第2次世界大戦では、日本はドイツと同盟関係にあったことはよく知られている。しかし戦時中、両国が具体的にどんな協力関係にあったのかを知る人は意外に少ない。そんな協力関係の一例として、日本海軍の潜水艦によるドイツへの派遣が挙げられる。日本は当時最先端だったドイツの軍事技術を得ることで戦局の打開をもくろんだが、その航海は困難を極めた。「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。本記事では同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、戦争秘話として、知られざる「遣独潜水艦作戦」を解説する。
■往復5万4000キロ! 生命の保証なし
1943(昭和18)年8月31日、ドイツ占領下のフランス北西部にあるブレスト軍港に、「ある一隻の潜水艦」が無数のドイツ軍艦艇に護衛されて入港しました。その潜水艦は「日本の軍艦旗」を掲げており、1トン爆弾の攻撃にも耐えうる堅固な掩蔽壕(えんぺいごう)に停泊すると、桟橋からドイツ海軍儀仗隊による「君が代」の演奏が始まりました。最後の寄港地ペナンを出てから65日ぶりの上陸。乗員にはドイツ人女性たちからカーネーションが一人ひとりにプレゼントされました。
艦の名は日本海軍所属の「伊号第八潜水艦(伊8潜)」。日本から3カ月をかけてはるばるこの地へやってきたこの艦と乗員たちには、戦争の行方にかかわる重要な使命が与えられていました。やがて彼らは母国日本に向け、再び長く危険な航海へと旅立つことになるのです。今回は「伊8潜」をテーマに、第2次世界大戦中に日本―ドイツ間5万4000キロを往復した日本海軍の潜水艦について解説します。今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
■日独をつなぐ残された唯一の手段
Q1. 戦時中、日本軍の潜水艦がドイツまで往復したのは本当ですか?
本当です。正式な作戦名を「遣独(けんどく)潜水艦作戦」といい、太平洋戦争開戦の翌年1942年から1944年まで、計5回行われました。そのうち、3回は往路の終着点であるドイツ占領下のフランスまで到達できましたが、日本まで無事帰還できたのは第2次の「伊8潜」による1回のみです。
Q2. この作戦の目的は何ですか?
日独双方の「軍事技術にかかわる特殊物資の輸送」と「人員の送迎」です。戦争の激化に伴い、ドイツは貴重な南方資源の入手ルートであるインド洋方面で苦戦していました。そのため、同盟国である日本に最先端の軍事技術や「Uボート」など兵器の供与を行うことで協力を得ようとします。これらを渇望する日本は、軍や外務省の連絡員、技術者や要員等を、南方資源とともに潜水艦で輸送しました。
Q3. なぜ潜水艦が使われたのですか?
「それしか有効な手段がなかった」からです。日独を結ぶ海上ルートは、その大部分が連合軍に制海・制空権を奪われ、一般の船舶による輸送はほぼ不可能でした。潜水艦であれば、こうした危険区域を潜航することで、昼間でも敵に発見されずに航行できたのです。
Q4. ほかに連絡手段はなかったのですか?
無線、陸路、空路を使う手段も考えられました。しかし、暗号を使った無線連絡はすべて連合国側に傍受されたうえ解読もされており、シベリア鉄道を使った陸路連絡はドイツのソ連侵攻により不可能となりました。当時世界最長の航続距離を持っていた国産飛行機「A26」による空路連絡も計画されました。しかし、日ソ中立条約下でのソ連上空を通過する北方ルートは使用が躊躇され、距離が長いうえ敵との交戦空域を通過する南方ルートが実行されましたが、「A26」はシンガポール出発後に消息を絶ち、断念されました。
Q5. 往復に使用されたのはどんな潜水艦ですか?
「日本海軍の主力潜水艦」です。往復に成功した「伊8潜」は巡潜3型、ほかの4回(伊30潜、伊34潜、伊29潜、伊52潜)は巡潜乙型です。いずれも全長100メートルを超える駆逐艦並みの大型艦で、乗員約100名、魚雷発射管6門、水上偵察機1機を搭載し、水上航続距離は2万5000キロを超える高い性能を誇りました。ただし、乗員たちにとって艦内の生活は、非常に厳しいものでした。
Q6. 潜水艦はどのような勤務体制だったのですか?
