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2017年06月10日 イイね!

韓国からC-HRに刺客だって、・・(-。-)y-゜゜゜。




韓国からC-HRに刺客!ヒュンダイの世界戦略コンパクトSUVに超接近

韓国・ヒュンダイ第4のSUVとなる、新型コンパクトSUV「コナ」の接写に成功しました。


車名はハワイ「コナ」地区から取られており、アウトドアと太陽が似合うエクステリアからイメージされています。


「i20」をベースに、その上位モデルとして開発が進められている世界戦略モデルで、トヨタ「C-HR」、ホンダ「ヴェゼル」らライバルに引けをとらないアグレッシブなフロントマスクになりそうです。


既にティザーショットで公開されている流行の薄型LEDヘッドライトは、このプロトタイプでも確認できます。


パワートレインは、エントリーモデルの1リットルを始め、1.4リットル直列4気筒ターボ、1.6リットル直列4気筒ディーゼルターボエンジンのラインナップが予想されています。


ワールドプレミアは、2017年9月のフランクフルトモーターショーが有力です。



一時期、と言ってももうずい分昔のことだが、韓国車もレンタカーやタクシーなどでよく見かけた。個人で所有していた人もいたのかもしれない。沖縄で韓国製のCカーに1度乗ったことがある。エンジンががさついてあまり乗り心地が良くなかった記憶がある。タクシー業界もヒュンダイか何かの車を使っていて「あれ、この車、どこの車だ」と思うことがあった。しかし、今、韓国車を日本に持ってきても、それがどんなに出来が良い車でも、誰も買わないだろう。日本車が米国を席捲したように韓国の車が日本車を駆逐するかと思ったが、やはりそう言うことはなかったようだ。おそらくこの先もないだろう。

Posted at 2017/06/10 14:53:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2017年06月10日 イイね!

ルマン24、トヨタは3台体制で必勝を期す、・・(^_-)-☆。




6月17日に決勝レースを迎える第85回ル・マン24時間耐久レースに1999年以来の3台体制で挑むTOYOTA GAZOO Racing。レースウイークを前に、ドライバーたちが意気込みを語った。

 
2016年、トップを快走しながらも残り3分でストップし、日本のみならず、世界中のモータースポーツファンに衝撃を与えたTOYOTA GAZOO Racing。今シーズンは、昨年手にできなかった総合優勝を取り戻すべく、WEC世界耐久選手権のポイントリーダーとしてル・マンに臨む。

 
チームは今年のル・マンに焦点を合わせて、トヨタTS050ハイブリッドを全面改良。熱効率を高めた改良型2.4リッターV6直噴ターボエンジンや、ハイパワー型リチウムイオンバッテリーを搭載した。

 
空力面も見直され、ル・マンには長い直線を持つサルト・サーキットの特性にあわせ、ストレートスピードを重視したローダウンフォース仕様の空力パッケージで挑む。

 
ドライバー陣も、各ドライバーの経験値などからWECシリーズ戦とは変更された。7号車トヨタはレギュラードライバーの小林可夢偉とマイク・コンウェイに、ステファン・サラザンを加えた3名体制。2016年のル・マンで総合2位を獲得した布陣を復活させた形だ。

 
8号車トヨタは、昨年と同様、中嶋一貴、セバスチャン・ブエミ、アンソニー・デビッドソンのラインアップで悲願達成を狙う。9号車トヨタは今年がル・マンデビューとなる国本雄資とホセ-マリア・ロペスに、ベテランのニコラス・ラピエールを加えたラインアップとなる。

 
トヨタは、レースウイーク前の4日(日)に行われた公式テスト、“テストデー”でベストタイム上位を独占。本戦へ向け着実な仕上がりをみせている。


「ル・マンは我々にとってシーズンでもっとも重要なレースであり、トヨタ自動車東富士研究所とドイツ・ケルンのTMG(トヨタ・モータースポーツGmbH)にて周到な準備を重ねて参りました」と語るのはTOYOTA GAZOO Racingの佐藤俊男代表。


「昨年以来、1年にも及ぶこれまでの献身的な頑張りに対し、関係者全員に感謝したいと思います。我々全員、昨年起こったことは脳裏に焼き付いていますが、それは既に過去のことであり、今は来週のレースに集中しています」


