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2018年09月11日 イイね!

大型二輪に乗ろう(好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ、・・(^。^)y-.。o○)




CB1300スーパーボルドールを修理に入れてその代車としてCB1100を借りてきた。CB1100はCB1300に比べるとちょっと小ぶりで大きさ同様にパワーもちょっと小ぶりでカウルがないので風圧がきついが、安定感はそこそこあるなどと聞いた風なことを書いたが、考えてみればバイク乗りもずい分進歩したものだ。


6年前にひょんなことから普通二輪小型限定の免許しかないのに「大型二輪に乗ってみるか」などと野望を企て、限定解除して400Xに乗り始めたころは『一番大きいバイクは750、400なら相当に大型、・・、何十年か前はそうだった、・・(^。^)y-.。o○』などと大昔のバイクの知識が頭に浮かんでバイクたるものの何たるかも知らずに原付にも抜かれながらよたよたと走り、そして大胆不敵にもCB1300スーパーボルドールに一目ぼれして大型二輪免許を取り、バイクについてもバイク雑誌を読み漁り、様々研究し、四輪でもめったに行かなかった泊りがけツーリングも名古屋を皮切りに滋賀、福井、京都などに年数回出かけるようになるなどバイク道に邁進して走った距離は4万キロ、高速でも山坂道でも街場でもどこでも走り回り、借り受けた大型バイクも難なく乗りこなして一人前のインプレなども言えるようになった。


考えてみれば大昔にCM125TやCD125T、スーパーカブなどを仕事や私用でよたよたと乗って以来、ずい分長い間バイクとは縁にない生活をしていたのだが、偶然のきっかけでバイクの免許を取りバイクにはまり込んだのも何かの縁なんだろうか。


他人は「そんなでかいバイクによく乗るねえ」などと言うが、よたよた走っていたのが、今では箱根の山坂道をガンガン走る。好きこそものの上手なれというが、自分ではバイクに乗るのがうまいとは思っていないけど、それでもなんとかなるんっだねえ。乗っていれば、・・、ついでにエンジンの不調も何とかなってほしいけどね、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2018/09/11 16:26:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | バイク | 日記
2018年09月11日 イイね!

責任を取らんでいいものが好き勝手やれば組織は崩壊する、・・(^。^)y-.。o○。




日本陸軍を暴走させたのが組織トップの将軍クラスではなく、陸軍省や参謀本部の中堅エリート幕僚らだったことはよく知られている。帝京大学の戸部良一教授は「陸軍はトップのリーダーシップを欠いたまま策動し、自らは責任を取らないパターンが常態化した」と指摘する。そのエリート幕僚らの行動原理に「独断専行」がある。代表的な軍人が辻政信参謀だ(終戦時は大佐)。重要な戦場で独断専行し、いったんは左遷されるものの結局は陸軍中枢に迎えられた。戦後は衆院・参院議員に当選した。辻参謀の研究はビジネス社会の人事政策へもヒントを与えてくれそうだ。


首席卒業、「作戦の神様」と呼ばれた優秀さ
「独断専行」とは、急変する戦場で命令を待っていては対応が遅れてしまう場合、現地で自主的に判断、行動することを本来指す。第1次世界大戦後の陸軍で奨励されたが、やがて上官の命令を無視したり全く逆の行動を取ったりすることを意味するようになった。辻はノモンハン事件(1939年)、フィリピン攻略(41年)、ガダルカナル島防衛(42年)などで独断専行を繰り返したとされる。

一方で辻は「作戦の神様」と異名を取った優秀な幕僚でもあった。陸軍地方幼年学校、同中央幼年学校、同士官学校を全て首席で卒業し、難関の陸軍大学でも一発合格を果たした。卒業時は3番という大秀才だった。辻がその才能をフルに発揮したのが開戦直後の「マレー攻略戦」だ。「銀輪部隊」など現地の特徴に合わせた臨機応変の機動力で、日本軍はマレー半島上陸後に約70日で1000キロ以上を南下し、シンガポールを陥落させた。その多くが危険を省みずに最前線で情報収集・分析した辻の計画に負っていたという。

戸部教授は「旺盛な攻撃精神と積極果敢さを重視する日本軍の伝統的・正統的な戦法を、戦場の特徴に合わせて柔軟に応用した」と評価する。参謀には本来、部隊を指揮したり命令を下したりする権限はない。しかし現地でタイムリーに打ち出す独断専行はうまく機能することも多く、辻は英雄視された。翌年には参謀本部の作戦班長という花形ポストが用意された。

ノモンハン事件で左遷、しかし返り咲く
ただ当然ながら、独断専行は「一歩間違えば組織を混乱と無秩序に陥れかねなかった」(戸部教授)。その失敗例がノモンハン事件だ。ソ連との国境紛争がエスカレートしていき事実上の戦争に突入した。当時「関東軍」作戦参謀だった辻は終始積極論へ全体をリードし、出撃計画を立案、実行に移した。参謀本部の自重を促す指示は無視した。結局は機械化が進んだソ連軍に敗れ、本人も中国内陸部に左遷されたが、1年後には参謀本部の戦力班長へ栄転した。