前述の巡潜乙型を例にすると、1回の作戦行動で通常60日の航海です。出港後は乗組員全体を3班に分け(3直配備)、各班は2時間勤務後に4時間休憩となる6時間単位のローテーションを延々と繰り返しました。よって、まとまった睡眠はとれず、乗員は皆「慢性的な寝不足」です。戦闘時や緊急時は、総員配置の命令とともに乗組員全員が所定の担当部署に配備(第1配備)となりました。
■恵まれていたのは食事だけ
Q7. 休憩時間はどう過ごしていたのですか?
基本的に「睡眠」です。碁や将棋、読書など室内での娯楽もありましたが、艦内酸素量の消費を抑えるため、潜水艦の乗員は不必要に体力を使わないようつねに気を配っており、その最良の方法が睡眠でした。非常に窮屈ながら、艦内にはほぼ定員数のベッドが装備されていたため、プライバシーもわずかですが確保されていました。 ちなみに、ドイツの「Uボート」には乗員分のベッドはなく、不安定な折りたたみ簡易ベッドや魚雷発射管室の空いた場所でハンモックを吊るすなど、条件はより劣悪だったようです。
Q8. 食事はどんなものだったのですか?
食事については、戦艦などの水上艦艇よりも優遇されていました。潜水艦乗務は非常に過酷なため、可能なかぎりで生鮮食料品をはじめ多様な食材が配給され、主食も水上艦で一般的だった米麦飯ではなく白米という配慮がなされていました。ただ、潜水艦に搭載できる冷蔵庫は貧弱なため、生鮮食品は出港後10日ほどで尽き、その後は缶詰や乾物が中心でした。調理は火を使わず、炊飯、煮る、焼くがすべて1台で可能な「電気烹炊器(ほうすいき)」で行われました。ちなみに潜水艦では火の使用は厳禁で現在でも海上自衛隊の艦船では蒸気での炊飯が実施されています。
Q9. 空調設備などはあったのですか?
ほとんどないに等しい状態でした。浮上航行中は艦橋ハッチから外気が取り込まれる仕組みにはなっていましたが、潜行中は換気ができずにどんどん空気が汚れ、温度30~40度、湿度85%以上、炭酸ガス濃度3%、これに油や体臭などの臭気が加わるというのが常態でした。天敵となる敵の駆逐艦の追跡を受けた場合は最悪で、「伊11潜」は1943年に深度150~200メートル、気圧2、温度40度、湿度100%、炭酸ガス濃度6%の環境下で、約2日半の潜航を余儀なくされたこともありました。
Q10. 作戦から帰投後、休暇はもらえるのですか?
勤務日数に応じて保養所での休養が許可されました。帰投した港が佐世保の場合は嬉野(うれしの)温泉、横須賀は熱海温泉、呉は湯田温泉、舞鶴は山中温泉など、それぞれに置かれた乗員用の保養所が利用可能でした。国内に限らず、保養所は南方占領地のペナンやスラバヤ基地にもありました。
■荒波を乗り越えドイツ領に到着
Q11. 「伊8潜」はドイツまで、どのような航路をたどったのですか?
南半球を経由したインド洋ルートです。1943(昭和18)年6月1日夕刻、呉を出港した「伊8潜」は、途中マレー半島のペナンでドイツに運ぶ南方資源を積み、そこからインド洋、アフリカ最南端の喜望峰を通り大西洋へ抜けます。そして呉出港から92日後の8月31日、当時ドイツ領のフランス・ブレスト港に到着しました。任務は「極秘」とされていたため、艦長の内野信二中佐が乗員に行き先を告げたのは「ペナン出港時」でした。
Q12. 航海は順調だったのですか?
