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頑固一徹カズですのブログ一覧

2008年07月08日 イイね!

悪しき習慣?

第13代目クラウンのチーフエンジニアの寺師茂樹さんはとても正直なエンジニアだ。初めて出会ったクラウンの試乗会で「でかいカーナビのモニターを使いましたが、これは結構燃費に影響するのですよね」と。

カタログに記載する10~15モードの燃費はカーナビやエアコンなどすべての電気製品をオフにしてテストする。このモード燃費がくせ者。時速40Km/h~60Km/hを行ったりきたりするテストで、その三分の一の時間は減速か止まっている。20馬力もあればすむ悪しき燃費測定法だ。従って日本車はモード燃費の80~70%が実力なのだ。

でも、今日テストドライブしたBMWのX6はカタログ燃費よりも10%以上も優れていた。輸入車は日本のモード燃費を目標にしてエンジンを設計していないので、実力はカタログ値以上に優れている。300馬力のエンジンでも20馬力の燃費を目標にして開発されているとしたら、ユーザー不在の性能開発になってしまう。実際にそうなのだから、この悪しき習慣をやめないと本当のエコ技術が身につかないのではないだろうか。
Posted at 2008/07/08 00:28:03 | トラックバック(0) | 持続可能なモビリティ | クルマ
2008年07月04日 イイね!

欧州の安全対策

交通事故の話に焦点を移しますと、人口あたりの死者数が最も少ない国はイギリスです。その次がオランダ、3番目がスウェーデンとなっています。この3つの国に共通していることは、シートベルトの装着率が非常に高いことです。イギリスやオーストラリアやニュージーランドでは後部座席のシートベルトは今や当たり前のことになっていますが、その装着率は95%にも上ります。それでもイギリスは「100人に5人は後部座席でシートベルトを装着していない」と問題になっています。そして、日本とは比べ物にならないくらい行政の力も警察の力も強いのです。国民、行政、警察という三本の矢がひとつになって、ゼロ・クラッシュの方向に向かっているのです。取り締まることが得意な日本、海外では事故を予防することに警察も必死です。最近、スウェーデンは「ビジョン・ゼロ」という政策を打ち立てています。環境ではサスティナブル宣言しましたが、政府が率先してエコで事故のない社会を目指しています。
Posted at 2008/07/04 13:47:23 | トラックバック(0) | 持続可能なモビリティ | 日記
2008年07月03日 イイね!

振り返ると~その2

私は小学校1年生の時に大きな交通事故に遇いました。自転車に乗れるようになったころで、母親からは「交通ルールを守りなさい」と、きつく言われていました。母親の教えに従い交通ルールを守り、自宅の前の国道を青信号になってから交差点を渡り始めました。その時、左折してきたトラックに轢かれたのです。私は運良く?ナンバープレートにシャツが引っ掛かり200mほど引きずられましたが、どうにか命を取り留めることができたのでした。それから、何年か経ち、今度は私が自動車免許をとるようになりました。その時母親は、私が加害側の立場になったときのことを一番心配しました。なぜなら被害者のつらさを知っていたからです。「カズオ気をつけなさい」は「あなたが加害者にならないように」という意味でした。

免許をとった1972年当時、自動車は「走る棺桶」、「走る凶器」と言わていた時代です。交通事故死者数は1万6,000人。しかしその後わずか10年後には死者数を8,000人にまで半減することに成功しました。そして事故発生件数も負傷者数も減少したのです。信号機やガードレールを設置したり、歩行者とクルマを分離したりと様々な政策やインフラが整備されたことが功を奏したわけですが、本質的には行政もメーカーも国民もみんなで交通事故の危機意識を高めたことが大きかったと思います。エアバッグもなければABSもない、ITSもないような時代に、 たった10年で交通事故死者数を半減できたのは奇跡としか言いようがありません。

ところが80年代になると再び事故は増えました。自動車メーカーは馬力競争に没頭し、私も技術至上主義は正義だと思っていました。新聞に大々的な交通事故の写真が載らなくなり、広告代理店や大手メディアは巨大な広告主の利益を守るようになったのです。

そしていつの日か日本人は交通事故に無関心となりました。走る棺桶/走る凶器と言われなくなったのです。それどころか、多くの人にとって交通事故は偶発的なもので、事故が起こっても運が悪かっただけと考えるようになりました。しかし交通事故には必ず原因が存在します。原因が分かれば対策を練ることが可能です。しかし日本では事故調査はほとんど行われていないのです(交通事故分析センターが茨城県をミクロ調査しているくらい)。事故の工学的科学的な調査よりも、刑事罰を認定する違反の有無が優先してます。司法はルールを決めてそれさえ守ればよいという考え方です。これでは現実の交通戦争をサバイバルするには不十分。

「歩行者優先」も少し行き過ぎた考え方です。あまりにも「歩行者が優先である」という意識が強すぎるのです。ドイツでは歩行者が違反すればクルマでひいても無罪となるそうです。道路は非常にリスクの高い場所だということをしっかりと認識しないといけないのですが。弱者である歩行者を優先するという精神は素晴らしいと思いますが、それだけでは交通問題は解決しないのです。

Posted at 2008/07/03 23:34:04 | トラックバック(0) | 持続可能なモビリティ | 日記
2008年07月02日 イイね!

