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2016年10月16日 イイね!

ミサイル発射に失敗しても超強気のバカ大将であります。




北朝鮮は15日、金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長に「核挑発を敢行すれば死ぬことになる」と警告したラッセル米国務次官補の発言に対し、「米国がわれわれに飛びかかる瞬間、ホワイトハウスからなくなることになるだろう」と主張した。






北朝鮮外務省報道官はこの日声明を通じ、「われわれに対する最高の挑戦であり、われわれにした宣戦布告を実行に移す敵対行為。われわれの最高尊厳に仕掛けてくる米国の敵対的言動は度を超えるだけでなくいまや自己矛盾に達した」と明らかにした。






続けて「米国は無礼にもわれわれの最高尊厳を悪辣に逆なでした代価を十分に払うことになり、オバマはホワイトハウスを離れる前にその代価がどのようなものかを悟ることになるだろう」と主張した。






また「この者(ラッセル次官補)の罵言はもうすぐホワイトハウスから退かなければならないオバマ一味の対朝鮮政策が完全失敗と烙印を押され、われわれを最強の核保有国へと突き出して米国本土の安全が丸ごと揺さぶられるようにした責任を逃れようとする断末魔的なあがきにすぎない」と付け加えた。





どこからこの強気が出てくるかは知らんけどまあよく言えたものだ。ホワイトハウスに当たるかどうかは別にしてワシントンに1発核弾頭を打ち込んだら北朝鮮はこの世から消滅している。世界戦略だと右だの左だの上だの下だのとうだうだまとまらん国だが、自国の安全が脅かされると恐るべき団結力を発揮して反撃を開始する。まあ口だけで実際には自分から仕掛けることはないということで安心して言っているんだろうけど、・・。





Posted at 2016/10/16 14:12:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2016年10月16日 イイね!

太平洋戦争末期、断末魔の混乱の中、日本はジェット戦闘機を完成させていた。




今年で戦後70年。テレビや新聞、雑誌などでも70年前の戦争を振り返る特集を数多見かけるようになった。その多くは政治のあり方や人々の生活に着目するが、一方で「企業は、技術者は、戦争にどう向き合ったのか」という視点もあるだろう。

 

戦前の技術者といえば、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の主任設計者を務めた三菱重工業の堀越二郎氏が有名だ。日本は少なくとも、太平洋戦争前半までは数多くの戦闘機を輩出する「航空大国」だった。戦争中盤からは戦局悪化に物資不足が重なり、航空機の開発は鈍るようになったが、それでも終戦間際に二つの画期的な航空機を開発。量産されなかったものの、飛行試験にこぎつけていた。

 

ひとつは、国産としては初めてジェットエンジンを採用した中島飛行機(現・富士重工業)の特殊戦闘機「橘花(きっか)」。もうひとつは、三菱重工業のロケットエンジン戦闘機「秋水(しゅうすい)」だ。ジェットエンジンとロケットエンジンという、当時最先端の技術を追求した二つの戦闘機だった。これらの技術は、戦後7年間の「航空禁止令」の期間を超えて、現在まで続く航空機の技術の礎になっていると言える。



広島に原子爆弾が落とされた翌日、1945年8月7日。千葉・木更津にある海軍の飛行場で、1機の航空機が爆音をとどろかせて飛び立った。祈るような視線を浴びせるのは、海軍空技廠や中島飛行機の技術者たち。日本初のジェット機「橘花」が生まれた瞬間だった。




当時、まだ自動車と同様の「レシプロ式」が主流だった航空機のエンジン。しかし、基本的にはプロペラを回して前方の空気をそのまま後方に吹き出すだけなので、スピードには限界があった(プロペラの回転速度が音速に達すると衝撃波が発生し、空気抵抗が急に増えてしまう)。当時はこれに加え、燃料事情も悪くなっており、粗悪な燃料でも動かすことのできる高性能なジェットエンジンが求められていた。

 

航空機の性能はほとんどエンジンで決まるといっても過言ではない。ドイツやイタリア、英米などは1940年代前後に次々とジェットエンジンの実用化に成功し、なかでもドイツは42年に世界で初めてジェット戦闘機(メッサーシュミットMe262)の飛行に成功していた。日本の陸海軍も、当初は独自にジェットエンジンを開発する方針をとったがいずれも実戦配備には至らず、1944年、軍事同盟を結んでいたドイツからMe262に搭載されていたBMW製のエンジン「BMW003」の図面を取り寄せて開発することになった。



とはいえ当時のは図面の取り寄せもままならない状態だった。大戦中で鉄道や船を使った物資の輸送は敵の妨害を受ける中、日本とドイツは、開発したばかりの潜水艦を使って軍人や技術資料を運んだ。ただ、戦争末期になると戦局の悪化により、潜水艦も撃沈されることが少なくなかった。