非常に幸運なことに、敵の哨戒区域を通過しながらも、懸念された敵からの攻撃は受けずに済みました。ただし天候には恵まれず、大荒れのインド洋では乗員は船酔いに苦しんだようです。古来、船乗りたちに恐れられたアフリカ喜望峰沖の暴雨帯「ローリング・フォーティーズ」では飛行機格納筒を破壊され、船体に3メートルの大穴が開いてこれを決死の作業で修復するなど、苦労の連続でした。
Q13. 「伊8潜」のドイツ滞在の期間は?
約1カ月(37日)です。ドイツ軍からの歓迎を受けたのち、乗組員は物品の陸揚げと艦の修理に従事するなか、約40人ずつが交代でブレスト郊外にある古城・トレバレス城を改装したドイツ海軍の潜水艦乗員保養所で静養しました。普段の宿舎も港に程近い旧フランス海軍兵学校兵舎の歴史ある建物で、毎夕食後には街まで送迎のバスが出て買い物などを楽しみました。さらに、乗員たちは前後2班に分かれてパリにも招待され、ベルサイユ宮殿、凱旋門、エッフェル塔、ノートルダム寺院なども見物し、艦長と士官はベルリンも訪問しています。ただし、一行はたびたび空襲警報により防空壕への避難を余儀なくされました。
Q14.「伊8潜」は日本から何を運んだのですか?
主に南方の資源と日本側の最新兵器です。
■「技術大国ドイツ」を驚かせた
錫(すず)、生ゴム、雲母、タングステン、モリブデン(合金材料)、キニーネ(薬品の原料)などドイツでは入手困難な南方資源は大変珍重されました。さらに、当時最新式で長射程、高速、高破壊力、無航跡の「95式53センチ酸素魚雷」や、潜水艦をエンジン停止(無音)の状態で一定の深度に静止させる「潜水艦自動懸吊(けんちょう)装置」の設計図などは、技術大国であるドイツをも驚かせました。物資のほかにも、ドイツから兵器供与される「Uボート」を受領するための回航要員50余人を含む約160人が「伊8潜」に同乗しており、通常の1.5倍以上の人数で艦内は大混雑の状態でした。
Q15. 日本にはいつ帰還したのですか?
ブレスト出港は1943(昭和18)年10月5日です。入港時と違って、任務内容秘匿のために行事はいっさいなく、静かな船出でした。復路では無線連絡を連合軍に傍受されて爆雷攻撃に遭い、艦内数カ所に被害を受けますが、短時間でこれを修復しました。そして12月5日にシンガポール着、12月21日午後に呉に帰投しました。6月1日の出港以来204日ぶり、全航程5万4000キロは地球1周(4万キロ)を優に超える距離でした。
Q16.「伊8潜」はドイツから何を持ち帰ったのですか?
多くはドイツの先端技術に関するもので、大小50品目以上ありました。主なものとして、テレフンケン社製「レーダー装置」(ウルツブルグD2型)、「電波探知機」、ダイムラー・ベンツ社製「魚雷艇用ディーゼルエンジン」、モーゼル社製「20ミリ機銃」、ラインメタル社製「13ミリ航空機用機銃」、「爆撃照準器」、「ジェットエンジン」とその設計図などがありました。このなかには、実際に日本国内で「航空機等の武器」として実用化に成功したものもありました。
Q17. ドイツから持ち帰ったもので「最も重要」だったものは?
