2017年02月20日
あまりと言えばあまりなこの一言で僕は飲みかけたビールにむせ返ってみんな吐き出してしまった。そしてカウンターの奥に隠れて様子を窺っていたクレヨンも「え、何ですって。」と叫んで表に飛び出して来た。
「わ、た、し、は、お、か、ま」
女土方はグラスを振りながら一言一言わざと区切って繰り返した。ずっと昔の旧ソ連の女性宇宙飛行士が「私はカモメ」と宇宙から伝えて来たというのは聞いたことがあるが、「私はオカマ」と言ったのは聞いたことがない。
僕はさすがに「うーん」と唸ってしまった。もしも本当に女土方が男だったら、何と僕は元男と散々乳繰り合っていたことになる。女の体に乗り移ってしまった男と性転換した男の絡みって、それは一体どういうことなんだ。
でもどう考えてもこれまで僕が見た限りでは女土方が性転換手術をした元男だとは思えないんだが、最近の性転換手術はそこまで進んでいるんだろうか。クレヨンはあまりの驚愕のために顎が外れそうな顔をしていたが、ママはへらへら余裕で笑っていた。
「ここはね、本当はそういう人の集まるところなの。ずっと前にビアンバーと言ったけどあれはあなたを驚かせないようにそう言ったの。ママも『お、か、ま』なのよ。うそだと思ったら聞いてみたら。」
僕は恐る恐るママを見るとママは笑顔で肯いた。それじゃあ何かい、ついこの間、僕はオカマに散々胸をまさぐらせたのかい。一体この世はどうなっているんだ。でも僕はまだこの話を信じられなかった。
どんなに良く出来たオカマでも三人に一人くらいは縦から見ても横から見ても斜めから見てもこれは間違いなく男に違いないと言う手合いがいるものだ。ところがここにはその手がいないから僕は絶対に違うとは思うのだが、これだけ断定的に言われるとさすがに自信がなかった。
でも待てよ、女土方がオカマだったらどうして女に付くんだ。おかしいじゃないか。僕は動揺の中、やっとのことで女土方発言の矛盾に気がついた。
「ねえ、おかしいじゃない。あんた達がオカマだったらどうして女に付くのよ。」
僕は天地もひっくり返るかと思われるような驚天動地の中、やっとのことでそれだけを言った。
「ビアンのオカマもいるのよ。」
女土方はすました顔でそんなことを言った。ビアンのオカマだって。そりゃ一体何者だ。生物学的には男性で、その上、女が好きだと言うことは、それは普通の男じゃないのか。もう何が何だか訳が分からなくなって来た。
Posted at 2017/02/20 22:25:35 | |
トラックバック(0) |
小説 | 日記
2017年02月15日
女土方が更衣室に入ってから少し間を置いて僕は更衣室に入って行った。女土方は化粧を直しているところだったが、ドアが開いた音で手を止めてこっちを見ていた。
「遅いわね、何時ものことだけど本当にご苦労さま。」
女土方は僕を見ながらそう言った。
「今日は仕事をしていたわけじゃないわ。あなたを待っていたの。あなたに用事があるのよ。今の私には仕事なんかどうでもいいの。」
僕は出来るだけ感情を押さえて平面的なもの言いをした。
「どういうこと。私は特に何もないけど、あなたには。」
「あなたがどうであろうと他の人がどうであろうとそんなこと私には関係ない。私には私自身の必要があってここであなたを待っていたの。あなただって今決して平静じゃないでしょう。顔に書いてあるわ、どんな用事か、それを聞きたいって。そうでしょう。意地ばかり張らないでよ。人の話も何も聞かないで。あなたはヒロイン気分に浸ってそれで良いのかも知れないけど、それじゃあ一方的に放り出された私はどうなるの。」
「もう済んだことでしょう。終わってるじゃない、あなたとのことは。」
「何時、どうして終わったと言うの。何も終わっていないわ、私の中では。そして間違いなくあなたの中
でも。そうじゃない。自分の胸によく聞いてみなさいよ。」
女土方は唇に引こうとして手に持った口紅を取り落とした。女土方は明らかに動揺しているようだ。
「あなたが何と言おうと終わったものは終わったのよ。他に何も言うことはないわ。」
「勝手に終わらせないでよ。私は何も分からないわ。どうしても終わりにしたいって言うなら私に分かるように説明してよ。だからちょっと私と付き合って。いいわね。」
「せっかくだけどお断りするわ。何度も言うけど私には特に言うことはないわ。」
