2015年11月26日
下町の零細企業が、財閥系巨大企業に立ち向かう。そんなストーリーの『下町ロケット』が、多くのサラリーマンから共感を得ている。が、航空産業界に目を転じると、小説で“敵役”と思しき三菱重工はおろか、子会社の三菱航空機も下町の工場に過ぎないというのだ。
〈伝説の戦闘機・零戦を開発した三菱が航空市場に新規参入〉
ニューヨーク・タイムズ、フィナンシャル・タイムズ、新華社通信など世界中のメディアは11月11日、国産初のジェット旅客機「MRJ」(三菱リージョナルジェット)のデビューを大々的に報じた。名古屋空港での初飛行に立ち会った、全国紙の経済部記者も感慨深げだ。
「42年前、国産プロペラ旅客機YS―11が生産中止になって以降、日本企業は部品提供の“下請け” に甘んじていました。今回は初めて機体本体を製造して、組み立てまで行った。つまり、零細部品メーカーが旅客ジェット機を飛ばしたようなものなのです」
目下、世界の大型ジェット旅客機市場を二分するのは米国のボーイングと、欧州のエアバス。一方、MRJは定員100人以下の小型機だ。航空ジャーナリストがこう指摘する。
「カナダのボンバルディアや、中国の中国商用飛機も中小型機を製造していますが、最大のライバルはブラジルのエンブラエル。世界20カ国以上の航空会社を顧客に抱え、日本でもJALグループや総合商社『鈴与』の関連会杜『フジドリームエアラインズ』が同社のジェット機を購入しています」
両者の性能に大きな差はない。カタログ価格でMRJが1機約47億円なのに対して、開発中のエンブラエルの同種機はそれより若干割高だというが、
「エンブラエルは、1969年設立の老舗なので、抜群の信用力がある。一方のMRJは、まだまだ無名の存在ですから……」(同)
53年ぶりに大空を飛んだ国産機。製造目標1000機を達成できるか。
零戦は欧米に遅れた日本の航空技術が生み出した極めて偏った戦闘機だった。出力の小さいエンジンで速く、遠くまで飛び、また機敏な機動性を確保するために機体を徹底的に削った。そのために防弾装備も装備せず、機体の強度が低く、高Gに耐えられず、戦争後半には第一線機としての地位を確保できなくなってしまった。英国のスピットファイアやドイツのメッサーシュミットBf 109が高性能エンジンに換装して最後まで第一線機として高性能を保ったのとは対照的でその零戦を最後まで主力戦闘機として使用しなければならなかったところに日本の遅れた航空技術の悲劇があった。その零戦を作った三菱重工が世に問うMRJだが、今回は技術的には全く問題はないだろう。問題は、旅客機製造メーカーとしての三菱重工の知名度と飛行機を使用するエアラインに対する信頼度だろう。アフターケアについてはボーイングの支援を受け、また、商社やトヨタもついている。今後、大きな問題を生じずに型式証明が取れればMRJはエンブラエルと対等に渡り合えるだろう。
Posted at 2015/11/26 15:45:21 | |
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2015年11月26日
9月に亡くなっていたことが分かった原節子さんは昭和30年代、42歳で突如スクリーンから消えた。マスコミとの接触も絶った伝説の女優は、半世紀にわたって沈黙を貫き世を去った。
「独逸(ドイツ)へ行く大和(にっぽん)撫子(むすめ)」
「日本の名花から/愈々(いよいよ)世界の恋人」
1937年、日独合作映画「新しき土」公開のために原節子さんがベルリンに赴くことが決まると、新聞各紙にはこうした大きな活字が躍った。外国でも見劣りしない目鼻立ちのくっきりした美貌(びぼう)で長身の女優が生まれたことを、当時の日本人は手放しで喜んだ。
だが、人気を誇りながらも、20代のうちは演技では芳しい評価を得られなかった。
「映画はクローズアップ使うでしょう、そういう時、演技ばかりで押し切らず、高い程度の人間ってのかな、それを出したいんです」(30歳当時の発言)
「わたし昔から大根々々といわれつけているので悪口いわれても平気になったけれど、映画評なんかもっと指導的であってほしいの」(31歳)
こうした真剣な発言が、インタビュー記事の中では、ともすれば揶揄(やゆ)的にとり上げられた。
「路傍の石」「ふんどし医者」で夫役を演じた生前の森繁久弥さんによると、猥談(わいだん)にも乗ってくる開放的な女性だったという。著書の中で「そんな話をする奴(やつ)も周りにいないのだろう」と同情している。
「若いときは、どうして結婚しないんだといわれたり、気持ちが不安定で、早く年をとって安定した中年の美しさを身につけたいなあと思ってました。人形的な美しさでなく、内面のうかがえる美しさ、好もしい顔、感じのいい顔……」(40歳)
恋人役も母親役もこなせる女優として期待されながら、42歳で原さんはスクリーンから消える。
マスコミとの接触を絶ち、一切の取り次ぎは同じ敷地に住むおい夫婦が引き受けた。63年、小津安二郎監督が死去した際、通夜に訪れたのが公の場に姿を見せた最後。玄関に立ち尽くし、泣いていたという。時折写真週刊誌やテレビのワイドショーが私生活を盗み撮りしたが、黙殺した。
94年、原さんの名前が久しぶりにマスコミをにぎわせた。東京都狛江市の宅地約2900平方メートルを売却したことから、高額納税者番付の75位に顔を出したのだ。おいの妻が伝えた本人のコメントは「そっとしておいてほしい」(73歳)。
「小津監督の命日、一輪のバラを墓前に供え続けた」「地元の公民館が小津映画を上映したとき、ほおかむりをした原さんが見に来た」といううわさも流れた。肯定も否定もしないまま、原さんは世を去った。
時代が違うし、日本映画はほとんど見ないのであれこれ言う資格はないが、「美人」と言う言葉を人にするとこうなるのではないかと思うほどきれいな人だと思う。冥福を祈ります。
Posted at 2015/11/26 15:43:47 | |
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