2017年01月30日
「結構飲むんだな。それじゃあ毎月の酒代が大変だろう。」
「普段は飲まないわ。お酒は嫌いなの。飲むのはつき合いだけよ。」
「ふうん、そうなのか。なかなか良い飲みっぷりなのにな。さて俺は店を片づけるか。しばらくそこでゆっくりしていてくれ。」
「手伝いましょうか。」
「いや、ここは俺の職場だから俺が自分でやることにしているので手伝いは要らない。」
マスターはそう言うとまずテーブルやカウンターに残されたグラスや皿を片づけ、次にモップで床を拭いてゴミを片づけた。それが終わるとテーブルとカウンターを拭いて椅子を揃えて喫煙席には新しい灰皿を並べた。
その後カウンターの中に入るとグラスや食器をあっという間に洗い上げ、それから調理器具を片付けるとすべてが終わった。その間、一時間にも満たない鮮やかな手際だった。
「さあ、明るくなって来た。もう酒は止めてコーヒーにしよう。」
マスターは大きなカップに並々と注いだコーヒーを持って来た。僕ももういい加減酒は飲み飽きたのでこっちの方が有り難かった。
「車を呼ぼうか。相棒があれでは電車では大変だろう。」
「あ、はい、お願いします。」
僕はそう答えるとトイレに立った。そしてトイレの便座に腰を下ろして出すものを出してほっとした時僕は一体何をしているんだろうと思うと何だか言い様もなく淋しくなって目に涙が滲んでしまった。その涙をそっと拭って何回か深呼吸をして淋しさを悟られまいとちょっと肩ひじ張ってトイレから出た。
店の隅に目をやるとまだクレヨンが言葉屋と寄り添って寝ていた。僕はクレヨンを起こそうとクレヨンの方に歩き出した時に後ろからマスターに抱きすくめられた。そしてそのままくるりと体を回されると目の前にマスターの顔があった。
マスターは僕を右手で抱きかかえると左手で僕の右の胸を本当に大事なものを包むようにそっと手を当てた。マスターはきっと本当に僕を女として大切に扱ってくれているんだろう。でも僕には胸なんか触られてもちょっとくすぐったいくらいで特にこれという感情もなかった。
「どうしたんだ、淋しいのか、涙なんか滲ませて。大丈夫だ、きっと皆がお前を助けてくれるから。お前は本当に優しい良い女だよな。こんなことをしてはいけないんだろうけど涙を滲ませても肩ひじ張っているお前を見ていると何だかいとおしくなって我慢が出来なかった。ごめんよ。」
「優しくしてくれてありがとう。生まれて初めて男の人に抱かれて優しくしてもらったわ。満更悪い気分ではないけどお願いだからここまでにして。」
マスターは腕の力を緩めた。僕はそっとマスターの腕をすり抜けるようにマスターから体を離してクレヨンを起こした。僕は自分が男だからと思って男を毛嫌いしてきたが、もしかしたら安心感とか心地良さと言うのは性別を超えた優しさのなせる技なのかも知れない。
寝ぼけ眼でふらつくように立ち上がったクレヨンに「もう朝になってしまったわ。帰って少し休もう。」と声をかけてクレヨンを支えながら出口へと歩いた。そして出口で振り返って「本当に楽しかったわ。ありがとうございました。」とマスターに向かって御礼を言った。
「こちらこそ、本当に楽しい夜を過ごさせてもらった。それも飛び切りすてきなかわいい女と。礼を言わなくてはいけないのはこっちの方かもしれない。改めて礼を言うよ、ありがとう。」
マスターは僕に向かって微笑んだ。眠くて体が濡れた綿のようにだるかったが、何だか心は軽くなったような気がした。こんなことが起こるとは思っても見なかったが、僕にしてみれば男に抱かれることもおでこや頬っぺたにしても男にキスされることも、そして胸を触られることも全く初めての経験だったし、全く予想もしていなかった相手としてしまった。僕にしてみればそれこそ本当に出血大サービスだったが、このところ女土方のことで行き詰まって苦しかった心が少し軽くなったような気がした。
