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2022年12月10日 イイね!

太平洋戦争は必要不可避の戦争だったのか、・・(>_<)?

今年も12月8日が過ぎたが、この日が来るたびに「なんで日本は米国などにケンカを売ったのか」とつくづく思ってしまう。当時の日本の経済力は対米9%で1割にも満たない。当時の日本は繊維,食料品,皮革製品,木製品などを生産する軽工業が中心で重工業などはその技術においても欧米に数年からひどいものは10年以上も遅れていた。

特に電子、電気、航空、内燃機関、冶金など多くの分野で遅れが目立っていたし、工業生産でも米国などの機械化には後れを取っていた。エンジンのシリンダー生産などでも日本では複数のボルト穴を1本ずつ開けてから別の機械で面取りをしていたそうだが、米国製の工作機械では一度に複数のボルト穴を開けて面取りまで1台の機械でやってしまったそうだ。まあ今の北朝鮮はGDPは米国の2千分の一と言うからそれよりはずっとましだろうが、それにしても総力戦で生産力が敵の1割しかないというのは相当にまずい。

当時の日本は国内の経済不調を海外進出によって解消しようとしていたが、その海外進出を武力でなそうとしたのはまずかった。海軍のある士官が、「物資が欲しければ軍艦を作る金を削ってその金で買えばいいのに武力で分捕るなどと野盗山賊の類のことをすべきではない」と言ったそうだが、全くその通りで、当時中国では国民党と共産党が対立していたのだから日本は国民党に軍事、経済両面で支援でもしてやって中国の共産化を防止していれば戦後の歴史は変わったかもしれない。

しかし当時の陸軍は勢力拡大のために軍事力行使をしたがっていたし、また今はハト派の代表のような外務省も当時は陸軍でもビビるような強硬派だったそうだ。また海軍は米国と戦えば負けるとわかっていたのに戦えないと言ったときに予算を陸軍に分捕られると困るとか、それじゃあ海軍が責任を取れと言われると困るとか、そう言った自己保身が先に立って当時唯一陸軍と対峙して抑え込むことができる組織だったのにその責任を放棄してしまった。

陸軍でも米国と戦って勝てないことが分かっている高官も多くいたようだが、口を噤んでしまった。日本は内部の和を重んじる社会だから声高に主張する勢力が強いとそれに反対することは和を乱す行為としてやりにくいのかも知れない。仮に天皇陛下が開戦に反対したとしても止められなかったというのでは仕方がないだろう。そして確たる勝利への道筋を立てることができないままに戦争へと突入して良識派の予想通りに米国と何とか5分に戦えたのは2年、それ以後は一方的に押しまくられてコテンパンに負けてしまった。

もっとも侵略戦争と言うが、侵略戦争は日中戦争でその後の米国との太平洋戦争は侵略でも何でもない太平洋の覇権をかけた日米の戦いだった。だから米国とは五分と五分だったのだが、負けてしまえば正義は向こうの手に委ねられてしまう。米国もナチスと手を組んでいる日本を何とか戦争に引き込みたいとあれこれ裏で手を打っていたようだが、日本は見事にそれに乗せられてしまった。

英国は最後まで比較的日本に同情的だったというので英国を窓口として米国に対中戦争の講和の仲介を依頼して対中戦争に終止符を打ち、三国同盟は中立を宣言することと東南アジアから兵力を引き上げることで米国に石油の禁輸を解除させ、満州国は民族の自決にゆだねるなんてことは当時の日本としては不可能だっただろう。

今時の感覚で言えばあんな戦争なんかやる必要はなかったということになるが、当時は欧米が植民地主義で利益を上げていたので後発国の日本も何とかその手で利益を上げて経済を好転させ、その功績で軍を巨大化させてポストを増やしていい目を見ようということだったんだろう。もっとも太平洋戦争がなくて日本が米国側にあったとしたら戦後の朝鮮半島や東南アジアの共産化を原因とする戦争には日本が矢面に立って戦うことになっただろう。特に朝鮮半島は当事者として共産軍を押し止めることになっただろう。

戦争はいけないというが、戦うことで利益を得ようとするのは人間の本性だから人間が存在する限り戦争はなくならない。武器で戦うのも金で戦うのも頭で戦うのも本質的には似たようなものだ。今のロシアにしてもあんなバカなことで世界の批判を浴びて国力をそがれているならその分を自国の経済発展にでも使えばいいと思うが、プースケのような奴は愚かなことを考えて武力に頼るという選択をするのだろう。今の日本の防衛費GDP2%も米国辺りから「今の状況でアジアで何かしらの事態が起こってもこっちはそうそう手を出しかねるからお前んところもそれなりに金を使ってしっかりと備えをしてくれよ。頼むぞ」とか何とか言われての結果だろう。全く人の世に戦いの種は尽きない。困ったものではある、・・(>_<)。

Posted at 2022/12/11 00:47:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2022年12月10日 イイね!

