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頑固一徹カズですのブログ一覧

2012年07月09日 イイね!

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その4

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その4

~~~~~前回のレビュー~~~~~~~~
清水 ところであのGTRはいつごろ提案したのですか?
伊藤 86年の経営会議で提案する前に、開発担当役員にGTR構想を打ち明けたのです。技術の日産のイメージを高める象徴が必要だと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

清水 GTRの話しが出てくると「それはプリンスの車」だという社内の差別はなかったのですか
伊藤 ぼくはプリンスの人間だからひがみもあるけれど完全にゼロだったわけではないですね。
清水 当時のトップは園田副社長?
伊藤 そうです。園田さんは話しを聞いてくれました。GTRはここで出さないといけない。技術の日産のイメージを強烈に打ち出さないと。
清水 かつての連勝記録をもう一度、グループAで実行しようと。
伊藤 レースで高性能や日産の技術をPRしましょうと。そのときにGTRを提案するんだけれど、R32に高性能エンジンを積んで走る。レースでは四駆を積むつもりはなかったのです。
清水 650馬力でFRですか。フォードのコスワースと同じ(自分も乗っていた)。
伊藤 なぜかというと、個人的には四駆はイメージになかった。なぜかというと、重くなる、値段が高くなる。またレースで四駆が勝った実績があまりない。故障する場所が多くなるし。
清水 それだけネガティブな要素をリストアップしたが、かなり腰がひける。採用しない十分な理由でしたね。では電子制御ETSを伊藤さんに売り込んだのは誰だったのですか?
清水 中央研究所(総合研究所)だけど、その前のモデル(GTSR)でもグループAのレースをやっていいというお墨付きをもらってあるので、せっかくだから勉強も兼ねて四駆を急遽作ったのです。だから役員会にも承認受けないでね。GTSRのレース用を設計してくれと頼んだらシャシーとかエンジンとかから断られました。「そんなヒマなんてない、なぜ会社が苦しい時期にレースをやるのか。レースはR32でやるんだから32でいいじゃないかと」というんで困っちゃいました。
清水 ぼくはフォードコスワースでグループAに乗っていて、亜久里(鈴木)がGTSRに乗っていましたね。四駆にしようというきっかけは?
伊藤 結局、四駆にしたのは、GTSRでシエラに対抗しようとすると、パワーを上げる。パワーを上げていくと、アクセルを踏めなくなる。じゃあどうしようかで。タイヤはこれ以上、レギュレーションで大きくできない。じゃあ四駆しかないかなぁという三段論法で四駆に行きつきました。

清水 レースで勝つために四駆になったのか?
伊藤 まあそうですね。市販車だけならFRになっていた?
伊藤 いやね、どうなのですかね?ぼくの考えは違うかもしれないけど、レースは二駆、市販車は四駆でいいかもしれないと考えていましたから。清水 一般の人が乗るGTカーは安全性や全天候を考慮して四駆。それでポルシェ959を買って評価していたのですね。
伊藤 迷っていました。一方で、レースはサーキットは四駆じゃないといけない。これ以上馬力あげるのは難しいという意見もありました。
清水 栃木にぼくも連れて行かれて、スキッドパッドでプロトタイプをテストドライブしました。

伊藤 実は市販車の研究開発の段階ではR31で四駆をやるはずだった。ファーガソンタイプのメカニカル四駆です。マイナーチェンジでやることを進めていた。
清水 センターデフをオイルパンの中に入れる、ベンツの4マチックと同じやつ?FRベースで!
伊藤 そうです。四駆はすぐできた。
清水 それでR32ではセンターデフを油圧電子制御にしたのですね。
伊藤 そうです。ところが、R31を出してみなさんに叩かれて、スカイラインの四駆はこれでいいのかと見直したのです。それでスカイラインとしては電子制御がふさわしいと思いました。
伊藤 メカタイプは基盤技術の開発でしたね。
清水 電子制御四駆と四輪操舵のハイキャス、しかもマルチリンクサスペンションといよいよウェポンが揃い始めていたのですね。
伊藤 そうです。
Posted at 2012/07/09 16:09:56 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年07月05日 イイね!

