東日本大震災で殉職した警察官は宮城県で6人、岩手県で4人、福島県でも1人いる。市民の命を守るために自らの危険を顧みずに飛び出し、犠牲となった。津波にのみこまれた2人の警察官の軌跡を追った。「大谷駐在所史上、最高の駐在さん」。宮城県警気仙沼署大谷駐在所の千田浩二巡査部長(30)の地域での評判はそうしたものだった。
昨年11月、神社の行事で警備に就いていたとき、お清めとして海に入る住民に交じって自らも海に入った。地域の人たちにとっても予期せぬ行動だった。駐在所近くに住む岩下勝重さん(66)は「いきなり服を脱ぎだしたのでびっくりした。積極的に住民に入ってきてくれる人でした」と話す。大谷に来て始めた釣りに没頭し、「老後は大谷に家を買って住みたい」と話していたという。
地震発生直後、海岸近くに人がいるのを千田さんが発見。ためらうことなくパトカーを走らせた。「海岸へ行く」。窓越しに同僚にジェスチャーで伝えたのが最後の姿になった。千田さんの同僚はパトロールの途中、海から巨大な津波が押し寄せてくるのに気付き、高台の方向に逃げたが、目の端に千田さんのパトカーがのまれ、海に流されていくのが映った。昨年4月、一緒に駐在所に赴任した妻(30)と長女(4)、長男(3)は無事だったが、津波で駐在所の半分がえぐりとられるように損壊した。がれきの中からヘルメットが見つかった。毎日のように町内をバイクで回り、「困ったことはないですか」と話しかけていたその声は、今は聞こえない。
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宮城県警岩沼署生活安全課の早坂秀文警部補(55)も地震の日、同僚数人と一時約1200人が孤立した仙台空港近くの沿岸部に避難誘導に向かい音信不通になった。遺体が発見されたのは、3日後の14日午後4時ごろ。海岸から1キロほど離れた民家の敷地内に倒れていた。ほかの同僚と、乗っていた車両はまだ見つかっていない。
2人の孫のおじいちゃんでもあった。仙台市の一戸建ての家の隣に30平方メートルくらいの土地を買い、白い柵で囲われた小さな公園を造った。その芝生で小学生の孫とキャッチボールに興じるのを近所の人はよく見ていた。3人兄弟の末っ子。「家族ぐるみでつきあっていた近所の交番のお巡りさんに『就職難なら警官になれば』と誘われたのがきっかけ」と母の桂子さん(85)は語る。兄の秀明さん(60)も「あまりにおとなしいので、務まるのか不安だった」と苦笑する。
非番の日も地域の講習会に顔を出し、お年寄りらに振り込め詐欺の被害防止策を熱心に説いた。秀明さんは「弟を誇りに思う気持ち、悔しい気持ちが半々です」とうつむいた。
日本人というのは危機に臨むとどうしてこんなに勇気と自己犠牲に溢れた信義誠実な行動が出来るのだろう。原発事故の対応に当たっている自衛隊員、消防隊員、警察官そして東電の職員、市町村の職員、そして被災地の人たち、みんなわが身を犠牲にしても他人のために尽くそうとしている。65年前、国難を救うために命を捨てて敵と戦った日本人が大勢いたのもこうした国民性によるものなのだろう。本当にただただ頭が下がる思いだ。
この方たちも普段はごく普通の人たちだろう。もしもどこかで会ってもすぐに忘れてしまうような本当に普通の市井の人たちだろう。そんな人たちが国難とも言える大きな災害に臨むと光り輝くような知恵と勇気と行動力を発揮して国難を克服していく。ついこの間まで没落の国と言われていた日本が国難に当たるとにわかに輝きだす。それは一人一人が受け継いでいる日本人のDNAなのだろう。
この国の国民は普段は超他力本願でお上にばかり頼っているように見える。ところがお上が知恵も勇気も行動力も何もないことが分かるとにわかに輝くような行動力を発揮して危難を乗り越えていく。この国を支えてきたのはそうした昼行燈のように普段は何も目立つことのない普通の市井の人たちで政治家など国のトップリーダーではないのかも知れない。愚かな為政者のツケを自らの命で贖い、スーパーリーダーを渇望する日本人の超他力本願は強いリーダーのいない国民の信仰にも似た願望なのかもしれない。
Posted at 2011/03/19 21:38:25 | |
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