだろう。
比叡山焼き討ちの際も光秀さんは暴挙だとかなり信長さんに食い下がったようだ。信長さんにしてみれば権威に安住して勝手放題の敵対勢力を叩き潰すだけでそれ以上でも以下でもなかったのだろうが、光秀さんにしてみれば長い伝統と仏教文化を持つ比叡山を焼き討ちにするなどとんでもないことだったんだろう。
それでも領地を得て家名を継承することが至上命題の光秀さんは同床異夢と言った状態でも一生懸命信長さんに仕えたのだろう。最後には丹波一国と近江坂本を合わせた大名までになった。光秀さんは常識人で領国経営も住民に優しく善政を布いていたようで現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くあるそうだ。
光秀さんは信長さんと数々の遺恨があったというが、これはほとんどが江戸時代になってから書かれた書物に記載されていることで根拠のないものだという。謀反の1年前まで信長さんを崇敬する書を残しており、謀反を起すような理由は見当たらず、現在に至るも謎のままとなっている。
謀反の動機は、朝廷説、怨恨説、理想相違説、野望説、恐怖説、義昭黒幕説、家康黒幕説、秀吉黒幕説、政策相違説など種々様々に取り沙汰されているが、これと言った決定打はない。まず、朝廷は自分の火の粉が降りかかるようなことは絶対にしない、怨恨も後付が多く、理想が異なるからと言って失敗すれば自分が滅ぶようなことをするとは思えない。
義昭、家康、秀吉黒幕などはフィクションの世界の話だろう。義昭さんは見限った主君だし、慎重居士の家康君がそんな博打を打つわけもない。秀吉君は信長さんに臣従し尽くしていたし、仮にそうだとしても山崎で討たれるまで光秀さんが何も残さないわけがない。それでは何が、・・と言うのは次回に書きたい。
Posted at 2016/04/03 15:11:14 | |
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歴史 | 日記
2016年04月02日
信長さんの統治と言うのは基本的に独裁である。戦国大名から徳川幕藩体制に至るまで領主、藩主と言うのはトップでありながら独裁者ではない。大名と家中の有力武将による合議制で大名独裁と言うのはほとんど例がない。天才として類まれな状況認識力、判断力、決断力、行動力を持った者からすれば、ほとんどが前例踏襲の家臣の意見など聞く必要もなかったのかもしれない。あの時代、尾張の一地方武将からほとんど天下を平定するまでに至るには並みの力量では成し遂げられない。
信長さんの理想は誰もが楽しく85歳まで生きることの出来る世の中を作ることだったと言う。「天下布武」の言葉通り、武力によって乱世を平定し、そうした世の中を作ることが信長さんの目標だったのだろう。統治体制は中央集権で土地は国家のもの、それぞれの地方を治めるものとして書く武将を地域ごとに割り振って置く。
しかし、その武将は土地の所有者ではなく国に代わって地域を統治する代官と言った立場で、これは当時の武将の考え方とは大きな隔たりがある。当時の武将の最終目標は領国を所有して家名を残すことだった。
ところが信長さんは国は国家(織田政権)のもの、武将は政権の指示に従って領国を管理することという中央集権近代国家の発想だったようなので信長さんがもう少し生きていれば世界に先駆けて日本は中央集権国家樹立していたかもしれない。しかしながら、信長さんの発想と各武将との考え方の溝は波乱の要素を含んで残っただろう。
信長さんの性格は超合理主義者で勇猛、積極果敢だが、意外に人情家の面もあり、律儀でユーモアもあったようだ。信長さんは短気で冷酷、残忍と言われるが、これほどの非凡な才能のあった人物が、並みの武将、それでも当時としては第一級の秀才、を見ればじれったくなってかんしゃくを起したり、蹴飛ばしたりしたこともあっただろう。
また、命令が一般の武将の能力を超越していて苛烈と言われることもあっただろう。ただ、信長さんの悪評はほとんどが江戸時代の歴史物に書かれたものでこれは東照神君と呼ばれた家康さんを引き立てるためだったようだ。
家康さんと言うのは戦国時代随一の秀才だが、天才でも何でもないので能力は信長さんとは比較にはならない。残忍というのは一向一揆に対する虐殺や離反したものに対する仕打ちなどを言うのだろうが、対抗する敵勢力を殲滅するのは戦術の基本だし、また、信仰で刃向かう者は殺すしかないことを信長さんは知っていたのだろう。
離反者に対しても実弟の信勝は一度は許しているし、松永久秀は2回許し、荒木村重には3回も、「不足があれば聞くから来い」と言っている。何でもかんでも問答無用ではなかったようだが、それでも聞かなければ一族郎党全てを処刑している。それはこの時代誰でもやっていたことで信長さんだけではない。
