2016年02月10日
結局クレヨン娘は一時間ほどもしてからほとんど何もなかったような顔をして戻って来た。そしてまた携帯で電話を始めた。しばらくぐちゃぐちゃとくだらない内容の電話を続けているのを黙って聞いていたが、そのうちにテキストエディターが怒り出した。
「ねえ、仕事の邪魔だから電話やめてよ。そんなに電話したいなら外でしたら。」
これはまずかった。クレヨン娘には勿怪の幸いだった。
「そうなの、じゃあちょっとお出かけしてくるわね。」
言うが早いかクレヨン娘は部屋から飛び出してどこかに消えてしまった。
「まずいわよ、あの娘にそれは。」
僕はエディターの顔を見つめた。エディターは何が起こったのか分からずに放心したようにドアの方を見ていた。まさか本当に出て行ってしまうとは思わなかったんだろうけれどあのクレヨン娘にはそれは甘い見方というものだ。まあ出て行ったからと言っても痛くもかゆくもないし却ってこちらには都合がいいのだけど。
しばらく静かになって仕事に取り掛かったところにまたクレヨン娘が帰って来た。テキストエディターと二人で黙って仕事をしていると割り当てられた場所で何やらごそごそやっていたが、静かになったと思ったらいきなり僕の後ろに来た。
「今日は慣れない仕事をしてずい分気疲れしちゃったわ。ねえ、私、ジョニーとお約束があるので失礼させてもらってもいい。」
何を言い出すのかと思えばいきなり気疲れしただと。昼に来てから何もしてないだろうに。ふざけたことをぬかすクレヨンだ。一言言ってやろうと思ったらもう身を翻して出て行こうとしていた。
「明日はここに九時に来てね。いいわね。」
その時僕にはクレヨン娘の背中に向かってこれだけ言うのが精一杯だった。
「一体あの子は何者ですか。」
テキストエディターのお姉さんが呆れた顔で僕を見た。その視線を受け止めながら何だか僕自身が非難されているような気がして来た。
「よく分からないわ。アルバイトでもないし、非常勤でもないし、関連会社の派遣でもないし。部長に押し付けられたのよ。社長から頼まれたんで面倒を見てやってくれって。社長の知り合いの娘さんらしいわ。ただでさえ忙しいのに面倒掛けてごめんなさいね。」
僕はテキストエディターのお姉さんに謝ったが、どうして僕があのクレヨンのために謝らなければいけないのか納得のいかない思いだった。
「へえ、そうなんですか。それにしてもずい分外れくじを引かされましたね。それにしても沖縄決戦では北の政所軍団を撃破した鉄の女佐山主任もあの子には形無しですね。」
「もう何とかして欲しいわ。半日で疲れちゃった。第一あのクレヨンで描いたような化粧って何とかならないものかしらねえ。」
大方の男は若い娘が良いと言うが、僕は札束を積まれてもあんな手合いとお手合わせするのは御免被りたい。
「ああ、あの手の化粧は今時の若い子にはけっこう人気があるようですよ。私なんかちょっと引いてしまいますけどね。でも急に化粧に関心も興味も示さなくなった主任には耐えられませんか。」
「他人のことはとやかく言いたくないけど幼児が描いた顔のようじゃない。若いって言うことはそれだけで美しいんだから何もあんなにしなくてもいいんじゃないかなあ。」
「あはは、よっぽど主任の趣味とは合わないようですね。さ、そんなことよりもとにかく今日の分の仕事は片付けておかないと。」
テキストエディターのお姉さんはそういうとまたパソコンの画面と向き合った。僕もパソコンを操作してインターネットに接続すると資料になりそうなテーマの検索やブックマークを始めた。そうして二時間ばかり残業をして引き上げた。
帰ると女土方はもう家にいた。すぐに食事の支度を始めようとするとクレヨン娘のことを聞かれた。
「半日で疲れちゃったわ。何だか野生動物のような子ね。」
女土方は肩をすくめた。
「野生動物ねえ。ちょっとうわさには聞いたけど。手に負えないって。取引先の娘さんらしいけどどうにもこうにも我儘だって話よ。」
我儘なんてものなら可愛げがある。飢えた野獣と一緒で自分の欲求だけで行動しているようなものだ。
「社長もどうしてあんなのを私によこすのかしら。北の政所様だけでたくさんだわ。」
「よほど見込まれちゃったのね。社長に。次の人事で次期役員に抜擢してくれるかも知れないわよ。」
女土方は僕に向かって目を瞑って見せた。
「冗談じゃないわ。私、そんなものには何の興味もないわ。第一息子さんがいるのに私が社長な訳がないでしょう。」
この先何時まであのクレヨン娘の面倒を見ていくのかと思うと何だか気が塞いで目の前が暗くなって来た。
「資料を読ませようとしても面倒臭いって放り出してしまうし、考えなさいって言っても何をどうして考えて良いのか分からないって言うし。そんなこと言われたらこっちがどうしていいのか分からなくなってしまうわ。」
今度は女土方が肩をすくめた。
「そういうのって困るわね。でも以前にあなた言っていたじゃない。考えるって行為はそのための知識を蓄積しておいてから考え方を教えないと出来ない。人間なら誰でもものを考えることができると言うのは間違いだって。
その子も語学教育のノウハウも知らなければそうした知識もないんでしょう。そうすると語学教育について考えなさいって言われてもそのこと自体理解出来ないんじゃない。」
女土方の言うことはもっともだった。僕は悩むと言うことがあまりなかった。悩むと言うこと自体その状態は概念的には知っているが、実際にはどういうことを言うのかよく理解できなかった。敢えて言えばある問題に対して前にも後ろにもどうにも身動きが取れなくなる状態を悩むと言うのだろうけどそういうことは経験がなかった。
