昨日夕方、みん友の痛風とうつさんから以下の情報が。
軍艦模型に魂込め 岡崎の近藤さん、東部地域福祉センターで展示(中日新聞)
痛うつさん
「ちょっと遠いですが、機会があれば如何でしょう?」
なんと!
こんな貴重な情報を頂けるなんて、こんなに嬉しいことはない。
ザク違、行きまーす!!!
ということで早速今日行ってきました。
開館は午前9時ですが、今日が最終日なので午後にはご本人が現地を訪れて撤収準備をするに違いないと想定。それまでの時間をお城巡りに当てることにしました。
行ったのは岡崎城。
ここは徳川家康公生誕の地でもあり、日本100名城のひとつにも選定されています。南に乙川(菅生川)が、西に伊賀川が流れているという好立地。↓は乙川南岸から見た天守閣です。
橋を渡った内側には水堀が作られており、きれいに積み上げられた石垣が見事です。
川の流れていない東側には広大な曲輪が配置されています。
平城ならではの広大な曲輪にはかなりの数の兵を駐屯できたでしょう。
水堀の外側を歩いていくと「えな塚」がありました。
これは家康が生まれた時のへその緒を祀ったものだそうです。
さらに歩くと産湯の井戸もありました。
天守の北側には大手門があり、天守に向かって進むと深い深い空堀があります。
かなーり深く、しかもかなーり急角度で作られています。一度落ちると、二度と登れないのではないかというくらい急ですね。
そしていよいよ本丸、そして天守閣。
あちこちぐるぐる歩き回って約1時間。炎天下ではありましたが木陰も多く風も少しあったので、汗びっしょりとまではならずに済みました。
岡崎城は豊臣の時代に田中吉政が城主となった際、大規模な整備がされたようで、城下町を含めた範囲を堀で囲む「総構え」として作られました。こうすることで籠城戦が長期化した場合でも継戦能力が維持できるメリットがあり、先に触れた二本の川による攻めにくさなどもあって、高い防御力を持った城であると感じました。
天守閣は明治になって取り壊されてしまいましたが、昭和34年に復元されています。明治の取り壊しでは全国あちこちの城が大量に取り壊されています。文化大革命のようなイメージで、大変残念なことです。
まだ時間に余裕があったのでもう一つ小さな城を回って、いよいよ模型展示会場へ。
ご本人に会えたらあんなことやこんなことが聞きたい…などと妄想しながら現地到着。
施設のロビーに作品は展示されていました。
最も大きな作品の「軽巡洋艦能代」の前には制作の際にご本人が書かれた図面も置かれていました。
模型は全て1/100スケールで、キットではなく、全てのパーツを鉄、紙、真鍮、木などで自作されたのだそうです。
んー、これはすごい。
今まで調べても分からなかった部分の詳細がしっかりと具現化されています。
新聞記事によるとご本人は
「模型はおもちゃという考えがあるかもしれないが、精密な模型は芸術品だということを多くの人に知ってほしい」
と言われているそうです。
そうそう、そのとおり!
特に近年はモデラーの技術が飛躍的に上がっていて、(ジャンルに関わらず)まさに美術工芸品レベルという作品が本当に増えました。
これはご本人にお話を伺いたい!という気持ちがさらに高まります。
しかし。
周りを見回してもご本人と思われる方が見当たりません。
施設の方に聞いてみると
「午前中にはいらっしゃったんですが、お昼頃に帰られました」
ガーン_| ̄|○ il||li
午前中はかなりの人が来場されたようで、しかも30代40代の若い世代の人も多かったそうです。やはり新聞で取り上げられた効果は高いですねと仰っていました。
ガンプラは転売が大きな問題として取り上げられるほど高い人気を誇りますが、スケールモデルはそこまでの盛り上がりは感じていませんでした。特に艦船モデルは細かいパーツが大量にあるため、ベテランスケールモデラーさんでも「艦船だけは作ったことがない」という方が多いようです。
しかし今回のイベントは小規模だったにもかかわらず多くの人の関心を集め、しかも若い世代にも反響があったというのはちょっと驚きでした。
できればこうした機会に合わせて製作者ご本人を中心にした茶話会などが開催されれば、モデラーの輪(=和)が広がったかもしれません。
そうした可能性まで妄想してしまった小規模な、だけど大きな可能性のあるイベントでした。
痛風とうつさん、こんな貴重な情報を頂いたことを改めてお礼申し上げますm(_ _)m
Posted at 2021/07/31 18:47:34 | |
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