2014年10月26日
今日も結局職場往復ツーリングで終わってしまった。週末の走行距離は60キロばかり、通算走行距離1万キロまであと950キロ、なかなか距離が稼げない。長距離を走りたいが、なかなか時間が取れない。でも、乗れないよりは少しでも乗った方が良い。
戻ってから2週間ぶりにバイクを磨いてやった。ざっとだが少しはきれいになった。少しでも油脂を塗っておかないと錆が来るのでこまめに手入れはしたい。先週、先々週と天候不順で手が入れられなかったのでやっと手入れが出来た。
ところで今日は帰りがけにちょっと近所の自動車学校に寄り道してきた。そこで四つ輪の免許を撮ったのだが、二輪は職場の近くの自動車学校に行ったのでそこに寄るのはずい分久しぶりだった。バブルのころはBMWなどを教習車に入れていたのだが、今はマツダの車が入っていた。
当然二輪の教習もやっていてCB400がずい分と走っていた。八の字走行、S字、クランクなどの狭路走行、スラローム、一本橋、波状路などおなじみのコースでみなさん、悪戦苦闘していた。教習中はこっちも悪戦苦闘、いい加減嫌になって、「何でこんなことをするのか」と思ったが、実際に路上を走行すると低速走行は意外に多い。
渋滞はもちろん、信号前では四つ輪は車を止めないようにのろのろと走る。自分もそうだが、バイクはこれが一番苦手だ。狭い路地や市街の右左折でも低速走行は必須だ。駐車場もそうだし、Uターンも低速だ。「低速を制する者はバイクを制する」などと言った人がいたが、まさしくその通りだ。低速で安定して走れるようになることは路上を走るには必須だろう。
スラロームと一本橋はずい分と苦労させられたが、今になって見てみると何だか簡単に通過出来そうな気がする。スラロームもずい分と間隔が開いていて何でこんなのが難しかったんだろうと思ってしまう。低速はリアブレーキをうまく使って速度をコントロールするのがポイントだろうと思う。
リアを引きずって走ると思いのほかバイクが安定する。S字やクランクは路面にタイヤ痕が付いているのでそれをたどって行くとうまく抜けられる。スラロームはリズムだろう。それをつかめばうまく走れる。切り返しを早くすることがカギだろう。一本橋はハンドルを小刻みに左右に振りながら速度はリアブレーキで制御するとうまく行く。落ちなければいいのだから多少早く抜けても問題はない。
二輪で自立できない宿命を背負ったバイクと言う乗り物、速く走るだけならアクセルを開ければいいのだから誰でもできる。どんな速度でも車両をうまく制御するのが上手な乗り方だろう。教習中の人、これから受けようと思っている人、頑張ってください。バイクってなかなかいいものですよ。
Posted at 2014/10/26 22:29:50 | |
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バイク | 日記
2014年10月26日
フィリピン・レイテ沖海戦で昭和19年10月25日、関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=率いる旧日本海軍の「神風特攻敷島隊」が初めての攻撃を実行してから、70年となる。
自身も海軍特攻隊員で、出撃前に終戦を迎えた「敷島隊5軍神 愛媛特攻戦没者奉賛会」会長の寺田幸男さん(88)は、英霊への感謝の気持ちを奪った当時のメディアとそれに醸成された世論は戦後の日本の姿をゆがめたという。「成人式が済んでいないような若者がにっこり笑って死んどるじゃろ。そんなのは日本しかない。日本人は誇りに思わにゃあいかん。それを教えないから、今の子供はのうのうとしている」
特攻作戦はその後も、陸、海軍が沖縄戦などで大規模に展開した。
沖縄に向けての出撃前に終戦を迎えた元陸軍特攻隊員で第194振武(しんぶ)隊長だった堀山久生さん(91)=陸軍士官学校57期=は「国が負けかかっているときに、俺たちがやらんで誰がやるか。やらなきゃいかんのです。そうしなければ国が滅亡する」と振り返る。
沖縄への出撃後に機体の故障などで帰投した元陸軍特攻隊員で、知覧特攻平和会館(鹿児島県)の初代館長、板津忠正さん(89)も「自分が死ななければ日本は救われないと信じている者もたくさんいた。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった」と語る。
戦局悪化の中、軍上層部には脳漿(のうしょう)を絞る者も、的確な判断を下す者もいなかったのだろうか。
人間魚雷・回天を考案した黒木博司大尉=当時(22)、殉職後に少佐=は戦友に「中央の怠慢は国賊というの外なし。戦局今日に至りし所以、全く物にあらず人にあり」と軍上層部への怒りに似た思いを打ち明けている。