性格的に大雑把でいい加減なのかも知れないが、何があっても大体は進むべき方向を決めてその方向に進んで行くし、どうにもならないことは誰がどうしてもどうにもならないのだから状況を見守りながら対症療法で対応する以外にないのだから。
「そうか、まずは相手を見ることね。得体が知れないとか騒ぎ立てて異端視しても敵のことが分からないものね。それじゃあ百戦百敗だわ。」
女土方は微笑んで頷いた。
「あなたはさすがに状況判断が早いわね。うちの聡明な社長が見込んだだけのことはあるわ。」
女土方は他人事と思ってけっこう言いたいことを勝手に言いまくっていた。
「やっぱり一つ一つ時間をかけて教えていく他ないのかな。動物に芸を仕込むのと一緒ね。根気かな。」
「おかしな知恵がついているから動物よりもずっと始末が悪いかもね。きっと甘やかされていたんでしょうから変にプライド高いでしょうし。でもあなたなら大丈夫よ。きっとうまくやるわ。」
女土方に『きっとうまくやるわ。』と言われてもどうにも自信がなかった。大体根気なんていうものとは縁遠くて三回言って分からないと腹が立ってしまうような短気な人間だから一つ一つ根気良くなんてとても出来そうにない。どうしたらいいかと考えたが、結局敵の出方を見て対応を決めようと言うことで誤魔化して考えるのをやめてしまった。幾ら考えても僕はクレヨン娘ではないのだから分かるわけがない。
それに職場にいれば仕事のことを考えるのは仕方がないが、私生活に戻ってからもそんなことを考えて嫌な気分になるのはばかばかしい。滅私奉公ではないのだから自分の時間は自分なりに楽をして楽しめばいい。
「ねえ、あなたはその子に何を一番してあげたい。」
女土方がまた突然クレヨン娘の話を持ち出した。
「え、あの子に。何を一番してやりたいかって。そうね、洗面台に引き摺って行って顔に石鹸を塗りたくってあの化粧を前部きれいに洗い流してやりたいわ。亀の子たわしか何かでゴシゴシと。」
「え、あなた、そんな過激なこと絶対にしちゃだめよ。まさかとは思うけど森田さんの時のこともあるし。」
僕は女土方の真顔に苦笑いしてしまった。
「いくら何でもよほどのことがない限り私だってそこまではやらないわ。でもあのクレヨンの化粧って本当に子供がクレヨンで描いた絵に出てくる人物みたい。あんなのがいいのかな。分からないわね、美意識って。」
「そうね、気長にね。焦ったりいらいらしたりしない様にね。大丈夫、あなたならきっとうまく出来るわよ。」
女土方は同じことを二回言った。僕も二回それに頷いた。そして僕たちは普通の自分達の生活に戻って行った。
Posted at 2016/02/10 22:42:34 | |
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小説 | 日記
2016年02月09日
月曜からまた何時ものように仕事が始まった。あれだけ大騒動を繰り広げたのに誰もそのことには触れなかったし、社長からも特に何もお言葉もなかった。全てが何時もと変わらない月曜だった。僕は次に取り組む課題についての下調べを始めた。勿論世に出したばかりの商品も対応すべきことは山ほどあったので自分が考えるプランについて漠然と資料を探すくらいのことだったが、今度は生涯教育としての語学を考えてみたいと思っていた。つまり幼児から熟年まで一貫して語学を学習する方法を商品として世に出せないかと考えてみようと思いついた。
そんな訳でインターネットを使って漠然と検索しているとプロジェクトの応援に来てもらっている商品企画の助手姉さんが「部長が呼んでいます。」と言って僕を呼びに来た。心臓がびくりとした。遂に何かのご沙汰があるのかと思い、恐る恐る部長のところに行くと部長は至極気楽そうな顔をしていた。
「佐山さん、一つ頼みがあるんだけど。実はさる筋から一人面倒を見てくれと頼まれた。大学を中途で休学してイギリスに留学していたらしいが、こっちに戻っても復学しようとしないでふらふらしているらしい。社長の知り合いのお宅のお嬢さんのようだが、本人は語学を生かした仕事をしたいと希望しているようだ。どうせすぐに根を上げるだろうが、しばらく雑用にでも使ってやってくれないか。面倒を頼んで悪いが、こんなことを頼める人が見当たらなくてね。」
社長の知り合いと聞いたとたんに何だか嫌な予感がした。背筋を悪寒が走ると言うほどのものではないが、山登りでもしている時に黒い雲がじわじわと広がってきたような感じだった。
北の政所様の次は一体どんなのが出てくることやらその時の僕には予想もつかなかったが、部長のやけに明るい能天気な表情が一層不安を募らせた。大体学問を放り出して留学などと称して海外で羽目を外して来るようなのにろくなのがいたためしがない。そういうのに限って外国に長くいたわりには大して言葉も出来ないのが多いんだ。しかも復学もしないで言葉を生かした仕事がしたいなんて百年早い。
「今日の午後にここに来ると言うことなのでその時はまた連絡するからよろしく頼むよ。」
部長は軽くそう言ってから打ち合わせとか口走って席を離れてしまった。どうも体よく厄介者を押し付けられたような気がしたが、そうかと言って断るわけにも行かず何となく釈然としない気持ちで昼休みを迎えた。
昼食に女土方を誘ってこの話をすると「忙しいのに人手をもらえるなんてけっこうじゃない。」と軽く受け流されてしまった。確かにどこも人手不足で皆人をくれるなら喉から手が出るくらい欲しがっているのだが、そんな状況だからこそプロジェクトが完結した僕のところに敢えて送り込んできた事情を勘繰ってしまうのだった。