桶狭間の戦い、その真の姿は、・・(^_-)-☆。

これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長が今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)


■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数
永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮(名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

■昼までには大勢が決まっていた
今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康(徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

■信長が見た勝機
信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

熱田神宮(名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

■突如、雹混じりの雨が降る
5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

■「海道一の弓取り」の最期
信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

■桶狭間の戦いは奇襲だったのか
ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った。義元の2万~4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2000~3000の兵のみだった。とはいえ、義元の率いた2万~4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

■奇襲説の根拠は「不適切」な史料
ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

■有力な正面攻撃説の中身
最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ
『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者:1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。


桶狭間の戦いの奇襲説は帝国陸軍が戦史研究でそう記載していたという。それは基本的に火力装備に劣る当時の陸軍をして奇襲による勝利を印象付けるためだったようだ。要するに少ない兵力でも奇襲を活用すれば勝てるとすり込むためだった。その大元は小瀬甫庵『信長記』でこれはほとんど創作と言ってもいいようなもので江戸時代におけるエンターテインメント的な歴史小説だった。今川勢は上洛のために進軍したというが、実際には織田との国境紛争に決着をつけるためで上洛にしては織田以外にも斎藤、浅井、三好、六角など京都までの間には敵が多すぎた。今川の兵力は2万5千ほどだが、戦闘部隊は1万5千程度、残りは兵站補給部隊で戦闘力はなかったという。織田側は5千から6千、出城に貼り付けている兵力が2千程度、そうすると信長の手勢は3千ほどになる。今川方は丸根、鷲津の攻略に1万ほどの兵力を割いていたので義元の本陣を守っているのは5千ほど、その5千も戦勝に浮かれて乱取りなどに出ている部隊もあるので実際にはもっと少ない。もしも5千としても信長は自分が手塩にかけた精鋭2千を使えば勝てると踏んだのだろう。そして突然の豪雨に今川勢が休息を取っていた桶狭間山に正面方突撃した。今川勢は織田の主力は清須城にいると思っていたのでまさか正面切って攻め込んでくるとは思わなかったんだろう。今川勢は混乱する中、親衛隊が義元を守って退却するが、織田勢の突撃に数を減らし、遂には義元は打ち取られた。今川義元も貴族趣味の軟弱武将ではなく知性派で領地経営にも優れ、軍事面でも有能だったそうだが、当時の合戦は劣勢な側は城の籠城するというのが常識で優勢な側は出城を落としながら本丸に迫り、有利な条件で和睦を引き出すか、場合によっては包囲殲滅することもあった。しかし戦国時代と言っても無暗に戦って損害を出せば自軍も傷つくので適当なところで手を打つというのが常識だったようだ。だから義元も織田を圧倒する大兵力で攻めて行けば国境紛争に片がつくと言ったレベルだったんだろう。それがまさか信長が精兵2千を率いて本陣に正面攻撃をかけてくるなどとは予想もしなかったのだろう。その辺はやはり信長の常識にとらわれない発想と実行力が功を奏したということだろう。また織田方も義元を打ち取ると言うのではなく今川軍に一撃を加えて出血を強要して追い返すという程度で攻撃を仕掛けたところ義元の本陣まで達してしまったというところかもしれない。戦いは錯誤と失敗の連続で少なく失敗した方が勝つという。桶狭間もそうだったのかもしれない。ただこれ以後信長は桶狭間のような乾坤一擲の博打のような戦いはしていないというので信長にしても伸るか反るかの一戦だったんだろう。だからこの戦いは何万の軍勢を率いた今川義元に数千の信長が挑んだと言うのではなく今川の戦闘兵力は1万5千程度、織田方は5,6千、尾張の石高が57万石とか言うのでもう少しいてもいいのだが、領内の平定を終えたばかりで従う勢力はその程度だったのかもしれない。そして今川方は前線に1万を展開して本陣を守るのは5千程度、織田方は出城に2千ほどを配置して手勢は3千、そのうち千を善照寺、中島の砦に残して直轄部隊の2千を率いて正面から突撃した。そうすると5千対2千で、今川方が油断していることを考えればさほどの戦力差ではない。桶狭間の戦いは迂回奇襲ではないが、結果としては今川方にとっては奇襲に等しい戦いだったのかもしれない。織田信長と言う人は総大将として後方に控えているのではなく常に最前線にあって部下を叱咤激励して勝利を収めてきたという。その大音声と言えるほどの大声に敵は震え上がり味方は奮い立ったというからカリスマがあったんだろう。ただ織田軍が数万の大軍勢になると戦線は拡大して数方面にわたり信長が直接前線に出ることもなくなったそうだ。織田信長と言う人、いろいろ言われるが、少なくとも不世出の天才戦略家だったんだろう。それは間違いない、・・(^_-)-☆。
Posted at 2022/12/10 22:39:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
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