
春一番も過ぎ去り、いよいよ初夏の薫りが漂い始めた頃、
しかし彼の境遇にあまり変化は見られなかった。
世界を覆うコロナ禍の中でも、彼の忙しさに変わりは無
かったからだ・・・。
そんな或る日、夜勤の仕事を終えホッと一息つく暇も無く、彼は次の業務先へと向かっていた・・・。
元々彼はクルマのエアコン臭が好きでは無くなるべく窓を開け風を車内に取り入れていたが、
この近辺は日本有数の工業地帯と言う事も有り絶えず行き交う大型トラック等によって空気は
汚れているので、暑くなり始めた車内ではあるが、少し我慢して窓は開けずにいた・・・。
「ふ~、いよいよ俺の大嫌いな季節が到来するんだな・・・」
とは言えその前に梅雨と言う彼にとっては暑さの余り無い夏よりはましな季節があるのが幸い
だった。彼はふと車内が静かな事を思い出した。慌ててFMラジオのスイッチを押す。途端に
車内に懐かしい音楽が鳴り響いた。彼は知らず知らずのうちにラジオから流れる曲とリンクし
人目を憚る事無く口ずさんでいた。
「
埃にぃ~まみ~れ~たぁ~♪ 人形~み~た~い~♪」
学生運動真っ盛りの頃を思い出す様に、彼の声量は其のボリューム上げていった・・・。
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そろそろ彼の喉から血が出そうな頃、ようやく彼のワンマンショーは幕を閉じ、その喉の熱さと
渇きを鎮める為、カップホルダーに差してあったジャスミン茶のペットボトルの蓋を開け、一気に
その喉奥へと嚥下した。
「ふ~、これがビールだったらどんなに幸せな事か・・・」
彼は一人微笑むと、しかし次の瞬間には引き締まった表情で先を急いだ・・・。
数分後、彼のフィットは或る街道上に居た。まだ早朝の事も有り、決して閑散とまでは言えないが、
交通の流れに淀みは無かった。
ふと前方にマイクロバスらしき車が見え始めた。何の気なしにそのバスの後ろに付いた彼だったが
数分でその顔が歪みはじめた。遅いのである!ただ遅いだけならまだしもそれはまるで彼の進路を
塞ぐような走りをして来たのだから、彼の表情が曇るのも必然の事だった。
「くそ、何だコイツは!!」
イライラが募った彼は、しかし一旦気持ちを落ち着かせて時を待った。すると前方に片側一車線
から二車線に広がる交差点が見えて来た。運良く右側の車線にはクルマは居ない。彼は一旦左に
行くと見せかけて素早く右にハンドルを切り、一気にアクセルペダルを床まで踏んだ。フル加速に
入ったフィットは、あっと言う間にバスを追い越しそのままクルージング態勢に入る事が出来た。
「やっと抜かせたわ、しかし気分の悪いクルマだったな・・・」
一仕事終えた様な気分となった彼は、開けたくなかった窓を開けると、センターコンソール
ボックスへと手を伸ばしその辺りを弄った。
「っち、煙草やめたんだっけ・・・」
彼は歪んだ顔のまま態勢を戻すと、また運転に集中しようとした。とその時、ただならぬ気配が
後方より迫って来た。振り返ると先程追い越したあのバスが鬼気迫る勢いで車間を縮めて来る
ではないか?! 彼は慌てて前方を向き、急いでアクセルを踏んだ! すると前方にかなりRの
キツイS字カーブが見えて来たが彼は減速する事無く、そのままのスピードでコーナーへ突入した!
キキィィィィィィ!!!
タイヤから奏でるスキール音をものともせず、彼は小刻みにハンドルをソーイングしながら叫んだ!
「
幻の多角形コーナーリングぅうぅ!!」
彼のこのテクニックを駆使すれば、追い付く車などアリはしない。歪む口元の中に僅かに微笑みが
混じった時、また彼の背筋に悪寒が走った!
「何故だ何故だ何故だ!!!」
後を見る彼の眼に、全く変わらない車間にまるで白昼夢を観ているかの錯覚に囚われたが、しかし
歯を食い縛り次々と襲いかかって来るコーナーを出来うる限りのドライビングスキルを駆使し
タイヤに喝を入れた。しかし離れない!!初めて彼はタダならぬ事態に巻き込まれたと認識した。
その時彼の脳裏に或る記憶が蘇った。それは今から数十年前に封切られた映画だった。それは若
きスピルバーグのデビュー作でもあったが、ひょんなことから追い越したトレーラーが、その後
執拗に主人公を追い詰めて来るというスリラー映画だった。まさしく今がその状態だと理解した
彼は、一際大きな力を込めてアクセルを踏み込んだ・・・。
しかし、そんな彼の努力を嘲笑うかの様に、前方に見えてきた交差点の信号は無慈悲な位赤い
色をしていた。
「くっ、ここまでか・・・」
意気消沈する彼に追い打ちをかける様に車外から音楽が聞こえて来た。それは徐々に大きくなり、
今や真っ赤に腫れ上がった彼の耳朶を直撃した! また彼の脳裏に或る記憶が蘇った。それは今
から数十年前に封切られた映画だった。それは巨匠コッポラの代表作でもあるが、サーフィンを
する為に、ベトコンの前哨基地を襲撃する第一騎兵師団の指揮官であるキルゴア中佐率いる部隊
が、ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をオープンリールで鳴らしながら、9機の武装したUH-1
ヘリが、南ベトナム解放民族戦線の拠点であるベトナムの村落を攻撃していくシーン等極限状態の
狂気が満載の戦争映画だった。まさしく今がその状態だと理解した彼はの恐怖は刻一刻と大きく
なっていた・・・。
苦悶に満ちた眉間の皺を治す事も忘れ、胸を抉る様な音楽が
迫り来る中、ゆっくりとバックミラーにその視線を移した!
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ぎっ
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ギッ
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ぎゃぁぁぁぁ!!!
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そして同時に襲い掛かる音楽が彼の耳に飛び込んで来たのだ!!
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「良っい子がっ 住んでるぅ 良っい町わぁ~♪」
明るく楽しげな童謡が鳴り響く中、インターナショナルスクールの生徒達は明るく元気に
彼に手を振りながら去って行った・・・。
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「ふう~ 疲れた・・・・」
大きな仕事をやり遂げた様な達成感の中、こうして彼の長い一日はまるで寂しさを紛らわすかの
様に、脚本・主演・ナレーション、そして演出過多の車内独演会で終わるのだった・・・。
でわでわ!