「テストデーもとても順調でしたが、我々にとって重要なのはトップで24時間レース決勝のゴールを切ることです。今年も非常に厳しい接戦のレースになると思っていますが、それはファンの皆様にとっては、とても見応えのあるレースとなるものと思います。チーム一丸となってこの接戦を制することができるよう、最後まで集中して戦います」


■小林可夢偉「今年は大きなチャンス」

7号車を操る可夢偉は「我々にとって最重点のイベントで、チーム全員が待ち望み、士気は最高に高まっています。準備は充分にできていると思いますので、レースウイークを迎えるのが楽しみです」とコメントしている。


「今年は我々にとって大きなチャンスだと思っていますし、そのためにもすべてを順調に、間違えのないように進めなくてはなりません。信じられないほど長いレースなので、完璧な準備が要求されます。昨年のレースの後、チームは一丸となって努力を続けて来ましたし、チャレンジへの準備は万端です」

 
また8号車の一貴は「ル・マンは大好きなサーキットですし、とても素晴らしいイベントなので、本当に楽しみです。我々は今季の開幕から2戦連勝しましたが、ル・マンは別物だということはとても良く分かっています」と続けた。


「ル・マンで勝つのは本当に大変で、そのためには速さだけでなく、信頼性と運も必要です。我々のTS050ハイブリッドの速さはテストデーで確認できましたし、準備は順調です。チームは総力を挙げてル・マン勝利へ向け努力を続けています」

 
ル・マンデビューを迎える9号車の国本は「いよいよドライバーとして初めてル・マンのレースウィークを迎えることになり、とてもワクワクしています」と意気込みを明かした。


「兄の京佑が2009年にル・マンへ出場したことがあり、その時に帯同したので、このイベントの素晴らしさは知っていました。テストデーで実際に走ってみると、すぐにこのコースが好きになりました。これから決勝へ向けて学ぶこと、やらなくてはいけないことがたくさんありますが、本当に楽しみです」

 
2017年のル・マンは、14日(水)から走行セッションがスタート。14日は現地16時から4時間の公式練習と、現地22時から2時間の公式予選1回目が行われる。予選は翌15日(木)にも現地19時と現地22時に各2時間ずつ行われ、この3つのセッションで記録された最速タイムで決勝のスターティンググリッドが決まる。

 
16日(金)は走行は行われず、ル・マン旧市街地でドライバーズパレードを実施。17日(土)は現地9時から45分間のウォームアップを経て、現地15時に24時間レースの火蓋が切って落とされる。




今年のルマンは1998年と昨年、終盤のマシントラブルで逆転された因縁のポルシェと一騎打ちになる。トヨタは3台体制で必勝を狙う。ポルシェは2台体制、今年は圧倒的にトヨタ有利だろうが、レースはゴールするまで分からない。さて、どうなるか。今年はGAZOOでライブ中継をするそうだから楽しみではある。

Posted at 2017/06/10 11:56:56 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2017年06月10日 イイね!

闘争の果てに一体どこに行くつもりなんだろうねえ、・・(-。-)y-゜゜゜。




半世紀近くに及ぶ逃避行の末に姿を現した男の胸には何が去来していたのか。昭和46年に東京・渋谷で学生らのデモ隊により警察官が殺害された渋谷暴動事件で、警視庁が殺人容疑などで逮捕した中核派活動家、大坂正明容疑者(67)。7日、勾留先の大阪府警大淀署から東京都千代田区の警視庁本部に空路で移送された。羽田空港へ向かう、およそ1時間のフライトで見せた逃亡活動家の素顔、そして、徐々に明らかになってきた逃亡生活の実態とは。

■短く刈り込まれた白髪交じりの髪

7日正午すぎ、1台のワゴン車が大淀署から滑り出してきた。報道陣のカメラが浴びせるフラッシュで浮かび上がったのは、眼鏡をかけた白髪交じりの老年の男。ゆったりとしたジャージーの上下に茶色の靴、髪は短く刈り込んでいた。車外の喧噪(けんそう)に動じることもなく、じっと前を見据えたその男こそ、警視庁公安部が46年にわたって追い続けてきた大坂容疑者その人だった。

 
梅雨入りが発表されたこの日の大阪は曇天模様。

降りしきる雨の中、ワゴン車は約30分後に大阪空港に到着した。車を出た大坂容疑者は捜査員に囲まれながら、ゆっくりとした足取りで空港内の警察施設へ。真一文字に結んだ口を開くことはなかった。