食事から戻ってしばらくしてまた部長からお呼びが来た。しかしデスクではなく談話室に呼ばれた。
『間違いない。来たな』
僕は身構えて談話室に向かった。そして談話室とは名ばかりのパーテーションで仕切った空間に入ると部長と一緒にテーブルに座って自動販売機のコーヒーを飲んでいる娘っ子が目に入った。
髪はあの金色、化粧は何だかクレヨンで描いたよう、ノーブラタンクトップにカーデガン、そしてその上に毛皮のコート、ぴちぴちのパンツに鎖のようなベルトをつけて北岳バットレスにでも足を掛けているような絶壁のサンダルという出で立ちに一瞬目を瞑ってしまった。部長は僕の顔を見ると席を立った。
「じゃあ佐山さん、澤本さんをよろしく頼む。彼女がここで面倒を見てくれる佐山さんだ。彼女の指示に従ってやってくれればいいから。ゆっくりと話でもしてから仕事を教えてもらうと良い。」
部長はこれ幸いと逃げ出したようだった。僕の脇を通り過ぎる時そっと目配せをして『何とかよろしく』という顔をした。
『こんなの押し付けられても困るよ。』
そう言ってやりたかったが、振り返った時には部長はもうどこかに消えていた。こうなってはどうしようもないので僕はこのクレヨン娘の前に立って「佐山です。よろしく。」と一言挨拶をした。本当はこんなところに来ないで秋葉原のメイド喫茶でも行けと言ってやりたかった。
「私、アメリカで長く生活していたから英語でお仕事したいの。よろしくね。」
クレヨン娘はずい分と鼻にかかったアクセントで妙に馴れ馴れしいおかしな日本語を発した。
「少しお話しましょうか。何か聴きたいことはあるかしら。」
僕は出来るだけ優しいお姉さんを装ってクレヨン娘に話しかけた。
「ビジネスファーストでしょう。お話なんていいわ、お仕事しましょう。」
クレヨン娘は利いた風なことを言った。「ビジネスファースト」と言う言葉が妙にアメリカっぽくてその点だけは少し感心したが、どんなことをしているのかも確認しないでビジネスファーストもないだろうと力が抜けそうになった。
こっちも話していると余計に疲れそうだったので僕たちの部屋に連れて行った。先に立って歩いていると後ろからかぱかぱと間の抜けた足音がついてきた。
「ここが私達企画プロジェクト班の部屋よ。ちょっと狭いけどね。」
ちょっとどころか相当にうなぎの寝床の感がある小部屋をクレヨン娘は見回していた。
「私のデスクは。」
クレヨンのくせに生意気にも仕事机を要求してきたには驚いた。
「え、ちょっと待ってね。急だったから。部長と相談してみるから。」
僕は適当に誤魔化しておこうとしたが、クレヨン娘は本当に机を持つつもりのようだった。取り敢えず打ち合わせや休憩に使っている小さな応接デスクをあてがうことにした。
「こんなところでごめんね。」
お愛想でそう言っておいてから適当に時間つぶしをさせておこうと軽い内容のコミュニティ教育に関する英語論文を渡して読んでおくように言った。クレヨン娘は怪訝な顔つきで渡された資料を眺めたりぱらぱらとページを繰っていたりしていたが、一向に読み始めるそぶりを見せなかった。そのうちに資料をテーブルの上に投げ出すと僕の方を振り返った。
「この英語、おかしいわ。私の知らない言葉がたくさん出ている。おかしいんじゃないの、この英語って。」
「え・・・」
僕は思わず声を上げてしまった。論文はアメリカ人が書いた極めて標準的な英語だった。しかも内容はちょっと気が利いた高校生でも辞書を使えば十分に読める平易なものだった。
「単語が分からないの。だったら辞書があるわよ。英和でも英英でも好きなのを使って。」
クレヨン娘は何だかとてもけだるそうな表情を浮かべた。
「こんなの読むの面倒じゃない。私、英会話とか教えたいわ。向こうの生活長かったから。」
『お前な、こんなものもさっと読めないのが何の英会話だよ。』
口に出してはいえないが、一年や二年くらい向こうで生活していたからと言って英語教えて金が取れるほど甘くはないだろうくらいは言ってやりたかった。
「うちはね、直接生徒さんを取って英語を教えたりはしないわ。そういうコースを企画して教材を準備したり講師を配置してそれを商品として販売しているの。だからどんなものを作れば効果的で人気のあるコースになるのかいろいろな文献を読んで研究したり考えたりするの。今度は生涯語学教育と言うのをテーマに商品を開発しようかと思うの。どう、手伝ってくれる。」
クレヨン娘はうかない顔をした。
「言葉なんていろいろな人とたくさんしゃべれば話せるようになるわ。考えることなんて面倒じゃない。」
「そうね、確かにそうかもしれないわ。でもね、いろいろな理由でそういう環境に自分をおくことが出来ない人や何かの具体的な目的を持って外国語を学習しようと言う人もたくさんいるわ。そういう人に効果的で楽しくしかも安価な方法を提供してあげるのが私達の仕事よ。そのためにどんな教材を使ってどんな環境でどんな講師を配置するか、そういうことを何通りも考えるの。そしてコストや受講料を計算して最終案を決めるのよ。そういう仕事って面白そうでしょう。」
クレヨン娘は大きなあくびをした。
「何だかそういうのって面倒臭そうだわ。だって考えるなんて言われてもどうして考えたら良いのか分からないもん。どの洋服を着ようかとか何を食べようかとかどの男の子と遊ぼうかとかそういうことは考えるけど。教材とか環境とかコストとか何だかすごくうざい感じがするわ。
