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2022年12月12日 イイね!

消えてしまった車の装備だって、・・(^_-)-☆?

当時はとても画期的な装備もあった!
クルマの装備というのは、時代によってけっこう進化しているもの。それはコストも関係していて、登場時は高価な装備だったのが普及することで量産され、安くなったことで、さらに一般的になるというのもある。その影響で以前の装備はなくなったりするのだが……。いずれにしても、装備は時代を写す鏡ということで、昭和の時代では当たり前だった装備を見てみることにしよう。

ロッドアンテナ
今でも軽の商用車では手で伸ばす引き出し式のアンテナが付いているが、昭和の時代はこれを豪華にしたものが存在。例えば、オーディオをオンにすると自動で伸びるオートアンテナと呼ばれた、電動伸縮タイプはちょっとした憧れの装備のひとつ。なかにはスイッチで伸び縮みを任意でできるものもあった。

くるくるウインドウ
現在は絶滅したと言っていいが、見たことがある方は多いだろう。電動ではなく、手動でハンドルを回してウインドウを上下させるもので、自分が座っている側を操作するのはいいとしても、反対側や後席を回して開閉するのは困難だった。ETCが普及した今では手動でも不便はないかもしれないが、高速道路などの料金所でくるくると回して窓を開けて料金を払ったりするのは、かなりの面倒だった。電動は1970年代には普及し始めたが、憧れの装備ゆえ、モーターをかぶせるという後付けもあった。

灰皿
いつの間にか絶滅してしまったのが灰皿。ここまで禁煙が広まると当然だろうが、その昔は前だけでなく、後席用もあったのはあらためて思うと驚きだ。ガソリンスタンドではサービスで芳香剤の玉を入れてくれることもあったが、コーヒーの粉を入れると消臭&香ばしい香りがするというこだわりテクもあった。

シガーソケット
灰皿ともどもなくなったというか、正確にはソケットは12ボルト取り出し用として残っているが、完全消滅はシガーライターだ。押すと電気が通って、先端の電熱線が熱くなってタバコに火が点けられるというもの。昭和の時代は、ドライブとタバコは切っても切れない関係だった。

チョーク
年齢によってはチョークと言われてもなにがなにやら、かもしれないが、ステアリングの下あたりに付いていて、引っ張ると燃料が濃くなりエンジンが掛かりやすくするもの。キャブレター時代ならではの装備で、冬場はこれがないと始動が困難なほど。夏には不要であり、暖まっても引きっぱなしだとかぶってしまい、不調の原因にもなった。また引き具合によって掛かりが違うので、そのあたりの見極めも運転上手かどうかのポイントのひとつだった。

キンコンブザー
昭和の装備を語るのに鉄板な装備といえるだろう。100km/hを越えると警告のために「キンコンキンコン」とアラームが鳴り響いた。今のようなデジタル音ではなくアナログな感じで、けっこううるさかったため、外してしまう人もいた。法律で定められたものではなく、自主規制的な装備だったので、取り外しても別に問題はなかった。

アンメーター
メーターも時代によって装備されるものが異なり、最近はデジタル化が進んで以前とはまったく別物になっている。無くなってしまったメーターもあるが、油圧などはスポーツカーには存在することもある。逆に完全に見なくなったのが、アンメーターだ。これは発電と使用している電気の量を表示するもので、プラスとマイナスがあり、マイナスになると使用量が上まわっていることになって、信号などでライトを消したりした。発電機の性能が低かった時代ならではのメーターというわけだ。

パーキングランプ
路肩などに止めるときに自車アピールのためにライトを点灯させるためのスイッチ。スバル車が比較的最近まで採用していた。Pの文字が付いていたが、当時から使い方を知らない人はけっこういたと思う。スバル車はキーをオフにするとライトの電源もオフになるため、このスイッチを装備していた。ハザードでいいのではと思うかもしれないが、そもそもはハザードが不要の時代にルーツがある装備だ。

ベンチレーター
今の外気導入のご先祖さまみたいなもので、エアコンではなく、クーラーの時代はシステム的に外気を取り入ることができなかった。そこで付けられていたのが空気を取り入れる蓋(ふた)である。スバル360やマツダのポーターキャブなどはわかりやすい例で、ハコスカですら、棒を引っ張ると蓋が開いてワイパーの付け根から空気が入るようになっていた。

番外編:マジックハンド
左ハンドル車だと、料金所で通行券を取ったり、支払いをしたりするのは至難のワザ。ブースの係員が出てきてくれるときもあったのは懐かしい思い出だ。必ず出てくれるわけでもないので、その対策として車載しておいたのがマジックハンド。手元のレバーを引くと手のような形状の棒の先端が閉まるというか、握られるというもので、ここにお札を挟んだりして支払ったほか、通行券を掴んでいた。(近藤暁史)


アンテナは昔はバーアンテナが当たり前だった。電動で動くものもあるし、安い車のは手動で伸ばしたり引っ込めたりした。今はアンテナはフロントシールドにプリントかシャークフィンが主流のようだ。