「そう、分かったわ。じゃあどうしても私の頼みは聞いてくれないのね。それじゃあ仕方がないわ。今日は力づくでも連れて行くから。いいわね。」
「そんなことをしたら大きな声を出すわよ。」
「もう誰もいないわ。それに私は女よ。あなたと私の関係も皆知っているでしょう。大声を出しても無駄よ。そんな気もないでしょうけど。さあ荷物を持って。行くわよ。」
女土方は僕の顔をじっと見詰めたまま動こうとはしなかった。暫らくにらみ合いが続いたが、僕は女土方に近づくと手を取った。忘れもしない女土方の感触が懐かしくもありまた心地良かった。
「さあ」
僕はもう一度女土方を促したが女土方は動かなかった。僕は手に持ったバッグを床に落とすと女土方の方に踏み出して女土方を自分の方に引き寄せた。女土方は特に抵抗するでもなく僕の腕の中に収まった。
「どうして勝手に離れようとするのよ。私が何をしたの。あなたとずっと一緒にいるって言ったじゃないの。」
僕は腕の中の女土方を抱き締めた。そしてしばらくそのままどちらも言葉を発することなくじっと抱き合っていた。僕は女土方の唇に自分の唇を重ねたが、女土方はこれも拒否することもなくとても自然に応じてくれた。そしてその後僕をそっと押し戻すようにして体を離した。そして僕が落としたバッグを拾って僕の方に差し出した。
「分かったわ。行きましょう。」
女土方は僕に微笑んだ。
「ありがとう。久しぶりね、二人で一緒って。」
僕は女土方に微笑み返した。女土方はロッカーに鍵をすると「さあ、行きましょう。」と僕を促した。僕は黙って頷いて歩き始めた。僕たちは言葉を交わすこともなく無言で歩いた。エレベーターの中でも無言だった。ビルを出る時に警備員には会釈をして「ありがとうございました」と言って外に出た。警備員に挨拶をした僕を見て女土方は一瞬怪訝な顔をしたがまたすぐに普通の表情に戻った。
外に出ても僕達は何も言葉を交わさなかった。女土方も特に何所に行くのかなどとは聞かなかった。特に言わなくても何所に行くかくらいのことは分かっているのかも知れない。例のビアンバーにかなり近づいたところで女土方が口を開いた。
「あの店に行くのね。」
「そうよ、他に適当な場所がなかったの。込み入った話になるかもしれないから。あそこなら周囲を気にしなくてもいいでしょう。」
女土方は特に何も言わなかった。
「ねえ、私ね、決めたの。私はあなたから離れないわ。どんなことがあっても。」
僕は店に入る前に自分の思うところを伝えたが、女土方は何も答えなかった。店の前まで来ると女土方は立ち止まって僕を振り返った。僕は黙って「どうぞ」と身振りで示したので、女土方も特にためらうでもなくそのまま店に入って行った。
「咲ちゃん、いらっしゃい。しばらくね。」
店に入るとママが声をかけて来た。
「お久しぶり、ママ。本当に暫らく来なかったわね。でもママも元気そうね。お店も何も変わっていないみたい。」
女土方は笑顔でママに答えるとさっさと自分の定位置になっているカウンターの奥に座った。僕もママに会釈してから女土方の隣に座った。そしてそれぞれ飲み物と食べ物を注文するといよいよ開戦だった。僕達はそれぞれグラスを合わせて「乾杯」と言うとまず一口お酒を飲み込んだ。僕達はこれがそんなに拗れたカップルかと言うくらいに打ち解けた雰囲気だった。
「ねえ、私はね、あなたと別れるつもりなんてこれっぽっちもないからね。」
とにかく僕は自分の思うところをしっかりと女土方に伝えておきたかった。
「あなたが突然どうして私と別れたいなんて言い出したのか私にはさっぱり分からないけど、もしもあなたに何か理由があるのならそれを話して。私もしっかり聞くから。でもあなたが何を言っても私は別れないわよ。それだけは承知しておいてね。」
女土方は僕の言うことを聞くと笑い出した。
「じゃあ、何を言っても私のことは聞いてくれないってことなの。」
「話は聞くわ。」
「でも言うことは聞かないんでしょう。」
「納得がいくような理由があれば話し合いには応じるわ。」
「そういう強引なところがとてもあなたらしいわね。私にもそういう強さがあれば良かったのに。」
女土方は僕を見ながらちょっと淋しそうに微笑んだ。
「今日でお終いよ、そっぽを向き合って暮らすのは。いいわね。」
僕は極めて断定的に通告したのだが女土方は黙ったまま何も答えなかった。
