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頑固一徹カズですのブログ一覧

2012年08月20日 イイね!

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その8

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その8
~~~~~前回のレビュー~~~~~~~~~~~~~~
清水 そこまでチャレンジした当時のモチベーションは?負けたくないという気持ちですか。
伊藤 そうですねゴールまでは責任を果たさないといけないという責任感です。
清水 ゴールとは欧州車と肩を並べるということですね。
伊藤 いや、抜くということ。だって90年に世界一って言ってしまった以上はね。
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伊藤 いちいち説明しなくても、観る人、乗る人が感じてくれるものを作りたかった。だから、やりすぎるくらいやった。
清水 どのあたりが大変だったのですか?
伊藤 車重をR31に比べて140Kgに軽くしろと設計部門に言いました。
清水 当時の軽量化技術では140Kgはタイヘンですけどね。
伊藤 重量にしろ、減価にしろエンジンは何キロ、シャシーは何キロと分担させました。実は140Kgはえいやで決めた数字ですけどね。それくらいじゃないと世界一にはなれないと思いました。
清水 車体剛性が低下する恐れは?
伊藤 強度が落ちた意味がない。設計にプレシャーを与えました。経営サイドはコストで苦しんでいました。
清水 どう説得したのですか
伊藤 R31の7割(コスト)でやりますと言い切りました
清水 R31よりも軽く低コスト。で、性能は世界一(驚)
伊藤 コストで何をしたかというと、徹底的にムダを省く。例えば、輸出を辞めました。英国兼にはあったけれど、それがどれだけスカイラインのプロジェクトに寄与したか。また、車種を減らしましたね。

清水 R31は沢山のモデルがありましたからね。
伊藤 結果的に収益は悪かったのです。車種を減らすということは、開発が減る。試作車を作らなくていいし、エンジンも車体も作らなくすむ。
清水 つまり、車種全体でコストダウンしたのですね。乾いたタオルをトヨタは絞ると言いますが。
伊藤 それをやるとクルマがヘンなところにいっちゃう。スカイラインは商品性を損なうようなところでコストを下げるのはダメだと。
加藤 横から見てもサイドマーカーもフロントバンパーにクリアランスランプがない。前から見るとヘッドランプしかない。輸出しないからできた。
清水 加藤さん、伊藤さんってどんな人?前にして言いにくいと思うけど。
加藤 もともとの親分なんですね。人に聞かないで、自分で調べて、納得するまで動かない。伊藤さんの掌の上で遊ばされた感じでしたね。非常に心地よく。
清水 なんかあればオレが責任とるって言っていますけど。
加藤 伊藤さんに責任とらせちゃまずいのです。こんなにやりやすい状況はないわけだから。
伊藤 ところでR32はテスト中はホントに事故がなかったです
加藤 ちょうどムスメが生まれるときです。日産の村山工場の近くに住んでいて、社宅からテストコースまで30分くらい。当時はRB26がよく壊れたのですよ。壊れるとエンジン屋さんが何で壊れたのか報告しないといけない。厚木に持って帰ってエンジン降ろして積んでね。走行初めると煙拭いてまた壊れる。いまでこそエンジンのターボ交換を上からするのが常識ですけど、それはオレが始めたのです。日産のプロトコルはエンジン降ろして作業することでした。でもそんな時間はないのです。会社は六時で大体終わりですがいったん家に帰ってメシを喰って、八時頃になるとまた作業所に入るのです。
清水 夜中にターボを交換したのですか?
加藤 そうです。いまじゃダメですけど。当時はね。でも楽しかった。というよりも「このサスどうなるのか」取り憑かれていましたからね。走らないことには結果が出せないですから。
清水 後輩にはどんなアドバイスをしていますか?