手動のウィンドウは大衆車では当たり前だった。パワーウィンドウなど高級車の特別装備だった。今は大抵の車にはパワーウィンドウがついている。手動は廉価版の商用車くらいだろうか。

シガーソケットなんてものもあったなあ。あまり使ったことはなかったが、あれって結構電力を消費するのでバッテリーによろしくないそうだ。灰皿はかつては当たり前のように前後席についていた。別に車だけではなく電車も首都圏の路線以外は普通にタバコが吸えた。バスも座席ごとに灰皿がついていた。東海道線も東京から平塚までは禁煙だったが、平塚以遠はタバコが吸えた。駅のホームもあちこちに灰皿があってむやみやたらタバコが吸えた。今の時代では考えられないが、職場で灰皿を机に置いてバカバカ吸っていたし、会議中などは煙がたなびくほどタバコを吸っていた。今はタバコが吸える場所を探すのが大変だが、もうタバコを止めてしまったので関係ないが、先日ちょっとタバコの値段を見てあまりの高価格に驚いた。

チョークはエンジン始動時に濃い混合気をエンジンに送り込むための装置で車に乗り始めたころはオートチョークとか言って自動になっていた。当時でも職場の古い車にはチョークがあったように思う。

速度警告音はビスタVSにはついていた。105キロくらいになると「キンコン」と鳴り始めるが、慣れてしまうとそれがリズムのようになってかっ飛ばしていた。確か欧米のメーカーの苦情で廃止になったとか、・・(;^_^A。

アンメーターは電流計とか言い、スポーツカーなどのインパネににぎやかしについていたんだろう。今の86GRには液晶で電圧、油温、水温が表示されるが、めったに見ることはない。まあこの辺も警告灯で十分だろうけどいろいろメーターがついている方が楽しいかも知れない。

パーキングランプと言うのは記憶がない。ハザードがあるし、それよりも路上に車を駐車することがない。無暗に止めて駐車違反を取られるなら駐車場に入れておいた方が安心していられる。スバルには最近までついていたって、・・?あの会社もちょっとマニアック(英語に忠実にはミーニアックかな)なところがあるからなあ。

ベンチレーターは職場で使っていた三菱ジープについていたように思うが、普通の車についていたのは見たことがない。レバーを引くと「バコン」とか音がしてふたが開いて外気が入って来たように思う。ただし走行風圧なので走っていないと効果はなかった。乗用車などの換気なら三角窓だが、三角窓は三本氏が好きで「新車情報」で無暗と三角窓をつけろとか言っていたように思う。

マジックハンドってそんなもの使っていたのか。左ハンドルの車は料金所で下車して精算したり助手席の人が金を払っているのを見たことはあるが、・・。

車の装備も時代とともに変わっていくんだろうが、そのうちに「昔は車はガソリンなどの化石燃料を使って動いていた」とか「昔は車を人間が運転して動かしていたので事故が多発した」なんて言う時代が来るかもしれない。
Posted at 2022/12/12 14:36:37 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2022年12月11日 イイね!

趣味は個人のスタイル、これが定番というのはない、・・(^_-)-☆。

趣味は個人のスタイル、これが定番というのはない、・・(^_-)-☆。弄っているほどクルマ好きとは限らない!
クルマ好き=なんでもやるとは大間違い。簡単なタイヤ交換もお店に依頼する人も案外多く、「色々やり尽くした結果、店が一番ラク!」という話もよく聞く。多様性。オックスフォード英語辞典によると、多様性(diversity/ダイバーシティ)は「互いに非常に異なる多くの人や物の集まり」と定義されています。人種や性別、国籍、宗教観など人それぞれに考えや価値観があり、まさに多種多様です。この「多様性」、当然ながらクルマの世界も例外ではありません。自他ともに認めるクルマオタクやマニアの人たちにも多様性、さらには「マジョリティ(多数者)」とマイノリティ(少数者)が存在するわけで……。その例をいくつか挙げてみましょう。

1)コレクションには興味がない
関連するグッズや書籍、カタログ、ミニカーなど……。溺愛する愛車に関連するグッズは漏らさずチェック! コレクションの総額で愛車がもう1台買えるんじゃないかというくらい費用を投じているクルマオタクやマニアもいるでしょう。その一方で、実車があるからコレクションには興味がないというクルマオタクやマニアもいます。その分のお金が掛けられるなら、愛車の消耗品の予算に充てる! という合理的な考えがあってもいいわけです。

2)メンテナンスできない(しない)
自他ともに認めるクルマオタクやマニアたるもの、自分の愛車くらい自身の手で面倒がみられなくてどうする! なんて声が聞こえてきそうです。これは確かに正論。異論の余地なしです。しかし、最近のクルマであればあるほど、ユーザーがメンテナンスすることに対して無言の拒絶をしてきます。きちんとコンディションを把握したい、あるいは故障を直したいのならディーラーに入庫せよ! とクルマ自身がインフォメーションディスプレイなどで知らせてきます。古いクルマであればオーナーでも手を入れる余地がありますが、そもそも機械いじりが苦手という人もいるわけです。つまり「自分は維持することに徹して、メンテナンスは主治医にお任せ!」でもいいわけです。ただ、それなりに維持費が掛かるので、それ相応の経済的が求められます。

