2016年10月31日
「私ね、学校を卒業したての頃、職場の上司に『あなたは自分の身は自分で守ろうという意識がとても強い人だ。全身を鎧で被って、その鎧が破られればもっと厚い鎧を着込んで自分を守ろうとする。それは悪いことではないけれどそれでは何時かその鎧の重さに耐えられなくなる時が来るよ』ってね。
確かのその人の言うとおり、それからずい分弾が当たったわ。鎧を貫いて傷を負わされたことのずい分あったわ。その度にもっと厚い鎧に取り替えたけど、本当に重さに耐えかねそうだったわ。それである時ね、うまいことを思いついたの。破られて困るところは絶対に破られない厚さの鎧を着けて破られてもいいところは何もしないことにしたわ。だからそういうところに当たった弾はそのまま通り抜けていくから痛くも何ともないわ。その代わり破られたら困るところは絶対に破られないわ。」
これは僕が若い頃に言われたことで佐山芳恵のことは知らないが、まさかこんなこと言われたことはないだろう。
「それも面白い考え方だなあ。でもそういうものの考え方って極めて男性的だよね。女性はあまりそういうことは考えないだろう。佐山さんは本当に男っぽいなあ。」
「ええ、そのとおりです。考え方ばかりじゃなくて他のこともいろいろと。この人もしかしたら男かも。」
僕はトイレに立つ振りをしてクレヨンの後ろに回りこむと首根っこを掴んで押さえつけてやった。こいつも性懲りもない女だ。だからサルだと言われるんだ。僕はそのままトイレに行って戻ってくると皆がニヤニヤ笑っている。
どうも様子がおかしいと思ったらテキストエディターのお姉さんが「佐山主任、澤田さんに裸を見せたことがあるんですか。佐山主任、言うことややることは男以上だけれど、とてもきれいなかわいい体をしているって。ずい分躊躇った挙句に耳まで真っ赤にして見せたって。澤本さんがそう言ってましたよ。」と言い出した。その一言でいきなり逃げ出そうとしたクレヨンの耳を掴んで引き寄せた。
「あんた、そんなことまで話したの。この耳引きちぎるわよ。」
「佐山主任、顔を真っ赤にして表も裏も澤田さんに見せたんだって。何だか可愛いわね、佐山主任て。」
言葉屋も黙ってはいたが僕を見てニヤニヤ笑っていた。このサル、余計なことばかり言いやがって。お前だって見せたじゃないか。
「佐山さんってとても頭脳明晰で強い女性のようだけど反面意外にお茶目だったり恥かしがり屋だったりするところがあるんだね。きっと内面は尚更可愛い女なんだろうね。」
まあいくらほめてもらっても男になびくことはあり得ないからそれは何と言ってみても無駄なことだ。
こんなことをしながら時間が過ぎてお開きとなった。代金は誘った言葉屋が持つと言って聞かないので一言礼を言って好意に甘えることにした。支払いが済んで店を出るとクレヨンとテキストエディターのお姉さんは数メートル先を二人で歩き、僕は言葉屋とさっき駅まで女土方と歩いた道を並んで歩いた。
「今日はいろいろとありがとうございました。」
特に礼を言う立場でもなかったが、僕は一応言葉屋に感謝の意を表しておいた。
「ああ、いえ、こちらこそ。いろいろと興味深い話を聞いて楽しかった。特に佐山さんのことは。」
「そうですか、別に珍しくもないどこにでもいるような×1の中年女でしょう。」
「いや、なかなか味と深みのある珍しい女性だと思います。とても魅力的な素敵な人です。出来れば今後のお付き合いなどぜひお願いしたいがいかがでしょうか。」
「お付き合いって、私と。」
「そうです。他に誰がいるんですか。」
「私には今は伊藤さんがいます。他のことはちょっと考えられません。ですからせっかくそう言っていただいてもそれにお答えすることが出来ません。」
「いや、そんな愛だの恋だのというお付き合いじゃなくて話し相手でもなんでも良いんです。あなたの考え方には少なからず共鳴する部分がありましてね。いろいろなことをゆっくり話したら面白いんじゃないかと思って。」
「そうですか、そういうことなら別に敢えてお付き合いと言う形を取らなくても出来ますよね。」
「それは確かにそうだ。でもやはり僕にしてみればあなたとその他大勢とは少し違った関係を持ちたいというのが本音かな。まあ急ぐわけでもないし、ちょっと考えてみて欲しい。」
僕は何も答えなかった。元々中年独身男英語屋の僕が何で同じ境遇の中年とお付き合いしなくてはいけないんだ。そんなことを考えていたらかかとを歩道の継ぎ目に引っかけてバランスを崩してこけそうになった。あっと思ったその時僕は言葉屋の両腕の中に抱きかかえられていた。
