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2017年06月13日 イイね!

翼の向こうに(64)




部隊の再展開が終了して間もなく沖縄周辺に展開する敵への攻撃が再開された。しかし機材や燃料の不足は勢い敵に対する攻撃を十数機づつの攻撃隊による散発的なものへと変更せざるを得なくなり、断続的な攻撃による敵への精神的な打撃はとにかく、実質的な打撃を与えることはますます難しくなっていった。

 
また消耗してしまえばそれっきりで補給を全く受けることの出来ない沖縄地上軍はその命運をかけた総攻撃が頓挫した後は圧倒的な兵力、火力を擁する敵の陸海空協同の攻撃に当然の帰結のように徐々に島の南部へと圧迫されていった。

 
大規模な特攻攻撃が出来なくなった分、進路制空の任務は減ったが、九州地区に展開する味方基地制圧のために飛来するB二九などの大型爆撃機や艦載機の迎撃、九州沿岸に出没する敵哨戒機狩りとまさに東奔西走の慌しさだった。

 
とりわけ一万メートル近い高空を飛行するB二九とそれに随伴する時速七百キロの高速を誇るP五一戦闘機は有効な過給機を装備しない、高高度性能に劣る日本の戦闘機には手に負い難い強敵だった。また沿岸に出没する敵の哨戒機も重防御で多数の防御機銃を装備し、一撃で発火する防御の手薄な日本の大型機と異なり侮りがたい存在だった。

 
高瀬は機銃を乱射しながら海面近くを這うように逃走する敵の哨戒機に対して後上方からの二機同時攻撃法やB二九への前上方からの複数機による背面降下攻撃など様々な攻撃法を考案して戦果を挙げたが、このような攻撃方法は高度な技量が要求される上に、厚い防弾板に守られ、燃料が漏れ出すと溶けて気泡化して機銃弾の貫通孔を塞いでしまう特殊なゴムに覆われた燃料タンクなどを装備する敵機は紫電の二十ミリ機銃を以ってしても撃墜するのは容易ではなかった。

 
実際、空中戦で火に包まれて落ちていくのはほとんどが日本の戦闘機で敵機は翼や胴体が千切れるまで撃たれても燃え上がることは少なかった。もちろん零戦に較べれば紫電の防弾防火対策はずいぶん進歩してはいたが、それでも敵のものには及ばなかった。それに搭乗員の中には重量の軽減を狙って操縦席背後に取り付けられた防弾甲板や風防正面の防弾ガラスを下ろしてしまう者もいたが、高瀬は自分の列機にはそれを絶対に認めなかった。


「補充が十分ではない味方が戦力を維持するためにはまず被害を極小化することだ。戦って被害は付き物だが、そうだからと言って大ベテランでも生き残るのが難しい戦場に未熟な搭乗員がわざわざやられ易くして出て行く馬鹿があるもんか。機体を軽くしたければ持って行く弾を減らせ。百発で約十キロ、持って行く弾を半分に減らせば四十キロは減らせる。それでもまだ四百発も積める。零戦の倍に近い弾が残るんだ。それにこっちは何所に降りても日本だ。弾がなくなったら手近な基地に降りて補充すればいい。それだけがこっちの強みなんだから。」

 
高瀬は平然と言ってのけた。命を捨てても攻撃という風潮の中で命を守るために攻撃力を減らせという高瀬の発言は当然上級司令部だけでなく部隊の中にも強い反発があったが、高瀬は一向に意に介さなかった。


「死んでしまってどうして攻撃が出来るんだ。死ねば戦に勝てるのなら全員並んで腹でも切ればいい。」

 
高瀬は出撃前、帰還後の整備も欠かさなかった。搭乗員は帰還すると機体を整備に任せて引き上げてしまう者が多かったが、高瀬は整備と一緒になって飛行中の不具合箇所を点検して交換が必要な部品は交換させ、修理が必要なものについては修理をさせた。

 
しかし、そうした個人の努力は、当然のこととは言え、戦局にはほとんど何の意味ももたらさなかった。出撃すれば必ず何機かは戦闘前に機体の不調を訴えて引き返したし、ベテランを真似て防弾装備を下ろした搭乗員が初陣で未帰還になることも少なくなかった。

 
私自身は高瀬の言うことを忠実に守って出撃していたが、彼のような天才との差は埋めがたく、首の皮一枚を残して危うく帰還することも少なくはなかった。そんな私を高瀬は「無事これ名馬。」などと言って笑ったが、それでも高瀬の言うことを守って防弾装備に救われたことも一度や二度ではなかったし、こまめな整備点検のおかげで出撃後に機体の不調で引き返すこともほとんどなかった。その分搭乗割では飛行長にずいぶん便利がられたりもした。