「レーダー装置」(ウルツブルグ)と「Me262」設計図です。ウルツブルグは高射砲と連動させて使用する敵機標定用レーダーとして作られ、次第に激化する米軍の日本本土爆撃に対抗するために不可欠な兵器として開発が急がれました。ただし、当時世界最先端のこのレーダー装置は随所に未知の高い技術が用いられ、ドイツとの工業技術のレベルの違いを痛感させられました。それでも日本人技術者は、物資の不足に加え空襲の脅威が迫るなか努力を続け、終戦間際に試作品を完成させ、実際にB29爆撃機の撃墜に成功したといわれています。しかし、ウルツブルグの実用量産がかなわないうちに終戦となり、これらの製品と図面はほとんど処分されました。日本人の手によるレーダー開発はこうして幻となりましたが、その過程でもたらされた電子管やパルス発生の技術は着実に継承され、今日ある「電子立国日本」の礎を築きました。「Me262」はメッサーシュミットジェット戦闘機です。この設計図は、完全な形で日本に届けられませんでしたが、1944(昭和19)年からこれらの設計図を基に、陸軍は「火龍(かりゅう)」というジェット戦闘機(最大速度時速852キロ、30ミリ機銃2門、20ミリ機銃2門装備、800キロ爆弾搭載可能)を、海軍は「橘花(きっか)」(ターボジェットの推進力不足から爆弾搭載型のみ試作)を製造しました。「橘花」は最終的には特攻兵器として開発が進められましたが、戦後、わが国の飛行機生産技術に貢献したジェット機となります。
■「歴史に学ぶ」ことの大切さ
日本への帰投を果たした「伊8潜」はその後、再び戦場へと戻り、インド洋で通商破壊作戦に従事したあと、1945(昭和20)年3月31日に沖縄方面で米駆逐艦の爆雷攻撃を受けて浮上、激しい集中砲火を浴びて沈没します。生存者は1人のみでした。戦後72年を経て、かつては戦争の当事者だった私たち日本人も、近年ではその記憶が徐々に薄れてきています。しかし、現代の「平和な日本社会」と「先進国の一員としての立場」は、戦争による大きな犠牲と、「その惨禍を二度と繰り返すまい」と誓った生き残った人々による復興と平和への強い意志が土台となって築かれたものです。夏は「歴史の季節」です。書店に足を運ぶと、「戦争関連の歴史書のコーナー」が作られていると思います。皆さんが興味のある人物・事件・題材、何でも構いません。それらをきっかけに歴史を学び直し、「戦争の悲惨さ」と「平和の尊さ」を次世代にきちんと伝えていける、「歴史から学んだ教訓を、自分の言葉で語ることのできる大人」になってください。
当時の潜水艦で日本からアフリカ回りで大西洋を横断してドイツまで行くのは大変なことだっただろう。ドイツでは日本の潜水艦を見て「これでよく大西洋を横断してドイツまで来た」と驚いたと言う。防音などが全くできておらず太鼓を叩きながら航海しているようなものだったと言う。向こうで防音工事をしてもらった潜水艦もあったと思う。それでも5回のうち伊8は無事に日本に戻り1次と4次はシンガポールまで戻ってきている。1次はシンガポールで日本海軍の機雷に接触して沈没、4次はシンガポールで便乗者や緊急資料などを下ろして日本に向かう途中に米軍の潜水艦に撃沈された。よくぞ頑張ったものだと思う。そして戦争末期、ほとんどメモ程度の資料からあの混乱期にジェット戦闘機「橘花」、ロケット戦闘機「秋水」などを作った日本も大したものではある。レーダーは日本でも何種類か作られてはいたが、小型大出力のマグネトロンの制作ができずにその精度は英米に大きく劣っていた。当時のレーダー技術の最先端は英国でドイツも英国には技術的に遅れていたようだ。当時、イタリアの位置に日本があれば日独でヨーロッパは制圧できたかもしれないが、最終的に米国に打ち負かされただろう。当時、海軍には「2600年の皇統と歴史を持つ日本がナチスと手を組むなど山賊と手を組むようなものだ」と言うものもあったが、まさにその通りで日独伊三国同盟など凍結して中国との講和の仲介を英米にやらせて日本は中立で戦争の成り行きを見ていればよかった。もっとも米英寄りの立場にいたら朝鮮戦争とベトナム戦争は日本が中心になって戦わなくてはならなかっただろう。どっちが良かったのか、それは何とも言えないが、・・。とにかく急迫不正の侵害を受けた場合を除いて戦争などすべきではない。これだけは間違いのない真実だが、人間が存在する限り戦争はなくならないだろう。これも真実と思う、‥(^。^)y-.。o○。