「大丈夫ですか。」
僕の顔のすぐ上に言葉屋の顔があった。僕はすぐに体を起こすと言葉屋の腕から逃れた。
「失礼しました。ごめんなさい。」
「大丈夫ですか。足を捻ったりしていないですか。」
「ええ、大丈夫です。すみません。じゃあ、ここで失礼します。」
僕は頭を下げると先を歩いているクレヨンとテキストエディターの方に向かって走り出した。駅はもう目の前だった。走るとひっかけた足がちょっと痛んだが構わずに走り続けてクレヨン達を捕まえると駅でテキストエディターのお姉さんと別れてそのまま家へと急いだ。
Posted at 2016/10/31 20:24:36 | |
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小説 | 日記
2016年10月26日
「でも私達はお互いに自分の世界に戻らないといけないのかも知れない。」
「お互いに自分の世界というのはここでしょう。それ以外にはあり得ないわ。なぜそんなことを急に言い出したの。もしも私のことを気遣ってくれているのならそれはありがたいけど無用よ。私はここから何処にも行く気はないわ。」
またこのメビウスの輪のような応酬にはまり込んでしまった。どうも僕はこの手の敢えてはっきりとものを言わないやり方が苦手だ。「これこれこうだからこうしたいんだ。」とはっきりと言ってくれればこちらもやり易いんだが、ものをはっきりと言わないとどうにも手が出せなくなる。
「今の私達を見て皆驚いて足を止めているでしょう。あなたはあっちの世界の人なのよ。あなたはあっちに戻らなくてはいけないのよ。」
「私がどっちの世界の住人かなんて大きなお世話よ。どっちの世界に住むかは私が決めるわ。誰の指示も受けない。もしもあなたが私を嫌いになったのならそう言って。私は自分の生き方を探すわ。そうなの。」
「そんなことない。」
女土方は首を振りながら消え入りそうな声でそう言った。そして僕をゆっくりと押し戻すとそのまま振り向いて駅の方に向かって駆け出して行った。僕は周囲の好奇の視線を受けながらその場に立ち尽くしていた。
「女土方、おれは確かにお前が言うようにお前とは違う世界の人間だよ。でもなあ、そうだからこそお前と一緒にいられるんだ。」
僕はわざわざ声に出して呟いた。そしてあのジャズバーに戻ろうとしたがまだ何人かが足を止めて僕を見ていた。
『おらおら、何を見ていやがるんだ。見せ物じゃねえんだ。』
やくざの捨て台詞のようなことを思い浮かべながら僕は来た道をゆっくりと歩き出した。店に戻ると皆が首を長くして僕の帰りを待っていた。
「どうだったの。」
テキストエディターのお姉さんが真っ先に僕に聞いて来た。
「もつれて絡んでしまった糸は切って捨てる他はないのかもねえ、どうなんだろう。」
僕は半ば本気でそう答えた。クレヨンはもうそれだけで目に涙を溜めてうるうるしていた。
「でも尽くすべきことは尽くさないとね。結果はその後よ。さて少し食って飲むかな。」
僕は席についてテーブルの上のステーキを二切れフォークで突き刺すと口に放り込んだ。そしてその後、フレンチフライを指で挟んで頬張ると今度はビールで流し込んだ。
「ねえ、伊藤さんと別れちゃったらどうするの。」
クレヨンが不安そうに聞いた。
「そうね、その時はあんたと一緒に暮らすわ。いいわね。」
クレヨンは「えっ」という顔をしたまま黙っているので「あんた、まさかいやだって言うんじゃないでしょうね。」と言ってやるとテキストエディターの陰に隠れてしまった。
「佐山さんは本当にそちらの世界の方なんですか。」
言葉屋が声をかけてきた。
「あっちの世界、そっちの世界って一体何処の世界。」
あっちだこっちだと言われてちょっと腹が立った僕はやや不機嫌に答えた。
「あ、いや、悪気じゃないんだけど、佐山さんは結婚もされていたと言うし、ついこの間まで恋人もいたと聞いたのでそんな人が一体どうしたんだろうと思いましてね。それにとても素敵な人なので引く手数多だろうし。ただちょっと愛嬌と言う以上に男っぽいところはあるけれど。」
言葉屋は口では悪かったと言いながらあまり悪気もないような口調でそんなことを言った。
