2017年08月21日
翌日僕は朝食を済ますと勇んでクレヨン宅を出た。クレヨンは「夕方までには必ず帰って来て」と耳にタコが出来そうなくらい繰り返していたので戻って来るならばこの家の車を借りて行くことにした。
女土方の家には駐車場がないのでどこか近くのコインパーキングを利用することになるが、一日でも二千円前後なのでこの際細かいことは抜きにしておこう。今日はとにかく早く女土方のところに行くことが大事なんだから。
お買い物用高級車を乗り出すと女土方の家にまっしぐらに向かった。高性能エンジンを積んだこの車はアクセルを踏めば踏むだけ速度が出るだろうが、交通取締りに絡め取られては話にもならないのでその辺はうまく調整しながら快調に都内を走り抜けた。
女土方の家の近くの鉄道の駅の方に回ってコインパーキングを探した。そして適当なところに車を停めてそこからは歩いて女土方の家に向かった。
早く会いたくて気が急くような気持ちもあれば女土方がどんな出方をするのか少しばかり気になって足が鈍るようなところもあった。しかしそれは内面の問題で足は何時もと変わらずに目的地に向かって動いていた。
いよいよ女土方の家の前に立ったが、考えてみれば鍵を持っているのだからと思い、そのまま鍵を開けて中に入った。
「ただいま、帰ったわ。」
玄関を入って声をかけるとすぐに女土方が出て来た。
「ずい分久しぶりだけど無事に帰って来たわ。」
玄関に出て来た女土方に向かってそう言うと女土方は黙って肯いた。そして僕に手を差し出すと玄関から上にそっと引き上げ、「ごめんなさい」と小さい声で呟くように言った。
「いいのよ、そんなこと。私も悪かったんだから。」
僕は手を取った女土方を自分の方に引き寄せるとしっかりと抱き締めた。懐かしい女土方の感覚が僕を包み込んだ。男と言う生き物は嫌いでなければ基本的には誰でも受け入れられるのでクレヨンを抱いても悪くはないが、やはり情感というものが違うとこれほども受ける側の心に訴えかけるものが違うのだろうか。
僕たちはそのまま寄り添いながら階段を上がってあの真紅のベッドへと倒れ込んだ。そう言えば最初にここに来た時この真紅に興奮して女土方とことに及んだんだっけ。そして僕たちはそこに昼過ぎまで一緒にいた。
「私、どうしてあんなに意地を張ってあなたにひどいことをしてしまったんだろうってずっと後悔していたわ。でもどうしても素直になれなくてあなたに当り散らしては後でどうしようもないくらい落ち込んでいたわ。
何度もあなたを叩いたりして本当にごめんなさい。私ってどうしてあんなことしてしまったのかしら。」
「もう良いわ。あなたにも譲れない一線ってあったんでしょう。終わったことだから忘れましょう。あなたとはこの先ずっと仲良く暮らして行きたいわ。それでいいわよね。」
女土方は僕の言うことに黙って肯いた。僕は女土方に笑顔で肯き返してベッドから立ち上がった。そして脱いで投げてあった衣類を拾い集めると手早く身に着けた。
「喉が渇いた。それにお腹も減ったわ。もう昼だから何か食べよう。」
女土方はまだシーツを体に巻きつけてベッドに横になっていた。
「何も買っていないの。ほとんど外食か出来合いの持込だったから。」
「そう、じゃあ何か買ってくるわ。ちょっと待っていてね。」
僕は女だけれど女のように外に出るのに一々念入りに顔を作ったりはしない。髪をばさっと揃えて絡み合いで落ちてしまったファンデーションと口紅を軽く塗り直してそれで外出してしまうつもりだった。どうせ男にもてたって困るだけだからきれいになる必要なんか欠片もないと思っていた。
女土方が何とも言わないうちに外に出ると駅前に行ってパンやらハム、ソーセージやら果物を買い込んで戻って来た。その時は女土方ももう着替えを済ませてリビングにいた。
Posted at 2017/08/21 22:14:42 | |
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小説 | 日記
2017年07月25日
「私、父から『個人的に母と会って話をして欲しい』と言われているの。会社では毎日会っているわ。でも個人的にあの人と会いたいとは思わなかった。ねえ、どうしたら良いと思う、あなたならどうする。」