どうして急にこんなに男を受け入れてしまったのか自分でも分からない。酔いのせいもあったのかも知れない。好奇心もあったのかも知れない。でも僕は思うんだ。優しさと言うのは性別を超えているって。そしてあのマスターの優しさは今の僕にとってきっと性別を超えて心に届いたんだと思うんだ。
Posted at 2017/01/30 19:41:13 | |
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小説 | 日記
2017年01月20日
「何かおかしいですか。」
僕はハンカチをバッグにしまいながら聞いてみた。
「全くお前さんは本当に女の匂いのしない女だよな。素っ気ないくらい女を感じさせない女だ。それなりに柔らかくて良い感じなのに普通の女が男に呼びかけてくる『私って良い女なのよ』って感じのオーラを全く感じないんだよな。」
「じゃあ私なんかをからかっていても面白くも何ともないの。女を感じさせもしないし、あの子みたいに若いわけでもないし。」
僕は何時の間にか長いすで言葉屋と寄り添って寝ているクレヨンを振り返った。
「若い女には若い女の、成熟した女には成熟した女の良さがある。むせ返るくらい女気を発散させている女もいればお前のように全く女を感じさせない女もいる。それはそれなりにどちらも味があっていいものだよ。」
マスターはちょっと伸び上がるようにして眠り込んでいる言葉屋とクレヨンを見た。
「すっかり寝入っているな。あれじゃあ少しくらいの物音どころか爆弾が落ちても起きそうもない。」
マスターは今度は真っ直ぐに僕を見た。やばい、こいつ、僕を襲う気か。僕は酔いと眠気でぼうっとした頭で考えた。こいつ、いっていることは誰でも良いってことか。そしてそんな場合に身を守るためにちょっと半身に引いて構えようと思ったが、何だか面倒で椅子に体を投げ出したままちょっと首を傾げてマスターを見上げていた。
「お前、どうしたんだ。そんなにもの欲しそうな目をして。俺を誘っているのか。元は男だなんて言っているけれどお前はやっぱり女なんだろう。上には部屋もベッドもシャワーもあるからご希望なら期待に答えてやっても良いけど、俺たちは子孫を残すわけでもないし、そうすればお互いの欲求の充足と楽しみのためということになる。そうなるとセックスはお互いに楽しく、そして淫らに、これが僕のモットーだから。もしも本当にその気なら言ってくれ。」
「いえ、違うわ。ただ飲み過ぎて眠いだけよ。あなたの人格や人柄がどうこうじゃなくて私には男性を受け入れることは出来ない。でも何時かその気になったらその時はそう言うわ。」
僕はそう答えたが、どうもその気になる時は未来永劫やって来そうもないように思えたし、そんなことがあっては困るんだ。マスターはそんな僕に笑顔で頷いてくれた。でも本当はちょっと誰かに甘えて休みたい気持ちがないでもなかった。
想像を絶する激烈な生活の変化の中で行く手を遮る者や立ちはだかる者はすべて蹴散らして生きて来たが、やはりいくら強くても弾が当たれば傷つくし血も流れるんだ。そんな時にはやはり精神的には女土方に拠っていたんだけど、今はその最も頼るべき盟友と断絶状態になっている。
女土方がいないからと言っても男に抱かれて男の腕の中で休むと言う選択肢はあり得ないのだが、誰かに拠りたいというそんな気持ちが僕の視線や態度に滲んでいたのかも知れない。ふと時計を見るともう午前四時に近かった。
「ずい分長々お邪魔してしまいました。お仕事の邪魔をしてしまってすみません。そろそろ失礼しようかと思います。」
「もう少しすれば電車が動き始めるからそれまで待ったらどうなんだ。お仲間もちょっとやそっとでは起きそうもないし。俺は構わないよ、こんなことは日常茶飯事だから。」
僕は椅子から立ち上がってソファに寝こけているクレヨンのところに行くと耳を引っ張って「起きなさい。痛い目を見たいの。」と言ってやった。クレヨンは僕の声で反射的にぱっと立ち上がったが、寝ぼけているのと酔っ払っているので正体なくクラゲのように前に崩れてのめりそうになったのを抱き止めてやった。この野郎は全く幸せな女だよ、本当に。