戦後70年近くたった日本の姿にいらだちを感じる関係者も多い。鹿児島・知覧飛行場から沖縄に出撃して散華した元陸軍特攻隊長の婚約者だった女性(95)=岐阜県=は最近、「あの人たちは何のために死んだのかしら。あの人たちの姿と思いを日本人は忘れてしまったのかしら。今の日本を見ると、かわいそうで仕方がない」と涙を流す。
鹿児島・万世飛行場から沖縄に出撃して散華した陸軍特攻隊員の実兄は「隊員の多くは、子供たちに古事記を読ませるように言い残すなど教育の大切さを説いた。戦後、わが国は経済面で世界の牽引(けんいん)国に成長したが、何か、大切なものを忘れてしまった」という。
戦後70年を経た日本人がこれから、どのような日本国を構築するのか-。英霊は現代の日本人にそう問いかけている気がする。
特攻隊員の遺書に、「真剣だが悲惨な時代、ばかばかしいが平和な時代、どちらが本当の姿だろうか。おそらくは平和な時代が本当の姿だろう」と言う一節があった。彼らも様々に思い悩んだのだろう。
日本人は超他力本願の民族で結果が悪いとその時の権力者に責任を転嫁して知らん顔をする。しかし、東日本大震災の人々の犠牲的な行動を見ているとこの国も捨てたものじゃないなと思ったりする。複雑な国民性だ。
70年前も今も結果に対してはその時代を生きた者全員がその立場に応じて責任を負うべきだと思う。特攻隊員は何のために命を擲ったのか、おそらく未来の日本のためだろう。そうして自分を犠牲にした人たちがいたことは忘れてはいない。僕らはそうした過酷な時代には生きなかったが、そうしたDNAは日本人自体が持っているのかもしれない。
特攻と9.11自爆テロを同一視する向きもあるが、とんでもない話だ。特攻隊員が向かったのは正規の戦争状態の中、当時世界最強の米海軍機動部隊で何の罪もない無抵抗の民間人ではない。
当時米英を相手に戦争をしたことは間違っていた。それは当時の為政者の責任だろう。しかし、絶望的な戦況の中、自分を犠牲にしても敵に向かって行った特攻隊員を誰が責めることができるだろう。僕らはそうした時代に生きることはなかったが、もしも同じ時代に生きていたら多分同じことをしたと思う。何故って、それは僕が日本人だからだろうと思う。そういう時代があったこと、その時代の中で命を捨ててもこの国の未来を守ろうとした人たちがいたことを決して忘れたりはしない。
Posted at 2014/10/26 00:12:49 | |
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軍事 | 日記
2014年10月26日
快晴の、そうでもないかもしれないが、週末だが、やはり今日も職場往復ツーリングで終わってしまった。仕事もあるが、一人暮らしはいろいろ衣食やることがあって忙しい。放っておいてツーリングも良いのだろうが、それではゴミ屋敷になってしまう。それはちょっとまずいので家のことも最低限はやらないといけないし、食材の買い出しもしないと飢えてしまう。
そんなこんなでなかなかバイクで出かける時間がない。職場に行けば半日は潰れてしまうし、残りの半日は家事炊事、まあ何とも悲惨な生活ではある。しかし、山の神に押さえつけられて生活するのも悲惨だから自由気ままに暮らしている方がまだいいのかもしれない。
そんな訳で家事炊事を済ませてせめて職場往復ツーリングでも乗れないよりはましと職場に出かけた。気温が下がってきたのでジャケットを1枚羽織る。職場で仕事を済ませて帰途に就く。西湘バイパス橘料金所手前でETCゲートを通るために80キロほどで車線を変えたら後ろからミニバンがすごい勢いで迫ってきた。
ゲートはもう間近なので速度を上げずに走っていると後ろにぴったりとくっつけて煽ってくる。そのミニバンはゲートの手前で車線を変えると隣のゲートに加速しながら向かった。前に出たいらしい。おバカな奴だ。ミニバンなんかでリッターバイクの加速に勝てるわけがないのに。
ゲートを先に出たのはミニバンの方、追い越し車線に向かって猛然とダッシュする。左側は前に車が2台、後ろに1台、間を抜けるには十分な空間がある。ではちょっとばかり思い知らせてやろうとアクセルを開く。ほんの少し多めに開いただけだが、バイクは4速のままあっという間にミニバンの前に出て加速して行く。
100キロを超えたところで速度を落として走行車線に入る。ミニバンははるか後ろ、しばらくして脇を猛然と走り去った。ちょっとはしたないことをしたと思ったが、たまにはいいだろう。加速でリッターバイクに勝てる車などこの世にそうたくさんはない。SSだとF1マシンでも持ってこないと勝負にならない。
しかし、職場往復ツーリングでもバイクは良いものだ。人生でさまざまに傷ついた平均年齢81歳の御老体が体を鍛えてバイクで台湾を周遊する動画があるが、なかなかいいものだ。無理をしないで楽しく長くバイクに乗りたい。
Posted at 2014/10/26 00:10:04 | |
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バイク | 日記