親族や近親者にはそれなりに優しかったようで娘を嫁がせる先を自ら選んだり、戦で部下を失ったりすると涙を流して悲しんだこともあったようだ。長距離火力を取り入れたのも戦死者を出させないためとも言う。
家中の規律は厳しいものがあったようだが、これは、「負うべき責任は果たせ」と言うことと自信家の割には世論を気にする信長さんだったそうだから、規律厳正はそんな意味もあったのかもしれない。
信長さんは親族のつながりを過大評価していた節がある。若年期に母親に疎まれ、兄弟に背かれ、実弟を暗殺するなど暗い過去があったせいかもしれないが、浅井長政の離反にも、「あいつは親族だから他人の浅倉を攻めることを一々知らせる必要はない(親族なんだから分かってくれるという思いがあったんだろうか)」と言ったそうだが、結果として浅井に離反されている。
また、信長さんは、「武将は利益で動く」と、これも意外に単純に思い込んでいた節がある。浅井が離反したと聞いた時に、「あいつには北近江を任せてあるんだから不満のあるはずもない。離反なんてうそだろう」となかなか信じなかったそうだ。また、松永や荒木にも、「不満なことがあるなら何でも言え」と何度も説得を試みている。
並みの秀才からすれば天才の考えることはあまりにも自分の理解からかけ離れていて漠然とした不安があったはずだ。そういうものに対する配慮が見られないのは信長さんの人であるが故の欠点だったかもしれない。結果としてはそれがこの不世出の天才の命を縮めることになったように思う。
信長さんはイベント好きで、祭りなどを庶民と一緒に楽しんだ他、相撲、能なども好んだと言う。また囲碁、和歌などの素養もあったという。茶の湯は領地の代わりに武将に与える褒賞として広めたと言うが、家督を信忠に譲った際に茶器だけは持って言ったというので本当に趣味として好きだったようだ。尾張の田舎者と蔑む向きもあるが、なかなかの風流人であったようだ。また、安土城を見学させて一人百文を見学料として自ら徴収したり、安土城を提灯やたいまつでライトアップして見せたり、興行師としての才能もあったのかもしれない。
信長さんのイメージを最初に歪めたのは秀吉君だが、この男は人あしらいには天才的な才能を有していたが、発想力、創造力と言う点では信長さんにはるかに及ばない。信長さんの元にあってその発想力を得て何かを実現する着想には優れたものがあったが、ナンバー1の器ではなかったように思う。頂点に立ってからのバカさ加減は本当に同じ人物かと思うほどだ。朝鮮、明への侵攻も信長さんの遺志を継いでと言うが、実際に信長さんが海外遠征を計画していたと言う記録はない。秀吉君は頂点に立ってから信長さんを超えようとしたが、自分でも信長さんを超えることは不可能だと悟っていたのかもしれない。秀吉君は頂点に立ってからは自分が成り上がることしか考えてはいないが、もう少し政権固めに意を用いていたら豊臣政権が続き、徳川の出番はなかったかもしれない。本人も自分が信長さんを超えられないことは自覚していたのかもしれない。いずれにしても秀吉君と言う人物はあまり好きではない。特に頂点に立ってからの秀吉君は狂っているとしか思えない。
Posted at 2016/04/02 16:32:40 | |
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歴史 | 日記
2016年04月01日
信長さんの経済基盤は領地から収穫される米とともに貨幣経済に重きを置いていたようだ。これは父親の信秀さんが津島と言う貿易港を押えて莫大な利益を上げていたことによるのだろうが、信長さん自身も、道路整備を行い、関所を廃して商品流通の振興を図り、座を廃止して自由競争経済政策を採るなど経済政策に重きをおいている。
当時は領土を広げて石高を上げるのが一般的だったが、信長さんは選銭令を発布して良貨と悪貨の交換比率を定めたり、副将軍職よりも堺の管理権を取るなど貨幣の価値を重視していたようだ。
また、キリスト教宣教師などから情報を取り入れ、技術革新にも熱心だったと言う。一般に当時の大名は城を防衛拠点として整備し、領内の道路などは敵の侵攻を阻むために曲がりくねらせたり道幅を狭くしたりわざと川に橋を設けなかったりして敵の侵攻を阻むような造りになっていたのに対し、6間と言う幅の広い真っ直ぐな道を整備し、途中に休憩所や並木を整備したり交通の利便性を図っていた。