3)ノーマルが好き
ひと昔前であれば、クルマを購入したらノーマルで乗るのは恥ずかしいといった風潮がありました。とくに国産スポーツ系モデルであれば「何でノーマルのままなの?」と聞かれる始末。確かにチューニングやドレスアップをすることで、より自分好み、あるいは理想の愛車に仕立てることができます。しかし、工場出荷時の状態を維持したい、カーデザイナーが創り上げた状態がベスト(つまりノーマルが好き)という価値観を持つオタクやマニアがいてもいいわけです。不思議なもので、あれほどチューニングやドレスアップに熱中していた人の多くはいつしかいなくなり、新車からずっとノーマル状態を維持してきた人たちの方が「30年間ワンオーナー」だったりすることが多いのです。

4)AT限定免許だけど何か?
警視庁が毎年発表している運転免許統計(令和3年版)によると、普通免許の受験者数1,660,306人のうち、AT限定の受験者数は1,191,053人。これは、過半数の人がAT限定を選択していることを意味します。クルマオタクやマニアを自称するなら普通免許一択だろう! という声が聞こえてきそうですが、新車であれば特定のモデルでない限り、ほぼAT限定免許でなんとかなります。これは最新のスーパースポーツも例外ではありません。ただし、旧車やネオクラシックカーを所有してみたいと考えている場合は例外です。AT限定免許だとかなり選択肢が限られますし、古いクルマだとそもそもATの設定がありませんから……。

5)「女だてらに」はもはや古い?
デートカーが人気だった昭和末期や平成初期、つまりバブル期の感覚であれば「女性は助手席に座るもの」だったのかもしれません。事実、この時代に女性がスポーツカーに乗っていると「女だてらに!」といわれたそうです。
この頃のテレビドラマを観ていると、オフィスが映る場面で女性社員が手分けして各テーブル(男性)にお茶を出すシーンがあってびっくりします。今でもこの伝統が残っている会社ってあるのでしょうか……。SNSやYouTubeをみていると、自身の愛車やカーライフを発信している女性も珍しくありません。その人気っぷりは、クルマオタクやマニアのおじさんたちは到底太刀打ちできないほど。そもそも男女のフィルターでみようとする行為自体、今の時代にはナンセンスといえます。

6)クルマを買ったことがない
都市部に住んでいるのでそもそもクルマが要らない(でもクルマオタク)、レンタカーやカーシェアリングでOK!(でもクルマオタク)、本命のクルマ以外は買うつもりはない(でもクルマオタク)、じつはまだ高校生(でもクルマオタク)。さまざま事情や理由でクルマは所有していないけれど、自他ともに認めるクルマオタクやマニアの人もいます。「クルマを所有していないからオタクやマニアとは認めない!? なんて器量の小さい!」と連邦軍の某ニュータイプに怒られてしまいますよ。

7)そもそも免許がない
クルマを買ったことがないオタクやマニアの人がいるということは、運転免許を保有していない人もいるわけで……。工業製品としてのクルマではなく、観賞用のコレクションとして保有したり、特定のメーカーやクルマが好きという人もいるでしょう。あるいは、クルマのことは分からないけれど、F1などのモータースポーツが好き&詳しいという人がいてもいいわけです。さらには、幼少期のお子さんがとんでもないオタクやマニアということもあるわけで……。少なくとも、記憶力ではおじさんたちは太刀打ちできません。

まとめ:自分と異なる価値観を受け容れるか?
今現在、サッカーW杯が行われています。寝不足覚悟で、自宅やスポーツバーなどでテレビモニターに釘付けという人も多いでしょう。しかし、筆者のように締め切りに追われていたり、明日、早起きしなければならず、泣く泣く就寝中という人も大勢いるはずです。熱心なサッカーファンからはめちゃくちゃ怒られそうですが「観たくても観られない」という人もいれば、「そもそも興味がない」と熟睡中の人だっているわけです。何しろ深夜2時近いですから無理もありません。「~あるべき」「~しなければならない」など、それは確かに正論かもしれないけれど、時にその思考や指摘がプレッシャーになることもあります。リアルな世界だけでなく、同じ趣味を持つ人同士がインターネットを通じて気軽につながることができる時代だからこそ、「いかにして自分と異なる価値観を受け入れるか(受け入れることができるか)」が大切なことではないでしょうか?(松村 透)