「おばか、どうしたら良いなんて何てことを言っているの、会って話をしてあげなさいよ。今すぐにお父さんに電話しなさい。下らないことを電話なんかしていないで。すぐよ、いいわね。会うと言いなさい。今すぐに。」
「良いわ、分かった。会うわ。でも条件がある。その時はあなたが一緒にいて。」
「一緒に行ってあげるのは構わないわ。でも話をする時は私は外すわよ、いいわね。」
クレヨンは黙って肯いた。まあこの親子もやっと和解へと向かって第一歩を踏み出すことになったようだ。これからこの親子がどんな人生の軌跡を描くのかは知らないが、これはこれで目出度いことだ。
クレヨンは受話器を取って父親に電話をした。そして「お母さんに会うわ」と一言低い声で言うと電話を置いた。
「これでいいの」
クレヨンが僕を振り返った。僕は何も言わずに黙って大きく肯いた。
「そういうことで話が決まったんだから後はのんびり過ごそうよ。」
僕はソファに足を大きく開いて転がった。ご丁寧に片足を背もたれに乗せて。まあ女も自宅ではこういう格好をすることは知っているが、元々男の僕は一人でいる時はほとんど慣れ親しんだ男の作法に戻ってしまうことが多い。でもそれはそれで仕方がないと思っているが、こういうところでちょっと気を抜いた時に痛い目を見ることがある。
この時ドアが開く音がした。クレヨンがドアのところに走って行ったが、僕はお手伝いでも来たのかと思ってそのまま放っておいた。すぐに足音がこっちへ近づいて来たがクレヨンが戻ってきたのだろうと高を括っていると「ねえ、お父さんが、」というクレヨンの声が頭の上で響いた。
はっとして振り返るとクレヨンと金融翁が僕を見下ろすように立っていた。まずいことにこの時は何時もはいているトレーナを穿かずにパンツで転がっていたのでかなりまずかった。ただ救われたのは普通女が穿くあの布の切れ端のようなパンツではなくトランクスタイプのものだったのであの部分が丸出しと言う不手際だけは回避出来た。それでもお互いに一瞬目が点になってしまって言葉が出なかった。
ほぼ状況を認識した後に僕はがばソファから跳ね起きてシャワールームに飛び込むとトレーナーを穿いて部屋に出て来た。恥かしいと言う気もあったがどちらかと言えば金融翁に余計な負担を感じさせたくないと言う気持ちが強かった。
「どうもとんでもない格好で失礼しました。」
僕は金融翁の前で丁重に頭を下げて謝った。
「いえ、こちらこそ夜分に女性の部屋に押しかけたりして申し訳ありませんでした。ただ一言あなたにお礼を言いたくてご迷惑とは思いましたがお邪魔しました。
これまでも娘のことではいく度も一方ならぬお世話になっておりましたが、今回のことでまたお礼の申し上げ様もないほどお世話になりました。親として私どもが至らないためにあなたには重ね重ねお迷惑をおかけして大変心苦しく思っております。
しかし娘もあなたには大変なついております信頼も寄せているようですからご迷惑とは存じますが何とぞもう暫らくのお力添えをお願い致します。」
何だか経済界の会合で挨拶しているようなことを言うと深深と頭を下げた。日本の経済界を牛耳っている実力者にこんなに何度も頭を下げられたのは僕以外にはそうたくさんはいないだろう。こうなったら金融翁にバックについてもらって国会でも打って出るか。
「このサル、じゃなくて彼女も少しづつ理解し始めているようですから。もう少しすればきっと分かると思います。ご両親もいろいろご苦労とは思いますけどこの子を信じてあげた方がきっと良い結果になると思います。」
クレヨンは僕の腕を取るとその腕にしっかりと抱きついた。そして金融翁を見た。
「お父さん、まだ何かあるの。もう十分でしょう。私達の時間を邪魔しないで。早く出て行って。」
このサルは何ととんでもないことを言う。僕はクレヨンの股に手を入れるとプロレスの投げ技のように高々と抱え上げてそのままソファに落としてやった。
「あんたねえ、自分の食い扶持も稼げないのに何てことを言うの。今度そんなことを言ったら軒から吊るすからね。」
「もう、野蛮人、何てことをするのよ。もうお母さんになんか会ってやらないから。大体食い扶持とか軒って何よ。分からない言葉を使わないで日本語で喋ってよ。」