「そんなぐでんぐでんなのを連れて帰るのか。お前達が帰ってしまうとあいつと二人になってしまうからもう少し残ってくれよ。いいだろう。」
マスターにそう言われるとそれでも無げに帰るというのが悪いような気がしてクレヨンを席に戻して上着をかけてやるともう一度席に着いた。
「何か飲むか、ビールでいいのかな。」
マスターは何も返事もしないうちに僕の前にビールのグラスを置いた。もうかなり飲んでいるのでこれ以上飲んだらどうなるかあまり自信がなかったが、何となく惰性でグラスに手を伸ばして一口飲み込んだ。炭酸の刺激が口中に広がったが、もうビールの味はほとんどしなかった。
Posted at 2017/01/20 18:06:25 | |
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小説 | 日記
2017年01月16日
それからも僕たちは飲み食いを続けた。飲み食いと言うよりもただ飲んで騒いでいただけかも知れない。その間、マスターには「いい女だ、いい女だ」と言われて何回か抱き締められたり頬にキスをされたりしたようだったが、こっちも酔っていたのでその場だけはぞわっとしたおぞましさを感じるもののその後は特に気にならなかった。いっそのこと胸でも出して見せてやろうかと思ったが、余計に状況を混乱させるだけなのでやめておいた。
一方、言葉屋は「振られた、振られた」と言いながらクレヨンと二人、本当に千鳥足でダンスを踊っていたが、ほとんど自分一人を支えかねるような状態の男女が、お互いにもたれかかっているのであっちによろけ、こっちによろけ、危ういことおびただしかった。
「いや、残念だ。まことに残念だ。慙愧に耐えない。一体この世の中はどうなっているんだ。」
高がどこにでもいるような女一人のためにそこまで大げさに嘆くこともないだろう。まあ、その人にとってはかけがえのない人なのだろうから、その気持ちが分からないでもないが。
「あんな凶暴な男女のどこがいいのよ。私の方が若くて女らしくてずっとかわいいでしょう。私が慰めてあげるからあんな凶暴な女のことなんか忘れなさいよ。」
「おお、ありがとう。俺のことを分かってくれるのはお前だけだよ。」
どうも酔っ払いと言うのは始末が悪い。このまま放り出して帰ってしまうという手もあるが、万が一、酔った勢いでクレヨンと言葉屋がおかしなことにでもなると厄介なのでもう少し成り行きを見ていることにした。
「俺とあいつとは大学の同級生だったんだ。お互いに集団が嫌いでこんな家業に入ってしまったけどな。あいつも堅物だけど悪い奴じゃない。例えばあんたのことなんかも俺なら元男だろうが獣だろうが、今は間違いなく女なんだろうからそれでいいじゃないかなんていい加減に考えるけど、あいつはそうはいかないんだ。それなりに自分で納得が出来ないとだめなんだよ。
あんたが本当につい最近まで男だったのか、両性愛者なのか、同性愛者なのか、そんなことは調べても客観的な結論なんか出やしない。でもな、そんなことはどうでもいいことじゃないか。そんなことをとやかく言うよりも今とそこから先に続いている時間の方が問題じゃないか。」
マスターはグラスを取り上げると一口ビールを飲み込んだ。
「あんた、好きな人がいると言っていたな、彼女と言っていたから女性なんだろう。あんたがどういう思いでその女性と付き合うようになったのか知らないが、余計な雑音に惑わされずに自分の思いを貫いた方が良いと思うよ。
さっきその女性のことを言った時、何となく表情に戸惑いがあったように思えたけど何か困ったことでもあるのか。でもきっとあんたはその女性のことをとても大切に思っているんだろう。あんたのように感情を表に出さない人があんなに戸惑った顔をするんだから。いろいろと複雑な事情もあるんだろう。でもな、あんたの人生にその人が絶対に必要なら離すんじゃないぞ。いいな。」