「そうね、皆にそう言われるわ。劇的に人が変わったとかまるで男みたいになったとか。おっしゃるとおり過去には結婚もしていたし恋人もいたわ。でもね、誰が何と言っても嫌なものは嫌だし、好きなものは好きなの。他人が何と思おうと私には関係ないわ。私が自分のために生きるんだから。生きるのも責任を取るのも私なんだから。」
「なるほどねえ、そういう考え方も確かにあるなあ。日本の世の中では受けが悪いかも知れないけれど僕にはよく分かる気がするなあ、そういう考え方って。男だろうと女だろうと好きなものは好き、嫌いなものは嫌いか、分かりやすいなあ。」
言葉屋はしきりに感心していたが、何があっても簡単にヘテロジーニアスがいきなりホモジーニアスになんかなるものか。そうして僕が黙って食ったり飲んだりしていると言葉屋がまた話しかけて来た。
「佐山さんは結婚もしていたし男性の恋人もいたということは、また男性を好きになることがあると言うことなのかな。そうだったら僕も候補に入れてもらえるとうれしいね。」
この言葉でテキストエディターとクレヨンはにわかに活気付いた。
「今の言葉、本気なんですか。こんな野獣のような凶暴な女が良いんですか。手に負えませんよ、この女は。」
クレヨンがまたここぞとばかりに吠え出した。
「誰が手に負えないだって。もう一度言ってごらん。まだ当分あんたのところにいることになるんだからね。勿論今夜もね。」
「佐山主任は超強気だからねえ。難しいかもね。うまく御していくのは。以前はこんな人じゃなかったんだけどね、かわいらしい女性で。」
今度はテキストエディターが話を引き継いだ。こんな人じゃなかったとはどういうことだ。強気だろうが、かわいらしくなかろうが僕のことは大きなお世話だ。
「いくら強気と言っても人間そう何でも強くあれるものでもないし、弱いところだっていろいろあるよ。強い女の人もなかなか可愛いものだよ。」
言葉屋はまた変なことを言い出した。でも僕もその気持ちは良く分かった。確かに強い女は手の内に取り込んでしまえば却って可愛いことが多いんだ。
Posted at 2016/10/26 22:47:30 | |
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小説 | 日記
2016年10月20日
女土方は淋しそうに笑った。しかし、「本当に佐山芳恵なのか。あなたのことは信じられない」と言われると困ってしまう。こんな関係はまず相互信頼が絶対条件だから信頼出来ないと言われるともうそれだけでお終いということになってしまう。
「私は何も変わっていないわ。初めてあなたのところに行った時から。私にとってあなたはかけがえのない人だし、今も変わらずにあなたと一緒に生きたいと思っているわ。でもそれを信じてもらえないのじゃあ悲しいけどどうしようもないわね。」
「あなたはそうして大切だ、失いたくないと言いながら私がいやなら仕方がないとか信じてもらえないならどうしようもないとかどうしてそんなに淡々と言えるの。どうしてもっと取り乱したり慌てたりしないの。本当は大事じゃないからなんじゃないの。」
確かにそれも仰せご尤もだが、慌てたり取り乱して何とかなることとならないことがあるだろう。どうにもならないのに慌てたり取り乱しても疲れるし恥を曝すだけじゃないか。まあこういうところが僕流男の考え方なんだろうけど。
でも何となく女土方は駄々をこねているんじゃないだろうかという気がして来た。やむを得なかったとは言えこのところずっとクレヨンにかかり切りであまり女土方との時間を過ごしたこともなかったし、ゆっくりと話をしたこともなかった。たまに女土方が来ればクレヨンが張り付いていたり、突然現れた中年男の前でぼおっとしたりしていれば勘繰りたくもなるかも知れない。
「私は確かに他人とは違う趣向の持ち主かも知れないけど別に見せ物でもないわ。これで先に帰るわ。」
女土方はバッグとコートを掴むと立ち上がって入り口の方へ歩き出した。一呼吸置いて僕が立ち上がるとクレヨンとテキストエディターのお姉さんも腰を浮かせたので「いいからここにいて。来ないでね。」と制止しておいて僕は女土方の後を追った。女土方は僕が追って来るのを予想していたように店の外で待っていた。
「ちょっと歩こう。」
僕は女土方を誘った。女土方も黙って僕と一緒に歩き出した。