車も人によって様々だろう。車が大好きであれこれいじっては楽しんでいるという人もあれば走りが命と言う人もあるだろう。また道具として生活に必要と言う人もいれば車は必要ないという人もいるだろうし、車など嫌いだから所有したくないという人もいるかもしれない。車のカスタムは趣味の世界でやるもやらないも人それぞれだろう。免許も自分に都合のいいものを取ればいい。AT限定だからと言って悪いというわけじゃない。今では女性も戦闘機や戦車に乗る時代だから男だから女だからという時代でもない。カスタムと言えばもっとも金をかけてやったのはビスタαxの時だった。タイヤやホイールを2回も交換したし、シートはレカロに換えた。LSDを組んだりその他あれこれ金をかけたが、結局は「だからどうなの」というレベルで終わってしまった。サイファもシートをブリッドに換えたりホイールとタイヤを換えた。ポテンザとかアドバンとか装着したが、そういう車ではないのでちょっとコーナリング性能が上がった程度で終わってしまった。それからは購入時にオプションで装着する程度で無暗にカスタムはしていない。86GRも手を入れるところがないので購入時のままである。メンテはディーラーに任せている。ただ冬タイヤの交換だけはタイヤを積んで持って行くのが面倒なので自分で交換している。そのために油圧ジャッキやタイヤレンチを購入した。あとはコーティングをするとかエンジンルームの手入れをするとかその程度で機械自体には触らない。トランスミッションはMTファンなのでバイクを含めていつもMTを購入しているが、サイファだけはATしかなかったのでATだった。でも今ではATの方が性能も燃費もいいと言う。確かに多段式のATを電子制御しているのだからファジーな人間の制御など問題にはならないだろう。でもそれはそれ、好きならそれでいい。バイクと言えばバイクに乗るのではなく古いバイクを持ってきて動くように修理するのが趣味と言う人もいる。以前知り合った歯医者さんはバイクを7台くらい持っているというのでそんなに乗るのかと聞いたら「動くように直すのが楽しいので自分で乗るわけじゃない」と言っていた。趣味とはそういうものだろう。サッカーワールドカップも全く興味がない。サッカーファンに殺されるかもしれないが、テレビを点けるとサッカーばかりなのでうるさいので勝っても負けても早く終わればいいと思っていた。サッカーには興味がないが、WECは毎年とても興味深く見ている、特にルマン24などはGRの車載カメラ映像にかじりついて見ている。そしてトヨタが勝てば万歳を叫びたいくらいではある。まあ実際には心で喝さいを送る程度にはしているが、・・。趣味とはまさに個人のスタイルなのでどれがいいとか悪いとか言うことはない。最低限の縛りは他人に迷惑をかけることは辞めようという程度だろう。自分が最も楽しくて納得できるようにやればいいと思う。それが趣味というものだろう、・・(^_-)-☆。
Posted at 2022/12/11 18:36:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2022年12月11日 イイね!

86GRの燃費はどこまで伸びるか、・・(^_-)-☆。

今日は86GRでチョロッと走ってきた。実は先日長野に行ったときに高速80キロでチンタラ運転をしたので燃費があの手の車としては驚異的な16.6キロを記録した。その効果で車の平均燃費計も13.1キロから13.8キロまで上がった。せっかく燃費が上がったのでこれを何とか守ろうと相変わらずのチンタラ運転を続けている。

長野から帰って燃料を満タンにしてから150キロばかり走ったが、何とか13.8キロを維持している。一般道ではできるだけアクセルを踏まずほぼ制限速度で、高速や自動車専用道路では制限速度-5キロで走っている。そんな速度で走っていると軽だのなんだのガンガン抜かれる。傍で見ている輩は「そんなモタモタ走っているならそんな車に乗ってんじゃねえよ」とか思っているかもしれないが、まあそれはそれでいいだろう。先に来たければ勝手に抜いていけばいい。

基本的には飛ばし屋なので飛ばせというならいくらでも飛ばしてやるが、そんなことをするとお上のお手を煩わせることになって誠に恐れ多いこと甚だしいし、燃料を無駄遣いして地球環境にもよろしくない。ましてかっ飛ばして事故でも起こしたら多方面に多大な迷惑をかけて誠に申し訳ない。まあ安全運転はともかくさほど高尚なレベルでやっているわけではなくてちょっとした好奇心ではある。

しかしあまり飛ばさないでのんびり走るのは燃費にも安全にもいいことだと思う。バイクもちんたら走りをしているとやっぱり燃費がいい。CB1300がリッター25キロを超えて燃費新記録を樹立している。ついこの間までは新東名などをガンガン飛ばして走っていたが、ガンガン飛ばしても到着時間はさほど変わらない。高速でも道路事情で減速する場合もあるし、そこからまた加速しないといけない。

走行車線を80キロから90キロほどでのんびり走っているとさほど加減速をしないで済むので燃費もよくなるんだろう。それでも必要なときは躊躇わずに加速もするが、今後も安全と燃費のためにのんびり走りを続けて行こうと思う。でもGRヤリスとか納車になったらやっぱり飛ばすだろうか、‥(;^_^A。

Posted at 2022/12/11 17:48:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2022年12月10日 イイね!