さすがに客商売を長年続けて来た経験からか、この男独特の感性からか、人の表情の裏側を読むことに関しては抜群の才能を持っているようだった。言っていることもそれなりに納得出来ることなので僕は黙って頷いた。
「さすがに俺が見込んだことはある。物分りが良いな。良い子だ。」
ますターはまた僕を抱き締めるとおでこにキスをした。お前、それはセクハラだろう。
「後悔しないようにな。」
マスターは僕に向かって微笑んだ。何だかこいつにいいように扱われたて初体験をさせられてしまったが、まあ頬っぺたやおでこくらいは女として生きていくための勉強と思えばいいだろう。取り敢えず僕はハンカチを取り出しておでこを拭いてやったところ、マスターはニヤニヤしながら僕を見ていた。
Posted at 2017/01/16 20:22:51 | |
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小説 | 日記
2017年01月10日
「あんた、どうしたのよ、こんな時間に。家にいなさいって言ったでしょう。」
僕がちょっと非難がましく言うとクレヨンがテーブルに駆け寄ってきた。
「あのね、一度家に帰ったんだけどあなたのことが心配でタクシーを呼んで様子を見に来たの。」
こいつに心配されて様子を見に来られるようになったら人間も廃業だ。
「おや、この間のお姉さんだな。あんたはこの人の恋人か。」
マスターがクレヨンに声をかけた。
「違います。そんな危険なこと、命がいくつあっても足りません。それに私は正常ですから。」
僕は後ろからクレヨンを捕まえると指を口に突っ込んで両側に引っ張ってやった。クレヨンは「ふふぇー」などどとても声にもならない音声を発した。
「なるほど、確かに危険かもしれない。まあ今日はもう店を閉めて皆で飲もうか。」
マスターはそんなことを言って店の入り口の明かりを落とした。そんないい加減な商売で良いのかと思って時計を見るともう十一時を過ぎていた。そこにまた一組中年男女のカップルが顔を出した。
「マスター、今日はもう閉店ですか。」
男の方が尋ねるとマスターは「乾き物でいいなら好きに飲んでよ。」といい加減なことを言ってこの中年カップルを店に迎え入れた。それから三組も客が来たが皆同じことを言って店の中に入れた。しかし別に自分が接待をするわけでもなくカウンターの上に乾き物の袋と飲み物やグラスに皿を置いてお客の方がそこから勝手に食い物を持っていって勝手に好きなジャズをかけて好きに飲んでいた。これは良い商売かもしれない。そうして適当な雑談をしながら暫らく酒を飲んでいたが突然マスターが変なことを言い出した。
「なあ、佐山さん、あなたは男と寝たことがあるのか。最初は彼氏もいたんだろう。」
「そんなことしないわよ、おぞましい。冗談じゃないわ。マスター出来る、男の人と。」
「いや、俺はご免被りたいな、そんなこと。でもその彼氏はどうしたんだ。」
「別口があったようだから私の方はお引取り願ったわ。」
「そんなに良い女なのに他にはないのかい。」
「後はストーカーの社員さんとここにいらっしゃる富岡さん。でも同性だったら良い友達になれただろうにと言ってくれた人が何人かいますけど。」
「そうか、やっぱりそんな感じだよな。俺もそう思うよ、男同士だったら面白そうだ。でもやはり外見が女だからいろいろ問題もあるよな、対外的にも内々にも。ところで、おい、姉さんよ、この人の体は本当に全くの女なのか。」
マスターはいきなりクレヨンにこれまたかなり問題のありそうなことを聞いた。クレヨンは僕の顔を見て目で『答えてもいいか』と聞いて来た。僕もちょっと首を振って『いいわよ』と返事をした。