僕はすばやくクレヨンの足元に回って両足を掴むと逆さに背中に引きずり上げた。着ているものが捲れて中身が丸見えになったが親子だからまあいいだろう。
「食い扶持っていうのは生活費のことよ。軒が分からなければ分かるようにこれからそこに吊るしてやるわ。お母さんに会ってやらないってどういうことなの、それは誰のためでもないあなたのためでしょう。吊るせば軒も何だか分かるしあなたの頭も冷えるから一挙両得でしょう。」
「いやー、やめて。ごめんなさい。お母さんに会います、会わせて頂きます。許してください。」
背中でクレヨンが喚くので仕方がないから許して降ろしてやった。クレヨンはまた悪態でもつくかと思ったらいきなり僕に抱きついて来た。
「お母さんに会ったら私は何と言えばいいの。分からないわ。何を言っていいのか分からなくて苛立って感情をぶつけてしまいそう。それが怖いの。」
僕はこのサルを抱きしめてやった。役得と言うのか役損と言うのか分からないが、女になってからは男の時にも増して女を抱いているような気がする。
「ねえ、こうしていると温かくて落ち着くでしょう。」
クレヨンは黙って肯いた。
「言葉なんか要らないんじゃない。あなただってそういう温かさを求めているんでしょう。」
クレヨンは僕の腕の中で小さく肯いた。
「ご迷惑をおかけしますが、何卒よろしくお願いします。」
金融翁はまた深深と頭を下げた。僕はクレヨンを抱いたまま黙って頭を下げたが、その一言に経済界が震え上がるという金融翁の目に光るものがあった。
Posted at 2017/07/25 22:25:20 | |
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小説 | 日記
2017年07月14日
「あんた、お母さんが誰だか知っているの。」
クレヨンは今まで見たことのない冷たい視線を投げかけた。
「知ってるわ。」
「そう、知ってるの。」
「あなたはどうしてそんなことを知っているの。」
突き刺すようなクレヨンの視線にややたじろぎながら僕は北の政所様からその話を聞いた時のことを思い出していた。彼女も特に口止めするようなことは言っていなかったので当のご本人に話すことはかまわないだろうと思ったが、ここではたと考えた。
『もしかしたらこいつははったりをかまして僕から事実を聞き出そうとしているんじゃないか。』
そうだったらここで『お前のお袋は北の政所様だと本人から聞いた。』なんて口走ったらとんでもないことになるかも知れない。そこまで考えてから僕は口を開いた。
「私が知っていることが事実かどうか分からないし、間違っていたらいろいろと迷惑をかけるかもしれないから言えないわ。」
クレヨンは黙って立ち上がると机の引出しを開けて何かを取り出した。そしてそれを僕の前に投げ出した。それはちょっと古くなった写真だったが驚いたことにそこには今よりもずい分若い金融翁と北の政所様に挟まれたあどけない姿のクレヨンが写っていた。こんな決定的なものをこのサルは持っていたんだ。
「あなたもかわいそうと言えばかわいそうな子よねえ。」
僕は写真を拾い上げてため息混じりに呟いた。
「でも普通の人が得られないような恩恵も受けているんだからそれはそれで仕方ないのかもね。」
「どうしてそのことを知っていたの。」
クレヨンはもう一度僕に聞いた。
「状況証拠の積み重ねのようなものよ。それでも事実を特定できるでしょう。違う。」
「母から聞いたんでしょう、きっと。きれいごとばかり言うんでしょう。あの人って。」
僕はこの複雑な関係には関与したくもなかったしまたすべきでもないと思っていたのでクレヨンには沈黙を守っていた。
「ねえ、何も言わないの。」
クレヨンはそんな僕に苛立った様子で畳み掛けて来た。
「答えるも何も私には何も言えないわ。あなた達親子のことに関して何か意見を言えるほどの知識も何もないから。またそのことに関して私が何かを言うべき立場でもないわ。あなた達親子の間に何か問題がるとしたらそれはあなた達自身がよく話し合うことじゃないの。
結局あんたは母親に捨てられたと恨んでいるんでしょう。でもね、いろいろ事情があるんじゃないの、向こうは向こうで。だから淋しいんならはっきりとそう言いなさい。あなたのことを一生面倒見ることは出来なくてもあなたに別の生き方が見つかるまで私はあなたを見捨てたりはしないから。
