日本陸軍を暴走させたのが組織トップの将軍クラスではなく、陸軍省や参謀本部の中堅エリート幕僚らだったことはよく知られている。帝京大学の戸部良一教授は「陸軍はトップのリーダーシップを欠いたまま策動し、自らは責任を取らないパターンが常態化した」と指摘する。そのエリート幕僚らの行動原理に「独断専行」がある。代表的な軍人が辻政信参謀だ(終戦時は大佐)。重要な戦場で独断専行し、いったんは左遷されるものの結局は陸軍中枢に迎えられた。戦後は衆院・参院議員に当選した。辻参謀の研究はビジネス社会の人事政策へもヒントを与えてくれそうだ。
首席卒業、「作戦の神様」と呼ばれた優秀さ
「独断専行」とは、急変する戦場で命令を待っていては対応が遅れてしまう場合、現地で自主的に判断、行動することを本来指す。第1次世界大戦後の陸軍で奨励されたが、やがて上官の命令を無視したり全く逆の行動を取ったりすることを意味するようになった。辻はノモンハン事件(1939年)、フィリピン攻略(41年)、ガダルカナル島防衛(42年)などで独断専行を繰り返したとされる。
一方で辻は「作戦の神様」と異名を取った優秀な幕僚でもあった。陸軍地方幼年学校、同中央幼年学校、同士官学校を全て首席で卒業し、難関の陸軍大学でも一発合格を果たした。卒業時は3番という大秀才だった。辻がその才能をフルに発揮したのが開戦直後の「マレー攻略戦」だ。「銀輪部隊」など現地の特徴に合わせた臨機応変の機動力で、日本軍はマレー半島上陸後に約70日で1000キロ以上を南下し、シンガポールを陥落させた。その多くが危険を省みずに最前線で情報収集・分析した辻の計画に負っていたという。
戸部教授は「旺盛な攻撃精神と積極果敢さを重視する日本軍の伝統的・正統的な戦法を、戦場の特徴に合わせて柔軟に応用した」と評価する。参謀には本来、部隊を指揮したり命令を下したりする権限はない。しかし現地でタイムリーに打ち出す独断専行はうまく機能することも多く、辻は英雄視された。翌年には参謀本部の作戦班長という花形ポストが用意された。
ノモンハン事件で左遷、しかし返り咲く
ただ当然ながら、独断専行は「一歩間違えば組織を混乱と無秩序に陥れかねなかった」(戸部教授)。その失敗例がノモンハン事件だ。ソ連との国境紛争がエスカレートしていき事実上の戦争に突入した。当時「関東軍」作戦参謀だった辻は終始積極論へ全体をリードし、出撃計画を立案、実行に移した。参謀本部の自重を促す指示は無視した。結局は機械化が進んだソ連軍に敗れ、本人も中国内陸部に左遷されたが、1年後には参謀本部の戦力班長へ栄転した。
辻の著書「ノモンハン秘史」は、戦場の生々しい状況が詳しく描かれており独特の迫力がある。こうした著作にありがちな自己弁明じみた記述がない代わりに、「戦争は最後に敗けたと感じた者が敗けたのである」と締めくくるあたり、独断専行への反省も感じさせない。甚大な損害を出した作戦を、最も強力に推進した「主犯」なのに、なぜ中枢に返り咲けたのか。
組織の論理超えた普遍的価値観を示す
戸部教授は「辻の『現場主義』という行動力を誰も否定できなかったからだ」とみる。ノモンハン事件では何度も前線を視察し、爆撃作戦には自ら参加した。マレー攻略戦など、ほかの戦場でも常に前線に出たため、たびたび負傷したという。現地の実情を肌で知っているということが辻の何よりの強みだった。
「現場主義」だけではない。陸軍が理想とした「質実剛健」「積極果敢」「率先垂範」といった理念を、辻は日ごろからまじめに追求していた。人間的には清廉で部下の面倒を親身になってみる一方、料亭や宴会に通う同僚を嫌った。このため士官学校の生徒や一般の将兵からは人気があったという。終戦直後にタイ・中国へ逃亡した経緯を綴(つづ)った「潜行三千里」はベストセラーになった。その後立候補した国政選挙を手伝ったのは、辻参謀を慕う元部下たちだったそうだ。
「積極果敢」も「率先垂範」も本来は「軍事組織の機能を最大化するために陸軍が掲げたもの」(戸部教授)だ。ただそうした組織の規範に忠実な人間を叱責するのは難しい。辻の行き過ぎに眉をひそめる上官もいたが、強くとがめられることはなかった。成功すれば臨機応変の処置と見なされた。
こうしたタイプの部下をどう制御するか。戸部教授は「辻は異能の軍人だが決して異質な分子ではなかった」として、組織の論理を超えた普遍的な価値で抑えることを提示する。「普遍的な価値に基づいた上で、組織の理念をどこまで追求すべきかの限度を明示するのがリーダーの役割だ」(戸部教授)。目の前の状況に惑わされず、常識を持ち合わせていつでも冷静な判断を下せるリーダーを育てておくのが人事政策の重要なポイントとしている。