R32GTRチーフエンジニア伊藤さんとインタビュー その3

R32GTRチーフエンジニア伊藤さんとインタビュー その3R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その3

〜〜前回のレビュー〜〜
清水 そこに901活動があった。
伊藤 世界一をやろうと
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

伊藤 R32の企画を提案したのは86年の2月ですが、会社として合意したのが86年の7月。経営会議のトップで決まりました。
清水 大きな会社なので提案から決定まで半年もかかるのですね。当時、ポティアックフィエロ(スポーツカー)の取材でGM本社を訪れましたが、GM広報は自分のレターが会長のデスクに届くまでに何週間もかかると苦笑していました。
伊藤 そこで次期型スカイラインはこうやって作って、スペックはこう、原価はこう、収益はこれくらい、販売はこれくらいを目標にと提案しました。経営会議で最終的に承認されますが、そこにいたる過程が大変なのです。多くの社内部署の合意を得ないといけません。その前にもっと大切なことはプロジェクトチームの合意を得ないと。
清水 でもみんなの意見を聞いたらまとまらない(笑)。
伊藤 はい。ですから僕がたたき台を出して、こういうスカイライン作るから「この指止まれ!」という作戦でした。そんなコンセプトはダメっていう人もいます。ボクは直さないといけないのは直して、直さなくていいのは直さない。殺し文句として社内で言ったのは「クルマはいっぱいある。しかし、どれ買っていいか困っちゃうでしょ。オレはこういうのが欲しいんだからこのクルマを選ぶってってパッと言えない。ですから存在価値のあるクルマを作らないといけない」と思いました。
清水 人間もおなじですね。アイツは勉強もそこそこできるし人付き合い下手ではない。だけどパッとしないのがいますよね。特徴がないヤツ。あいつは勉強がダメだけどサッカーやらせたら世界一とか。数学が得意、国語は苦手だとか。あいつは勉強だめだけど女の子にはもてるとか。
伊藤 そうなのです。野球の王さんにはホームランを期待している。いくら3割打っても、盗塁してもホームラン打てなかったら存在価値がない。スカイラインは走ってナンボだから、走らないスカイラインは存在価値がない。ある役員からはこんなターゲットを絞ったコンセプトでは年寄りは寄りつかないぞと脅かされました(笑)
清水 ところでR32はヒットしたのですか?
伊藤 結構売れましたね。マイチェン後にバブルが弾けてセダン全体が落ち込みましたがそこまではヨカッタ。スカイラインの販売も、ジャパンのときが絶頂で、モデル毎に10万台ずつ落ちたのです。累計ではジャパンが53万台、R30が40万、R31が30万台を切りましたが、R32は31万ちょっと。販売が低迷していた歯止めになりました。
清水 いちいち説明しなくてもわかるような存在価値がカギだったわけですね。
伊藤 86年の暮れに若手ジャーナリストを集めて意見を聞いたことがありました。スカイラインに何を期待しますかと。みなさんからの意見を元にして、自分が考えるスカラインがホントに正しいのか。
清水 色々な人に、ですか?
伊藤 スカイラインが大嫌いな人達から女性の意見、また、高校生やクルマ好きのおじさん。のべ600人くらいに聞きました。
清水 そこでスカイラインに対して何を望むのか、ですね。
伊藤 こういうスカイラインはどうかとR32の考えをちらちらと出しながら聞きました。その結果は、自分が考えた方向で間違いないと確信したのです。
清水 ところであのGTRはいつごろ提案したのですか?
伊藤 86年の経営会議で提案する前に、開発担当役員にGTR構想を打ち明けたのです。技術の日産のイメージを高める象徴が必要だと。

つづく
Posted at 2012/07/05 19:16:02 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年07月02日 イイね!

R32GTRチーフエンジニア伊藤さんとインタビュー その2

R32GTRチーフエンジニア伊藤さんとインタビュー その2R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その2
マークⅡ三兄弟との激闘

清水 伊藤さんは、スカイラインは欧州に出さないけど欧州車と戦えるようにと考えたのですか
伊藤 はい、欧州のスポーツカーに対抗できるように。
清水 BMWをイメージしたのですか?