「ねえ、どうすればいいの。あなたが何と言おうと私は本気よ。私は一生あなたのそばにいるわ。確かに最近はあのサルのこととかいろいろあってあなたと一緒に過ごす時間が少なかったと思うわ。でもそれは他に気を移したわけでもなければあなたが嫌いになったからでもないわ。私とあなたがより良く生きるためよ。あなたから見れば私はちゃらちゃらへらへらして頼りなく見えるかもしれないけど私はあなたを精一杯愛しているわ。」
女土方は黙っていた。
「ねえ、何とか言いなさいよ。人が真面目に話しているんだから。」
「普通の世界を生きて来た人になんか分からないわ、私の気持ちなんか。」
「何よ、その言い方。私が普通の世界を生きてきたかどうか分からないでしょう。」
「少なくとも私とは違うわ。」
「だからと言ってそれが軽い生き方とは限らないでしょう。」
「軽い重いではないわ。立場の問題よ。」
「だから分かり合えるように努力しているんじゃない。立場が違うから分かり合えないと言ったら何も出来ないわ。」
はっきり言ってこんな話を続けていても無駄なのだが何とか女土方の頑なな心の内を探るための糸口でも見つけられればと思ってのことだった。大体普通の世界に生きて来たっていうが、それは佐山芳恵になるまでの平和で穏やかな時代の話でその後はビアンなぞ比べ物にならないくらい真っ青の生活を送って来たんだから。
でも僕は女土方にはずい分助けてもらったと思ってとても感謝している。彼女がいなかったらここまでやって来れたかどうか分からない。これからもこのまま生きていくのならこれからもぜひ女土方の助けは必要だろう。
「ねえ、ここで私を抱いて。」
女土方は唇を突き出して不満を訴える子供のような顔で僕を見た。ここは表通りではないが、人の通行もそこそこあって女同士は勿論男女のカップルでも抱き合うにはちょっとはばかられる場所だった。
「いいわよ。」
僕はそう言うと女土方を引き寄せて抱き締めた。この際、人目がどうのこうのと言っていられるか。女土方と二人で裸踊りをするわけでもないし、ちょっと女同士抱き合うくらいかまうものか。そうして女土方を両手の中にしっかりと抱き締めると懐かしい女土方の匂いが鼻腔一杯に広がった。
「ああ、いいわ。あなたの暖かさ、あなたの匂い、私、つくづくあなたが好きなんだなってそう思うわ。」
女土方が僕の腕の中で小さな声で呟いた。
「そう、それでいいのよ。お互いに自分に素直になれば。大丈夫、きっとうまくやれるわ。」
僕は女土方にそう答えた。通りかかった人たちが抱き合っている僕達を見て足を止めて驚いたような顔でこっちを見ていた。やはり大柄な女が二人して街角で抱き合っていると言うのは穏やかではないのかも知れない。しかも一人はかなりの美人だし。しかし、穏やかだろうがなかろうが、街角で抱き合っている僕達も悪いのかもしれないが、止むに止まれない理由があるんだから放っておいて欲しい。
Posted at 2016/10/20 22:53:43 | |
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小説 | 日記
2016年10月15日
「ねえ、あなた達、一体どうしちゃったの。それは個人的なことだから私が口を出すことじゃないのかもしれないけど、でもあなた達は別れてはいけないわ。今こんな形で別れたらどっちもかけがえのないものを失ってしまうわよ。二人ともきっと後悔するわ。それに二人がしっかりしていてくれないとこの企画だって失敗するわよ。いいわね、もう一度良く考えて。」
テキストエディターの言うことは僕も概ね正しいと思うことで僕自身は女土方と別れる気なんて欠片もないのだが女土方が頑なになっているのでどうしようもない。しかも状況は解決に向かって動き出す気配さえ見当たらない。女土方はテキストエディターの顔を真っ直ぐに見ていたが黙ったままで何も答えなかった。
「ねえ、ご当人達、何か意見はないの。」
テキストエディターが意見陳述を促すように僕と女土方を代わる代わる見た。
「私は何もないわ。何も変わっていないから。今までのままよ。」
僕はそう言って女土方を見た。女土方は前を見たまま黙り込んでいた。
「じゃあさあ、佐山主任に聞いてもいい。どうして澤田に『どんな時にどんな男なら抱かれても良いと思うか。』なんて聞いたの。『佐山芳恵、再び男に目覚めたか。』の噂は社内を駆け巡ったわ。」
何でそんなことが社内を駆け巡るんだよ。何で聞いたかなんてそんなこと決まってるじゃないか、男の好奇心だろう。でも、本当のところどうしてあんなことを聞いたのか良く分からない。あるいは如何な男とは言え子宮を持つ身になってそうした本能に目覚めたのかも知れない。