また、城郭は防衛拠点と言うよりも自身の権勢を示したり、あるいは外交を行なう迎賓館のような造りにして城を防衛拠点とは考えていなかったようだ。この辺りも独自の感覚で城というものの意義を捉えていたようだ。安土城も10メートルほどもありそうな大手道が140メートルも続いている。その先はちょっと入り組んだ城造りにはなっているが、守り易そうな造りではない。本丸には清涼殿を模した建物があって、天皇を足下に住まわせようとしたと言う非難があるが、これは迎賓館のようなものだろう。信長さんは天皇の権威についても、「庇護してやらなければ生きていけないような無力な朝廷だが、その権威は想像以上に侮りがたい」と朝廷の権威もよく理解していたと言う。
信長さんは西洋の文化にも大いに興味を示して宣教師などからいろいろと聞いたり贈り物をもらったりして喜んでいたらしい。目覚まし時計をもらった時は散々見てから、「日本の技術では壊れた時の修理が大変だから、・・。」と言って返したそうだが、非常に残念そうだったと言う。
また、地球儀を見せられて地球が丸いという説明を受けた時もすぐに納得したと言う。当時の日本では地球の概要を知る者は一人もいなかったが、地球が丸いということを過ぎに受け入れられると言うのはよほど客観的で柔軟な思考の持ち主だったのだろう。
何よりも驚くのは黒人を見せられた時に周囲が腰を抜かさんばかりに驚いたのに対し、信長さんはじっと観察してみて、「洗ってみろ」と一言言ったそうだ。当時の人間が黒人に出会うと言うのは、現代人にとって見れば、宇宙人か妖怪物の怪の類と遭遇するのと同じくらいの衝撃だろうが、冷静に観察して、まず、顔料でも塗ったのではないかと疑い、本当に肌の色が黒いことを確認するとすぐに自分の小姓として採用したと言う。
弥助と呼ばれた黒人は大男、当時の日本人に比べれば、で力が強く、信長さんはボディガードとして重用し、将来は一国の国主にするつもりだったという。弥助も信長さんに忠誠を誓い、本能寺の変でも最後まで明智勢を相手に奮戦したと言う。信長さんは身分や門地に囚われず庶民も分け隔てせずにつき合っていたと言う。最後に明智勢に捕らえられた弥助を見た光秀さんは、「こいつは人間ではないから解き放て」と言ったそうだが、この辺りは天才と秀才の決定的な差なのかもしれない。このことはまた跡で詳しく書きたい。
宗教に対しては、信長さん自身は全くの無神論者で宗教に関心を示した様子はない。神社に寄進をしたりしているが、それは多分部下の士気を高めるため、あるいは住民の評判を得るためなどで実際に神仏を信じていたとは思えない。比叡山焼き討ちの際も必死に諌める光秀さんに、「神仏は木と金で出来ていることを光秀に教えてやらないといけない」と言っていることや石仏を城の石垣や階段に使用していることからも作られた偶像には一切の関心を示していない。
信長さんは、比叡山の焼き討ちや本願寺との10年にわたる戦争、一向一揆との対決、高野山包囲戦など宗教団体と戦っているが、宗教自体を弾圧したわけではなく、対抗する勢力が宗教団体だったと言うだけで、宗教活動に対しては何ら弾圧はしていない。比叡山の焼き討ちにしても何度も中立を保つよう呼びかけているが、それを聞かなかったから殲滅しただけの話で特に宗教を弾圧したわけではない。
一向一揆も越前や長島で何万と言う一揆に加担した者を殺戮しているが、これは敵対勢力を徹底的に殲滅すると言う軍事的合理性であり、また、この時代は誰もが似たようなことをしていることからこれを以って信長さんが残虐な人間とは言えない。ただ、散々手を焼かせて自分の親族郎党を多数殺害した一揆加担者に対する恨みと言うものはあったかもしれない。
これは自分に刃向かった浅井久政・長政、浅倉義景の頭蓋骨に薄濃にして飾ったことも残虐性の現われというが、当時は討ち取った敵の首を持って帰り、女性がその首級を洗って化粧をして首実検をするのが当たり前の時代だったのでこれも残虐とは言えない。むしろそうすることで三将の菩提を弔ったと言う説もある。本願寺勢とも和睦後はこれを弾圧したと言うことはない。
安土城築城後は総見寺を城内に建立し、そこに大石をおいて自分を神として崇めろと言ったそうでこれを以って信長さんは神になろうとしたと言う向きもあるが、木と金で出来た何の利益もない神仏を拝むなら実利を与えてやるから自分を拝めと言う、ある意味、人心操作の手法であり、信長さん自身が本気で神になろうとしたわけでもない。いずれにしても信長さんと言う人物が時代を超えた柔軟な思考を持っていたことは事実だと思う。
Posted at 2016/04/01 17:22:34 | |
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歴史 | 日記