「高瀬と貴様は普段からよく整備して故障が少ないから割当もずいぶん助かるよ。」

 
飛行長はそんなことを言っては何時も我々を搭乗割りに就けていた。おかげでずいぶん修羅場をくぐって箔も度胸もついたが、怖い思いもさせられた。特に凄惨な戦闘は基地制圧のために爆撃に来るB二九とその護衛機群とのそれだった。

 
B二九は高度一万メートルを百機以上の編隊で侵攻して来るから味方の頼りない電探でも探知は楽だが、紫電ではそこまで上昇するのに三十分以上もかかる。上がってからも高度を維持して飛行するのが精一杯の状態で機動も自由にならず、そんな状態で戦闘をしなければならないともどかしさが募って防弾板を下ろしても機体を軽くしようという気持ちも分からないでもなかった。

 
一万近い高度で侵入してくるB二九を千メートルほどの高度差を取って待ち構え、背面降下で攻撃をかける。何時か島田一飛曹と偵察のF一三を葬ったあの方法だった。一グループ十数機の背面に備え付けられた防御機銃数十門が背面降下攻撃をかける紫電に向かって一斉に射撃を始める。

 
あれだけの爆弾を満載していて、一体何所にこんな大量の機銃弾を積み込んでいるのかと思うくらいの弾幕だった。高瀬が先日実証して見せた面を以って点を捉える弾幕射撃を敵はあきれ返るような物量で易々とやってのけた。

 
わが国では物資が乏しいことを隠蔽するためにわざと物量を軽視して精神力を上に置く傾向があったが、その物量こそ総力戦に勝利する最も重要な要素であることは戦訓が見事に証明していた。

 
山下隊長は攻撃が終わるとそのまま敵の後ろに抜けてから引き起こし、今度は後上方からもう一度攻撃をかけたが、高瀬は背面のまま敵機の鼻先を抜けて引き起こし、敵機の前に出て背面降下攻撃を繰り返した。山下隊長の攻撃方法は八の字攻撃、高瀬の攻撃方法は車がかりと呼ばれた。

 
小型機なら一発で撃墜できると言われた二十ミリ機関砲弾も確かに敵に命中しているのはよく見えるのだが、被弾箇所から燃料が流れ始めてもしばらくすると止まってしまうし、一つくらい発動機が止まっても大して速度も落とさずに飛行を続けた。

 
しかも防御機銃に撃たれて撃墜される者もあれば、攻撃後の上昇途中に鼻の尖った猟犬のようなP五一戦闘機の急襲を受けて撃墜される者も少なくなかった。

 
我々は味方の一部を護衛機対策として上空に待機させた。そして攻撃を終えて上昇する味方を急襲しようとする敵機を妨害した。私も掩護に回って液冷発動機を積んだ鼻の長い、皆がめざしと呼んでいるP五一を追いかけた。しかしめざしなどとばかに出来ない美しく流れるようなラインを持った銀色の機体が空を切り裂くように降下して行くので、よほどうまくタイミングを捉えないと捕捉するどころか、追尾することも容易ではなかった。

 
一度敵が上昇しようとするところをうまく捉えて一斉射で撃墜した時は機銃弾が命中すると銀色の機体がまるで花火のように爆発して砕けた。私は撃墜に胸が踊ったが、その時失われた命には何の感情も持たなくなっていた。むしろ大勢の味方の命を奪った、憎むべき相手に対する報復を成し遂げた爽快感しか感じなかった。

 
高瀬が密かに心の中で苦闘を続けていた悪魔は私の心をほとんど支配してしまっていたようだった。そのことについて私は自分なりに敵を憎まなければ戦えないと結論付けていた。それは山下隊長の持論でもあった。彼は何をおいても攻撃第一だった。

 
そしてどんな時もその先頭に立った。高瀬のような合理主義などかけらも感じさせないその突撃精神は『断じて行えば鬼神もこれを避く。』を体現しているかのようにどんな激戦も涼しい顔で生還した。発動機が不調で速度が出せないのに白煙を引きながら敵のど真ん中に飛び込んで一機を撃墜して、自らも敵の集中砲火を浴びて炎上すると落下傘降下で生還したこともあった。彼にとっては劣位劣勢などお構いなしだった。見敵必戦は彼のモットーだったし、戦闘を始めれば最後の最後まで戦場に留まった。

 
山下隊長のそうした戦闘方法は高瀬のそれとはまるで正反対だったが、お互いに特に相手のやり方を批評するようなことはなかった。高瀬は山下隊長を上級者としても、その指導者としての能力も評価していたし、一方山下隊長にしても高瀬の空戦技量や戦闘方法には一目置いていたようだった。


