2014年10月11日
3連休だが、3連休と言うと仕事が入る。しかも週初めは2週連続で台風が来ると言う。全く鬱陶しい。いい加減嫌になる。先週台風で濡れたバイクはさっとシリコンで拭いただけでカバーをかけてある。手入れしないといけないのだが、また明日も仕事が入って時間がない。どうしてくれようか。
今日はちょっと用事があって出かけないといけなかったのでバイクには触れなかった。のんびりとバイクでも触って暮らしたいが、どうもなかなかそうもいかないようだ。取り敢えず明日は職場までバイクで行こう。恒例の職場往復ツーリングだ。ついでにケミカルでも持って行ってバイクを磨いてやろうか。
そう言えばこの間職場でホイールが汚れてきたないと言われた。ホイールはバイクのポイントだと言う。車も足回りは目立つのでバイクもそうなんだろう。しかし、チェーンのグリースが飛ぶのか汚れるのが早いし、汚れるとグリースを落とすのが厄介だ。簡単に落とす方法がないだろうか。
一番よく落ちるのはパーツクリーナーでこれはなかなか優れものだ。シリコンコート剤は四つ輪では何でもよく落とせたが、グリースはなかなか落ちない。なかなか厄介だ。エキゾーストの焼けも厄介な汚れだ。エキゾーストクリーナーでやってもなかなかきれいにならない。
3000番とか6000番とか細かいサンドペーパーで磨けばすぐに取れるだろうが傷が残ると言う。何かの雑誌でサンポールを布に浸み込ませて貼り付けておくとすぐに落ちると書いてあった。希塩酸だからそうかもしれない。まあ南緯よりも根気よく磨くのが一番なんだろうが。何と言っても時間がないのが恨めしい。バイクと言う乗り物は何とも金も手もかかるもののようだ。
Posted at 2014/10/11 23:00:05 | |
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バイク | 日記
2014年10月11日
日本の傑作戦闘機の一つに大東亜決戦機と言われた4式戦闘機「疾風」がある。制作は中島飛行機(現在の富士重工)で当時夢の発動機と言われた2000馬力級のハ45(海軍呼称「誉」)を搭載した重戦闘機だった。
生産は昭和19年から終戦まで3500機ほども作られ海軍の紫電改とともに陸軍の最後を飾る傑作機だった。しかし、この戦闘機のアキレス腱は発動機で軸受けの焼き付き、気筒温度の上昇、オイル漏れなど様々な不調に悩まされた。これもオイルやプラグ、その他の消耗品を一定時間で交換するなど整備のマニュアル化を図れば相当程度解消できたと言うが、当時の日本は規格の統一や整備のマニュアル化などはされていなかった。
小型高性能を狙うあまり当時の日本の技術水準を超えてしまったハ45の悲劇はそのまま四式戦の悲劇だった。熟練工の召集による工作レベルの低下がこれに拍車をかけ、高性能なはずの四式戦は最高速度が550キロ台まで落ち込み、未熟な搭乗員の乗る四式戦は米軍の新鋭機に対抗するどころではなかったと言う。それでも防弾性能に優れた四式戦はすぐに火を噴く他の日本期とは異なり脚が開くほど被弾しても燃えなかったと言う。
戦後米軍のテストで700キロ近い速度を出したと言うが、米軍がテストした日本の軍用機は日本側の公表した最高速度よりも10%ほど高速で上昇性能も高かったと言う。戦争中の日本機と戦った米軍のパイロットはその性能の差に驚くとともに戦争中の日本軍の搭乗員を気の毒がったと言う。燃料やオイルの質や電装品やパッキングなどの品質も段違いだったと言う。
それでもよく整備され、熟練搭乗員の乗る四式戦は米軍のP51やP47などの新鋭機と互角以上に渡り合ったというので基本性能は相当に高かったのだろう。しかし、機体設計だけでなく燃料やオイル、補給部品のなどのインフラも含めたものが戦闘システムとして機能するので技術の差と言うのはそうしたところに顕著に現れると言う。当時の技術者が、「日米ともに技術者の着想はそう変わらないが、それを実現する技術に日米では大きな差があった」と言ったそうだが、技術の差は相当に大きかったのだろう。
四式戦は19年の後半、紫電改に至っては20年に入って登場したが、これらの機体が18年の後半頃に戦力化されていれば戦局ももう少し違ったものになっただろう。海軍を例にとれば96艦戦が9試、零戦が12試なので15試で零戦の後継機が出来ていれば18年ころには戦力化されただろう。
陸軍は海軍よりも計画的に一式、二式、三式、四式、五式と毎年戦闘機が開発されているが、一式以外はいずれも問題があり、四式戦まで主力機とはなり得なかった。五式戦は三式戦のエンジンを空冷のハ112に換装したもので最初から空冷で設計しておけば安定した良い戦闘機になっただろう。
戦闘機の開発が遅れたのは戦闘機用の大馬力発動機が開発できなかったからでやっとのことで完成した栄を18気筒化した誉に海軍が飛びついたのも理解できないでもない。陸軍は海軍ほど誉に入れ込まなかったが、そうかと言って代わりの発動機があったわけでもなく結局当時の欧米の新鋭機に対抗できる実用機としてものになったのは四式戦だけだった。
陸軍にしても海軍にしても18年頃に2000馬力級の戦闘機を実用化し、1万機程度を戦線に投入できる程度の技術力と工業力があれば当時の米国にケンカを売るのも理解できるが、当時の日本の技術力と工業力で米国にケンカを売ったのは無謀と言うしかない。そんな状況の中でまがいなりにも2000馬力級戦闘機を戦線に投入して米国に一泡吹かせただけでもよしとすべきだろう。
Posted at 2014/10/11 01:51:15 | |
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