伊藤さんもきっと同じことを言うと思うわ。ただ私達に出来ることはそばにいてあげることだけであなたの心の中のことまではどうしてあげることも出来ないわ。それはあなた自身が自分で解決することよ。」
「それは私だけに責任があるということなの。」
「あなただけじゃないでしょう。あなたのお母さんとお父さんも当然責任があるでしょう。三人で良く話し合って解決するのが一番いいことだし、それが基本でしょう。でもね、みんないろいろ事情があるのだし、あなたの場合、ご両親は出来るだけのことはしてくれているのだし、決して恵まれていないという環境ではないのだからあなた自身が大人にならないとだめよ。」
「どうして私だけが大人にならないといけないのよ。」
「それはね、あなたの心の中にあるわだかまりを解消すればこの問題は解決だからよ。要するにあなた次第でどうにでもなることなの。分かった。」
「分からないわ。そんなこと。あの人達はどうして何もしなくていいのよ。そんなのおかしいわ。」
「おかしくなんかないでしょう。あの人達はあなたが幸せになってくれればそれでいいのよ。あなたに何かして欲しいなんて思っていない。だから何とかあなたの心のわだかまりを消したいと腐心しているのよ。
ただね、あなたに負担を負わせて申し訳ないと言う気持ちが強いから手を出しかねているところがあるだけじゃない。あんたがそういうことを分かってあげなきゃだめでしょう。」
「あの人のために私はずっと辛い思いをして来たのよ。その気持ちをどうすればいいのよ。」
「辛い思いをして来たってねえ、少しは淋しかったかも知れないけどこんなに良い環境にいて贅沢言うんじゃないの。この世の中にはね、そんなこと比べ物にならないくらい不幸な人がたくさんいるのよ。何時までも自分の気持ちばかり撫でているんじゃないの、いいわね。」
クレヨンは何も言わなかった。こんなことを言われたのは初めてなんだろう。でもこういうことを言ってやるべきだと僕は思う。こんな時辛いのは自分だけではない。誰も皆がその置かれた立場なりに辛いんだ。それを理解してこそこうした問題への解決への道が開けるのだと思う。また相手に対してそのくらいの思い遣りを持てる人間であるべきなんだ。自分の傷ばかり嘗め回していてはこの手の問題は決して解決しない。
Posted at 2017/07/14 17:39:10 | |
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小説 | 日記
2017年06月21日
『お前なあ、優しいのもいろいろと理由があってしているんだから何でもかんでも愛に結びつけたれても困るんだよ。何時までも子供じゃないんだろうからいい加減にまともな考えを持ってくれよ。』
僕はこんなことをクレヨンに言ってやりたかったが、どうせこいつには言っても分かるまい。確かに人に向かって進化している稀有なサルだが、自分の都合のいいところだけ進化しているようなところがないでもないやつだから。
明日のことが大方自分の思う方向に決まったことからクレヨンは余裕をかましていた。僕はこういうことはなるようにしかならないし、僕としては何よりも自分自身がこの先クレヨンと繋がるつもりがないので事がややこしくならないようにクレヨンの挑発に深入りしないようにすればいいのだから。ただしこの辺は欲望と誘惑に強くはない男の僕としては鉄壁の自信があるわけでもなかった。
僕は何時ものようにソファに体を投げ出してテレビを見ていた。そしてクレヨンは頼みもしないのにコーヒーやら何やら僕の好物を持って来てくれてテーブルの上に置いてくれたのでこれはありがたくいただくことにした。そして当のクレヨンは僕の体に寄りかかってこれもまた寛いでいた。
「ねえ、今晩は抱いてよ。」
クレヨンがテレビの画面を見ながら呟いた。
「抱いて抱いてって抱き枕じゃあるまいし、女同士でどうしろって言うのよ、全く。」
「伊藤さんとしているようにして。」
「彼女とだってあんたと同じようなことしかしていないわよ。そんなにややこしいことをしているように言わないでよ。」