ノモンハンの経験が対米開戦論に
一方、辻がノモンハン事件から何も学ばなかったわけではない。ソ連軍の真の実力を知ったため、41年の独ソ開戦時にはドイツに呼応して対ソ攻撃に踏み切るべきだとの国内の「北進」論を抑える側に回った。独ソ戦はドイツが楽観するように簡単には片付かないとの見通しだった。
その代わりに、米英との衝突を覚悟しても石油資源を獲得すべきとの「南進」論に組みするようになった。ノモンハンの経験が対米英開戦の主張に結びついたわけだ。現代経営学は成功の記憶よりも失敗体験の方から学ぶことが多いと教えている。しかし「失敗の経験から正しく学ぶべきことがいかに難しいかを辻のケースは示している」(戸部教授)という。
良質の戦史研究、ビジネスにも応用を
戸部教授に今後の研究課題などについて聞いた。
ーー日本の敗戦の原因は陸軍が政治介入し暴走したからという議論をよく聞きます。
「昭和戦前期の日本の軌道を狂わせた責任の全てが陸軍にあったわけではないですが、国家の変調に最も大きな影響を与えたのが陸軍であったことも間違いありません。前近代的だったから暴走したのでなく、近代的な専門教育を受けたプロ軍人が組織を劣化させたことが大きな特徴です」
「陸軍大臣や参謀総長は官僚組織としての主張を政府に押しつける役割で、リーダーシップを発揮したわけではなかったのです。優れた戦略は洞察力と大局観を持った指導者に負っていることが多く、リーダーシップの欠如は戦略性の欠如につながりました」
ーー東条英機元首相には戦略ビジョンに欠けていたことが指摘されています。
「勝つためのビジョンが描けませんでした。米英はまず『ドイツに勝つ』という戦略ビジョンが確立していました。日本は、米国に継戦意志を放棄させるには中国を降伏させるか、ドイツ軍と連携し英国を屈服させるということを考えただけで、勝つためのビジョンではなかったのです」
「『アジア解放』の理念も中途半端でした。しかしこの考えが実際の作戦計画に悪影響を及ぼしたことはなく、むしろ徹底して追求した方が良かったかもしれません」
ーー辻政信参謀のようなタイプはビジネス社会でも「理想の部下・上司」という見方もできます。
「多くのエリート軍人は有能で合理的でさえあったといえるでしょう。しかし軍事問題に限った場合です。組織に必要なのは特定の分野を超えて大局観や政治的英知を持ったリーダーです。組織はそうしたリーダーを意識的に育てていく必要があります」
ーー今後の戦史研究はどう展開していくでしょうか。
「最近は(1)インテリジェンス(2)プロパガンダの2つの面で昭和戦前期の歴史研究が進んでいます。(1)は情報がどう活用されたか、あるいは使われなかったかの検証だ。宮杉浩康(明大)、関誠(帝塚山大)、小谷賢(日大)の3氏の研究に注目しています。(2)については「思想戦」という視点から海外にも優れた研究者が出てきています。日中戦争については中国や台湾の研究者との共同研究も始まりました。これまで利用できなかった中国側の資料を使った新しい研究が出てくることを期待します」
「日本では欧米に比べて戦史研究が先細りになっています。若い研究者が積極的にこの分野に取り組んでほしいと思いますね。良質の戦史研究は国家経営やビジネス面に応用できる可能性を持っているのではないでしょうか」
責任を取らなくていい立場の人間であればどんなことも果敢にやってのけることができる。うまく当たることもあるだろうし、失敗することもあるだろう。当たったときは称揚されて失敗しても致命的な責任を被らない。辻と言う男はそんな状況で何万と言う将兵を死なせている。責任があるからこそ、計画は慎重かつち密にやらざるを得ないし、とんでもない冒険も出来ない。責任を取るべき立場にない人間が権限を行使するなどあり得ない。そのあり得ないことをやりたい放題やらせていた帝国陸軍が崩壊したのは当然だが、国家を人質にするのはやめるべきだっただろう。東条英機が勝つためのビジョンを描けなかったというが百戦必敗の戦いで勝つためのビジョンもへったくれもない。もしもそんなビジョンがあればそれは野望と言うものだろう。戦史は非常の多くの教訓を含んでいる。ただ「平和、平和」と念仏のように唱えて目を背けずにその時代の人間が血であがなった教訓を大いに研究して活用すべきだろう。
Posted at 2018/09/11 16:25:17 | |
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