加藤 プロジェクトの人間に言ってまたのが、クルマは人々の幸せのためにある。そのクルマを使ってくれる人が幸せだって思えるクルマを作れと。
そういうクルマにするために、いろんな携わる人が魂込めて作れば、乗る人に伝わる。作る側も楽しい、幸せです。
清水 スカイラインは面白いメンバーでしたね。
加藤 一癖、フタクセ、でもそういうのが、仕事ができるんじゃないですか。
清水 秀才集めたわけじゃなくて野武士を集めた。
加藤 80点の優等生が集まっても面白くない。コレだって言う人
清水 これから大事ですよね。個性の時代だから。クルマ作りだけじゃない。人間が個性的じゃないと個性的なクルマはできない。
加藤 伊藤さん、キャラ変わりましたね。
伊藤 ぼくも好き勝手に生きています。
清水 いや二人とも14年前に聞いた話と軸がブレていません(笑)
終わり
Posted at 2012/08/20 23:30:27 | トラックバック(0) | そうだったのか! | 日記
2012年08月05日 イイね!

LEXUS EPISODE その2

LEXUS EPISODE その2
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2005年いよいよレクサスが日本に凱旋した。専売チャンネルを用意し、日本初の本格的なプレミアムブランドが定着するかどうか、大きな賭であった。その時のインタビュー記事をお思い起こす。
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聞き手 初代セルシオはレクサスブランドを立ち上げるために、開発されたクルマなのでしょうか?。
清水 それはどうかなあ?ブランドありきではなくて、トヨタとしてはメルセデスを超えたいという思いがあったはず。クラウンという高級車を日本では成功させたけどメルセデスのような世界にいきたかったと思うね。そういう空気が当時(1990年頃)流れていました。
聞き手 その想いが初代セルシオを生んだのですね。
清水 そう。その思いをユーザーに伝えるために、レクサスというブランドが自然発生的に生まれたと考えるのが自然でしょう。ボクはブランドとは高級品ではなく生き方であり哲学だと思う。だから出てきた時のショックも大きかったね。雑誌も大騒ぎしたしトヨタもヨーロッパで試乗会を開いたくらい力を入れていたよね。
聞き手 そんなに凄かったですか?
清水 単純に数値だけを見ても、エンジンはライバルのメルセデスやBMWのV8エンジンを遙かに上回る性能を持っていたし、燃費がよく排気ガスはクリーン。静粛性もパッケージもライバルを凌駕していたんだぜ。
聞き手 へぇ~、そんなにすごかったんだ。
清水 だってスポーツカーのエンジンが使うようなハイメカツインカムを高級車に採用したことでライバルは充分にビビッたと思う。
聞き手 なるほど
清水 ところで、レクサスが生まれた1989年は日本中がバブル経済で浮かれ銀行はどんどん金を貸してくれた、オレにもね。トヨタが偉かったのはそんな世の中で、本質的な部分でしっかりとチャレンジしたことだね。
聞き手 単なる雰囲気ではなかったと。
清水 ほぼ同時期に日産がインフィニティQ45を出したけど、乗ってみればそれはセドリックを大型化したものに過ぎなかったんだ。日産はバブルで高級車を作ったんだね。
聞き手 セルシオはそうではなかった?
清水 違ったね。チーフエンジニアの鈴木一郎さんの口癖は「源流対策」。例えば、音や振動は遮音ではなく元から絶つという原理主義を持ち込んだのです。ただし、オレはある雑誌にNVH(ノイズ・振動・ハーシュネス)だけを低減しても人は死なないって悪口を書いたけどね(笑)

清水 1989年は近代にとってとても重要な年ではないかな。
聞き手 というのは?
清水 日本車が欧州車にもっとも近づいた年だった。レクサス(セルシオ)だけでなく、日産からはR32GTRが開発され、ホンダはNSXを世に出した。スバルはレガシィが誕生しました。日本はバブルで自動車メーカーはイケイケだったけど、その反面、世界は大きなパラダイムの変革期を迎えていたのです。
聞き手 フムフム
清水 1989年は世界で大きな変化があったよね、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結して、それから中国では民主化を求める天安門事件が起きました。そして日本では昭和天皇が崩御し平成が始まったのです。つまりレクサスの誕生はこうした社会のパラダイムの変革期と無関係ではなかったと思っています。当時、日本に鋭い臭覚を持つ社会学者がいたら、自動車メーカーにどんなアドバイスをしたでしょうか?