振り返ると~その1


「人とクルマの共生」

飲めないお酒を飲んで、生まれて初めて二日酔いの気分を味わってます。さて、今日から数回に分けて、70年代を振り返りえってみましょう。温故知新。まよったら歴史/過去を振り返る。

私は、1972年に免許を取りすぐにラリーやレースに没頭していました。原因は買ったクルマがそうさせたのです(GC10箱スカ)。学生時代は日本中の山という山を走り回り、時には富士スピードウェイも走りました。社会人になるまでと親父のスネをかじり、モータースポーツに没頭。卒業単位は最低限。でも卒業すると大手オーディオメーカーに技師として就職できました。でも結局クルマが忘れられなて、脱サラしてプロの道を模索したのです。折しも排気ガス規制やオイルショックが自動車メーカーを直撃し、プロの道はほど遠かったのですが、そんなとき私を拾ってくれたのがスバルでした。

クルマ(スピード)の運転が大好き(クルマ好きではなくて)という気持ちは誰れにも負けませんでした。そんな気持ちが通じたのかもしれませんね。モータースポーツを通じて多くの人と出会い、色々な経験をしました。でも、クルマが嫌いな人たちが自動車社会の政策を考え、車の好きな人たちは狭い世界に生きていることを知りました。欧米のように堂々とクルマ好きを言えない社会の風潮がありました。オイルショックや交通事故や排気ガス規制などがクローズアップされた時代だったのです。

自由なクルマの愉しさを味わえた黄金の60年代を謳歌したクルマ好きの人達はキョトンとしてました。社会の変化になすすべを知らないかごの鳥のように無力でした。カーグラフィックやモーターファン、モーターマガジンなど自動車産業に影響力を持つメディアもありましたが、結局「専門誌」という扱いでしたから一般社会への発言力は小さかったのです。自動車を扱うメディアが「専門誌と一般紙」という両極端になったことはある意味で大きな問題だったかもしれません。一般紙は経済、専門誌は性能という視点。どちらも自動車の本当の姿を表現してません。

そんな70年代の思い出があるので、クルマ大好きな自分ががクルマのいいところも悪いところも含めた問題を考えようと思ったのが、自動車ジャーナリストとしての立脚点になったのです。その時の年齢はは30歳弱でした。

Posted at 2008/07/02 20:03:10 | トラックバック(0) | 持続可能なモビリティ | 日記
2008年07月01日 イイね!

10年を振り返る

10年を振り返る
ダイムラー・クライスラー社はつい最近クライスラーと離別して新しい会社名「ダイムラーAG」が誕生した。早い話が、10年前に結婚した相手と離婚して元の名前に戻ったのだ。いずれにしても新しい名前となった同社の会長D.チェッツェは10年前はAクラスのチーフエンジニア。
彼と最初にであったのは1996年ベルギーの首都ブラッセ
ルで行われた新型Aクラスの試乗会だ。

初代Aクラスのコンセプトは全長3.6メートルという超コンパクトなパッケージ。その開発の裏側にはいったいどんな苦労があったのか。チェッツ氏は衝突安全性能が難しかったと述べていた。いままでメルセデスが安全なのはクルマが大きかったからで、相手を潰すことでメルセデスに乗る乗員が助かっていた。当時のダイムラー・ベンツ社の安全技術を統括していたインゴ・カリーナ氏は相手の被害がベンツの乗員よりも悪いことに気がついたのである。そこで考案されたコンセプトがコンパティビリティ。大きなクルマはエネルギー吸収できる柔らかいボディ構造、コンパクトカーは硬いボデ構造を持つことで双方の乗員が助かる~という思想だ。

この年、Aクラスがスウェーデンの自動車雑誌のテストで横転しやすいと批判され、最終的に2千台以上のAクラスがリコールとなった。衝突安全のためにフロアを高く設計したことが仇となったが、ちょっと背の高いFF車をメルセデスともあろうメーカーが安全に設計できなかったことに驚いた。いったい何が社内で起きていたのだろうか。

しかし、メルセデスはただでは起き上がらなかった。ユルゲン・フベルト社長はオプションののESPを標準で採用することで危機を乗り切った。ユーザーは「ただでESPがついた」と喜んだという。この事件はESPが横転防止にも効果があることを証明した。

世界の自動車メーカーが400万台クラブを目指したのも、この頃。1997年は大西洋を挟んだ大合併が行われた。全米第三位の自動車メーカーのクライスラー社とダイムラー・ベンツ社が合併したのだ。燃料電池車など膨大な研究投資が企業の合掌連合を誘った。当時はVWもフォードもライバル会社を買いまくっていた。

偶然にも災難は降りかかるもの。パリ市内でダイアナ妃が謎の交通事故で亡くなった。ダイアナ妃はメルセデスSクラスの後席に乗っていたので、ダイムラーの安全担当役員は信じられないという顔をしていた。

1997年の出来事でもっとも重要なことは自動車に新しい仲間が加わったことだ。トヨタからハイブリッド・プリウスが誕生し、未来への扉を開けることができたし、欧州ではCO2削減の切り札としてコモンレールのディーゼルエンジンが誕生し一気に人気が高まっていった。

日本のハイブリッド、欧州のディーゼル。この二つの技術は、単に燃費が良いというだけではなく、ユーザーに新しい自動車の価値を提供している。ハイブリッドは静かで電気自動車ちっくな性能が今までの自動車にない点。欧州のディーゼルは、アウトバーンの追い越し車線を走ることができるほど、パフォーマンスも高まっていること。普及でできる環境技術は、ユーザーにとって魅力的でなければならないことを教えてくれた。


Posted at 2008/07/01 00:21:10 | トラックバック(0) | 持続可能なモビリティ | 日記
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