「正真正銘女性です。でもどうしてそんなことを聞くんですか。この人、性格は極めて凶暴だけど間違いなく女の人ですよ。ご本人も時々『自分はつい最近まで男だった』なんて言っていますけど、そんなことあり得ないことでしょう。確かに性格が全く変わったと聞きますけど、凶暴だからきっとどこかで暴れて頭でも打ったんだと思いますよ。それで本能が目覚めたんじゃないんですか。」
このバカ、人の苦労も知らないでとんでもないことを言う。こいつも少し人が変わるように足でも持って振り回してカウンターの角にでもぶつけてやろうか。
「うーん、そっちはどうだ。佐山さんの素性について。」
マスターは僕の変身についてクレヨンの次に言葉屋に聞き始めた。
「もう何だか分からないけど、それはそれとして僕は佐山さんが好きだな。元男だろうがなんだろうが今は間違いなく女なんだから問題は全くないしな。」
「そりゃ彼女を抱きたいってことかな。」
「もう酔っ払っているから暴言も大目に見てもらおうということで言うけどそういう形で彼女が僕を受け入れてくれるのなら最高だな。」
「私も酔っ払っているから言わせてもらいますけど、富岡さんの人格とか人柄とかそんなことは全く関係はなくて本能的に男性は受け入れられません。」
「そうか、振られたな、諦めろよ。」
「うーん、残念だ。それじゃあ今日は飲むか。」
二人は何だか分からないことを言い合うとまた新しいグラスを持って来た。何時の間にかお客は全部帰っていて店にいるのは僕たち四人だけだった。料金はきちんと飲み食いしたメモと一緒にカウンターの上に置かれていた。なんて行儀のいい客だろう。きっとこんなことには慣れているんだろう。
Posted at 2017/01/10 22:18:37 | |
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小説 | 日記
2016年12月30日
「良く出来た話だけれど本当だとは信じがたいなあ。まるで映画か小説のようだ。現実にはあり得ない話だよな、実際。ところでその話を誰かにしましたか。」
「伊藤さんたちには、ちょっとね。」
「もうあまり話さない方がいいかも知れない。」
「どうして、どうして話してはいけないの。これは紛れもない事実よ。それともこんなことを言っていると頭がおかしくなったと思われるから。」
「それもあるけどそんな途方もない話ではぐらかされるのは男にしてみれば何だか馬鹿にされているみたいで。この年になって純粋だの愛だの恋だの言う気もないけどなあ、この年だからこそということもあるんだから。」
うーん、そうかあ。確かに立場が逆だったら相手にこんな話をされればそう思うかも知れない。
「事の成り行きで言っておけば僕はあなたに好意を持っている。それだけは伝えておきたい。ただあなたにはあなたなりの思いや生き方があるだろうから、そこまで干渉しようとは思わない。僕があなたを好きだと言ってもそれは僕の勝手な思いだから、あなたがそうでなくてもそれは仕方のないことだ。でも、さっきのような途方もない話ではぐらかされるのは自分としてはどうも納得出来ない。
あなたは自分が男だと言う。確かにあなたにはところどころ女よりも男を感じさせる部分があるが、周囲の人達はあなたを女と認めて女として処遇している。僕もあなたが男だとは信じ難い。成熟した知性を持った素敵な女性だと思っている。」
「それはどうも。でも私はあなたがどうして劇的に変わったのか話せというから事実を話しただけよ。信じるか信じないかそれは私の問題ではないわ。私はあなたを馬鹿にしてなんかいないわ。却ってあなただからこそこんな途方もない話をしたのよ。相手をそれなりに信用していなければこんな話はしないわ。」
これは極めてもっともなことで言葉屋もこれにはさすがに黙り込んだ。しかしいきなりこんな話をされたら誰もそのとおりだなどと言う者はいないだろう。それに話したのは絶対に信じないだろうと言う確信を前提としたいたずら心とアルコールのせいかもしれない。
「あなたが話したことが事実だと言う証明もないんだろう。以前の自分のことも覚えていないんだろう。」