「何でそんなことが社内を駆け巡るのよ。うちの会社はよっぽど暇なの。」
答えが見つからないことをはぐらかそうとして噂が広まったことを責めたが、「あなたの場合は特別なのよ。」の一言で片づけられてしまった。
「じゃあ、佐山主任は伊藤副室が好きなの。どうなの。」
「何も変わらないわ。私はこの人が好きよ。」
「じゃあ、伊藤副室はどうなの。」
女土方はほとんど表情を動かさなかった。そして静かにテキストエディターに答えた。
「それは個人の問題よ。こういう席で話すことじゃないわ。」
「でも今まではいつも穏やかに話してくれたじゃないの。それがどうしてだめなの。」
「人の心は変わることもあるわ。それに状況も。何でも何時までも元のままで同じと言うわけではないわ。」
「佐山主任のことはどうなの。もう好きじゃないの。」
テキストエディターは何とか答えを引き出そうと思ったのか執拗に食い下がったが、女土方は黙り込んで答えなかった。僕も敢えて女土方に自分の内面を語らせる必要はないと思っていた。僕は女土方が心変わりしたとは思っていなかった。何か彼女なりの考えがあって僕から離れようとしているのだろう。それも自分のためでなく僕のために。
「聞いていると何だかずい分込み入った話でしかも非日常の出来事のようですね。私が口を挟んで良いのかどうか分かりませんが、つまり伊藤さんと佐山さんはお付き合いをされていたんですか。」
そこでテキストエディターとクレヨンが大きく肯いた。
「そしてそれは通常の関係ではないと。」
また二人が大きく肯いた。
「でも伊藤さんと佐山さんが仲良くすることがお二人のためにも今回の企画のためにもあなた達のためにも必要だと、そういうことですか。」
また二人は我が意を得たりとでも言うように大きく肯いた。
「そういうことって一般的に極めて個人的なことなので他人が口を差し挟むものでもないと思いますが、僕自身は普通の男女の関係でも同性愛的なものでも基本的にその当事者にとってそれが幸せならそれで良いのじゃないかと思います。それに今話を聞くとお二人の関係は仕事や周囲にも大きな影響があるようですから尚更円満に続くとよろしいかと。後は今の僕にはもうこれ以上は言えないなあ、他人がどうこう言うことではなく要はお二人の問題でしょう。」
まあ確かに言葉屋の言うとおりだ。ただし僕と女土方はビアンではなく正常な男女の関係だが。僕は女土方を見た。女土方も僕を見ていた。
「咲子、私はこれまでどおりにあなたと一緒に生きたいわ。もっともあなたがどうしても他の生き方を選択したいと言うのなら仕方がないけど。」
きれいな言葉でいうとこんな風になるんだろうけど現実問題として女の体になったとは言え、男に対しては拒絶感が拭えないので男を人生のパートナーとして迎えることは不可能である。しかし女と言っても日本の国内でビアン系の女で自分の好みに合うのを探すことはこれも不可能に近い。
それが偶然、偶然なのか必然なのかは実際問題として分からないが、女土方という自分の好みに合致するビアンの女性が出現してこれとパートナーシップを組むことになったことは僕にとってはいろいろな意味で幸せなことだったと思う。だから今更訳の分からない感情のもつれでその関係を失いたくはないというのが偽らない僕にとっての真実だった。
「私にはどうしたら良いのか分からないわ。あなたは一体誰なの、本当にあの佐山芳恵なの。あなたが本当に好きな人は一体誰なの。あなたは私の世界の人間じゃないでしょう。本当に一生私の方を向いて私と一緒に生きてくれるの。何だか皆分からなくなってしまったわ。」
Posted at 2016/10/15 16:34:33 | |
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小説 | 日記
2016年10月08日
目的地まではタクシーでほんの十分もかからずに着いた。五人で乗るのはちょっと気が引けたので二台停めて分かれて行こうとしたら、先の車に言葉屋、クレヨン、テキストエディターが乗り込んでしまって僕と女土方は二人でタクシーに乗る羽目になった。
これまでならタクシーの中でも適当にじゃれ合っていたかも知れないが、今回ばかりは左右にきっちりと別れて座り言葉も交わさなかったのでほんの短い時間でも何だか居心地が悪かった。