「どうして黙っているの。何か支障があるの。あなたには別の考え方があるの。」
「そんなに畳み掛けるように言わないでよ。そんなに急に答えられないわ。ちょっと待ってよ。」
女土方はグラスに入ったカクテルを一気に飲み干すとお代わりを頼んだ。そしてそれも飲み干すと「ねえ、ママ、これじゃあいちいち面倒ね。ワインをグラスでお願い。」と言って大きなグラスにワインを並々と注がせた。そして「取り敢えず」と言って出させたピーナッツやチーズ,サラミなどのつまみをぽんぽんと口に放り込んでいた。普段の女土方からはちょっとかけ離れたその姿は何とはなしに女土方の心に開いた溝の深さを感じさせた。
女土方は何も言わずにワインを飲み続けた。そしてグラスに三杯も飲んで少しばかり回ってきたのかなと思わせる頃いきなりとんでもないことを言い始めた。
「あのね、私ね、ずっと昔、まだ若かった頃、性転換手術を受けたの。男だったのよ、元は。そのことがね、ずっと引っかかっていたんだけど、ねえ、黙っているのはあなたに悪くて。」
Posted at 2017/02/15 17:51:48 | |
トラックバック(0) |
小説 | 日記
2017年02月08日
こうして遂に決行の日は来た。午後三時過ぎ、女土方はテキストエディターのお姉さんを連れて出かけて行った。テキストエディターのお姉さんは僕にウィンクしてから部屋を出て行った。女土方の動静は逐一連絡が入ることになっていた。僕は銀行屋との次回の打ち合わせのためのプレゼンを作っていた。しばらくするとテキストエディターのお姉さんからメールが入った。
『副長は、佐山との関係は多分このまま終わるだろうと申し立てている。でも多くを語りたがらない。』
うーん、状況は決して楽観を許さない。でもこれだけ頑なになっているんだから聞かれればこのくらいのことは言うだろう。こんなことで怯んでなるものか。ここは新生佐山芳恵一生の正念場なんだ。僕が男と生きていくなんてことは金輪際出来ないのは明々白々な事実だし、まだまだこの先何十年もある人生を1人で生きていくには淋しいし、俄か女にはこの先まだまだ未知のことも多くて心細い。せっかく女土方のようなすてきな女性が見つかったのだから出来ることならこの先も是非人生を共にして生きてゆきたい。
午後七時ころ、会議が終わったとテキストエディターのお姉さんから連絡が入った。予想通り女土方は会社に戻るとのことだった。僕はクレヨンに先に帰るように言おうと思ったが、言ってもこいつが帰るはずがないので、例のビアンバーに先に行ってママにこれから女土方を連れて行くからと伝えろと指示をした。こういう時はこのバカ女は本当に嬉しそうに「がってん、承知。」とか訳の分からないことを喚いて駆け出して行った。
まだ女土方が帰るまでには小一時間あるので、僕はちょっと喫煙所まで行ってタバコに火をつけた。佐山芳恵になってからいろいろな難問に遭遇しては何とかそれを乗り越えて来たが、今回ほど緊張したことはなかった。
自動販売機の缶コーヒーを飲みながらタバコを二本吸って部屋に戻ると歯磨きをした。何だかこれからデートでもする中年男と言う感じだったが、中身はまさしくそのとおりなので仕方がないのかも知れない。僕は部屋に戻って自分の荷物を片づけて準備万端整えた。
後は女土方を捕捉するだけだ。彼女は帰る前に必ず更衣ロッカーに立ち寄る。だからあの一番最初の時とは逆にそこで捕捉すればいいんだ。もしも捕まらなかったらそれはもう女土方とは縁がないと言うことだろう。
僕は受付の警備員に電話をして女土方が戻ったら本人には分からないようにそっと電話をくれるように頼んだ。受付の警備員は何が何やら分からなかっただろうが、訝りながらも納得していたようだった。後は女土方が帰るのを待つだけだ。そしてそれから三十分ほどして電話が鳴った。
「今上に上がられましたよ。」
警備員がそう言った。僕は「ありがとうございます。」と礼を言うと荷物をかき集めて部屋を飛び出した。そして更衣室の向かいにあるトイレに駆け込んだ。ここにいれば間違いなく女土方を捕捉することが出来る。社内にはもうほとんど人の気配はしなかった。
もう午後も八時を過ぎているんだから当然だろう。暫らくトイレで待っていると廊下に足音が響いて近づいて来た。そっと出入り口に近づいて様子を見るとちょうど女土方が更衣室のドアを開けて中に入って行くところだった。