1944年7月の「第4次遣独潜水艦作戦」では、日本はMe262の資料や本連載後半で紹介するロケットエンジンの資料を取り寄せた。同作戦で潜水艦はフランスの港からシンガポールまでは何とかたどり着いたものの、フィリピン沖で米軍の潜水艦に撃沈されてしまう。このため、事前にシンガポールで輸送機に乗り換えた海軍中佐が持ち帰った資料をのぞき、ほとんどが海の藻屑と消えた。




海軍中佐が持ち帰った資料は、エンジンの断面図などわずかしかなかったが、これをもとに中島飛行機が機体を、石川島重工業(現IHI) がエンジンを設計した。日本全土で敵機の空襲が本格化する中、工場を焼かれては設計室を移しながら、わずか1年弱で開発した。石川島のジェットエンジンは「ネ20」(ネは燃焼噴射推進装置の頭文字)。以前、陸軍や海軍が独自開発しようとしていたジェットエンジンに近いものがあった。

 

そして1945年8月7日。木更津の地で、海軍のパイロットを乗せたジェット戦闘機「橘花」は飛んだ。といっても、当時は軍用の燃料でさえ払底していたため、「松根油を十六分間ぶんだけ満たした『橘花』は、(中略)操縦特性やエンジンの状態など、事前に決められたチェックを手早く済ませると、十二分間の飛行を終えて帰還した」(杉浦一機「ものがたり 日本の航空技術」より)。
 


初飛行から5日後の12日には再び飛行試験に臨んだが、滑走路をオーバーランして脚部を破損。機体の修理中に終戦となった。

 


実戦配備には間に合わなかった戦闘機「橘花」とジェットエンジン「ネ20」。この時期の日本の航空機産業に対して米国は、一定の評価を下している。45年の米海軍の報告書は、こう締めくくっている。「ネ―20はなかなか良い。BMW003Aは小型のターボジェットで最良のものだろうが、ネ―20を搭載した日本の飛行杭は軽量構造ゆえに、003Aエンジンを搭載したドイツのMe262と同等の性能をもつことに注目されねばならない」(前間孝則『ジェットエンジンに取り憑かれた男』)。
 


戦後、米国やソ連は、ドイツからジェット戦闘機の技術を採り入れ、航空大国の地位を確立していく。



太平洋戦争当時の日本の航空技術を欧米と比較すると機体設計はほぼ同等、エンジン開発は10年遅れ、プロペラは20年以上遅れていたと言われる。また電気系、油圧系、燃料、潤滑、機械工作などの周辺技術も10年以上遅れていたそうだ。部材にドリルで穴を開けて表面の面取りを同時に行う工作機械が日本では作れなかったのに米国では1930年代にそうした工作機械が作られて使用されていたという。




戦後、日本の戦闘機を米国が調査する際、電装系を米国のものと取り換えて米国の潤滑油とハイオクタンガソリンを使用したところ日本の航空機の速度、上昇力などは軒並み10%程度も上がったそうだ。当時の日本の戦闘機で600キロを超える速度を記録したものは数えるほどしかないが、零戦も600キロオーバーの戦闘機だったということになる。そうであれば新型機など開発しなくても周辺技術さえしっかりしていれば零戦でF6Fなど一掃できたかもしれない。航空燃料も今はその辺のスタンドで簡単に手に入るオクタン価100のハイオクガソリンなどは日本で生産することができず米国からの輸入に頼っていた。




そんな国がどうして米国と戦争をしようなどと考えたのか理解に苦しむが、戦争末期などは材料はない、燃料はないでとにかく悲惨な状況だったようだ。そんな状況でドイツから持ち帰ったわずかな資料でよくぞジェット機やロケット機などを作って飛ばせたものだとその気合と根性には感心してしまう。特にジェットエンジンは多燃料機関でどんな燃料でも使うことができたので結構期待していたようだ。仮にこうしたジェット機やロケット機の開発に成功して戦線に投入できたとしても米国はさらに高性能なジェット機を大量に戦線に投入してきただろうから戦局が変わるようなことはなかっただろうが、当時の技術者が血を絞るような思いでこうした新技術に取り組んだことには頭が下がる。




その技術は戦後何とか復活してMRJとATD-Xが継承している。航空機産業は極めてすそ野の広い産業で日本の経済に与える影響は極めて大きいので是非健全な発展を遂げてほしい。医療費に30兆円以上もつぎ込んでいて、それはそれで必要なことは理解するが、少し合理化して何兆円かをこうした産業の発展に投入すべきだろう。高度な先端技術の開発には長い時間と莫大な費用が必要だ。そういうものは国策として取り組んでもいいのではないだろうか。「コンクリートから先端技術へ」将来の日本にはぜひ必要なことだろう。





関連情報URL : http://newswitch.jp/p/1549
Posted at 2016/10/16 11:14:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2016年10月16日 イイね!