聞き手 欧米流ではない、日本らしい高級車のあるべき姿を求めるという意味ですね。
清水 はい、アウトバーンで誰よりも速いというのがSクラスのプライドであって、その上での快適性が求められているのがヨーロッパの高級車だけど、革シートとウッドパネルを組み合わせれば高級車になる、ということではない。トヨタのアドバンテージであるトヨタ的な生産品質の良さとか、「お客様は神様」という日本的な一期一会のディーラーサービスを持ち込んだことでアメリカで成功を収めたわけ。
聞き手 ソフトウエアでは新しい文化をアメリカに持ち込んだということですか。
清水 アメリカでは人生で嫌なことの一つがカーディーラーに行くこと。エンジンオイルを交換するのも予約が必要でしょう。
聞き手 なるほど。
清水 レクサスはアメリカでの高級ブランドという意味だけではなく、トヨタが世界基準でクルマを作り、新しいディーラシップでクルマを販売スル大きなチャレンジだったと思う。だからトヨタという枠の中から脱出してレクサスという新しい自動車メーカーを誕生させるくらいの信念があったはず。そこが日産インフィニティとホンダアキュラの違いかもしれない。
聞き手 つまり、高級ブランドという看板を背負った販売チャンネルとしてのレクサスではなく、新しい高級車メーカー、レクサスが生まれる、ということですか?
清水 そう、全く新しいレクサスという高級車が誕生すると思って良いだろう。しかし、トヨタは大きな失敗を犯し始めていたのだけど誰もそれに気がつかなかった。その失敗は数年後に明らかになるのだけどね
Posted at 2012/08/05 00:07:11 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年08月03日 イイね!

LEXUS EPISODE

LEXUS EPISODE LEXUS EPISODE

レクサス誕生を振り返る

 レクサスのフラッグシップであるLSがビッグマイナーチェンジでアメリカでデビューした。新しいスピンドルグリルでセクシーさを増した装いで登場したLS460とLS600hは写真よりもずっとハンサムな顔付きであった。新型LSの試乗記は8月11日にインターネットのカービューと、26日売りのゲンロク誌でレポートするが、それまでは23年の歴史を持つ日本を代表するプレミアムサルーンであるレクサスの誕生エピソードを思い起こすことにする。ここでは少しだけ日本の自動車産業の近代史を紐解いてみよう。

 メルセデスベンツでさえ100年かかった高級車をレクサスはわずか20年で成功に導いた。その理由は探ることにしよう。1970年代以降、日本の自動車産業が急成長した背景には3つの大きな通過点が存在する。自動車業界に吹き荒れた3つの逆風、そのピンチをチャンスとしたことで日本車は成功した。日本のターニングポイントは1970年に訪れることになった。
 70年代初頭、世界の自動車メーカーの頭痛の種はマスキー法だった。環境問題に積極的に取り組む米国・加州のマスキー上院議員が提案した法律は大気中に含まれる排ガスの有害成分を10分の1に低減するという厳しいものであった。困ったのは自動車メーカー。その数値をクリアする解決策を持ち合わせていなかったのである。
 アメリカのビック3はこの規制は実現不可能だと法案の取り下げを要求した。その結果、マスキー法は有名無実化する可能性さえあったが、ホンダはCVCCシステムによって、世界で初めマスキー法をクリアすることに成功したのである。それまで2輪メーカーでしかなかったホンダは4輪メーカーとして米国で認められることになった。ホンダのサクセスストーリーはここから始まったのである。その後、トヨタや日産などが排ガス規制をクリアし、日本の自動車メーカーの実力が世界中に知らしめることになったのである。こうして一つ目の逆風は見事に乗り切ったのであった。
 
 追い打ちをかけるように2つめの逆風がやってくる。それはオイルショックであった。こんどは排ガスのクリーン化ではなく、ガソリンが使いたくても使えない危機が迫ったのである。当時の原油価格は1バーレル40ドル前後であったが、一気に80ドルへと急騰した。さらに石油の供給不安も重なって、ガソリンが高騰し、トイレット・ペーパーの買いつけ騒動などが起きた。それは他の国も同じで、特にエネルギー消費大国であるアメリカは深刻であった。ガソリンスタンドに数時間も並ぶような光景が各地で見られた。そういう状況では、大きくて重いアメ車よりも、小さく軽い日本車のほうが燃費に優れているのは当然だ。このオイルショックを契機に、日本車がアメリカで大ヒットすることになった。