『我、敵を捕捉し、天佑神助を確信してこれを撃滅せんとす。』
胸がどきどきして何だかこれから決戦に臨む司令官のような心境だった。
Posted at 2017/02/08 22:04:48 | |
トラックバック(0) |
小説 | 日記
2017年02月03日
タクシーでクレヨン宅に帰ると取り敢えずシャワーを使った。クレヨンにもシャワーを使わせようとしたが、酔いと眠気のせいか、でぐでんぐでんでどうにもならないので服だけ剥いでベッドに転がしておいた。
僕の方は徐々に酔いが覚めてくるとさすがに出会ったばかりの男とじゃれ付いていた自分が恥かしくなって来た。女の姿をしているとは言っても元を辿ればマスターと年の変わらない男なのだからそれに甘えるなんてことが少しおかしいのだろう。
それとも女の姿で女として生活しているとやることも女のようになってしまうのだろうか。いずれにしても答えの出ないことをあれこれ考えても仕方がないのだが、かつてないほど女を演じてしまった自分が不思議でならなかった。
入念に体を洗って一晩の夢のような思いをしっかりと洗い流してからバスローブに着替えてタバコに火をつけ買い置きのコーヒーを飲んだ。何だか体の中から疼くような欲求が突き上げてきてこの際クレヨンでも良いから襲ってやりたくなって来た。髪を乾かしてベッドに横になっても突き上げるような欲求は静まらないので仕方なしに完全に正体なく寝入っているクレヨンを抱きかかえて欲求を静めてからやっと眠りに着くことが出来た。
どのくらい眠ったのか僕は遠くに聞こえるシャワーの音で目を覚ました。横を見ると眠っているはずのクレヨンがいなかった。シャワーを浴びているのはクレヨンなんだろう。僕は気だるさに負けてベッドから起き上がらずにそのまま横になっていた。
「ああ、やっとさっぱりした。」
クレヨンがシャワーから裸で出て来た。そして僕の隣にトンと腰を下ろした。
「何時まで寝てるのよ、もう起きなさいよ。しかたのない人ね。」
昨日、いや今日かな、バーで中年男と身を寄せ合って寝ていたくせにやけに元気の良いことを言う奴だ。風呂も入らずに酔いつぶれて寝たくせにお前に言われたくない。
「あーあ、昨日はちょっと過ぎたわね。疲れたわ。あんた、よく起きられたわね。」
僕はベッドから半分体を起こした。まだ完全に起きようという気にはならなかった。
「あなたが『咲子』とか言って私に抱きつくから目が覚めたのよ。でも何とかしてあげないといけないわね、あなたと伊藤さんのことも。」
クレヨンは一人前のことを言ったが、余計に拗れてしまったのはお前のせいだろう。今更自分は何の関係もないようなことを言うんじゃない。それにこいつの知恵くらいで片がつくようなそんなに簡単に右から左へ動くものでもないだろう。
でも僕も女土方を話し合いの場に引っ張り出すにはある程度の強制力の行使も止むを得ないだろうと思い始めていた。あの取り付く島もないような状態では腕ずくでも引っ張っていかないと話があるから来てくれと言ってものこのことついて来ないだろう。
力は間違いなく僕の方が強いんだけど女土方も大柄な女だから簡単に抱えて連れて行くわけにも行かないだろう。クレヨンくらいの小柄な女ならば担ぎ上げて連れて行けるんだけど。まあ格闘戦にでもなるわけじゃないし、こっちの決意を示せばそれでいいだろう。
次に場所だが自宅では鍵をかけられるとどうしようもなくなるし、そんなところでああだこうだと言っていると警察でも呼ばれた日には面倒だし、そうなれば職場で身柄をかっさらう以外にない。職場で決行ということになると連れて行く場所はあのビアンバーしかないだろう。その辺の店で言い争いになったりすると見栄えが悪い。
こうして女土方拉致計画はその全貌が姿を現したとか言うと物凄いことのようだが、要はこっちもそれなりの覚悟を決めて言うべきことをきちんと伝えようということでそれ以上のことは何もなかった。何と言っても僕と女土方は切れてはいけない関係なんだ。
計画実行のX日は女土方が旅行社の担当と打合せをする日を選んだ。この日は相手の都合で夕方の打合せだが、女土方は会社の資料は必ず社に持ち帰り、現場からそのまま自宅に帰ったりはしないのでここで待っていれば間違いなく必ず捕捉出来るんだ。
Posted at 2017/02/03 22:06:33 | |
トラックバック(0) |