 
再び姿を見せたのは、午後1時29分。警察官と思われる10人ほどが見守る厳戒態勢の中、大坂容疑者は大阪空港の搭乗ゲートから羽田空港行きの飛行機に乗り込んだ。最後部中央の席に座った大坂容疑者の周囲には複数の捜査員が陣取り、不測の事態に備えた。

 
大坂容疑者の姿を捉えようとするマスコミ関係者らも多かったとみられ、機内は満席に近い状態。独特の緊張感が漂う中、午後2時15分、定刻より少し遅れて飛行機は滑走路を飛び立った。


■黒縁眼鏡を外して機内でみせた素顔

飛行機に乗り込んだ大坂容疑者は移送の際に掛けていた黒縁の眼鏡を外した。警視庁が公開していた手配写真と同じ素顔をさらしながら、右側の窓から東京の街並みを眺めたり、周囲を見回すようなしぐさをみせたり。

 
約1時間のフライト中、言葉を発することはなかったが、その態度は意外なほど堂々としていた。機体の車輪が地上をとらえたのは午後3時11分。着陸を知らせるアナウンスが流れ、乗客が身支度のために席を立つ。座ったままの大坂容疑者は顔を上げ、にらみつけるような視線を宙に送っていた。

 
羽田空港の搭乗口には、警視庁の関係者が数十人と報道陣約100人が大坂容疑者を待ち構えていた。

「46年逃げた男はどんな変貌を遂げているのか」

集まった報道陣の関心はその一点に集中していた。

午後3時半すぎ、カメラの放列は、ゆっくりと飛行機から出てくる大坂容疑者に一斉にフラッシュを浴びせかけた。

 
強烈なストロボ光の反射は、大坂容疑者の白髪が茶髪に染められているように写真に映るほどだ。

 
まぶしそうに顔をしかめる大坂容疑者にテレビ局のリポーターが呼び掛ける。

「亡くなった警察官にかける言葉は」「46年間、どこにいたんですか」

しかし、大坂容疑者の固く閉ざされた口元が開かれることはついになかった。


■「同僚の仇」追い詰めた警視庁

46年もの歳月を費やして「同僚の仇」(警察幹部)を捕えた警視庁公安部。事件は一応の決着をみたが、まだ解明すべき点は残る。最大の謎は、大坂容疑者がどうやって警察当局の捜査の網の目をかわし続けたのかというものだ。

 
捜査関係者によると、大坂容疑者は、事件から2年以内に千葉県市川市の活動家宅に短期間宿泊。公安部は、大坂容疑者がこの時期に複数の仲間の元を渡り歩いていたことも把握していたという。

 
しかし、その後は生死も不明な状態が続き、捜査は暗礁に乗り上げていた。転機は、平成24年3月、東京都立川市のマンションから、大坂容疑者が北関東の病院で治療を受けようとしていたことを示す資料を発見したことだった。その4年後の28年1月には、東京都北区のマンションで、大坂容疑者の潜伏の形跡を発見。いずれも過激派「中核派」のアジトとみられ、中核派が組織的に大坂容疑者の逃亡を支援している実態が明らかになった。

 
北区のアジトからは大坂容疑者のアルファベットのコードネームが書かれた「指名手配キャンペーンに負けない」との趣旨の文書も見つかっており、「捜査機関に足取りをつかまれないように、大坂容疑者に関する情報は全て暗号でやり取りされていた」(警視庁幹部)という。


■地裁前で抗議活動、機関紙で「無実」

公安部は一連の捜査で、今回、大坂容疑者とともに逮捕された中核派の非公然活動家の男(58)と行動をともにしていることをキャッチ。今年1月には、大阪府警が、この活動家の男が大坂容疑者の最後の潜伏場所となった広島市のマンション一室に入るのを確認した。

 
捜査員がこの部屋の監視を続ける中で、活動家の男以外の男の存在を察知。粘り強い捜査の末にたどり着いたこの男こそが大坂容疑者だった。先の幹部は、「中核派の10人前後の活動家が警察当局の捜査を警戒しながら、主に2人ペアで大坂容疑者の逃走を支援していた」と指摘する。

 
大坂容疑者の逃亡を支援したとみられる中核派は、協力団体とともに大坂容疑者が殺人容疑などで逮捕された当日の7日、東京地裁前で抗議活動を決行。機関紙「前進」で、「大坂同志は無実」と題する記事を掲載するなど、“後方支援”を続けているが、46年にわたる逃亡への関与の有無について明らかにしていない。