 3つめの逆風はプラザ合意で起きた円高。でも本格的な円高は1970年代後半から起きていた。円が変動相場になったのは私が大学に入ったころの1973年は一ドル360円の固定相場から変動相場に切り変わり、円は一気に260円に高騰するがその後は300円前後で安定していた。某家電メーカーの輸出部に席を置いてサラリーマン生活がスタートした1977年頃から円が再び高騰しついに200円を切り180円まで登りつめた。会社からは輸出用オーディオ製品に千円札を貼りつけて売っていると経理部から揶揄されていた。その後は250円前後で安定するが、1985年のG5(先進国首脳会議)で決まった為替レートをドル安へ誘導する方針は急激な円高を招き、1986年には160円となった。
 この頃からアメリカで売れていた日本車も値上げすることになるが、安くて壊れないという評判の日本車の競争力がなくなった。その結果、ホンダはオハイオに工場を作ることを決意し、日本メーカーの北米進出第一号となったのである。
 こうした円高という逆風の中で、日本の自動車メーカーは海外進出だけでなくコストダウンにも努力し、結果としてコストパフォーマンスに優れたクルマを作り上げることで、逆に売り上げを伸ばすことに成功した。つまり、この3つの逆風をバネとして、日本の自動車メーカーは強くなっていた。こうして「排ガス規制・オイルショック・円高」という三つのサバイバルを見事に乗り越えてきたのである。

2000年頃の雑誌のインタビューで清水和夫が答える

清水 80年代後半になって、日本はバブル経済の中で世界中の資産を買い漁ったりしながら、地位を高めていった。そういう中で、自動車メーカーとしては世界に通用する高級車を作りたいという機運みたいなものが、生まれていった。そういう感じだった、あの当時はね。
聞き手 それが初代セルシオの誕生ということにつながるわけですね。
清水 しかしトヨタだけがそういうことを考えていたわけではなくて同じ時期に日産はインフィニティQ45という、漆塗りの高級車を出した。マツダも同じように、アマティというブランドでV8どころか、V12気筒を積んだ高級車の構想もあって実際に開発もされていた。
聞き手 そんなクルマもあったのですか!
清水 だからトヨタだけがレクサスを考えていたわけではないんだよ。日本の自動車産業全体が小型車からスタートして、世界に出て行って、次のステップとしてはV8の世界に行きたいというのは、自然な流れだったわけ。もっとも早くに高級ブランドを立ち上げたのはホンダでしたね。アキュラは1986年に北米で生まれました。レクサスは1989年のLS400(セルシオ)からですけど。

聞き手 でもちょっと疑問なのは、そもそも第2ブランドを作るというのは日本の自動車メーカーだけですよね? 例えばVWが大きくなっても、高級ブランドは出て来ないですよね?
清水 グループ内にアウディがありましたからね。とこころで、ブランドビジネスは家電の世界では辺り前なのです。日本国内はナショナルで、アメリカはパナソニック、さらに高級オーディオはテクニクスというようにブランドを使い分けていました。日本製品は大衆商品からスタートしてしたので、高付加価値商品を売ろうとすると、違うブランドであったほうが売りやすいのでしょうね。
聞き手 ステータスを確立するのに、トヨタブランドを進化させるよりも、ゼロかイチか、あたらしいブランドを作るほうがテッ取り早いということですか?
清水 おそらくマーケティングリサーチを含めて、そういう結果が出たのだと思います。アメリカではトヨペットで売られていたこともあるので、トイ・ペット(オモチャのペット)と聞こえやすいからトヨタ以外のブランドが必要だったと聞いたことがあります。
聞き手 それは単に高付加価値の高価なクルマを売るためにやりたかったのか。それとも、そういうクルマを作りたかったから第2ブランドが必要になったのですか?
清水 それは後者だと思うよ。エンジニアの崇高な想いで、クラウンを超える世界に通用する高級車を作りたかったというのが先にあって、それを成功させるための手法がレクサスだったということだよ。
聞き手 逆にいえば、それだけエンジニアの想いが入っていたということですね。

Posted at 2012/08/03 00:21:02 | トラックバック(0) | そうだったのか! | 日記
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