「何もないわ、何も覚えていない。あなたのように独身でフリーで英語の仕事をしていたとしか記憶はないわ。でも私の知らない潜在意識にはいろいろな記憶が残っているのかも。ねえ、もしかしたら元の私はあなたなのかも知れないわね。」
今はもう元の自分が言葉屋ではないという確信があったのでちょっとからかい半分に聞いてみた。
「いや、そんなことはない。僕の記憶はしっかりと続いているから。」
「そう、いいわね。私は過去がなくなったわ。」
「気の毒にな。」
「でもね、今は別に不幸とは思わないわ。これで生きていくしかないんだから、それはそれで楽しいわ。あのね、あなたのことを最初に見た時、何だか懐かしくて頭がボウっとして立ちすくんでしまったわ。その時、『もしかしたらこの人って元の私かな』って結構真剣に考えたんだけど違ったみたいね。どうしてそうなったのかは特に明確な説明は出来ないけど、たぶん元の自分に似た人を見て潜在意識が反応したのかも。」
「見事に女言葉を使うね、意識しているのか。」
「勿論よ。この体では男言葉は使えないわ。使ったらきっと周りがびっくりするわ。でもね、本当に怒った時は男の時の立ち居振舞いが出る時もあるみたいね。」
「何だかうそや冗談を言っているとも思えなくなって来たけど、そんなことがあるなんてこと自体信じられないなあ。」
「いいわよ、信じてくれなくても。」
その時僕は突然肩を叩かれて驚いて振り返った。そこにはこの店のマスターが立っていた。
「おれは信じるよ、人間が入れ替わるなんてそんなことがあるかどうか科学的に証明しろと言われても分からない。要はこの人を信じるか信じないかと言うことだろう。俺にはこの人がうそを言っているとは思えないよ。もしもそれが本当ならずい分苦労したんだろう。表面的にしても落ち着いて生活できるようになるまで。こんなことを無闇に話したりしたら頭がおかしくなったのじゃないかと思われかねないのに。
目が覚めたらいきなり自分が女になっていたなんで普通の人間だったら発狂してしまうかもしれない。もしも半分ボケたばあさんなんかに変わってしまったらどうするんだろう。自分の周囲のことも何一つ分からないのに良く落ち着いて生活が出来たもんだよ。
きっと言うに言えない辛い思いをして来たんだろうに、この人は本当に正直に淡々と話している。こういう人にうそは言えないさ。ねえ、俺だったらこの人がたとえ男だろうと女だろうと惚れちゃうねえ。なかなか腹が据わっていて度胸もありそうだし、変に自分を飾ったりしない。いや、本当にいい奴だよ、この人は。」
どうしたことかバーのマスターが僕の言うことを信じると言ってくれた。信じると言うよりも何か人として共鳴するところがあったのかもしれない。僕は何だか涙が出そうなくらい嬉しかった。本当に女だったらどっと泣き伏していたかも知れない。
「これはあなたに僕からの奢りだ。飲んでくれ。」
マスターは自分でビールのグラスを持ってきて僕の前に置いた。酒なんかただでもらっても嬉しくもないが、マスターの気持ちが嬉しかったのでありがたくいただいておいた。
「僕は何とも言えないなあ。うそをつくような人でないことは分かるが、人間が入れ替わってしまうなんてそんなこと実際にあるはずがない。でもそれはそれとして僕もあなたが好きだな。ただ、確かに女性と話しているというよりも何となく息の合う同性と話しているような感じがするかな。まあいいか、たまには思い切って飲むか。」
「理屈で考えてはだめなんだよ。信じるか信じないかは人と人との心の共感だよ。」
マスターがなかなか良いことを言ったところにクレヨンがおずおずと店に入って来た。そして入り口のところでそっとこっちを覗いていた。
Posted at 2016/12/30 22:24:03 | |
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