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2012年08月03日

LEXUS EPISODE

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レクサス誕生を振り返る

 レクサスのフラッグシップであるLSがビッグマイナーチェンジでアメリカでデビューした。新しいスピンドルグリルでセクシーさを増した装いで登場したLS460とLS600hは写真よりもずっとハンサムな顔付きであった。新型LSの試乗記は8月11日にインターネットのカービューと、26日売りのゲンロク誌でレポートするが、それまでは23年の歴史を持つ日本を代表するプレミアムサルーンであるレクサスの誕生エピソードを思い起こすことにする。ここでは少しだけ日本の自動車産業の近代史を紐解いてみよう。

 メルセデスベンツでさえ100年かかった高級車をレクサスはわずか20年で成功に導いた。その理由は探ることにしよう。1970年代以降、日本の自動車産業が急成長した背景には3つの大きな通過点が存在する。自動車業界に吹き荒れた3つの逆風、そのピンチをチャンスとしたことで日本車は成功した。日本のターニングポイントは1970年に訪れることになった。
 70年代初頭、世界の自動車メーカーの頭痛の種はマスキー法だった。環境問題に積極的に取り組む米国・加州のマスキー上院議員が提案した法律は大気中に含まれる排ガスの有害成分を10分の1に低減するという厳しいものであった。困ったのは自動車メーカー。その数値をクリアする解決策を持ち合わせていなかったのである。
 アメリカのビック3はこの規制は実現不可能だと法案の取り下げを要求した。その結果、マスキー法は有名無実化する可能性さえあったが、ホンダはCVCCシステムによって、世界で初めマスキー法をクリアすることに成功したのである。それまで2輪メーカーでしかなかったホンダは4輪メーカーとして米国で認められることになった。ホンダのサクセスストーリーはここから始まったのである。その後、トヨタや日産などが排ガス規制をクリアし、日本の自動車メーカーの実力が世界中に知らしめることになったのである。こうして一つ目の逆風は見事に乗り切ったのであった。
 
 追い打ちをかけるように2つめの逆風がやってくる。それはオイルショックであった。こんどは排ガスのクリーン化ではなく、ガソリンが使いたくても使えない危機が迫ったのである。当時の原油価格は1バーレル40ドル前後であったが、一気に80ドルへと急騰した。さらに石油の供給不安も重なって、ガソリンが高騰し、トイレット・ペーパーの買いつけ騒動などが起きた。それは他の国も同じで、特にエネルギー消費大国であるアメリカは深刻であった。ガソリンスタンドに数時間も並ぶような光景が各地で見られた。そういう状況では、大きくて重いアメ車よりも、小さく軽い日本車のほうが燃費に優れているのは当然だ。このオイルショックを契機に、日本車がアメリカで大ヒットすることになった。

 3つめの逆風はプラザ合意で起きた円高。でも本格的な円高は1970年代後半から起きていた。円が変動相場になったのは私が大学に入ったころの1973年は一ドル360円の固定相場から変動相場に切り変わり、円は一気に260円に高騰するがその後は300円前後で安定していた。某家電メーカーの輸出部に席を置いてサラリーマン生活がスタートした1977年頃から円が再び高騰しついに200円を切り180円まで登りつめた。会社からは輸出用オーディオ製品に千円札を貼りつけて売っていると経理部から揶揄されていた。その後は250円前後で安定するが、1985年のG5(先進国首脳会議)で決まった為替レートをドル安へ誘導する方針は急激な円高を招き、1986年には160円となった。
 この頃からアメリカで売れていた日本車も値上げすることになるが、安くて壊れないという評判の日本車の競争力がなくなった。その結果、ホンダはオハイオに工場を作ることを決意し、日本メーカーの北米進出第一号となったのである。
 こうした円高という逆風の中で、日本の自動車メーカーは海外進出だけでなくコストダウンにも努力し、結果としてコストパフォーマンスに優れたクルマを作り上げることで、逆に売り上げを伸ばすことに成功した。つまり、この3つの逆風をバネとして、日本の自動車メーカーは強くなっていた。こうして「排ガス規制・オイルショック・円高」という三つのサバイバルを見事に乗り越えてきたのである。

2000年頃の雑誌のインタビューで清水和夫が答える

清水 80年代後半になって、日本はバブル経済の中で世界中の資産を買い漁ったりしながら、地位を高めていった。そういう中で、自動車メーカーとしては世界に通用する高級車を作りたいという機運みたいなものが、生まれていった。そういう感じだった、あの当時はね。
聞き手 それが初代セルシオの誕生ということにつながるわけですね。
清水 しかしトヨタだけがそういうことを考えていたわけではなくて同じ時期に日産はインフィニティQ45という、漆塗りの高級車を出した。マツダも同じように、アマティというブランドでV8どころか、V12気筒を積んだ高級車の構想もあって実際に開発もされていた。
聞き手 そんなクルマもあったのですか!
清水 だからトヨタだけがレクサスを考えていたわけではないんだよ。日本の自動車産業全体が小型車からスタートして、世界に出て行って、次のステップとしてはV8の世界に行きたいというのは、自然な流れだったわけ。もっとも早くに高級ブランドを立ち上げたのはホンダでしたね。アキュラは1986年に北米で生まれました。レクサスは1989年のLS400(セルシオ)からですけど。

聞き手 でもちょっと疑問なのは、そもそも第2ブランドを作るというのは日本の自動車メーカーだけですよね? 例えばVWが大きくなっても、高級ブランドは出て来ないですよね?
清水 グループ内にアウディがありましたからね。とこころで、ブランドビジネスは家電の世界では辺り前なのです。日本国内はナショナルで、アメリカはパナソニック、さらに高級オーディオはテクニクスというようにブランドを使い分けていました。日本製品は大衆商品からスタートしてしたので、高付加価値商品を売ろうとすると、違うブランドであったほうが売りやすいのでしょうね。
聞き手 ステータスを確立するのに、トヨタブランドを進化させるよりも、ゼロかイチか、あたらしいブランドを作るほうがテッ取り早いということですか?
清水 おそらくマーケティングリサーチを含めて、そういう結果が出たのだと思います。アメリカではトヨペットで売られていたこともあるので、トイ・ペット(オモチャのペット)と聞こえやすいからトヨタ以外のブランドが必要だったと聞いたことがあります。
聞き手 それは単に高付加価値の高価なクルマを売るためにやりたかったのか。それとも、そういうクルマを作りたかったから第2ブランドが必要になったのですか?
清水 それは後者だと思うよ。エンジニアの崇高な想いで、クラウンを超える世界に通用する高級車を作りたかったというのが先にあって、それを成功させるための手法がレクサスだったということだよ。
聞き手 逆にいえば、それだけエンジニアの想いが入っていたということですね。

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Posted at 2012/08/03 00:21:02

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