辻の著書「ノモンハン秘史」は、戦場の生々しい状況が詳しく描かれており独特の迫力がある。こうした著作にありがちな自己弁明じみた記述がない代わりに、「戦争は最後に敗けたと感じた者が敗けたのである」と締めくくるあたり、独断専行への反省も感じさせない。甚大な損害を出した作戦を、最も強力に推進した「主犯」なのに、なぜ中枢に返り咲けたのか。

組織の論理超えた普遍的価値観を示す
戸部教授は「辻の『現場主義』という行動力を誰も否定できなかったからだ」とみる。ノモンハン事件では何度も前線を視察し、爆撃作戦には自ら参加した。マレー攻略戦など、ほかの戦場でも常に前線に出たため、たびたび負傷したという。現地の実情を肌で知っているということが辻の何よりの強みだった。

「現場主義」だけではない。陸軍が理想とした「質実剛健」「積極果敢」「率先垂範」といった理念を、辻は日ごろからまじめに追求していた。人間的には清廉で部下の面倒を親身になってみる一方、料亭や宴会に通う同僚を嫌った。このため士官学校の生徒や一般の将兵からは人気があったという。終戦直後にタイ・中国へ逃亡した経緯を綴(つづ)った「潜行三千里」はベストセラーになった。その後立候補した国政選挙を手伝ったのは、辻参謀を慕う元部下たちだったそうだ。

「積極果敢」も「率先垂範」も本来は「軍事組織の機能を最大化するために陸軍が掲げたもの」(戸部教授)だ。ただそうした組織の規範に忠実な人間を叱責するのは難しい。辻の行き過ぎに眉をひそめる上官もいたが、強くとがめられることはなかった。成功すれば臨機応変の処置と見なされた。

こうしたタイプの部下をどう制御するか。戸部教授は「辻は異能の軍人だが決して異質な分子ではなかった」として、組織の論理を超えた普遍的な価値で抑えることを提示する。「普遍的な価値に基づいた上で、組織の理念をどこまで追求すべきかの限度を明示するのがリーダーの役割だ」(戸部教授)。目の前の状況に惑わされず、常識を持ち合わせていつでも冷静な判断を下せるリーダーを育てておくのが人事政策の重要なポイントとしている。


ノモンハンの経験が対米開戦論に
一方、辻がノモンハン事件から何も学ばなかったわけではない。ソ連軍の真の実力を知ったため、41年の独ソ開戦時にはドイツに呼応して対ソ攻撃に踏み切るべきだとの国内の「北進」論を抑える側に回った。独ソ戦はドイツが楽観するように簡単には片付かないとの見通しだった。

その代わりに、米英との衝突を覚悟しても石油資源を獲得すべきとの「南進」論に組みするようになった。ノモンハンの経験が対米英開戦の主張に結びついたわけだ。現代経営学は成功の記憶よりも失敗体験の方から学ぶことが多いと教えている。しかし「失敗の経験から正しく学ぶべきことがいかに難しいかを辻のケースは示している」(戸部教授)という。


良質の戦史研究、ビジネスにも応用を
 
戸部教授に今後の研究課題などについて聞いた。

ーー日本の敗戦の原因は陸軍が政治介入し暴走したからという議論をよく聞きます。

「昭和戦前期の日本の軌道を狂わせた責任の全てが陸軍にあったわけではないですが、国家の変調に最も大きな影響を与えたのが陸軍であったことも間違いありません。前近代的だったから暴走したのでなく、近代的な専門教育を受けたプロ軍人が組織を劣化させたことが大きな特徴です」

「陸軍大臣や参謀総長は官僚組織としての主張を政府に押しつける役割で、リーダーシップを発揮したわけではなかったのです。優れた戦略は洞察力と大局観を持った指導者に負っていることが多く、リーダーシップの欠如は戦略性の欠如につながりました」

ーー東条英機元首相には戦略ビジョンに欠けていたことが指摘されています。

「勝つためのビジョンが描けませんでした。米英はまず『ドイツに勝つ』という戦略ビジョンが確立していました。日本は、米国に継戦意志を放棄させるには中国を降伏させるか、ドイツ軍と連携し英国を屈服させるということを考えただけで、勝つためのビジョンではなかったのです」

「『アジア解放』の理念も中途半端でした。しかしこの考えが実際の作戦計画に悪影響を及ぼしたことはなく、むしろ徹底して追求した方が良かったかもしれません」

 ーー辻政信参謀のようなタイプはビジネス社会でも「理想の部下・上司」という見方もできます。

 「多くのエリート軍人は有能で合理的でさえあったといえるでしょう。しかし軍事問題に限った場合です。組織に必要なのは特定の分野を超えて大局観や政治的英知を持ったリーダーです。組織はそうしたリーダーを意識的に育てていく必要があります」