太平洋戦争は必要不可避の戦争だったのか、・・(>_<)?

今年も12月8日が過ぎたが、この日が来るたびに「なんで日本は米国などにケンカを売ったのか」とつくづく思ってしまう。当時の日本の経済力は対米9%で1割にも満たない。当時の日本は繊維,食料品,皮革製品,木製品などを生産する軽工業が中心で重工業などはその技術においても欧米に数年からひどいものは10年以上も遅れていた。

特に電子、電気、航空、内燃機関、冶金など多くの分野で遅れが目立っていたし、工業生産でも米国などの機械化には後れを取っていた。エンジンのシリンダー生産などでも日本では複数のボルト穴を1本ずつ開けてから別の機械で面取りをしていたそうだが、米国製の工作機械では一度に複数のボルト穴を開けて面取りまで1台の機械でやってしまったそうだ。まあ今の北朝鮮はGDPは米国の2千分の一と言うからそれよりはずっとましだろうが、それにしても総力戦で生産力が敵の1割しかないというのは相当にまずい。

当時の日本は国内の経済不調を海外進出によって解消しようとしていたが、その海外進出を武力でなそうとしたのはまずかった。海軍のある士官が、「物資が欲しければ軍艦を作る金を削ってその金で買えばいいのに武力で分捕るなどと野盗山賊の類のことをすべきではない」と言ったそうだが、全くその通りで、当時中国では国民党と共産党が対立していたのだから日本は国民党に軍事、経済両面で支援でもしてやって中国の共産化を防止していれば戦後の歴史は変わったかもしれない。

しかし当時の陸軍は勢力拡大のために軍事力行使をしたがっていたし、また今はハト派の代表のような外務省も当時は陸軍でもビビるような強硬派だったそうだ。また海軍は米国と戦えば負けるとわかっていたのに戦えないと言ったときに予算を陸軍に分捕られると困るとか、それじゃあ海軍が責任を取れと言われると困るとか、そう言った自己保身が先に立って当時唯一陸軍と対峙して抑え込むことができる組織だったのにその責任を放棄してしまった。

陸軍でも米国と戦って勝てないことが分かっている高官も多くいたようだが、口を噤んでしまった。日本は内部の和を重んじる社会だから声高に主張する勢力が強いとそれに反対することは和を乱す行為としてやりにくいのかも知れない。仮に天皇陛下が開戦に反対したとしても止められなかったというのでは仕方がないだろう。そして確たる勝利への道筋を立てることができないままに戦争へと突入して良識派の予想通りに米国と何とか5分に戦えたのは2年、それ以後は一方的に押しまくられてコテンパンに負けてしまった。

もっとも侵略戦争と言うが、侵略戦争は日中戦争でその後の米国との太平洋戦争は侵略でも何でもない太平洋の覇権をかけた日米の戦いだった。だから米国とは五分と五分だったのだが、負けてしまえば正義は向こうの手に委ねられてしまう。米国もナチスと手を組んでいる日本を何とか戦争に引き込みたいとあれこれ裏で手を打っていたようだが、日本は見事にそれに乗せられてしまった。

英国は最後まで比較的日本に同情的だったというので英国を窓口として米国に対中戦争の講和の仲介を依頼して対中戦争に終止符を打ち、三国同盟は中立を宣言することと東南アジアから兵力を引き上げることで米国に石油の禁輸を解除させ、満州国は民族の自決にゆだねるなんてことは当時の日本としては不可能だっただろう。

今時の感覚で言えばあんな戦争なんかやる必要はなかったということになるが、当時は欧米が植民地主義で利益を上げていたので後発国の日本も何とかその手で利益を上げて経済を好転させ、その功績で軍を巨大化させてポストを増やしていい目を見ようということだったんだろう。もっとも太平洋戦争がなくて日本が米国側にあったとしたら戦後の朝鮮半島や東南アジアの共産化を原因とする戦争には日本が矢面に立って戦うことになっただろう。特に朝鮮半島は当事者として共産軍を押し止めることになっただろう。

戦争はいけないというが、戦うことで利益を得ようとするのは人間の本性だから人間が存在する限り戦争はなくならない。武器で戦うのも金で戦うのも頭で戦うのも本質的には似たようなものだ。今のロシアにしてもあんなバカなことで世界の批判を浴びて国力をそがれているならその分を自国の経済発展にでも使えばいいと思うが、プースケのような奴は愚かなことを考えて武力に頼るという選択をするのだろう。今の日本の防衛費GDP2%も米国辺りから「今の状況でアジアで何かしらの事態が起こってもこっちはそうそう手を出しかねるからお前んところもそれなりに金を使ってしっかりと備えをしてくれよ。頼むぞ」とか何とか言われての結果だろう。全く人の世に戦いの種は尽きない。困ったものではある、・・(>_<)。

Posted at 2022/12/11 00:47:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2022年12月10日 イイね!