2016年03月31日
織田信長さんという人物を一言で言えば、「日本史上、不世出の天才戦略家」だろう。戦略家としては何千年に一人、あるいはこの先誕生することがないかもしれないほどの天才だろう。信長さんを一言で言えば、「超合理主義者」だろう。若い頃は奇行が目立ち、「大うつけ」と呼ばれていたそうだが、一説には母親の関心を引くためとも言われるが、そんなことではなく、守旧的な権威、形式にとらわれた武家の習俗などに対する反発とともに、活動し易さ、自己完結性など野戦における合理性の追求だったのかもしれない。
髷は形にとらわれない茶筅髷、半そで、半袴、帯など使わずにどこでも簡単に手に入る荒縄、腰に水や火打石などの七つ道具をぶら下げて山野を駆け巡るというのは信長さん自身が考えた野戦のスタイルだったのだろう。この人は母親には疎まれ、兄弟には背かれ、家臣にはそっぽを向かれ、天才とは言っても一部の能力だけのことで神ではないのだから辛いものがあっただろう。
そこで自分でスカウトした親衛隊が兵農分離の戦闘専従部隊の原型となった。当時は戦になると農民を徴兵して部隊編成を行なっていたが、そのために戦は農閑期しか出来なかった。これを戦闘専従部隊を編成して常に作戦行動が可能なようにしたのが信長さんだった。
また、銃器や弓と言った長射程火力を重視し、積極的に戦に取り入れたのも信長さんだった。そうした長射程火力の導入は戦闘における合理性の追求だったのかもしれないが、もう一つは味方から犠牲者を出さないと言うこともあったのかもしれない。信長さんは尾張統一戦で親衛隊から犠牲者が出ると非常に悲しんだと言う。
戦闘で犠牲者を出さずに勝利すると言うのは戦闘における合理性の追求だが、信長さんの部下に対する思いやりもあったのかもしれない。銃器と言う長射程火力を効果的に使用して勝利した戦いの例に挙げられるのが「長篠の合戦」だが、最近は火縄銃の三段撃ちはなかったと言うのが定説になりつつある。
銃兵を3列に並べて入れ替わり射撃すると言うのは不可能と言う。当時の銃器の使用方法は突撃してくる敵に向かって一斉射撃を加えると後ろに引いて槍隊が前進し、最後に騎馬兵が突撃すると言うのが常道のようだ。設楽が原には実際に行って見たが、こんな狭い地域によく何万もの軍隊が展開出来たと思うほどだ。信長さんはここに野戦築城で陣地を築いて馬防柵で騎馬兵の突撃を阻んだと言う。
射手が入れ替わる三段撃ちというのは大部隊では難しいと言うが、部隊ごとに射撃の順を決めておけば間断のない濃密な弾幕を構成出来る。徳川軍は柵から出て白兵戦を行なっているが、織田軍が白兵戦を行ったと言う記録はない。それでいて武田軍が全滅に近い打撃を受けたと言うことはやはり銃器の威力なのだろう。
信長さんにとって危機というのはいろいろあったが、やはり何と言っても今川軍の侵攻が最大の危機だっただろう。今川軍の兵力は2万5千人と言うが、非戦闘員を除いた実兵力は1万5千人ほど、織田軍は5千ほど、尾張一国57万石と言うので最大動員数は1万5千ほどもあるだろうが、農民を動員しなかったのかもしれない。
この一部を前線基地である砦に貼り付けていたので本隊は3千人ほどと言う。当時の大兵力の侵攻に対する常道は籠城だが、籠城と言うのは救援があってのことで孤立無援では何時かは力尽きる。信長さんは情報戦で今川軍の本陣の位置を突き止めるとともに今川軍の分断を図って前線に兵力を集中させた。今川軍の本陣は5千と言うが、補給など非戦闘員の部隊もあったことだろうからもっと少なかったかもしれない。
この戦は信長さんにとっても負けるか勝つか、乾坤一擲の戦だっただろう。今川義元が持っていた太刀をその後の戦には必ず持ち歩いていたと言うから本人もよほど感慨深かったんだろう。しかし、乾坤一擲はこの戦くらいで力をつけてからは十分な兵力を用意して勝てる戦しかしていないと言う。
木津川の海戦で村上水軍の小型船による機動力と焙烙による火力でこっぴどく負けると鉄で装甲した大型船を作り、大砲(フランキ砲?)による火力で村上水軍を圧倒している。当時の圧延技術は金てこで叩く程度で大きな鉄板は作れなかっただろうし、トップヘビーになるので船の規模も問題だろうが、燃えない船=鉄船などとは誰も考えなかっただろう。信長さんに前例踏襲はない。常に客観的な状況認識と合理的な発想で時代を超越したことを考え出す。これも天才と言われる所以だろう。ただ、ついて行く者は大変だっただろうが、・・。
Posted at 2016/03/31 17:55:43 | |
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