ーー今後の戦史研究はどう展開していくでしょうか。

「最近は(1)インテリジェンス(2)プロパガンダの2つの面で昭和戦前期の歴史研究が進んでいます。(1)は情報がどう活用されたか、あるいは使われなかったかの検証だ。宮杉浩康(明大)、関誠(帝塚山大)、小谷賢(日大)の3氏の研究に注目しています。(2)については「思想戦」という視点から海外にも優れた研究者が出てきています。日中戦争については中国や台湾の研究者との共同研究も始まりました。これまで利用できなかった中国側の資料を使った新しい研究が出てくることを期待します」

「日本では欧米に比べて戦史研究が先細りになっています。若い研究者が積極的にこの分野に取り組んでほしいと思いますね。良質の戦史研究は国家経営やビジネス面に応用できる可能性を持っているのではないでしょうか」




責任を取らなくていい立場の人間であればどんなことも果敢にやってのけることができる。うまく当たることもあるだろうし、失敗することもあるだろう。当たったときは称揚されて失敗しても致命的な責任を被らない。辻と言う男はそんな状況で何万と言う将兵を死なせている。責任があるからこそ、計画は慎重かつち密にやらざるを得ないし、とんでもない冒険も出来ない。責任を取るべき立場にない人間が権限を行使するなどあり得ない。そのあり得ないことをやりたい放題やらせていた帝国陸軍が崩壊したのは当然だが、国家を人質にするのはやめるべきだっただろう。東条英機が勝つためのビジョンを描けなかったというが百戦必敗の戦いで勝つためのビジョンもへったくれもない。もしもそんなビジョンがあればそれは野望と言うものだろう。戦史は非常の多くの教訓を含んでいる。ただ「平和、平和」と念仏のように唱えて目を背けずにその時代の人間が血であがなった教訓を大いに研究して活用すべきだろう。
Posted at 2018/09/11 16:25:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2018年09月11日 イイね!

恐るべし、走錨、・・(^。^)y-.。o○。




台風21号の強風で関西国際空港と対岸を結ぶ連絡橋にタンカーが衝突した事故で、海上保安庁が業務上過失往来危険容疑を視野に、男性船長(40)らから事情聴取していることが10日、分かった。タンカーが事故前、同庁が台風時に避難するよう推奨している海域ではなく、関空島近くに停泊していたことが判明。船長は「安全だと思った」と説明しているというが、同庁は停泊位置が適切だったかなどを調べる。

海上保安庁やタンカーの運航会社「鶴見サンマリン」(東京都港区)によると、乗組員11人が乗ったタンカー「宝(ほう)運(うん)丸(まる)」(2591トン)は関空島に燃料を荷揚げし、3日午後1時10分ごろに離岸。同1時半ごろ、連絡橋の南約2・2キロの位置で、重さ2・5トンのいかりと長さ195メートルの鎖を下ろし停泊した。

4日に大阪府高石市の製油所で燃料を積み込む予定だったが、台風で5日に延期されたため、4日も同じ場所で停泊。しかし、同日午後1時半ごろ、関空島で観測史上最大の瞬間風速58・1メートルを記録した強風により、海底に下ろしたいかりや鎖が機能しなくなって船が流される「走(そう)錨(びょう)」状態に陥り、同1時40分ごろに連絡橋に衝突した。

海上保安庁大阪湾海上交通センターは同1時以降、2度にわたって船舶電話で「走錨している可能性がある」と宝運丸に注意喚起。宝運丸はエンジンをかけ、連絡橋と反対側に進むことで衝突を避けようとしたが、たえきれなかった。

関空周辺では「走錨」が過去にも相次いでおり、同庁は関空島に座礁する恐れがあるとして、荒天・台風時には「関空島から原則3マイル(約5・5キロ)以上離れた場所」への避難を呼びかけていた。船長はこれを把握していたが、運航会社に対し「紀伊山地や関空島の陰になって強風を防ぐことができ、最適な場所と判断した」と説明したという。

3マイル以上離れた場所への避難に法的義務はないが、同庁関西空港海上保安航空基地は、避難していれば事故を防げた可能性があると判断。すでに船長や乗組員の事情聴取を始め、停泊位置に関する判断の妥当性などを調べている。

橋の道路部分などを管理する「ネクスコ西日本関西支社」の担当者は「今後、修理費などの負担をどうするか、損害賠償の有無を含めて関係機関と協議する可能性がある」としている。



錨を降ろした状態で船が動き出すともうどうにも手が付けられないそうだ。錨を巻き上げることもできずそうかと言って錨が正常な状態に戻ることもなくエンジンをかけても船の動きを止めることはできないんだそうだ。そんなわけで昔の海軍では荒天時に錨泊しているときは常に主機をかけて艦首を風上に立てるよう操艦していたという話を聞いたことがある。戦艦などが走錨を始めたら目も当てられないだろうし、艦長は切腹ものだっただろう、・・(^。^)y-.。o○。


Posted at 2018/09/11 16:23:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記

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ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
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