桶狭間の戦い、その真の姿は、・・(^_-)-☆。

これまで「桶狭間の戦い」は、兵力に劣る織田信長が今川義元を奇襲で倒したとされてきた。ところが、これは最新研究では覆されている。歴史学者の渡邊大門さんは「奇襲説の根拠となる史料の信憑性が低く、現在では正面攻撃説を支持する研究者が多い」という――。(第2回)


■桶狭間の戦いにおける今川義元の軍勢の本当の数
永禄3年(1560)5月19日早朝、信長は小姓5騎のみを引き連れ、居城の清須城をあとにした。率いた軍勢は、わずか200と伝わっている。やがて、信長は軍勢を熱田神宮(名古屋市熱田区)に集結させると、今川氏との対決に向けて戦勝祈願を行ったのである。すでに、鷲津・丸根の両砦は落ちており、煙が上がっていたという。一方の義元は、桶狭間山で休息を取っていた。率いた軍勢は、約4万5000。信長の軍勢をはるかに上回っていた。ところで、この約4万5000という数はあまりに多すぎる。もう少し後の時代になると、百石につき3人の軍役を課されるようになった。百万石の大名ならば、3万の兵になる。慶長3年(1598)の時点で、遠江は約25万石、駿河は約15万石だったので、合計で約40万石である。先の基準に当てはめると、約1万2000というのが妥当な兵力である。ただし、右の基準は慶長年間のものなので、実際はもっと少なかった可能性がある。

■昼までには大勢が決まっていた
今川方の動きは、どうだったのだろうか。大高城にいた松平元康(徳川家康)は、丸根砦に攻撃を仕掛けた。丸根砦を預かる織田方の佐久間盛重は、500余の兵とともに打って出たが、敗北し自らも戦死した。鷲津砦を守備する織田方の飯尾定宗、織田秀敏は籠城戦を試みたが、それは叶わず討ち死にした。こうして大高城の周辺は今川方によって制圧され、織田勢力は一掃されたのである。制圧後、義元の率いる本隊は沓掛城を発つと、大高城方面に軍を進めた。その後、さらに向かって西に進み、南に進路を取った。5月19日の昼頃、義元の本隊は桶狭間に到着すると、早くも戦勝を祝して休息し、来るべき信長との戦いに備えたのである。この時点で、今川軍は総勢約2万だったといわれているが、義元の本陣を守っていたのは5000から6000くらいの軍勢だったという。

■信長が見た勝機
信長が桶狭間に進軍したのは、5月19日午前のことである。中島砦を守備する織田方の佐々政次、千秋(せんしゅう)四郎らは、信長出陣の報告を受けて、大いに士気が上がった。早速、佐々、千秋は約300の兵で今川方に攻撃を仕掛けるが、返り討ちに遭い討ち死にしてしまった。佐々、千秋の兵も約50が討たれた。この報告を受けた義元は、「矛先は天魔・鬼人も超えきれぬだろう。心地よいことだ」と大いに喜び、謡いを謡ったという。逆に、士気が高まったのは、今川方のほうだった。信長が出陣しても、事態を挽回するのは困難になったに違いないが、果敢にも出陣し義元に戦いを挑んだ。

熱田神宮(名古屋市熱田区)で戦勝祈願を終えた信長は、5月19日午前に鳴海城(名古屋市緑区)近くの善照寺砦に入った。ここで、織田方は桶狭間に今川方が駐在しているとの情報を得たので、中島砦へ移動しようとした。このとき信長の軍勢は2000だったといわれているが、劣勢には変わりなかった。信長は中島砦に到着すると、さらに兵を進めようとした。すると、家臣らは信長に縋り付いて止めようとした。しかし、信長は敵兵がここまでの戦いで疲れ切っていること、わが軍は新手なので、敵が大軍でも恐れることはないと檄(げき)を飛ばした。そして、敵が攻撃したら引き、敵が退いたときに攻め込めば、敵を倒すことができるとも述べた。戦いに勝ったならば、家の面目になると言ったところで、前田利家らが敵の首を持参した。これにより、織田軍の士気は大いに高まった。こうして信長は、桶狭間への進軍を開始したのである。

■突如、雹混じりの雨が降る
5月19日の午後になると、にわかに視界を妨げるような豪雨に見舞われた。雨には雹(ひょう)が含まれており、今川軍の将兵の顔を激しく打ち付けた。すると、沓掛峠の楠の大木がにわかに倒れたので、織田軍の将兵は熱田大明神の神意ではないかと思ったという。織田方はこの悪天候を活用し、やがて晴れ間がのぞくと義元の本陣に突撃した。信長は槍を取って大声を上げると、今川軍に攻め込むように指示した。今川軍は織田軍が黒煙を上げて突撃してきたので、たちまち総崩れになった。弓、槍、鉄砲、幟(のぼり)、指物は散乱し、義元は乗っていた塗輿(ぬりごし)を捨て敗走した。信長は、容赦なく追撃を命じた。今川軍は300ほどの軍勢で、義元を守りながら退却したが、敵と交戦するうちに兵が討ち取られ、ついに50くらいまで減ってしまった。

