2011年10月05日
帝国海軍には軍令承行令という制度があった。これは作戦上の指揮権の継承序列を定めた法令で、戦時、指揮官が戦死または負傷して指揮が執れなくなった際に円滑に指揮権の継承が行われるよう序列を定めたものだった。
序列は階級と同階級であれば人事評価と海軍兵学校の成績で海軍大臣以下末端の少尉まで指揮を継承する順位が厳格に定められていた。そのために先任指揮官が指揮が執れなくなっても遅滞なく次の指揮官が決定され、指揮に齟齬を生じないまことに合理的なシステムだった。
これが平時であれば合理的なシステムとして機能しただろうが、軍人と言えども誰もが同じように戦闘の指揮を執れるわけではない。実戦が得意なものもあれば作戦が得意な者もいただろうし、組織管理や人事管理あるいは教育などの分野でその才能を発揮すべき人物もいたことだろう。
そうした個人の才能を一律に序列をつけてしまったことで戦時の組織運営に大きな弊害が生じた。適材適所を実行することがきわめて難しくなってしまったからだった。米軍は戦争になると戦うために生まれてきたような人物を指揮官に据えて敵を圧倒し、戦争が終わると首を切ってしまった。
ところが日本の海軍はこの軍令承行令があるがために先任を飛び越えて人材を登用することが出来なくなってしまった。1944年(昭和19年)、古賀峯一連合艦隊司令長官殉職の際に、単に連合艦隊の指揮下部隊で最も軍令承行令の序列が上であるというだけで、体制もスタッフも弱小な南西艦隊司令長官の高須四郎大将が令に従って指揮権を継承し、連合艦隊の作戦に大きな影響を及ぼした。
海軍は抜擢人事も大佐までとし、将官の人事は基本的に年功序列としたという。開戦後、米海軍が27人を飛び越してニミッツを太平洋艦隊司令長官に抜擢しているのとは好対照だ。平時にあっては自分の序列が良く分かるこの制度は公平で組織を円滑に運営するにはまことに都合のいいシステムだっただろうが、戦時にあっては合理的なようで実は不自由極まりないシステムだった。
仮に戦時だけでも抜擢人事が可能であったら軍政・軍令又は実施部隊の指揮官としてより有能な人物をその地位に据えることが出来たかもしれない。海軍大臣山本五十六・次官井上成美、連合艦隊司令長官小沢次三郎・第一航空艦隊司令官山口多門あるいは角田覚治などと言う人事もあり得たかもしれない。しかし、第二次世界大戦は国家総力戦だから誰が指揮を執ろうと日本が勝つということはあり得なかっただろうが、どうも海軍の戦は乾坤一擲の時にはどうもその立場に不似合いな人物が指揮を執っていたように思えてならない。
もっともそれは何も戦争の時だけでなく現在の総理大臣選出にも通じていることなので日本の組織人事の特性、さらには序列を重んじる日本人の特性なのかもしれない。そしてこうした組織人事に対する考え方と海戦要務令という金科玉条教範が本来臨機応変で柔軟であるべき戦闘集団であった海軍の思考をがんじがらめに固めてしまって無残な敗戦へと導いたのかもしれない。
Posted at 2011/10/05 22:12:48 | |
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