言葉屋お勧めのジャズバーと言うのは、良くぞこの時代まで生き残ったというくらい一九六〇年代の雰囲気を漂わせたレトロな感覚の店で実際僕などにとっても歴史の一コマを強く感じさせる店だった。僕はこの店が何処かで見たような気がしたが考えてみれば何処となくあのビアンバーに似ているのかも知れない。
店に入ると何組かの客が席を占めていたが、当たり前なんだろうが、皆相応の年配者だった。そしてこれもまた大時代なオーディオから流れるジャズの曲に聞き入っていた。このオーディオセットにしても今は馬鹿でかいウーハーのついたスピーカーボックス、アンプにイコライザー、ミキサー、ターンテーブルにテープデッキなんてよほどの店でも行かない限り手に入らないだろうが、ざっと見ただけでも一千万くらいかかっているのかも知れない。
お客は店の一角を占めている巨大なレコード棚を丁寧に見て回り、そこから一枚のレコードを引っ張り出すと悦に入った表情でジャケットなどを眺めながらカウンターに持って行き、それを演奏してもらっている様子だった。
だから店の中はほとんど話し声はしない代わりにトランペットやトロンボーンあるいはサックスなどの金管楽器やピアノの旋律などが鳴り響いていた。ちなみに僕は一時期ジャズに興味を持ったことがあったが、すぐに飽きてしまったからジャズのことはほとんど何も分からない。でもこのしっとりとした情感溢れる旋律は決して悪くないと思う。
言葉屋は慣れた様子で店主に軽く挨拶をすると店内中央の円卓についた。他のテーブルはすべて少人数用にセットされているので選択肢はここしかなかったが、八人から十人くらい座れそうなこの円卓も普段は一人客やカップルがぽつりぽつりと座っているそうだ。貸切とかそういう場合は別にしてこんなところに大人数で来る客もあまりいないだろう。
「ここは見てのとおりこんな時代がかった店でとっくにつぶれても良さそうなものですが、ここが良いという根強い顧客がいるようで未だにつぶれもしないで続いています。かく言う僕も根強い顧客の一人なんですが。」
言葉屋がそんなことを言っていると店主がメニューを持って現れた。
「そんなことを言ってもこっちが店を近代的に改装すると言い出すと強硬に反対するのは富岡さん達じゃないですか。お陰で私は近代的な飲食店チェーン経営者になり損ねて何時までたっても時代遅れのジャズバーの親父ですよ。」
「こんなこと言ってね、このマスターはバブル期にここが地上げにかかった時なんか嫌がらせに来たヤクザと張り合って一歩も引かずに渡り合ったんだ。何だかんだ言ってもご本人がこの今の店が一番好きなんだから。」
「ほらほら、つまらないことばかり言っていないで注文はどうするんですか。」
店主に促されてメニューを覗き込んだがどうも今時の店の三分の一くらいしか品数がない。酒類はバーボンとビールが中心でその他はほんの申し訳程度だった。
「これでもずい分増えたよ、ついこの間までは酒と言えばビールとバーボン、料理はステーキ、ハンバーガーにフレンチフライとグリーンサラダくらいだったんだから。」
「じゃあ、ステーキにフレンチフライをお願いします。それからビールも。」
テキストエディターが元気な声をあげた。
「あんた、そんなものバクバク食っていると太るわよ。」
こいつのケツはすでにチェック済みでやや手遅れの感があるが一応警告してやった。
「いいの、食べる時は思い切り食べるの。」
テキストエディターのお姉さんは太るなどと言うことは少しも意に介してはいないようだった。もっともあれを食べたら体に悪い、これを食べなきゃ体に悪いなんてことを考えながら生活しているより度を過ごさなければ好きなものを好きなように食べて生活している方が体に良いということを聞いたことがある。
食い物よりも何よりも体に一番悪いのはストレスだそうだ。ストレスの緩和と言う点では覚せい剤と同列程度に悪役扱いされているタバコもその効能を認める医者もいるようだ。でもテキストエディターのお姉さんやクレヨンにはそもそもストレスなんて無縁かもしれないが。そうして注文が終わるとテキストエディターのお姉さんは僕と女土方に向き直った。
Posted at 2016/10/08 18:04:31 | |
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小説 | 日記