
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第11回は、ドイツの急降下爆撃機の活躍に影響され、日本陸軍が双発の急降下爆撃機として開発を求めた「隠れた優秀機」たるキ66である。
日本陸軍は、ピンポイント爆撃を得意とするドイツのユンカースJu87シュツーカ急降下爆撃機の活躍ぶりと、海軍が輸入した緩降下爆撃が可能な同Ju88双発爆撃機に触発されて、以前から急降下爆撃機に着目していた。そこで太平洋戦争開戦直前の1941年9月、川崎航空機に対して、双発急降下爆撃機の開発を要請する。
これを受けた川崎航空機では、優秀な99式双発軽爆撃機を設計した土井武夫(どいたけお)技師が担当して設計が進められた。キ66と呼ばれた本機の外見上の特徴は、両主翼の下面に簀子状のダイブブレーキ(急降下ブレーキ)を備え、爆弾は外装式ではなく胴体下面の爆弾倉に搭載するというものだった。しかし全体的なデザインは、やはり成功作の99式双発軽爆撃機に似たものとなった。爆弾搭載量は300~500kgで、機首に12.7mm機銃2挺、後部銃座に7.7mm機銃2挺を備える。最大速度は535km/hで乗員は2名だった。
試作第1号機は、太平洋戦争開戦後の1942年11月に完成し、1943年2月からフライトテストが行われた。全般的な飛行性能は至極良好だったが、最大速度をさらに速くしてほしいとの要望が陸軍より提示された。だが当時の川崎航空機には、既存機種の戦時増産体制のなかでこの要望に応える余裕がなかった。そうこうしているうちに、99式双発軽爆撃機にダイブブレーキを取り付けたところ、完全とはいかないまでも相当な急降下爆撃に対応できることが確認できた。そこで全ての航空機生産が逼迫している戦時下の情勢も鑑(かんが)みて、わざわざキ66を造らなくてもよいのではないかという意見が当の陸軍内部からも聞かれるようになり、結局、本機は不採用となった。こういった事情により、本機の実際の生産機数は、試作機と増加試作機を合計しても6機にすぎなかった。しかし優秀な低空襲撃機に転用できる可能性もあったので、もし当時の日本の航空機生産能力に余力があり、本機が生産されていたなら、それなりの戦果を残していたものと思われる。(白石 光)
日本陸軍は双発の襲撃機をキ45改(二式複戦)、キ96、キ66、キ102、キ93だのと多数試作したが、ものになったのはキ45改だけであとはほとんどが試作で終わっている。日本の爆撃機は重爆だの軽爆だの襲撃機だのと言うが、爆弾の搭載量も大して変わらず人ばかり乗せているが、地上攻撃などは二式複戦に250キロ爆弾2発程度を積んで行けば十分間に合っただろう。二式複戦の後継はキ96辺りで十分だろう。日本のように人的物的資源がない国は試作機を絞って開発を進めないといけない。陸海軍が仲が悪かったのでお互いに別個に機体の開発を進めていたが、できれば長距離遠戦は海軍、局地戦闘機は陸軍、近接支援機は陸軍、重爆は海軍と言うようにお互いに機種を分担して開発すればよかった。それが出来なくてもキャパが大きい双発機は対地攻撃、高高度迎撃など様々な任務に適合するので二式複戦、そしてその後継機にマルチロールな役割を負わせてもよかったのではないだろうか。双発戦闘機は単発戦闘機と空戦をしても勝てないが、速度や搭載量に余裕があるのでマルチロール的な役割を負うことが出来ただろう。99式双軽などは無駄な機体だったように思う。二式複戦で十分その役割を大体できただろうからだ。その後継はキ96、キ102辺りだろうか。キ66も必要な機体とも思えない。ただ当時はそうしたマルチロール機という発想がなかったのかもしれないが、・・。キ66は機体としては出来のいい優秀な機体だったそうだが、陸軍の用法が定まらなかったために開発中止となったようだ。
Posted at 2023/08/02 23:57:03 | |
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