 
ただ、歴史の波に埋もれかけた事件が、真相解明に向けて大きく動き出したことは間違いなさそうだ。




普通なら第一線を退いて孫と遊ぶような年齢になっても未だに頭の中は革命戦士なのか。悪は国家権力とその手先の警察、自衛隊、自らの行動はすべて正しい。しかしそうした行動の先に何を作ろうとしているのかねえ、この連中は、・・(-。-)y-゜゜゜。当時とは世の中もすっかり変わっているだろうにどこに行くつもりなんだろうか。

Posted at 2017/06/10 11:34:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記
2017年06月10日 イイね!

零戦は人命軽視の欠陥機だって、・・(-。-)y-゜゜゜??




零戦、2017年の東京湾上空を飛行
 
2017年6月3日(土)、4日(日)に幕張海浜公園(千葉市美浜区)で開催された「レッドブルエアレース」において、旧帝国海軍の戦闘機「零戦二二型」が飛行展示されました。零戦が日本において一般公開飛行を行うのは実に20年ぶりであり(20年前は別の機体)、また本機の操縦は戦後はじめて日本人の零戦操縦士となった柳田一昭さんが担当しました。

 
零戦、正式名称「A6M 零式艦上戦闘機」は、日本で最も有名な戦闘機として世界的に高い人気を誇り、映画やマンガ、ゲームをはじめとして様々な作品においてもその姿を見ることができます。

 
しかしながら零戦は特攻機として使われたという事実、また凄惨な世界大戦における日本の敗北という事実から、高い人気や知名度と同じだけの「負の象徴」を背負わされてもいるといえます。残念ながらその「負の象徴」としての零戦の風聞のなかには、事実に基づかない風評被害ともいえる虚構も少なくないようです。

 
そのなかでも「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」という評価は最たるものでしょう。


「防弾板」の有無で評価ができないワケ
 
確かに零戦は防弾板を搭載していませんでした。しかしこれはけっして性能を重視したためでも、人命軽視のためでもありません。ただ単に零戦の開発が始まった1937(昭和12)年の時点において、防弾板の必要性については世界的に認知度が低かっただけにすぎず、ほぼ同時期に開発された他国の戦闘機も、一部を除いてほとんど搭載していませんでした。

 
戦闘機における墜落要因の多くは火災です。零戦はそのぜい弱というイメージとは反対に、設計時から胴体内燃料タンクの火災を食い止める消火器の搭載が要求されており、事実、最初のタイプからこれを搭載しています。後期型では比較的被弾する可能性の高い主翼内タンクにも設けられ、実際被弾して発火しても帰還が可能であったと言われます(ただしこれは火災で戦死した人は証言を残せないことを考慮する必要があります)。

 
第二次世界大戦がはじまると、各国は戦闘機における防弾板の必要性について検討しなくてはならなくなり、それは帝国海軍もまた例外ではありませんでした。ところが1942(昭和17)年ごろまで日本側はまだ勢いがあり、敵味方の航空機の数もほぼ同等、そして帝国海軍は零戦が圧倒的に勝っていると思い込んでいたので(実際は撃墜の誤認が多く勝敗は僅差でした)、「公式的には」この時点において空戦による戦死者、特にパイロットに銃弾が直撃し負傷したと想定される墜落はそれほど多くはありませんでした。よって防弾板の導入が急がれることはなかったのです。むしろ主戦場であった赤道付近に蔓延する病気による被害のほうが深刻で、特にマラリアはパプアニューギニアやラバウルなどの飛行場に配備されたパイロットのほぼ全員が罹患していました。

 
1944(昭和19)年頃になるとアメリカ側の反抗がはじまり、ようやく零戦にも防弾板が搭載されるようになりますが、もはやこの時点において戦争に勝つすべはなくなっており、防弾板の有無などは些細な差でしかありませんでした。


防弾板よりも致命的だった「ある問題」
 
零戦が当初、防弾板を搭載していなかったことは事実です。また他国に比べて防弾板の装備が遅かったことも否めません。しかし零戦が性能を優先し人命軽視の設計だったという事実はなく、また防弾板の有無によって何か大きな影響があったかというと、おそらくなかったのではないでしょうか。