ねえ、そんなことよりあなた、結婚してるんでしょう。それとも独身。」
「独身よ。そんなことはここでは関係ないでしょう。職場はお仕事をするところよ。」
僕は何だかこのクレヨン娘と話をするのが段々面倒になって来た。
「独身なら彼はいるの。どんな人。」
「あのね、言ったでしょう。ここは仕事をするところなんだからここにいる時は仕事のことを考えて。その資料を早く読んでね。辞書ならこれが使いやすいわ。」
僕はケンブリッジのラーナーズディクショナリーを渡してやった。クレヨン娘は体を投げ出すように椅子に腰を下ろした。
「そんなにいきなり考えろ考えろと言われても何をどうして考えていいのか分からないんだもん。」
僕は何だかこのクレヨン娘の頭を叩いてやりたくなった。何をどうして考えたらいいのか分からないなんて一体どんな脳みそをしているんだ。考えるなんて簡単じゃないか。目的があってそこに至るための条件があってそれを出来るだけ満たすためにどうすればいいのか、その過程を見つけ出すことがこの場合の考えるということだろう。
卑しくも大学に学ぶ者が、実際に学んでいるのかどうかは分からないが、そのくらいのことが分からないのでは困るではないか。クレヨン娘はしばらくは資料を眺めたり辞書を繰って見たりしていたが、今度は電話を始めた。誰と話しているのか、おそらくは六本木あたりにたむろしている洋物なんだろうが、それらしくは聞こえるものの語彙も品もない英語でしゃべり散らかしていた。
「仕事中に私的な電話はお止めなさい。」
クレヨン娘の電話が終わってから一言注意しておいた。
「ああ、面倒くさいな。」
クレヨン娘は不機嫌な声を上げると何も言わずに部屋の外に出て行ってしまった。
「あれ、何ですか。」
戻って来たテキストエディターがクレヨン娘の後ろ姿を見送りながら僕に聞いた。
「お手伝いと言うんだけど私にはお手伝いなのかお邪魔様なのか分からないわ。」
「しばらくここにいるんですか。」
「さあ、それも分からないわ。」
「何をしてもらうんですか。」
「そんなことこっちが聞きたいわ。何をしてくれるかなんて。」
クレヨン娘とはほんのわずかな時間しか接触していなかったのに何だか疲れてぐったりしてしまった。何時まで面倒を見るのかは確認しなかったが、これが当分続くのかと思うと情けなくなった。結局クレヨン娘は一時間ほどもしてからほとんど何もなかったような顔をして戻って来た。そしてまた携帯で電話を始めた。
Posted at 2016/02/09 17:34:54 | |
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小説 | 日記
2016年02月03日
夕方散歩がてらに二人で買い物に出かけて夕食の材料を買って戻った。食事の支度は大体僕の担当だったので二人で買い物に出かけるのは久しぶりだった。大方数日分の材料を買い込んで後は足りないものがある時に買い足していたが、あまり込み入ったものや品数は作らなかった。野菜類を中心にせいぜい二、三品がいいところだった。それでも女土方は美味しいと言って食べてくれていた。
この日はブロッコリーやアスパラガスといった青野菜とキノコ類にベーコンを入れたパスタに果物という取り合わせだったが、材料を特売の安いものばかり選ぶので女土方に笑われてしまった。
僕は元来家事が嫌いではない。男だった時から食事の支度や片付けや洗濯などは丁度いい気分転換程度に思っていた。家族がいてその面倒をすべて見るというのではいい加減嫌になるかもしれないが、独りだけの身の始末なら好きなようにやればいいのだからさほどの負担でもないし、第一自分が生活する場所が片付くと言うのは気持ちのいいことだ。
食事は一、二品しか作らずしかも同じものが三回くらい続いても平気という食物鈍感症なので支度や片付けにさほど時間を必要としない。そのかわり自分の場所で自分の好きなように食事をしないと気がすまないというイヌッコロのような性格なのでちょっとの手間がかかっても自炊をしていた。
洗濯なんてちょろいものであれは機械が洗ってくれるんだから人間は干せば良いだけだ。金を掛ければ乾燥させてくれるやつもある。最も僕は洗濯機に入るものなら何でも一緒くたに洗ってしまうので嫌がる者は顔をしかめるかも知れない。でもどれもこれも自分のものなのだから構わないだろう。
アイロン掛けはちょっと修練を必要としたが、洗濯屋に出かけた時に彼らの技術を盗み取って来た。これも「いやあ、ワイシャツの袖をきれいにアイロン掛けるのが難しくてさ。」なんて呟けばすぐに秘技を教えてくれる便利な洗濯屋が近所にいたからだ。ただし女のブラウスはひらひらとひれの様なものがついていたり折り返しがあったりブラウスなのに下にパンティのようなものがついていたり複雑怪奇としか言いようがない。後天性の女の僕としては出来るだけ男物に近いのを選ばざるを得なかった。
女土方も食事にはあまり構わなかったが、どちらかと言えば薄味好みで小食だった。僕の作る料理は彼女にはやや量が多すぎるようだった。そしてこれは女の性なのかもしれないが、度々外食をしたがった。それでも僕が作ったものは何でも喜んでよく食べてくれた。
洗濯はさすがに先天性の女だけあって後天的な女の僕とは違って丁寧だった。それでも余程の物以外はみんな一緒に洗っていた。大体洗濯機にぶち込めないものは洗濯屋の世話になればよかった。そのためのプロで普通の人間が洗濯機にぶち込めないものをきれいに仕上げる技術を有するところにその存在価値もあるんだろう。
