昨年11月23日、韓国・延坪(ヨンピョン)島が北朝鮮に砲撃され、民間人ら4人が犠牲になった。朝鮮半島南端からわずか50キロ南に位置する長崎県・対馬にも緊張が走った。「ここは国境の最前線。砲撃事件は決して人ごとではない」。島の防衛にあたる陸上自衛隊対馬警備隊の谷村博志隊長(47)は警戒を怠らない。
島の北端からは、韓国・釜山の夜景も見える。朝鮮半島との交流の玄関口であると同時に、有事の際は最前線-。時代に翻弄(ほんろう)され続ける姿は、島内に残る数々の歴史遺産が物語る。飛鳥時代、唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦い(663年)直後に築かれた金田城、鎌倉時代には中国の元・高麗軍が2度にわたって侵攻した元寇(げんこう)の戦跡が残る。敵軍3万~4万に対し、わずか80騎で立ち向かった対馬の武将、宗助国(そう・すけくに)は今も島民の英雄だ。
「元寇以来、対馬の人たちは武士やもののふへの尊敬の気持ちがとても強い。われわれに対しても、同じ気持ちを持ってくれている」と谷村隊長。「大軍にもひるまず、祖国防衛に命をかけた先人の思いを忘れるな」が隊のモットーだ。宗助国が元・高麗軍を迎え撃つために駆けた道をたどる「古道行進訓練」を、昨年実施した。隊員約250人は、重さ20キロの背嚢(はいのう)や小銃を担いで山中の道を進み、5時間かけて元・高麗軍が上陸した対馬西岸の小茂田浜まで14キロを歩いた。
「先人と同じ道をたどることで、いつの間にか鎌倉武士の思いと重なった」と犬塚信之介1等陸曹(36)。対馬出身の米田隆介陸曹長(26)も「自分たちもこの国を守る防人(さきもり)だと感じた」。歴史に根ざした対馬ならではの緊張感が、隊員の心にみなぎる。
「オイザトナー」。仕事が終わってまた明日という意味で島のお年寄りの間で使われるあいさつ言葉だ。対馬警備隊OBで郷土史研究家の小松津代志さん(63)によると、本来は「寝ていても何かあったらすぐ行動しなさい」との意味で、元寇のころから伝わっているという。「ガンゴーがくっぞ」は、いたずらの子供を諭す時に使う。ガンは元、ゴーは高麗。泣く子もだまったそうだ。「ここはそういう特異な島なんですよ」と小松さん。
対馬については太平洋戦争後、韓国の李承晩大統領が竹島とともに自国領と主張したという。この不当性を明らかにしたのは歴史だった。すでに昭和23年に行われた島内の遺跡調査で、大量に出土していた弥生時代(1800年前)の青銅製の矛がほぼすべて九州製と判明、対馬が古代から日本だったことを証明していたからだった。
1部では、登呂遺跡発掘を通して敗戦で見失った日本人の誇りを取り戻した時代を紹介した。第2部では尖閣諸島や竹島問題で揺れるなか、領土の重みを考古学の視点で考える。
■対馬南北82キロ、東西18キロで上島と下島からなる。在地勢力の阿比留(あびる)氏が支配していたが、宗氏が鎌倉時代に守護代となり、江戸時代には対馬藩主として統治した。平成16年に6町が合併し、島全体が対馬市となる。人口は約3万5千人。朝鮮半島との国境であるとともに日本海から東シナ海に抜ける要衝に位置するため、自衛隊は陸海空が展開する。
戦後、60年以上、日本は何事もなく平和だというが、南西諸島にしろ、北方領土にしろ、この対馬にしろ、日本の周辺では水面下のせめぎ合いが続いている。北海道は旧ソ連の圧力に自衛隊の精鋭を配備していたが、対馬や南西諸島は中韓を刺激したくないのか、これまで大兵力が配備されたことはない。
国境の与那国島などは武装しているのは警察官2人というお寒い状況だそうで国境に兵力を配備しないのはEUなどの例を除けば世界でもここだけだろう。現実に警察官2人の武装など何もないに等しい。
さすがにこのところの中国との領土問題でここに陸上自衛隊の監視隊を配備するという計画が検討されているようだ。ある程度有効な戦力として配備するなら先島諸島に旅団あるいは連隊戦闘団を配備すべきだろうが、予算の問題もあり、また軍隊に対して複雑な感情のある場所なのでなかなか難しいようだ。
対馬には陸海空自衛隊が駐屯するとは言っても海空は監視部隊、しかし、陸上自衛隊は対馬警備隊という実質的には連隊に準じる扱いの部隊が置かれているようだ。装備も軽装甲機動車、対戦車ミサイルから重迫撃砲まで有しているなどなかなか優秀なようで、かなりこの島の防衛に重きを置いた配置となっているようだ。
極東は決して地域的に安定しているとは言い難いので有事の備えだけはしっかりしておきたいところだが、何しろ、バ菅と民主党だから。どうもこいつ等はどの分野でも国難のようだ。
Posted at 2011/05/04 11:38:36 | |
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