「高瀬中尉、貴様の戦闘方法は一言言わせてもらえば、このご時世そんな悠長なことはやっておれんという感じもするが、味方の損害を少なくして敵に一撃を加えようとやっていることは分からんでもない。それにしてもあれこれ考えて戦うなんぞ、俺には似合わん。だが戦果は挙げているのだから俺はとやかく言うつもりはない。」

 
高瀬は山下隊長の言うことを黙って聞いていた。どちらも口には出さなかったがお互いに自分の戦い方を変えるつもりはないようだった。しかしそうして幾ら努力をしても、当然のこととは言え味方の損害は増していった。二代目の五○七飛行隊長として着任した加山大尉はB二九迎撃戦で被弾して自爆した。

 
自らを台湾戦以来かろうじて紙一重で生き残っている天才と表した底抜けに明るかった竹本中尉は邀撃戦でP四七の急襲に斃れたし、多田中尉も喜界が島上空に進出して『敵機発見、攻撃に移る。』の一報を発したまま還らなかった。

 
士官ばかりでなく被害は下士官搭乗員にも多かった。自分たちは戦争をしているんだ、戦って被害は付き物だ、幾らそう自分に言い聞かせてはみても、お互いに生死を共に命をかけて戦ってきた仲間に対する情は普通の友情などよりも遼に深く堅かった。そんな仲間たちが次から次へと死んで行くのは言い様もなく辛く悲しかった。仲間が斃れて行くたびに敵に対する憎しみはその根を深くしていった。

「敵が二百も三百も戦闘機を繰り出して来るんだから、こっちもせめて百機くらいはそれにぶつけられれば被害も減って戦果も上がるんだが、せいぜい三、四十機じゃあ勝負にならん。それならばせめて保有している機体の稼働率を上げたいんだが、粗製濫造のうえに補給品もろくな燃料もないのだからどうしようもない。

 
零戦も五二型が出た時に発動機を馬力の大きい金星に替えて少しでも性能を上げることでも考えればよかったんだが、今の零戦ではもうとても敵の新鋭機とは渡り合えんし。そうかといって海軍には他に適当な機体もないしな。陸軍の四式戦でも融通してもらえるといいのだが、そんなことは敵からグラマンをもらうよりも難しいだろうしなあ。せめて松山の頃のように五十の上くらいをまとめて出せればまだ何とかなるんだろうが。」

 
高瀬は飛べなくなって囮として滑走路の片隅に置かれている機体や部品取りのために保管されている機体の群れを前にさみしそうに言った。陸軍の四式戦をもらえればと言った高瀬は本当に陸海軍戦闘機部隊の統合運用のようなことを考えていたのかもしれない。しかし高瀬自身が言ったようにそんなことは敵に機材を貰うよりも難しいことのように思えた。


Posted at 2017/06/13 22:23:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説2 | 日記
2017年06月13日 イイね!

太平洋戦争当時、日本の戦闘機に足りなかったものは、・・(-。-)y-゜゜゜。




太平洋戦争当時の日本の戦闘機で遅れていた技術はプロペラと過給機だろうか。エンジンそれ自体はそれなりに作ってはいたので液冷エンジンを除けば大きく遅れていたということもないだろう。液冷と言えば米国もこれと言ったものを作ってはいない。


インフラで言えばハイオクガソリンの精製、オイルの合成、強いスパークを発生できる点火プラグ、放電しないコード類などだろうか。戦後、米国で日本の機体を試験すると速度は概ね10%ほど上がったという。


どういう状態で試験したのか分からないが、事実とすれば零戦は600キロを少し超える程度の速度が出たのだろう。四式戦は日本の公式速度が624キロ、米国の試験結果が689キロなのでちょうどそんなものになる。彩雲も試作機は630キロほどと言うので米国の試験結果が694キロもなるほどの世界ではある。紫電は結果は残っていないが670キロほど出ていたようだ。


今ならその辺のスタンドで当たり前に販売されている100オクタンガソリンとちょっと高級なオイルでもあればいいと言うことか。もっとも当時のハイオクは有鉛だったんだろうから有鉛ガソリンが必要か。当時は四エチル鉛をカップで測って混入するなどと言う原始的な方法を行っていたとか、・・。もっともバルブを交換すれば無鉛でも大丈夫だろう。


プラグとハイテンションコードもカー用品量販店で売っている。規格が違うだろうけど、イリジウムプラグとか持っていけばいいんだろう。


過給機はスーパーチャージャーでは二段二速過給機が実用化できなかったのは戦前にお手本となる実物が入手できなかったからという。一段二速過給機はそれなりのものが出来ていたという。戦争後半になってドイツからの技術でフルカン継手(今でいうビスカスカップリングのようなものか)の二段二速過給機を作ろうとしたがうまく行かなかったようだ。