小説 | 日記
2017年01月30日
「結構飲むんだな。それじゃあ毎月の酒代が大変だろう。」
「普段は飲まないわ。お酒は嫌いなの。飲むのはつき合いだけよ。」
「ふうん、そうなのか。なかなか良い飲みっぷりなのにな。さて俺は店を片づけるか。しばらくそこでゆっくりしていてくれ。」
「手伝いましょうか。」
「いや、ここは俺の職場だから俺が自分でやることにしているので手伝いは要らない。」
マスターはそう言うとまずテーブルやカウンターに残されたグラスや皿を片づけ、次にモップで床を拭いてゴミを片づけた。それが終わるとテーブルとカウンターを拭いて椅子を揃えて喫煙席には新しい灰皿を並べた。
その後カウンターの中に入るとグラスや食器をあっという間に洗い上げ、それから調理器具を片付けるとすべてが終わった。その間、一時間にも満たない鮮やかな手際だった。
「さあ、明るくなって来た。もう酒は止めてコーヒーにしよう。」
マスターは大きなカップに並々と注いだコーヒーを持って来た。僕ももういい加減酒は飲み飽きたのでこっちの方が有り難かった。
「車を呼ぼうか。相棒があれでは電車では大変だろう。」
「あ、はい、お願いします。」
僕はそう答えるとトイレに立った。そしてトイレの便座に腰を下ろして出すものを出してほっとした時僕は一体何をしているんだろうと思うと何だか言い様もなく淋しくなって目に涙が滲んでしまった。その涙をそっと拭って何回か深呼吸をして淋しさを悟られまいとちょっと肩ひじ張ってトイレから出た。
店の隅に目をやるとまだクレヨンが言葉屋と寄り添って寝ていた。僕はクレヨンを起こそうとクレヨンの方に歩き出した時に後ろからマスターに抱きすくめられた。そしてそのままくるりと体を回されると目の前にマスターの顔があった。
マスターは僕を右手で抱きかかえると左手で僕の右の胸を本当に大事なものを包むようにそっと手を当てた。マスターはきっと本当に僕を女として大切に扱ってくれているんだろう。でも僕には胸なんか触られてもちょっとくすぐったいくらいで特にこれという感情もなかった。
「どうしたんだ、淋しいのか、涙なんか滲ませて。大丈夫だ、きっと皆がお前を助けてくれるから。お前は本当に優しい良い女だよな。こんなことをしてはいけないんだろうけど涙を滲ませても肩ひじ張っているお前を見ていると何だかいとおしくなって我慢が出来なかった。ごめんよ。」
「優しくしてくれてありがとう。生まれて初めて男の人に抱かれて優しくしてもらったわ。満更悪い気分ではないけどお願いだからここまでにして。」
マスターは腕の力を緩めた。僕はそっとマスターの腕をすり抜けるようにマスターから体を離してクレヨンを起こした。僕は自分が男だからと思って男を毛嫌いしてきたが、もしかしたら安心感とか心地良さと言うのは性別を超えた優しさのなせる技なのかも知れない。
寝ぼけ眼でふらつくように立ち上がったクレヨンに「もう朝になってしまったわ。帰って少し休もう。」と声をかけてクレヨンを支えながら出口へと歩いた。そして出口で振り返って「本当に楽しかったわ。ありがとうございました。」とマスターに向かって御礼を言った。
「こちらこそ、本当に楽しい夜を過ごさせてもらった。それも飛び切りすてきなかわいい女と。礼を言わなくてはいけないのはこっちの方かもしれない。改めて礼を言うよ、ありがとう。」
マスターは僕に向かって微笑んだ。眠くて体が濡れた綿のようにだるかったが、何だか心は軽くなったような気がした。こんなことが起こるとは思っても見なかったが、僕にしてみれば男に抱かれることもおでこや頬っぺたにしても男にキスされることも、そして胸を触られることも全く初めての経験だったし、全く予想もしていなかった相手としてしまった。僕にしてみればそれこそ本当に出血大サービスだったが、このところ女土方のことで行き詰まって苦しかった心が少し軽くなったような気がした。
どうして急にこんなに男を受け入れてしまったのか自分でも分からない。酔いのせいもあったのかも知れない。好奇心もあったのかも知れない。でも僕は思うんだ。優しさと言うのは性別を超えているって。そしてあのマスターの優しさは今の僕にとってきっと性別を超えて心に届いたんだと思うんだ。
Posted at 2017/01/30 19:41:13 | |
トラックバック(0) |
小説 | 日記