掃除などはどちらも似たり寄ったりだったが、二人とも決して杜撰な性格ではなかったから室内はほどほどに片付いて乱雑な印象はなかった。ただ僕の方が何でも物を捨てるのが女土方よりもずっと好きだった。
いらないものや使えないものを貯め込んでも何もならないというのが僕の主義だったが、最近は捨てるにもいろいろ条件があったり金がかかったりして一筋縄ではいかない。その辺に投げ出したり燃やしたりすると犯罪になってしまう。決められた時間に決められた場所に持って行くか有料の業者に処分を任せるかしか方法がないが、働いている身には時間が自由にならず捨てるのも一苦労だ。もっとも身の回りを溢れ返るほどの物に囲まれて生活してそれを何とも思わないことからして何か異常なのかも知れないが。
その晩食事も終えて僕はインターネット、女土方はテレビとそれぞれに寛いでいると女土方が突然テレビの音量を落とした。
「ねえ」
女土方は僕に話しかけて来た。
「何」
「あなたはいいわね。自分の生き方や考えをしっかり持っていて。あなたみたいな人は何があっても強いわ。私もそうなりたいな。」
僕は女土方の言葉に首を傾げてしまった。女土方も僕に負けず劣らず自分の考え方をしっかり持って自分の生き方を生きていると思っていたからだった。
「あなただってそうじゃない。十分すぎるほどしっかり生きているように思えるけど。」
「私なんかだめよ。他人に影響されないようにいつも距離を取っているの。そうでないと流されてしまいそう。今回沖縄に行ってそれがよく分かったわ。あなたは森田さんと正面から向き合って自分の生き方を主張したけれど私はトラブルにならないように後ろに下がって距離を取ってしまったわ。でもそれじゃあ問題を解決できないのよね、引きずるばかりで。」
「前に出るのも下がるのもそれぞれ意味があるし取るべき手段の一つじゃないの。あの時はあなたのことを言われて腹を立ててあんなことをしてしまったけどただ前に出ることばかりが折りこうなやり方じゃないと思うわ。下がって距離をとるのも立派な生き方だし一つの作戦だと思うわ。」
女土方は静かに首を横に振った。
「私が思うのはね、その後のことよ。あなたは状況の変化に敏感に対応して少なくとも仕事では森田さんと共同歩調を取る方向に態度を変えたわ。あんなに対立していたのにあなたは森田さんの良いところもしっかりと把握していたわ。私も分かっているの、あの人は情緒的だけれど根は悪い人ではないことを。でもね、あの感情の迸りに面と向かう勇気が出ないのよ。だからあなたの様に強くなりたいと思うわ。ついこの間までのあなたって年の割には幼さが残るような女性だったのにどうしてそんなに変わったのかしらね。何度も言うけど本当に不思議だわ。」
『何度も言うけどそれは人間が全く替わったからです。』
さすがにそうは言えないので僕は黙って笑っていた。
「あなたは穏健慎重派、私は積極果敢派、丁度良い取り合わせじゃないの、私達。」
女土方は微笑みながらゆっくり頷いた。何時も職場では淡々として表情を変えない女土方だったが、僕はたまに見せるこの女の笑顔がとても好きだった。
「自分の生き方が持てるってことはそれだけ強く生きられるってことだと思うわ。私もあなたのようにしっかりと自分を持って強く生きることが出来る様にがんばるわ。」
女土方はまたテレビの方を向いた。画面では通信販売の商品が次から次へと映し出されていた。生き方を持つ、信念を持つということが強いと考えている人間はそれなりに自分の思うところや生き方を持っている人間だから言えることだし、僕たちはそういう類に属している人種には違いなかった。
しかし、この時僕達は世の中にはそういうものを全く持ち合わせていない人種が存在していることも知らなかったし、近い将来、自分達とは全く違う価値観を身に纏って思いもかけない行動で我々を翻弄する最強最悪の敵に出くわそうとは夢にも思ってはいなかった。
Posted at 2016/02/03 23:41:21 | |
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小説 | 日記
2016年01月29日
「後は片付けておきますから、どうぞ森田さんのところに行ってあげて下さい。きっと待っていると思いますよ。」
社長は黙って頷いた。
「今夜ここで起こったことは南の島に住んでいる妖精の悪戯なんでしょう。そう思うことにします。」
社長は電話でルームサービスを呼ぶと部屋を片付けさせてから北の政所様が休んでいる部屋に入って行った。それを見届けてから僕も女土方が寝ているベッドにそっと体を横たえた。女土方は寝返りを打って腕の中に転がり込んで来た。その女土方をそっと抱きながらこの何ヶ月かの間に起こった様々なことを思い出そうとして何一つはっきりと思い起こすことが出来ないうちに何時の間にか眠りに落ちて行った。
翌朝目が覚めた時にはもう日が高くなっていた。居間に出てみると女土方と北の政所様がルームサービスの朝食を摂っていた。
「お早う、よく眠れた。夕べは少し飲み過ぎたわね。気分がすっきりするからコーヒーでも飲んだら。あなたの好きなアイスコーヒーもあるわ。」
女土方が僕に向かって微笑んだ。
「社長はどうしたの、姿が見えないけど。」
北の政所様が首を傾げた。
「社長は二人が休んで私と二人きりになると森田さんを寝かせて自分の部屋に帰ったわ。」
僕はうそを言ったが、北の政所様は「そう」と言ったままそれ以上は聞かなかった。でも何となく腑に落ちないといった風情で考え込んでいた。後で社長本人から聞けばいいことなのだから今ここで本当のことを言うこともないだろう。