排気タービン過給機は今では三菱重工とIHIが世界のシェア4割を占めているが、当時はなかなかうまくできなかったようだ。特にニッケルやクロムなどの入手が困難になって耐熱鋼が作れなかったようだ。これも今はKカーにもタービン過給機がついているので大丈夫だろう。


そしてプロペラは、これは回転数に応じて自動的にプロペラの角度を調整する精密機械がうまくできなかったということか。ハミルトン、VDMの油圧、ラチェの電動などを導入しているが故障が多かったという。今は航空機よりも船舶のスクリューを多く作っているが、構造は一緒か。要は当時作っていたやつをリファインしてやればいい。


これで当時の日本の戦闘機も米国の戦闘機に負けないくらいしっかり飛ぶだろう。もっとも物量で負けるか。航空自衛隊のT4辺りでも300機くらい持って行ってやれば戦局が変わった可能性はある。もっともあれは純然たる練習機で武装を考慮していないのでダメか。


日本の当時の機体設計は欧米とほぼ対等だったそうだからエンジンとプロペラ、そして附帯するインフラがしっかりすれば米国の戦闘機と対等に渡り合えただろう。もっとも総力戦は質のいいものをたくさん作った方が勝ちだそうだからやっぱり負けるか。そう言えば89式戦闘装甲車について当時自衛隊では「一対一なら世界最強」なんて言っていたが、あんなもの一対一で勝負するわけじゃないからなあ。技術ももちろんだが、生産力も大事ということか。
Posted at 2017/06/13 17:38:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | 軍事 | 日記
2017年06月13日 イイね!

トランプおじさんは温暖化などでっち上げと言うが、・・(-。-)y-゜゜゜。




イタリア・ボローニャで11日に開幕した先進7カ国(G7)環境相会合は12日閉幕する。地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」をめぐり、米国は離脱方針を崩さず、他の6カ国との溝は埋まらなかった。各国は温暖化対策での国際協調を図る成果文書の取りまとめのため、調整を続けるが、踏み込んだ内容を盛り込むのは難しい状況だ。

 
今回の環境相会合はトランプ米大統領がパリ協定離脱を表明して以降、担当閣僚が初めて集まる場。米国からは離脱派とされるプルイット米環境保護局(EPA)長官が出席した。

 
議長役のガレッティ伊環境相らによると、プルイット氏は協定からの離脱方針は変わらないと説明する一方、協定の枠外で温暖化対策に自発的に取り組む考えを強調。一方、6カ国の環境相らは「失望」を伝えた上、残る国で協定の履行を進める考えを表明した。プルイット氏は11日の討議後に帰国した。

 
ガレッティ氏は「パリ協定をめぐり、米国との立場は大きく離れている」と述べる一方、対話を続ける必要性を強調した。日本の山本公一環境相も11日、開幕に先立ちプルイット氏と個別に会談し、協定離脱の再考を呼びかけた。




トランプ大統領は「温暖化はでっち上げ」とか言ってパリ協定から離脱を表明したが、温暖化は着実に進行していると思う。最近、アロエの大きな株があちこちに茂って生育している。空き家になっているうちの実家でもアロエとクジャクと言うサボテン類が大きな株になって茂っていた。アロエは根元から切って捨ててしまったが、本来あの手のサボテン類は外に置いておくと冬が越せずに霜にやられて腐って枯れてしまったものだ。ゲリラ豪雨と言うのも熱帯のスコールによく似ている。これは年のヒートアイランド現象なども関係しているのだろうが、こうした雨の降り方はこれまではなかった。また昨年日本の近海で台風が連続発生して北海道などに大きな被害をもたらしたが、以前は台風と言うのはマリアナ諸島周辺海域で発生してそこからえっちらおっちら日本まで流されてくるのが定番だった。また以前は御殿場など富士山の周辺にはスキー場がたくさんあって山中湖や河口湖は自然凍結してスケート場が開設されていた。気候は間違いなく暖かくなっている。それが二酸化炭素の排出とどの程度関係しているのか分からないが、疑いが高いなら対策をすべきだろう。温暖化で大きな被害を受けるのは人間で地球ではない。温暖化で人間が多きは被害を受けて活動が低下し、あるいは絶滅してしまえば地球は本来あるべき環境を取り戻すと言う。


Posted at 2017/06/13 17:35:53 | コメント(1) | トラックバック(0) | 政治 | 日記

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ntkd29です。CB1300スーパーボルドールに乗って11年、スーパーボルドールも2代目になりました。CB1300スーパーボルドール、切っても切れない相棒にな...
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