伊藤 BMWとかベンツとか、コレというのはなかったのですが、最終的にはポルシェ944(ターボ)をベンチマークとしました。
清水 901活動が実際に86年に発足すると、開発エンジニアだけでなく評価ドライバーたちも、崇高なプロジェクトに巻き込まれていくわけですね。
伊藤 スカイラインの開発を前提にして第一回901活動は87年の3月に栃木のテストコースで行いました。シャシーベッドを使って前後のサスペンションを組み合わせて実車走行しました。
加藤(日産が誇る評価ドライバー)私は901委員会という意識はなかったですね。伊藤さんの記憶スゴイ。901活動とはR32スカイラインが発表になってから会社が言い出したと記憶しています。
清水 加藤さんは人間国宝だから、901活動の崇高な評価は日常業務でやっている(笑)
伊藤 シャシーが最初に言い出しましたね、90年に世界一を目指すと。その活動の横展開は国内はスカイン、欧州がプリメーラ、アメリカがZ。(R32,Z32、P10)
加藤 そこで車両運動設計グループと新しい呼び方に変わりましたが、やっていることはかわっていない。
清水 加藤さんはやっていることは変わらないと仰いましたが、従来の開発と901を意識したR32スカイラインの開発はどの程度の違いがあったのですか?
伊藤 そりゃ違う。R31を復調するのにタイヘンだったのです。新RBエンジン、新しい4バルブも評判はよくなかった。ツインカムの4バルブはほかにもあったけれどマーク2がダントツでした。性能的にはスカイラインはちょっとだけヨカッタのですが。昭和52年くらいまでは、日産のほうがローレルとかスカイラン、Lクラス、などシェアがトヨタよりも高かったのです。その後、トヨタがマークⅡファミリーにチェイサーが追加、そしてクレスタ。トヨタの高級路線がうまく行って、日産とトヨタとの差が縮まっていく。そこで昭和52年くらいにシェアは同じになった。
清水 記憶に残っていますね。マークⅡ三兄弟で一月に三万台以上も売っていましたから。
伊藤 それでもスカイラインとマークⅡは単独では1980年代初めまではスカイラインのほうが多く売れていました。マークⅡ連合軍では1981年くらいから逆転されましたが。
清水 そんなことがあったから、R31を企画するときに走りのスカイランではダメだと思ったのですね。あんちゃんが作業服を着て、隣に仲間を乗せて、よーいどんで交差点グランプリ。それに比べてソアラは背広を着て、洒落た香水つけて、おにいちゃんがカワイコチャンといちゃつくクルマ。80年代ってカオスだったのかしら。
伊藤 スカイランは信号が青になったらぶっ飛ぶというイメージが強く、スカイラインのイメージが悪くなったと言われていました。そのイメージをR31は取り返すために大人っぽい領域に足を踏み込んだのです。清水さんが理解できなかった都市工学ですね。だから走りのイメージをなくし、アバンギャルドな大人のイメージを作りたかった。ですから2ドアも出さなかったのです。でも、結果は失敗し叩かれた。
清水 叩いた記憶があるな(笑)
伊藤 だから僕はスカイラインをもう一回原点に戻って開発しようと心に決めました。それは求められる性能や機能はいっぱいあって、モノを運ぶとかね。でも、スカイランとは何?と歴史をひもといて、評判がよかったときも悪かったときもある。しかし普遍的なことは走る歓びだろうと。
欧州車は室内が広くて豪華で喜ばれた例はあまりない。スカイラインに期待されるモノを書き出し、何を優先するのか議論しました。走りとスタイル。でも、全部はできない、お金もかかるしね。優先事項は絶対にやると決めました。
清水 なるほど。ほかのクルマにないようなヤツが必要なのですね。7thのCDプレイヤー6連装を自慢していましたが「何だこりゃ」と思いました。そんなことやるくらいなら走りをよくしろとね。スカイラインに期待しないモノをいくらやっても喜ばないですから。

伊藤 期待される的を外しちゃいけないと肝に銘じました。ターゲットを絞ったクルマにしよう。スカイライン=走り。軽量でコンパクト、強力なエンジンに立派な足回り。荷物を積むとかキャビンが広いとかはクルマとし大切ですが、スカイランとしてどっちの優先は何か。それまでの日産は新車を開発するときに前のクルマよりマイナスになることはやらなかった。提案しても通らなかった。
清水 結局頭で考えるかた、ワケのわからないクルマだらけになったのですね。ところで開発主管がやりたくても通らないというのは、主管以上に、権力を持った人がいるのですか?
