連合艦隊司令長官としての山本五十六は、国民的人気を獲得した絶頂期を迎えた。名将・山本論はだいたいこの辺までの“大戦果”をもとに形成されていった。
しかし、つづくミッドウェー海戦(1942年6月5日)の大敗は、国民にはもちろんのこと首相兼陸軍大臣の東条英機に対してさえも知らされなかった。真珠湾ほどの大勝ではないにしても、なんだか勝ったような大本営発表があり、完敗したなどとは誰も想像しなかった。
海軍はミッドウェー海戦の敗北をひたすら秘匿隠蔽し、もちろん、勝利を目指して共に戦っている陸軍にも一切実情を知らせなかったのである。
太平洋戦争に負けた後も、山本英雄視は揺るがなかったが、冷静な戦史家の間では、山本は果たして言われるほどの名将だったのか、という論評が加えられることがしばしば起こった。そういう中で、海軍兵学校出身で敗戦時は少尉に過ぎなかった作家・生出寿氏が著わした『凡将・山本五十六』(1983年、現代史出版会)は、関係者の間で驚きの声を以て迎えられたのである。
今日でも、生出氏ほど正面切って山本批判を行う論者はいない。山本の名を出さなくとも、戦争は事実として負けたのであり、敗北が容易に予想された無謀な戦争であったという批判は十分に出来るからである。
しかし生出氏は“凡将”論の冒頭で、敢えて「なぜ連合艦隊司令長官の職を賭しても日米戦を阻止しなかったのか」と、根源的な疑問を問いかける。山本が開戦に反対し、その時々のポストに応じてさまざまな働きかけをしたことはすでに触れた。それでもなお、生出氏は阻止に職を賭すべきだったと、手厳しい。
この人は山本連合艦隊司令長官にはなかなか手厳しい。ただ、井上成美大将は、山本大将について評価はしていたが、同様に、「近衛首相に対してどうして半年や1年は戦えると言ったのか。どうしてやれば負けます。それで連合艦隊司令長官の資格がないと言うなら辞職しますと言わなかったのか。山本さんのために惜しむ」と言ったそうだ。当時の海軍の首脳はほとんどが『米国と戦えば負ける。米国とは戦えない』と考えていたと言うが、負けるからできないと言って「じゃあ、海軍が責任を取れ」と言われるのをかわすために「和戦の決定は総理に一任」と逃げてしまった。『バカな陸軍、ずるい海軍』と言われるのはこの辺りだろう。
山本大将が名将だったのか凡将だったのか、その辺りはいろいろ議論はあるだろう。ただ他に誰かいたのかと言えば誰もいなかったのだろう。日本海軍は軍令承行令によって指揮権継承の順位が厳格に決められていた。能力があっても下位の者がその地位に入る余地はなかった。海軍で英米と戦ったら日本は負けると公式の場で言ったのは三国同盟に揺れる平沼内閣の五省会議で海軍大臣だった米内大将だけで他には後にも先にもそれを言ったものはいない。井上大将がその立場にあったらそう言ったかもしれない。
仮にあの時期に山本大将が職を賭して反対しても開戦は避けられなかっただろう。「吉田大将に代わって海軍大臣になった嶋田大将ではなく井上大将、当時は中将、を海軍大臣にすればいいのになあ。井上なら東条と堂々と渡り合えるのに、・・。」と山本大将は言ったそうだが、これも実現しなかった。
開戦が不可避なあの時期、海軍の実働部隊の頂点である連合艦隊司令長官の立場にあって「負けるからやれない。やれと言うなら辞職する」と言うのは相当な蛮勇がないと言えないだろうし、わがままとも言えなくはない。それで辞職しても後任が任命されて戦争は始まっただろう。山本大将は誰がやっても戦争が止められないことは理解していらだろう。それなら自分の責任においてと覚悟したのかもしれない。
米内、山本、井上の海軍トリオが命を懸けて三国同盟締結に反対していた状況を米内大将は「ナイアガラの滝の1町か2町手前で舟をこいでいたようなもの。大河の流れは棒杭の1本や2本では止められない」と言ったそうだが、まさにその通りだろう。山本大将が名将か、凡将かは別にしても、あの状況で職を賭しても戦争を止めなかったから凡将だと言うのは酷に過ぎるかもしれない。もっとも本人が聞いたら「全くその通りで一言もない」と笑ったかもしれないが、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2017/08/15 19:36:19 | |
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