 
零戦の短所としては広く知られる防弾板の有無よりも、戦争後期を除いて「無線機が全く機能しない」という本当の欠陥のほうがはるかに問題であったといえます。零戦パイロットらはチームワークが取れないことによってほとんど連携せずに戦っていたため、アメリカ軍戦闘機パイロットが連携を重視するようになると、勝っていたはずの機種にすら対応できなくなります。

 
また、かのミッドウェー海戦では、空母上空を守らなくてはならない零戦がチームワークの不備から低空に殺到してしまったため、結果として上空ががら空きになり、無防備となった3隻の空母がその隙を突かれ一瞬のうちに沈められてしまいます。

 
戦争終結から今年で72年。ようやく日本の空に飛べる零戦が、日本国内における初の動態保存を目的に帰国し、そして最初の展示飛行を行いました。これを機に「零戦」という飛行機に染み付いてしまった事実に基づかないイメージをいったん取り払い、なぜ零戦は1万機も生産される大成功を収めたのか、その本当の姿について、あらためて見つめなおしてみるのはいかがでしょう。




零戦と言う戦闘機を世界の傑作機に押し上げたのもその後悲劇的な運命をたどらせたのもすべては当時の航空機用エンジンだ。当時の日本の工業力は欧米に5年から10年遅れていた。航空機用エンジンは欧米製品のコピーだったし、プロペラに至ってはすべて欧米の模倣で20年は遅れていたという説もある。当時の日本としては精一杯だったが、馬力の大きくない栄と言うエンジンで速くて重武装でくるくるよく動けて遠くまで飛べる戦闘機を作った。それが零戦で実際に速度も運動性も航続距離も世界の水準をはるかに凌ぐ戦闘機が出来たが、その分機体強度が弱く急降下で逃げる敵を追撃できず機体規模も小さく発展の余地が少ない戦闘機となった。防弾装備などは当時の海軍の戦術思想で防御よりも攻撃力の強化が大原則だったから防弾装備がないなどは零戦だけの問題ではない。また電装品や電子装備のレベルも低かったので無線が聞こえない、電装コードの絶縁が不良で放電して電圧レベルが下がる。油圧部品からオイルが漏れるなどは日常茶飯事だった。緒戦では熟練搭乗員の技量と相まって圧倒的な強さを発揮した零戦も中盤になると搭乗員の質の低下とともに急降下速度が低く急降下で逃げれば追撃できない、防弾装備の不足ですぐに燃え出すなどの欠点が目立つようになった。そして後継機も適当な大馬力エンジンがなく開発は遅延して零戦を使い続けるしかないという状況に陥った。昭和18年に投入された零銭52型はそれまでの軽快でくるくるよく動く零戦とは違い、速度と重武装を重視した重戦として戦闘機の性格が変わっていた。この時にエンジンをより馬力の大きい三菱の金星に換装しておけば戦争後期の零戦はもう少し変わったかもしれないが、航続距離が落ちることを理由に海軍が反対したために実現しなかった。そして後継機にも恵まれなかった零戦は戦争の全期間を通じて主力戦闘機として使われ続け1万機と言う大量生産がされた。本来なら12試の零戦の後に15試、18試と3年に1回程度新型機が開発されるべきところ適当なエンジンがなく開発陣も手不足で遅れに遅れて17試で烈風が試作されたが、誉エンジンの不調で失敗、戦争末期の昭和19年に三菱のハ43に換装して性能を向上させた時はもう時すでに遅かった。当時の日本の工業力のレベルがもう少し高くて適時適当な航空機用大馬力エンジンの開発が行われていたら零戦は戦争中盤には次にバトンタッチして第一線から引退していただろう。当時のエンジニアの発想自体は日米とも大差はなかったというが、それを実現させる工業技術力に大差があったのは事実だろう。零戦を世紀の傑作機に押し上げたのは開発陣の汗と努力、そして悲劇の欠陥機に貶めたのは当時の日本の工業力と言うことになるだろう。ちなみに今零戦を飛ばした印象はセスナに毛が生えた程度だと言う。確かにそんなものかもしれない。零戦を戦争の象徴として非難する意見もあるが、別に零戦が戦争を始めたわけではない。戦争を始めたのは人間でその意味では零戦に責任を押し付けずに我々人間が常に過去を顧みて大いに反省すべきだろう。


Posted at 2017/06/10 10:59:17 | コメント(1) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記

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ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
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