火がつくか、レンホー代表の二重国籍問題




民進党の蓮舫代表は15日、日本国籍と台湾籍のいわゆる「二重国籍」問題について、都内の区役所に提出した台湾籍の離脱証明書が受理されなかったことを明らかにし、戸籍法に基づき「(日本国籍の)選択宣言をした」と述べた。都内で記者団に答えた。党関係者によると、選択の宣言は今月7日付。

 

国籍法は20歳未満の人が日本国籍と外国籍の二重国籍になった場合、22歳になるまでにいずれかの国籍を選択しなければならないと規定。蓮舫氏の一連の発言が二転三転した経緯もあり、国籍法違反などに問われるかが焦点となりそうだ。

 

蓮舫氏は記者団に「不受理なので相談したら、強く選択の宣言をするよう行政指導された」と述べた。

 

国籍法14条は日本国籍の選択について、外国籍の離脱によるほか、戸籍法に従い、日本国籍を選択し、外国籍の放棄を宣言することによると定める。蓮舫氏は選択宣言をした時期に言及してこなかった。

 

蓮舫氏はこれまで「昭和60年1月、17歳で日本国籍を取得した」と説明。台湾籍の離脱は「台湾人の父が手続きを終えたと思い込んでいた」と述べていた。一方で参院議員への転身前、雑誌インタビューに台湾籍を持っていると答えた過去もあり、発言の信用性に疑問符が付く面もある。

 

今年9月6日、台湾当局に台湾籍の残存を照会するとともに、改めて離脱手続きを行ったところ、同月12日に台湾籍が残っていたことが判明。同月23日に台湾当局から台湾籍の離脱証明書を受け取り、区役所に提出したと説明していた。

 

離脱証明書が受理されなかったのは、日本政府が台湾を正式な政府として認めていないためだ。金田勝年法相はこれまで一般論として「台湾当局が発行した外国国籍喪失届は受理していない」と説明していた。





女と左翼に甘いメディアも騒ぎ始めたか。まあ、産経だからかな。「インテリは左翼思想を語る」という(ような)イメージがあったためか、メディアは左翼に甘い。最近はそれに女性が加わったのでどちらかの要素があれば叩かれないが、レンホー代表の国籍問題はどうだろう。これって火がつくと代表辞任で政治生命も絶たれるってことにもなりかねないが、民進党は選挙互助会だからいいのかな。他人の追及には舌鋒鋭く切り込むが、自分のことになると大甘になってしまうのは、「自分良ければすべてよし」のお国柄なんだろうか。





Posted at 2016/10/16 11:09:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 政治 | 日記
2016年10月16日 イイね!

米国にとって「東洋の不思議の国」であり続ける日本でした。




米海兵隊トップのネラー海兵隊総司令官は日本時間の13日、浦添市の牧港補給地区(キャンプ・キンザー)で在沖海兵隊員との対話集会を開き、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設計画が遅れているとの認識を改めて示した。その上で「今は日本政府と米国がいくつかの施設を最新化するためにお金を出す」と説明し、移設計画の遅れを理由に老朽化が進む普天間の施設を整備する考えを強調した。兵士からの質問に答えた。

 

防衛省は8月に、普天間の格納庫や管理棟、兵舎など19施設を補修すると発表。ネラー氏の発言は、これまで移設を理由に補修や整備対象ではなかった施設についても今後、整備することを示したもので、早期閉鎖を求める県民からは、固定化につながるとして反発が高まるのは必至だ。

 

ネラー氏は兵士らに対し、兵舎やそのほかの施設が整備される間、老朽化した施設で我慢し、間に合わせるよう求めた。

 

ネラー氏は米軍準機関紙「星条旗」に対し、移設計画の遅れについて「海兵隊は適合させる」と述べ、同時に「われわれは年初の後に日本の裁判所が何を言うのか、沖縄県と日本政府、安倍晋三首相との間でどのような動きがあるか見極める。そしてそれに対し、対応し正式に言う」と述べた。





米軍にしてみれば移転に合意してから20年も経っているのに未だに滑った転んだやっていて何時代替施設が出来上がるかどうかわからない状態では、「一体何をやっているんだろう。だったら古くなった普天間の施設をしっかり直してくれよ」と言うことにもなるだろう。こうなってくると国際信義にかかわることにもなりかねないし、さっさとやっていれば本来は必要のない余計な金を出さなくてもいい。何かと言えば公務員の給料を減らせばかり言うが、こういう金を払わずに済むようにすべきだろう。いずれにしても彼らにとっては日本は東洋の不思議の国であり続けるだろう。


Posted at 2016/10/16 11:07:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

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