女土方とはクレヨンよりはもう少しややこしいことをしているかもしれないが、別にそんなことをあからさまに言うべきことでもないだろう。
「そんなに同じことをして欲しければしてあげるからベッドの方に行って横になりなさい。」
僕はクレヨンにベッドを指差した。クレヨンは僕の顔とベッドを交互に見てから意を決したようにベッドに上がると体を横たえた。
「優しくしてね。」
クレヨンはベッドに腰を下ろした僕に小さな声でそう言うと目を閉じた。僕はクレヨンの左脇に横になると背中からクレヨンをそっと抱いた。そして軽く抱き締めると「さあ、このままお休みなさい。」と耳元で囁いた。
その瞬間クレヨンはいきなり後ろを振り返って「またそうやって私を誤魔化そうとする。」と文句を言ったが、その後で「でもこれもなかなか気持ちがいいわね。このまま眠りたくなって来た。」と言うと目を瞑った。
「じゃあ、あんたはもう寝なさい。私はもう少し起きているからね。」
僕はベッドから起き上がってまた元のソファに戻った。するとクレヨンも追いかけてきてまた僕の腹の辺りに寄りかかって座った。
「ねえ、あんた、何だかんだ言って結局は淋しいんでしょう。」
「うん、そう。何時もそうよ、淋しいわ。」
クレヨンは馬鹿に素直にはっきり淋しいと答えた。
「だから私に迫って来るの、違う。」
「うーん、よく分からないわ。あなたのことは信用出来るし、一緒にいると安心するわ。一緒にいれば淋しさも感じないしね。」
「でもねえ、ずっと一緒というわけにも行かないでしょう。巨大銀行頭取のご令嬢としては。」
「分かっているわ、そんなこと。みんなそういう言い方をするのよ、私に。私には自由がないの。私は自分の意思を認めてもらえないの。」
「そんことはないと思うわ、あなたにはあなたの自由があるし、あなた自身の意思も尊重されるべきだと思うわ。ただね、何でも勝手にやっても良いということではないと思うわ。自分を取り巻く状況といったものも考慮に入れないとね。
家族とかお友達とかその他にもいろいろあるでしょうけど。どの辺でバランスさせていくのかはそれぞれその人が背負った状況やその人の考え方で違うんでしょうけど。そういうことではあなたはかわいそうな子なのかもね。」
「みんな私のご機嫌を取ることに一生懸命でちょっと機嫌を損ねるとおろおろして。お金だ物だって何でも与えてくれて。ただ私の機嫌が直るのをみんなで遠巻きに見守っているだけ。そういうのを見てると余計に腹が立ってきて無理を言ったりしてみたくなるわ。
あなただけよ、私の正面に立ちはだかって力でねじ伏せようとしたのは。投げつけられたり叩かれたりした時は本当に殺してやりたいくらい憎たらしかったけど、あなたのやり方は私には新鮮だったわ。夢中であなたに反しているうちに何だかあなたの中に取り込まれてしまったようになって気がついたらあなたに好意を持つようになっていた。
それがどういう感情なのか私にも良く分からないわ。でも一番近いものを言えと言われれば男女間の感情に一番近いのかも知れない。あなたと私が結ばれないことなんてそんなこと言われなくても分かっている。ただ我がままを言いたかっただけよ。
私は自分のことも父のことも自分が置かれた状況も、そして自分の母のことも分かっているわ。あちこちで捩れて歪んだ部分がみんな私のところに集約されているようでそのことが私を苛立たせたから仕返しのつもりでむちゃをしていたけど考えてみればいくらむちゃをしても仕返しにも何もならないのね、お互いに傷つくばかりで。だからもう止めるわ、むちゃするのは。」
Posted at 2017/06/21 17:21:21 | |
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小説 | 日記
2017年06月14日
「何をぼうっとして考え込んでるのよ。」
僕がゲイさんの思い出に浸っていたらクレヨンに破られてしまった。こいつも何時も良いところで僕の平和な思いを破る奴だ。
「明日は伊藤さんのところに行くの。」
クレヨンは何時もとは違う真剣な顔つきで僕に聞いて来た。そんなこと聞くまでもない当然のことだろう。
「どうして。行かないと言う選択はあり得ないわ。そうでしょう。」
「分かったわ。行くのは止めない。でも夜はここに帰って来て。約束して。彼女と一緒でも良いから。」