伊藤 そりゃいろいろと、、、営業サイドとか、売れなかったらオレが責任持てないから協力できないとか。大会社だから、プロジェクトの主管がこれをやりたいと思っても、プラモデルならできるけど。
清水 そのクルマでメシを食っている人がたくさんいる。日産の人、ディーラーの人、部品メーカーの人。
伊藤 だから失敗すると、ホントにミジメ。悪かったヤツをマイチェンで直そうとしても手遅れ。ぼくは何回もやって、マイナーだけ担当したこともあるけれど、失敗したヤツをマイチェンで直そうとしても直らない。イクラ手を打っても回復できない。だから最初から、失敗しちゃイカンと。スゴイ緊張感があるけれど社内の合意を得ないといけない。それでみんながよしこれでやろうという気になってくれれば、いいクルマは作れないのです。
清水 そこに901活動があった。
伊藤 世界一をやろうと。
Posted at 2012/07/02 16:04:29 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年06月28日 イイね!

R32GTRの思い出 チーフエンジニア伊藤さんとインタビュー

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー

私と箱スカの出会い

伊藤:清水さんとスカイラインの出会いを聞かせてください。
清水:最初に免許とって乗ったのが箱スカのGC10。18歳の時でしたね。だから自分の中ではスカイラインは特別な想いがあったのです。スカイラインがなければいまこの仕事をしていなかったしね。世田谷の上馬にプリンスディーラー、渋谷の神泉に東京カローラでセリカを売っていた。スカイランかセリカか迷った。当時の価格はどちらを選んでも86万円前後。セリカは女の子をナンパしやすそうなので、オレはセリカが欲しかった。でも、オヤジの「日産のほうが技術は上じゃないの」の一言でプリンスの箱スカに決まった。2リットルのストロンバーグのシングルキャブ。それ買って大学行ったらクルマ好きが集まってきて大変な騒ぎだった。それがきっかけでラリーとかレースにぞっこんハマッタのです。それからガンガンと自動車人生を歩むことになりました。
伊藤:スカイラインが人生を決めたのですね(笑
清水:はい、その通りです。その後のスカイラインは昭和50年規制でしょぼくなって、4~5代目から記憶が薄らいだのです。ジャーナリストになったときに再び箱スカと再会しました。でも都市工学とか訳の分からない宣伝文句でPRしていました。ますます意味不明なスカイラインでしたね。日本ではクルマのイメージは言葉遊びが好きな広告代理店が作るのだと初めて知ったのです。技術屋さん達はあまり歴史など感心がないみたいでした。ですから、7thスカイラインと出会っても「これがスカイライン?」って失望したのです。
伊藤:なるほど
清水:しかし、希望の光も見えました。ハイキャスという四輪操舵技術が世界発で実用化したのです。日産の中央研究所の芝畑さんが開発した技術でしたね。リアのトーが油圧でアクティブに動くヤツ。当時、ポルシェのタイヤテストで928を走らせていたので、ポルシェのバイザッハアクスルはよく知っていました。日産はそれを油圧で動かしたのです。7thスカイラインで日産のシャシー技術の底時からを知りました。それからついに8代目のR32スカイラインが誕生したのです。R32GTRも復活し、日産が本当に世界一になると思いました。それでレースに復活GTRは650ps+4駆というスーパースポーツカーに思えたのです。4駆スポーツカーといえばポルシェのグループBの959しかなかったのに。

伊藤:R32を始めたのが1985年からですね。日本の自動車の歴史を見ると、最初は欧州車のOEMを作り、そこから自主開発しました。60年代から70年代にかけては排ガス問題、80年代からは安全対策。世界中の規格に対応しながら、世界を相手にクルマを作っていました。
清水 円高もありましたね。日本車がアメリカで売れるとアメリカはすぐ叩きました。その結果アメリカへの輸出規制です。実際は自主規制という縛りでしたが。 
伊藤:ところが、欧州の日産の販売現場ではベンツビーエムと対等に戦えるクルマが欲しいと。でも、バカ言えと思いました。できるわけないと。それより安くて直接競合しないところをやったほうがいい。こうした事情は日産だけじゃなくてトヨタもホンダも同じだったのです。そこで日産の技術屋は世界のトップクラスを見返してやるという気運が高まりました。