■「海道一の弓取り」の最期
信長も馬から降りて槍で敵を突き伏せると、若い将兵も次々と今川軍を攻撃した。不意を突かれた義元は脱出を試みたが、味方は次々と討ち取られた。今川軍は馬廻り衆、小姓衆らが次々と討たれ、窮地に陥った。すると、信長配下の服部小平太が義元に斬りかかったが、逆に膝の口を斬られて倒れ伏した。その後、義元は毛利良勝に組み伏せられ、ついに首を討ち取られたのである。義元を討たれた今川方は戦意を失い、一斉に桶狭間から退却した。

■桶狭間の戦いは奇襲だったのか
ここで、改めて桶狭間の戦いについて考えてみよう。桶狭間の戦いで信長軍が用いた戦法は、奇襲攻撃、正面攻撃という二つの説がある。永禄3年(1560)5月19日、信長は今川義元を桶狭間の戦いで破った。義元の2万~4万(諸説あり)という大軍に対し、信長はわずか2000~3000の兵のみだった。とはいえ、義元の率いた2万~4万というのは、その所領の規模を考慮すると、あまりに多すぎて不審である。

信長はわずかな手勢でもって、今川氏の陣に背後から奇襲攻撃をしたというのが通説だった。しかし、今や有名な「迂回(うかい)奇襲説」には、異論が提示されている。「迂回奇襲説」によると、5月19日の正午頃、信長の家臣・千秋四郎ら約300の兵が今川軍に攻め込んだが敗北。敗北後、信長は義元が陣を敷く後ろの山へ軍勢を移動させ、迂回して奇襲することを命じた。そのとき、視界を遮(さえぎ)るような豪雨となり、信長軍は悪天候に紛れて進軍したという。義元は大軍を率いていたものの、実際に本陣を守っていたのは、わずか4000~5000の軍勢だった。そこへ信長軍は背後から義元の本陣へ突撃し、義元を討ったのだ。つまり、信長は義元が油断していると予想し、敢えて激しい暴風雨の中で奇襲戦を仕掛け、義元を討ち取ることに成功したといえよう。以上の経過の出典は、小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)『信長記』であり、明治期の参謀本部編『日本戦史桶狭間役』により、事実上のお墨付きを与えられた。

■奇襲説の根拠は「不適切」な史料
ところが、この通説には異儀が唱えられた。それは、そもそも小瀬甫庵『信長記』の史料としての性質に疑念が抱かれたからだ。儒学者の小瀬甫庵『信長記』は元和8年(1622)に成立したといわれてきたが、今では慶長16~17年(1611~12)説が有力である。約10年早まったのだ。同書は広く読まれたが、創作なども含まれており、儒教の影響も強い。太田牛一の『信長公記』と区別するため、あえて『甫庵信長記』と称することもある。そもそも『信長記』は、太田牛一の『信長公記』を下敷きとして書いたものである。しかも、『信長公記』が客観性と正確性を重んじているのに対し、甫庵は自身の仕官を目的として、かなりの創作を施したといわれている。それゆえ、『信長記』の内容は小説さながらのおもしろさで、江戸時代には刊本として公刊され、『信長公記』よりも広く読まれた。『信長記』は歴史の史料というよりも、歴史小説といってもよいだろう。先述のとおり、『信長記』の成立は10年ほど早いことが立証された。これをもって『信長記』の史料性を担保する論者もいるが、成立年の早い遅いは良質な史料か否かにあまり関係ない。『信長記』は基本的に創作性が高く、史料としての価値は劣るので、桶狭間の戦いを論じるうえで不適切な史料なのだ。

■有力な正面攻撃説の中身
最近の研究では『信長公記』を根拠史料として、次のように指摘された。千秋四郎らが敗北したことを知った信長は、家臣たちの制止を振り切り、中島砦を経て今川軍の正面へと軍勢を進めた。当初、大雨が降っていたが、止んだ時点で信長は攻撃命令を発し、正面から今川軍に立ち向かった。今川軍を撃破した信長軍は、そのまま義元の本陣に突撃。義元はわずかな兵に守られ退却したが、最後は信長軍の兵に討ち取られたという。これが「正面攻撃説」である(藤本:二〇〇八)。現在では、質の劣る『甫庵信長記』に書かれた「迂回奇襲説」は退けられ、『信長公記』の「正面攻撃説」が支持されている。