おまえ、そんなことをどうしてお前に約束しないといけないんだ。それは僕の自由な選択にかかるべき事柄だろう。
「どうしてそんなことをあなたと約束しなくてはいけないの。それは私と彼女の問題でしょう。」
「そう、あなた達二人の問題よ。でも私にも重大な問題なの。何故か教えてあげるわ。私があなたを好きになってしまったから。」
こいつはこんなことをマジで言っているんだろうか。何だか次から次からさすがに疲れて来た。半ば呆れてクレヨンを見ているとこいつは何を血迷ったかインターホンを取り上げて父親の金融翁に電話した。
「ねえ、お父さん、ちょっといい。あのね、私が佐山さんが好きで一緒に暮らしたいと言ったらどうする。」
こいつはどうしてそばで聞いているこっちの方が卒倒しそうなことを平気で言い出すんだろう。
「ええ、そう。私が佐山さんを好きで、そうよ、彼女も勿論同意だったら、そう、ここで一緒に生活しても良いわね。うん、そうでしょう。分かったわ、それを彼女に伝えてあげて。」
クレヨンは僕に向かって受話器を突き出した。
「ねえ、聞いて。父よ。」
そんなこと言われなくても分かっている。それにしても何て親子だ。こんなバカみたいな話を話す方も話す方だが、真に受けている方もいる方だ。
「早く受話器を取って。」
クレヨンに促されて僕は受話器を取った。
「どうも夜分にお騒がせして申し訳ありません。」
一応僕の方から一言謝ったが金融王はそんなことは全く気にかける様子もなかった。
「娘がいろいろ無理難題を申し上げて身も細る思いですが、その上一緒に生活して欲しいなどととんでもないことを言い出しましてお詫びの申し上げ様もありません。しかし皆様のお陰を持ちまして娘もやっと落ち着いてまいりましたので、ここは何卒一つよろしくお願いいたします。」
全く金融界の大御所も自分の娘のことになるとからっきし軟弱になってしまうようだ。
「ほら、お父さんも良いと言っているでしょう。後はあなた次第なのよ。分かったでしょう。」
お父さんは良いと言っているのじゃなくてもう少しお前のそのバカさ加減が落ち着くまでもう少し面倒を見てやってくれと言っているだけじゃないか。人の話は自分や相手が置かれた状況を考えながら聞くものだ。
ところがクレヨンはそんな状況など一顧だにもせず今度は携帯を持ち出すとどうも女土方に電話をしている様子だった。このバカはせっかく落ち着いて来た女土方の気持ちや僕たちの関係を何と考えているんだ。止めさせようと思ったらもう電話がつながってしまっていた。
「あ、伊藤さん、私です。そう、澤本です。ええ、それがね、明日のことでちょっとご相談があって、はい。」
もう僕は女土方とのことは諦めてここで金融翁の財産を食いつぶして生きて行こうかとも思ってしまった。
「そう、それでね、明日ここに来て欲しいの。うん、佐山さんも了解だから。うん、そう、ありがとう。」
誰が了解なんだ、この阿呆が。
「ねえ、伊藤さんが替わって欲しいって。」
クレヨンをひっぱたいてやろうと思ったらクレヨンの方が先に電話を差し出したので機先を制されて機会を失ってしまった。電話を受け取って「はい、私です」と返事をすると「元気」という女土方の声が聞こえた。
「大分苦労しているみたいね。いいわよ、夜はそっちに行ってあげるから。でも昼間はここに来て。あなたに話したいこともあるし、いいでしょう。じゃあ、彼女に替わって。私が話すから。」
僕は「うん」と言ってクレヨンに電話を返した。クレヨンは女土方が言うことを素直に聞いているようでずい分機嫌よく「はいはい」言って電話を切った。
「伊藤さん、ここに来てくれるって。やっぱりあの人は話が良く分かるわ。」
「じゃあ、私じゃなくてあの人を好きになったらどうなの。」
「いい人だけど前にも話したでしょう、あの人じゃ、女が強すぎて抵抗があるの。あなたならちょうど良いわ。それにね、一見冷たい素振りだけどあなたはとても温かくて優しいわ。多分私が知っている誰よりも優しいと思うわ。だからあなたが好きなの。」
Posted at 2017/06/14 17:58:50 | |
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