僕は渇いた喉にアイスコーヒーを流し込んでからサンドイッチや果物を口にした。そうしてしばらく三人がそれぞれ夕べのことを反芻しながら黙って時を過ごした後北の政所様が「部屋に帰ろう。」と言い出した。
「鍵は私に貸してね。お部屋の清算はしておくから。」
北の政所様に言われて僕たちは黙って頷いた。
「それじゃあいろいろとご馳走様でした。部屋に帰ります。」
僕と女土方は一言お礼を言って部屋を出た。
「何だか予想もしなかったおかしな方向に物事が進み始めたわね。」
エレベーターの中で女土方が呟いた。
「そうね、でもやることは一緒だから特に問題はないでしょう。」
僕は比較的気楽に考えていた。
「そうね、そう言えば確かにそうね。」
女土方もそれ以上は何も言わずに黙っていた。部屋に戻ると既婚女も若手女も二人とも帰り支度を整えていた。僕たちを見ると「お帰り。」と一言言っただけで夕べ何があったなどとは聞かなかった。昨夜北の政所様と僕たちが一緒に入浴していたことはもう知っているのだろう。僕と女土方も急いで帰り支度をすると四人でロビーに降りた。そして迎えのバスに乗り込むと那覇市に向かってホテルを後にした。
那覇で昼食を取った後観光バスに乗せられたままデューティフリーショップに連れて行かれた。女共は目の色を変えて時間一杯まで店内を走り回っていたが、僕は勿論すぐに飽きてしまった。女土方がいなかったらすぐに逃げ出してしまっただろうが、女土方は目の色は変えてはいなかったものの幾つかのブランドを見てみたいというので一緒に付き合った。そして僕たちは銀のアクセサリーを一品づつ買った。
那覇からは飛行機で東京まで一飛びだった。波乱に満ちた社内旅行は羽田空港で解散となった。僕と女土方は特に人目をはばかることもしないで連れ立って帰宅した。
「あーあ何だかとんでもないことになった旅行だったね。」
部屋に入って荷物を投げ出しと僕はソファに伸びをしながら腰を下ろした。
「大変だったわね。こんなことになるなんて夢にも思わなかったわ。でもまだ役員会の承認とかいろいろあるから未定でしょ。それより洗濯物を出して。一緒に洗うから。」
女土方はもう旅装を解き始めていた。僕もバッグから洗濯物を取り出すと洗濯ネットを取ってきてその中に詰め込んだ。女土方はそれぞれ幾つかのネットに分けて丁寧に入れていた。
「何か食べようか。私が支度するわ。何が食べたい。」
僕は洗濯をしてもらう代わりに食事の支度を買って出た。
「ラーメンを食べたいわ。」
女土方のリクエストに冷蔵庫をのぞいて足りないものを確認すると近所のスーパーに買い物に出かけた。そしていい加減に野菜炒めを乗せたラーメンを作ったが、女土方は「美味しい。」と言ってとても喜んでそれを食べた。
食事も終わって風呂に入ってしまい今のソファで寛いでいると女土方が僕に擦り寄ってきた。この二晩人目を忍んでいたためか何時になく積極的だった。勿論僕としても拒む理由もないので二人で散々戯れてからベッドに入った。
翌朝もずい分ゆっくりと目を覚ましてからまた女土方としばらくお互いの肌の温もりを確認し合った。男の時には何とも思わなかったが、この体になってから僕はお互いの胸のふくらみが徐々に潰れながら重なっていく感触がとても好きだった。それでよく女土方が「苦しい。」と悲鳴を上げるほど抱き締めてしまうことがあった。そんなことをしていて昼近くに起き上がるとトーストとコーヒーそして牛乳と言う簡単なブランチを摂った。
午後も特に何をするでもなく部屋の中で過ごした。こういう時間の使い方は勿体無いと思う時もあるが、本を読んだりテレビに目をやったり無駄と思えるような時間を持つのもなかなか落ち着いていいと思うこともある。
「あなたのアザも大分落ち着いたわね。最初は本当に酷かったけど。」
女土方が本から顔を上げて言った。
「向こうのお尻も相当なものだったでしょう。お互い様よ。」
「あんなに血相変えて叩くからよ。かわいそうに。彼女も。」
いざとなると徹底的に拒否する割にはこういう時は肩を持つのが女土方だった。
「でももしも社長が言っていたようになるとこれから面倒なことになるかもね。これまで思っていたほどではないかもしれないけどそれでもなかなか厄介な人よ、彼女って。」
女土方はまだ北の政所様に対する警戒感を捨て切れずにいるようだった。
「そうかな、我儘なところはあるかもしれないけどけっこう単純な人じゃない、あの人って。まあそういう単純さがある意味では怖いのかも知れないけど。でも仕事だから感情を交えずにやればいいんじゃない。」
「あなたはいいわよねえ、そういう風に割り切れるところが。私はなかなか急にそこまで割り切って一緒には出来そうもないわ。」
女土方は何時になく弱々しい笑みを浮かべてまた本に目を落とした。
「あのね、社長と彼女はほとんど愛人関係みたいよ。社長自身がそう言っていたわ。もっとも男女の関係は否定していたけど。引退したら一緒に暮らしたいといっていたわ。ずっと以前からお互いに惹き合っていたみたい。母親が違うと言っても兄妹なんだから同じ道を歩くことは出来なかったようだけど身を引いてしまえばそれも可能だろうしねえ。でもねそういうことは誰も興味本位にしか見ないけど誰も一生懸命に考えて生えようとしているのね。私がお見合いをしたあの人もそうだけど。
あなたと北の政所様が酔いつぶれて寝てしまった後で社長と二人で話をしたの。ほとんどあっちが一人で話していたようなものだったけどね。私達もそうだけど私はね、社長の言うことにちょっと感動してしまったわ。人生の残りの時間を自分と彼女のために使いたいって素敵じゃない。そういうのって何だか納得させられてしまうのよね。
