2011年10月23日
日本海軍は劣勢な戦力の向上に血道を上げてきた。何とか米海軍と戦力を拮抗させるために骨身を削るような努力を続けてきたが、その戦力を生み出す資源の確保には目を向けなかった。目を向けなかったというよりも相手の海上戦力を殲滅すれば輸送路は確保できると思っていたのかもしれないが。
しかし、最初の頃は相手の態勢が整わなかったこともあって、海上輸送路もさほどの脅威を受けなかったが、相手の態勢が整うに従って、輸送船の被害が急増してきた。米海軍は日本の海上輸送路を締め上げる戦略を検討していたので当然のことだった。
尻に火が付き始めた日本海軍は、北方警備用に建造した占守型を基本形に、対潜装備を強化した択捉型を建造し、さらに大量生産向けに設計を大幅に簡略化した日振型などを大量に建造し始めた。これは、当時の日本では、海軍と民間の三菱重工業、日本鋼管、日立造船などの造船メーカーが一体となって、細る一方の輸送路を確保するための一大国家プロジェクトだった。
これらの艦艇が完成する頃には戦況は著しく悪化し、輸送船の被害はうなぎ登りだったため、小規模な造船所で短期間に建造できるよう、700トン程度に小型・簡略化された丙型・丁型と呼ばれる海防艦が大量に建造された。そしてこの種の艦艇は、戦時中、帝国海軍が建造した艦種の中で、最も多い艦種となった。
しかし、これらの海防艦が実戦配備される頃には、戦局はもうどうしようもないところまで来ており、手の施しようがなかった。それでも短期間に多数の艦艇を建造するために、生産性の向上を徹底的に追求し、ブロック工法や電気溶接を本格的に取り入れて、戦後の造船界の基礎を築いたことは大きな功績だった。
これらの海防艦のほとんどは、戦争の後半に、南方や日本近海で通商破壊戦を展開する連合国兵力と死闘を繰り広げたが、171隻の海防艦のうち72隻が失われるという奮闘にもかかわらず、圧倒的な連合軍の戦力には対抗すべくもなかった。
これらの海防艦は艦形が小型で居住性は劣悪だったというが、急造の割には対戦・対空装備がそれなりに充実していて使いやすい船だったようだが、だからと言ってこれらの小型戦闘艦でシーレーンを守り通すのは所詮無理なことだった。それでも、急速・大量建造法を確立した功績は戦後の造船界にとって大きな財産となっただろうし、国家の生命線を確保するために決死の戦いを戦い抜いた各海防艦、商船隊の乗員の健闘は称賛に値するだろう。
首が締まって初めて国家総力戦の実態に気が付いた当時の日本だが、今回の震災対応もそうだが、窮地に陥った時の日本人はなかなか力を発揮する人種のようだ。戦争後半機に小型艦とは言え、200隻近い護衛艦を造ったことには正直驚かされる。もう少し早くから海上輸送路の確保について対策を講じておけばとも思うが、それを言い始めると、戦争ではなく、別の方法であの時代をしなやかに強かに生き抜く方法を考えるべきだったのかもしれない。しかし、それこそが日本人が最も苦手とする思考様式なのかもしれないが。
戦後、生き残った艦の一部は海上保安庁の巡視船などとして昭和30年代後半まで活躍したというから急造とは言ってもそれなりにしっかりと作られていたのだろう。構造材には粗悪鋼もかなり使われていたというが、姿はなかなか近代的な護衛艦に見える。地味な艦ながら戦争後半の激戦から戦後の復興まで良く働いた艦と言えるだろう。
Posted at 2011/10/23 02:12:35 | |
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