清水 創生期、黎明期が60年代70年代ですからね。その後は日本車が売れた。安くて燃費がいい(円安)からでしたね。しかし、80年代は技術競争の時代となり、馬力史上主義となりました。日本車でどのクルマが200Km/hの壁を越えるのか。そのスピード競争を確かめるために、速度無制限のアウトバーンに行きましたよ。ホンダのCRXとか日産Zとかで。

伊藤 その頃、私は量から質への転換を感じていたのです。輸出ばかりやっていてもしょうがない。急速な円高で会社もおかしくなっていたのです。日産だけじゃなくて輸出できないわけですからね。量産設備をもっていても、輸出できないわけだから、国内の市場をなんとかしないと。そこには付加価値の高いモノ。そういう気運がありました。トヨタはセルシオ、ホンダはNSX。

清水 日産の70年代頃はトヨタとシェアも拮抗していたけど、1976年頃からシェアが30%を割って、それからずーっと下がりっぱなし。一回上向いたかな。
伊藤 あの頃の85年頃のニッサンには何とかしないと。久米社長に代わり、日産の風土改革をやりました。お客さんに満足してもらうような商品を出さないと。そのためにはクルマの開発方法と自分たちの会社を変えようと。そういう活動を結構やった。そういうのも32をやるときに、みんな燃えていた理由ですね。

清水 それじゃ901活動というのは85年頃に?もう一度技術で世界一を?
伊藤 実際には901委員会は86年の暮れでした。発端はシャシー設計からでした。シャシーも1970年代にヨーロッパにクルマを出してけちょんけちょん。アウトバーンの直進安定性とか。シャシー設計も高速安定性をなんとかしないと。1978年くらいに高速コンセプト委員会というのがシャシー設計部にできました。だからアウトバーンで250キロで走れる車を研究した。シャシーはやった。実際に会社として、パワーを出して新しいサスを開発しようとか、結びつかなくて、結局は研究で終わり、市販車としてはセミトレサスペンションを少しずつ改良していました。他社の進歩のレベルに比べると日産は遅いから、ジャーナリストからもけっこう叩かれたのです。

清水 あの頃、トヨタがロータスの株を買って、セリカXXのシャシーを研究していましたね。つまりトヨタはシャシーで悩んだときに欧州に答えを求めた。日産は?
伊藤 実はちょっとやりました。
清水 えっ、どこと?ポルシェですか?
伊藤 そうです。シャシー部門がね。でもあんまり突っ込んでやらなかった。
清水 日産のエンジニアはプライド高いから、最後は自分でやりたかったと。バイザッハアクスルを研究したのですね。ところで1986年に901活動が始まりましたがR32の企画が先だったのですか。
伊藤 32の企画が先です。85年の8月にR31を出して、みなさんにこてんこてんにやられて。でま、私も考えて。それで、R32のコンセプトを決め、901活動をスカイラインやろうと展開したのは86年の2月でした。

続く
Posted at 2012/06/28 14:22:44 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年06月14日 イイね!

徳大寺さんとの10年前の対談

徳大寺さんとの10年前の対談 いまから10年くらい前に自動車雑誌ナビで徳大寺さんと対談した記事を読み返してみました。グローバル化という合従連衡の嵐の中で911テロ事件が起きたわけですが、自動車産業はそれでも成長を目指して邁進していました。ダイムラーはクライスラーと提携し、三菱自動車を傘下に収めましたね。GMとフォードとVWも世界中のブランドを漁っていました。あるアナリストは「お金を持った子供が目の前のオモチャを買いたがるのと同じ」と揶揄していました。そして今、どうなったのか。わずか10年ですが、この間に起きた変化は100年分に相当すると思いました。

注)対談原稿はフェイスブックにアップしておきます。
フィードを購入(無料)していただければ、お友達登録しなくても詠むことができます。

注)写真はニースで二人とも女性の下着屋さんの前で見とれているシーンです。
Posted at 2012/06/14 12:45:01 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
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