私達もまだまだ引退なんて出来ないかも知れないけどせめて自分達の時間くらいは自分達のために精一杯生きたいわよね。あ、これってオフレコよ、誰にも言ってはだめよ。」
女土方が本から顔を上げて僕を見つめた。
「社長、そんなことをあなたに言ったの。きっとよほどあなたが気に入ったのね。大丈夫よ、誰にも言わないわ。あなたの立場を悪くするようなことは絶対にしないし私もそういうのって嫌いじゃないから。こっちも他人をとやかく言える立場でもないしそっとしておいてあげましょう。」
僕は女土方に向かって微笑んでから黙って頷いた。
Posted at 2016/01/29 18:21:02 | |
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小説 | 日記
2016年01月25日
「どうかな、裸の付き合いで理解と親睦が深まったかな。」
部屋に戻った僕達に社長が声をかけた。
「ええお互いに青あざを見せ合ってね。気持ちは以前よりずっと通じ合ったわ。」
北の政所様はそう応じていたが、僕にしても女土方にしてもさほど変わったという気はしなかった。北の政所様にしても社長に単純に応じただけだったんだろう。一緒に風呂に入って気持ちが通じるのならこの世に誤解や人間関係の軋轢などなくなって誰も苦労はしないだろう。
「まあどの程度距離が近くなったかは別にしてお互いに理解し合おうと言う気持ちが出来ることはいいことだ。さてそれでどうする、そろそろお開きにするかな。それとも引き続いて二次会と行こうか。」
「私はかまわないけどお二人はどうするの。」
北の政所様が僕たちを見回した。
「かまわないわ、特に予定もないし、ねえ。」
女土方がすかさず応じた。僕も特に何も言わずに頷いて応じた。
「それじゃあ二次会決定だな。明日は帰るだけだし明後日は休みなのだから朝まで飲んでもいいな。」
社長は過激なことを言って冷蔵庫から新しいビールやワインを取り出した。どうもそのつもりで僕たちが風呂に入っている間に準備したようだった。
「僕と冴子はけっこう行き来があってねえ。それがいいのか悪いのかは意見が分かれるところだろうけど親父が分け隔てをしなかったので子供の頃は良く一緒に飯を食ったり風呂に入ったりしたし同じ布団で寝たことも何度もあった。けっこう大きくなってからも冴子は僕の前でも平気で着替えをしていたりしていたからなあ。だから僕には腹違いと言ってもほとんど普通の兄弟にしか思えないんだ。今回のことはそういう意味では私情と言えば確かにそうだが、会社の将来にも大きく影響してくるのでどうか二人にはその意を汲んでもらってよろしくお願いしたい。」
僕と女土方は黙って頷いた。何となく社長のペースに乗せられていいようにされているような感じがした。それからは社長の昔話はしばらく続いた。話題はほとんど北の政所様のことだった。それを聞いていてもしかしたらこの二人は過去にお互いに惹かれ合っていたのかもしれないと思うようになった。いやもしかしたら過去にではなく今もかも知れない。
酔いが回るにつれて二人はじゃれ合い始めた。もう円熟期に入っている二人だったが、心の中は未だに青年なのかも知れない。それはこの二人だけではなくて僕たちも同じことだった。人間なんて年を取ると何でも分かったようなばかに落ち着いた振りをしているが、一皮剥けば二十歳の頃と何も変わらない。ただ周りや自分をごまかすのがうまくなっているだけなのかも知れない。
「ねえ、今日はみんな一緒にここで寝ない。雑魚寝っていいんじゃない。」
北の政所様がおかしなことを言い出した。
「でも私達はお邪魔じゃないかしら、一緒では。」
女土方がこれまた過激なことを言い放った。
「そんなこと言わないでみんなで雑魚寝とかそういうのもたまにはいいんじゃない。ねえ酔っ払ったついでに一つ聞いてもいい。悪く取らないでね、女同士ってどんな感じなの。」
女土方はにやりと笑った。その笑った顔が今まで見たこともないほど怖かった。
「口で言っても実際にやってみないと分からないでしょう。こっちにいらっしゃい、あなたにも分からせてあげるから。」
どうも酔っ払いは始末が悪い。本当に始めてしまったらどうしようと思いながらもけっこう興味津々で二人を見ていた。
「お、おい、ここには一人だけだけど男がいるんだから。」
社長は困った様子で僕を振り返った。でも僕の方に振られても僕にもどうしようもなかった。北の政所様はふらりと立ち上がって女土方の方に歩き出した。それを受け止めるように女土方が立ち上がった。ああついに宿敵同士が肌を交えるのかと一瞬息を呑んだが、北の政所様は女土方の脇を通り過ぎた。そしてそのまま社長のところに行くとその脇に座り込んで社長にもたれかかった。女土方はこれもまたすれ違うように北の政所様をやり過ごすと僕の脇に座った。
「困ったな。」
社長は口ではそう言いながら表情はそんなに困っている様子でもなかった。
「俊彦、私、今日は飲み過ぎたのかな。何だか疲れちゃった。」
北の政所様は呂律の回らなくなった口調で甘えた声を出した。
「分かった。ちょっと我慢しろよ。」