■桶狭間戦いの真実が見えにくいワケ
『信長公記』は質の高い史料であるといわれていても、やはり二次史料であることには変わりがない。一般的に、合戦前後の政治情勢はよくわかるのだが、肝心の戦いの中身については、一次史料で正確に把握することは非常に困難である。そもそも広大な戦闘地域で、一人一人の将兵の動きを観察するなど不可能に近い。したがって、実際に戦場に赴いた将兵からの聞き取りなどをもとにして、再構成するしか手がないのである。ほかにも、織田軍は今川軍が乱取り(掠奪(りゃくだつ))に夢中になった隙を狙って、酒盛りをしていた義元を討ったという説がある(黒田:二〇一五)。この説は、『甲陽軍鑑』に基づいた説である。かつて『甲陽軍鑑』は誤りが多いとされてきたが、成立事情や書誌学的研究が進み、歴史研究でも積極的に用いられるようになった。とはいえ、『甲陽軍鑑』は軍学書としての性格が強く、桶狭間の戦いの記述は、『信長公記』の内容とかけ離れているので、そのまま鵜吞みにできないと考えられる。ほかにも桶狭間の戦いに関しては、さまざまな説が提供されている。しかし、史料の拡大解釈や論理の飛躍もあり、定説に至らないのが現状である。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者:1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。


桶狭間の戦いの奇襲説は帝国陸軍が戦史研究でそう記載していたという。それは基本的に火力装備に劣る当時の陸軍をして奇襲による勝利を印象付けるためだったようだ。要するに少ない兵力でも奇襲を活用すれば勝てるとすり込むためだった。その大元は小瀬甫庵『信長記』でこれはほとんど創作と言ってもいいようなもので江戸時代におけるエンターテインメント的な歴史小説だった。今川勢は上洛のために進軍したというが、実際には織田との国境紛争に決着をつけるためで上洛にしては織田以外にも斎藤、浅井、三好、六角など京都までの間には敵が多すぎた。今川の兵力は2万5千ほどだが、戦闘部隊は1万5千程度、残りは兵站補給部隊で戦闘力はなかったという。織田側は5千から6千、出城に貼り付けている兵力が2千程度、そうすると信長の手勢は3千ほどになる。今川方は丸根、鷲津の攻略に1万ほどの兵力を割いていたので義元の本陣を守っているのは5千ほど、その5千も戦勝に浮かれて乱取りなどに出ている部隊もあるので実際にはもっと少ない。もしも5千としても信長は自分が手塩にかけた精鋭2千を使えば勝てると踏んだのだろう。そして突然の豪雨に今川勢が休息を取っていた桶狭間山に正面方突撃した。今川勢は織田の主力は清須城にいると思っていたのでまさか正面切って攻め込んでくるとは思わなかったんだろう。今川勢は混乱する中、親衛隊が義元を守って退却するが、織田勢の突撃に数を減らし、遂には義元は打ち取られた。今川義元も貴族趣味の軟弱武将ではなく知性派で領地経営にも優れ、軍事面でも有能だったそうだが、当時の合戦は劣勢な側は城の籠城するというのが常識で優勢な側は出城を落としながら本丸に迫り、有利な条件で和睦を引き出すか、場合によっては包囲殲滅することもあった。しかし戦国時代と言っても無暗に戦って損害を出せば自軍も傷つくので適当なところで手を打つというのが常識だったようだ。だから義元も織田を圧倒する大兵力で攻めて行けば国境紛争に片がつくと言ったレベルだったんだろう。それがまさか信長が精兵2千を率いて本陣に正面攻撃をかけてくるなどとは予想もしなかったのだろう。その辺はやはり信長の常識にとらわれない発想と実行力が功を奏したということだろう。また織田方も義元を打ち取ると言うのではなく今川軍に一撃を加えて出血を強要して追い返すという程度で攻撃を仕掛けたところ義元の本陣まで達してしまったというところかもしれない。戦いは錯誤と失敗の連続で少なく失敗した方が勝つという。桶狭間もそうだったのかもしれない。ただこれ以後信長は桶狭間のような乾坤一擲の博打のような戦いはしていないというので信長にしても伸るか反るかの一戦だったんだろう。だからこの戦いは何万の軍勢を率いた今川義元に数千の信長が挑んだと言うのではなく今川の戦闘兵力は1万5千程度、織田方は5,6千、尾張の石高が57万石とか言うのでもう少しいてもいいのだが、領内の平定を終えたばかりで従う勢力はその程度だったのかもしれない。そして今川方は前線に1万を展開して本陣を守るのは5千程度、織田方は出城に2千ほどを配置して手勢は3千、そのうち千を善照寺、中島の砦に残して直轄部隊の2千を率いて正面から突撃した。そうすると5千対2千で、今川方が油断していることを考えればさほどの戦力差ではない。桶狭間の戦いは迂回奇襲ではないが、結果としては今川方にとっては奇襲に等しい戦いだったのかもしれない。織田信長と言う人は総大将として後方に控えているのではなく常に最前線にあって部下を叱咤激励して勝利を収めてきたという。その大音声と言えるほどの大声に敵は震え上がり味方は奮い立ったというからカリスマがあったんだろう。ただ織田軍が数万の大軍勢になると戦線は拡大して数方面にわたり信長が直接前線に出ることもなくなったそうだ。織田信長と言う人、いろいろ言われるが、少なくとも不世出の天才戦略家だったんだろう。それは間違いない、・・(^_-)-☆。
Posted at 2022/12/10 22:39:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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