いまから10数年前、以前の会社の時に英国に顧客がありました。
その顧客も私が獲得した顧客でした。
現地に競合企業があったのですが、日本からシェアの大半を獲得していました。
そんな定期的顧客訪問の途中、ロンドンから顧客への中間地点の街に立ち寄ってみました。
移動日の土曜日、England北部からロンドンに戻る列車を途中下車した街。
私が30年前に住んでいた街でした。
15年振りくらいに降り立った駅前に新しくできていたモニュメント?
シルバーの壁に流れる水。
この街は産業革命の起源と言われている街。
製鉄やメタル関係の産業、銀食器やステンレスのナイフやフォークが名産でした。
駅前のモニュメントと私が昔、通っていた大学の一つ。
手前の茶色の建物はバスターミナルの横にあった学生会館。
当時、学生証などを発行してもらいました。
隣のバスターミナルには、National Express長距離バスの営業所もあり、学割会員証も発行して貰ったことを思い出します。
当時ロンドンに行くには、この建物の手前にある駅からBritish Railの特急列車(ディーゼル気動車)に乗るか、このバスターミナルからNational Expressの特急バスに乗るかでした。
当時勤めていた別の都市にある日系の会社にも、この鉄道駅かバスターミナルから、特急列車か特急バスで毎日通勤していました。
駅から坂道を登り、大学の建物を越えて駅方向を振り返ります。
当時私が通っていた校舎。この校舎以外に、国立公園のPeak Districtに近い郊外校舎にも毎日通っていました。
英国に来て最初の1年はフルタイムの聴講生として、2年前からは幸いにも、大学のジョブセンターに登録し、いろんな仕事を経験できました。
私がメインで仕事をしていたのは、この校舎の大学ではなく、もう少し駅から離れた歴史ある名門大学の方でした。
そちらの大学の紹介で、現地の日系企業に勤めたり、その後、大学付属のビジネススクールで日本語と日本ビジネスの講師をしたりしていました。
この駅前に校舎がある方の大学では、主に講義を受けたり、夜学を受けたり、ここの大学の講師の先生の依頼で、少しだけ日本語の仕事の手伝いをしていました。またその先生の依頼で、市内の名門
高校で日本語の教師をしていたこともありました。
そんな4年弱を過ごした懐かしい街。今思えばわずか4年弱で10年くらいに感じられるほどの濃厚な経験をさせて頂きました。
駅から大学を越えて坂を上ると、市役所があります。
この歴史ある荘厳な建物は、1890年から1897年にかけて建設されました。
市役所の建物の比較的新しいこの部分は、1927年に完成したそうです。
教会や宮殿のように見えるこの建物。今でも現役で使われている市役所です。
横の通りから見た市役所の建物と時計台。
この荘厳な建物は、英国でも有数の産業都市だった過去の隆盛を感じさせます。
この通りは、市内でも最もにぎやかな通りの一つで、自家用車を購入する前、バス利用で生活していた当時は何十回と通った通りでした。
私がメインで給与を貯金していたBuilding Societyもこの通りにありました。
Building Societyとは、住宅ローン金融機関で、銀行と同じように預金もでき、個人小切手も発行できるのです。当時は支払いは個人の小切手を書くのが普通で、私も給与は小切手で受け取り、ここに預金し、支払いはここの個人小切手を切っていました。私は普通の銀行(National Westminster Bank)にも口座を持っていましたが、なぜBuilding Societyをメインにしていたか言うと、利率が銀行より良かったからでした。いまから30年ほど前のお話です。
時計は午後4時過ぎを差していますね。
公園側から見た市役所の建物の全容。
この市役所には私の
英国で一番長く住んでいた住まいの大家さん、4番目と6番目に住んだ場所の大家さん(同じ人)が勤めていました。
その人は当時独身で、
三階建て+屋根裏のテラスハウスを所有しており、私はそこの屋根裏に間借りをしていたのです。
その大家さんは、本業は市役所正規職員で公園課配属でしたが、副業で駅前ではない大学の社会人向け夜学で心理学を教えていました。私もその講義には出席させてもらっていました。
つづく・・
*注) 英国の労働ビザは簡単に取れるものではありません。私の場合は別の職種やその他の事情で例外的に許可された稀有な例だと考えて下さい。学生ビザで渡英した場合、労働は禁止されています。また、海外の日本語学校の講師も簡単になれるものではないということを念のために付け加えておきます。
Posted at 2022/01/16 00:19:29 | |
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