社長はもたれかかっている北の政所様の背中に手を回すと大柄な体を軽々と簡単に抱き上げた。そしてそのままベッドルームの奥に運んで行くとしばらくそこから出て来なかった。僕と女土方は居間に取り残された形になってしまったが、女土方も軽い寝息を立てて僕に寄りかかったまま寝入ってしまったので起きているのは僕一人だった。社長と北の政所様が消えた寝室で何が起こっているのか少なからず興味があったが、中に踏み込むわけにも行かず、外には何の音も漏れ聞こえず結局部屋の中で何が起こっているのか皆目分からなかった。小一時間も過ぎた頃社長はやっと部屋から出て来て僕の前に座った。
「いや、困ったものだ、彼女の甘えん坊にも。普段は強がっていても内面は脆いんだからな。」
僕は社長に何かしらの変化がないかと見ない振りをしてあからさまに服装などを凝視してしまったのだが、特に変わったところはなかった。幾ら何でも僕達がいるところで血を分けた兄弟が壁一枚隔てて愛を確認しあうなんて大胆不敵なことはしないだろう。そのうちに社長はベッドルームから出て来ると「よいしょ」と言いながら椅子に腰を下ろした。
「今見たとおり僕と冴子は極めて近い関係にあるんだ。勿論近親相姦ではないが、お互いに一人っ子で育った僕たちは精神的にはほとんどそれに近いと言ってもいいかもしれない。でも今回のことは私情で彼女を取締役にして佐山さん達に押し付けようとしているわけではないからそれだけは信じて欲しい。」
僕は黙って社長に頷いた。
「ありがとう。あなたの恋人にもずい分負担を掛けてしまったね。もうすっかり夢の中のようだけどここにはもう一つベッドルームがあるからそれを使って休ませて上げたらどうかな。」
僕はもう一度黙って頷くと社長がしたように女土方の背中に手を回して抱き上げた。男の頃の様に簡単にというわけには行かなかったが、それでも大した苦労もなく女土方をベッドに運んでそっと寝かしつけた。
居間に戻ると社長は一人でビールを飲んでいた。そう言えば社長はこれまで僕たちの接待に努めてあまり飲んでいなかったようだった。
「佐山さんも休むか。それとももう少し付き合ってもらえるかな。」
社長は戻った僕を見て微笑んだ。
「私でよろしいのならかまいません。でも飲めと言われても私はあまり飲めないかもしれませんけど。」
「そうか、無理を言って悪いね。ありがとう。」
社長は新しいグラスと缶ビールを差し出した。僕はそれを受け取ると缶のまま一口ビールを飲み込んだ。
「社長は森田さんのこと好きなんですね。今日社長が森田さんを抱き上げるのを見ていてその気持ちが痛いほど良く分かりました。」
僕は真っ直ぐに社長を見て言った。
「ああ、さすがに女性は鋭いな。僕は早くに母を亡くした。彼女は生活に父親がいなかった。お互いに満たされない感情を求め合ったのかも知れない。僕にしても彼女にしてもそんなに大それた人格は持ち合わせていなかったけれどそれでもお互いに支えあうには十分だった。
お互いに恋人が出来ても僕が結婚しても相手に嫉妬することもなく僕も冴子もお互いの感情は変わらなかった。勿論僕たちが世間で認められるような関係になれないことは百も承知だったしそういう関係を望んだこともなかった。お互いにたった一人の肉親として相手を身近に感じていれば肉の交わりがなくてもそれでよかったのかも知れない。
この部屋も本当のことを言うと冴子とつかの間の時間を過ごそうと思って取ったんだ。たった一人の肉親とわずかでも落ち着いた時間を過ごすために。世間はこういうことには敏感な割に実態は興味本位にしか見てはくれないが、僕と冴子は決して世間の興味を煽り立てるような関係ではない。冴子はさっき話していたクライアントの紳士と恋をしていたしその前にも彼女には何人も恋人と言う男性がいた。それは僕も同じだ。幸せになろうとするんだが、気がつくと夢破れてお互いのそばに戻ってしまう。
だからもうそういうことはやめることにした。僕は株主や会社、それに社員の皆さんに責任がある。あと何年かの間、僕は精一杯その責任を果たすつもりだ。だからあなた達や冴子に協力して欲しい。力を貸して欲しいんだ。そうして会社に新しい方向を与えて基盤を作れたら次に委ねようと思っているんだ。
『人間五十年下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり。一度この世に生を受け滅せぬもののあるべきか。』
敦盛、僕はこれが好きでね、特に公人としての自分の先行きを考えると何だかこれは自分のためにある言葉のような気がしてね。
なあ佐山さん、あなたはとても客観的な冷静なものの見方をする人だね。あなたを見ているととても女性には思えない。自分と同性の者と向き合っているようだ。あなたがもしも男だったらきっととても良い話し相手になれただろうに。そんな気がするんだ。僕にはあなたが男に思えて仕方がないしそうでないことが残念だ。」
何だか小樽で会ったすらり氏と同じことをまた聞かされた。でもそういう言葉を聴くと何だか納得してしまっている自分がそこにいた。元々姿形は女でも基本的な性別は男なのだし、男だった時の年齢自体もそういう年に近かったのだから無理もないのかもしれない。それにしても同性愛だの近親相姦まがいだの異常な関係ばかりが目の前で展開されるようだが、そういう人たちも単に興味本位でなく本当に当事者達の思うところを聞いてみるとしっかりと自分の責任を考えながら生きているのだなと感じ入ってしまった。却って僕の方が変な興味本位で他人を無責任に覗き見するような生き方をしているのかもしれないと思うと何だか自分が恥ずかしくなった。
Posted at 2016/01/25 20:49:12 | |
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