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頑固一徹カズですのブログ一覧

2012年08月05日 イイね!

LEXUS EPISODE その2

LEXUS EPISODE その2
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2005年いよいよレクサスが日本に凱旋した。専売チャンネルを用意し、日本初の本格的なプレミアムブランドが定着するかどうか、大きな賭であった。その時のインタビュー記事をお思い起こす。
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聞き手 初代セルシオはレクサスブランドを立ち上げるために、開発されたクルマなのでしょうか?。
清水 それはどうかなあ?ブランドありきではなくて、トヨタとしてはメルセデスを超えたいという思いがあったはず。クラウンという高級車を日本では成功させたけどメルセデスのような世界にいきたかったと思うね。そういう空気が当時(1990年頃)流れていました。
聞き手 その想いが初代セルシオを生んだのですね。
清水 そう。その思いをユーザーに伝えるために、レクサスというブランドが自然発生的に生まれたと考えるのが自然でしょう。ボクはブランドとは高級品ではなく生き方であり哲学だと思う。だから出てきた時のショックも大きかったね。雑誌も大騒ぎしたしトヨタもヨーロッパで試乗会を開いたくらい力を入れていたよね。
聞き手 そんなに凄かったですか?
清水 単純に数値だけを見ても、エンジンはライバルのメルセデスやBMWのV8エンジンを遙かに上回る性能を持っていたし、燃費がよく排気ガスはクリーン。静粛性もパッケージもライバルを凌駕していたんだぜ。
聞き手 へぇ~、そんなにすごかったんだ。
清水 だってスポーツカーのエンジンが使うようなハイメカツインカムを高級車に採用したことでライバルは充分にビビッたと思う。
聞き手 なるほど
清水 ところで、レクサスが生まれた1989年は日本中がバブル経済で浮かれ銀行はどんどん金を貸してくれた、オレにもね。トヨタが偉かったのはそんな世の中で、本質的な部分でしっかりとチャレンジしたことだね。
聞き手 単なる雰囲気ではなかったと。
清水 ほぼ同時期に日産がインフィニティQ45を出したけど、乗ってみればそれはセドリックを大型化したものに過ぎなかったんだ。日産はバブルで高級車を作ったんだね。
聞き手 セルシオはそうではなかった?
清水 違ったね。チーフエンジニアの鈴木一郎さんの口癖は「源流対策」。例えば、音や振動は遮音ではなく元から絶つという原理主義を持ち込んだのです。ただし、オレはある雑誌にNVH(ノイズ・振動・ハーシュネス)だけを低減しても人は死なないって悪口を書いたけどね(笑)

清水 1989年は近代にとってとても重要な年ではないかな。
聞き手 というのは?
清水 日本車が欧州車にもっとも近づいた年だった。レクサス(セルシオ)だけでなく、日産からはR32GTRが開発され、ホンダはNSXを世に出した。スバルはレガシィが誕生しました。日本はバブルで自動車メーカーはイケイケだったけど、その反面、世界は大きなパラダイムの変革期を迎えていたのです。
聞き手 フムフム
清水 1989年は世界で大きな変化があったよね、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が終結して、それから中国では民主化を求める天安門事件が起きました。そして日本では昭和天皇が崩御し平成が始まったのです。つまりレクサスの誕生はこうした社会のパラダイムの変革期と無関係ではなかったと思っています。当時、日本に鋭い臭覚を持つ社会学者がいたら、自動車メーカーにどんなアドバイスをしたでしょうか?
聞き手 欧米流ではない、日本らしい高級車のあるべき姿を求めるという意味ですね。
清水 はい、アウトバーンで誰よりも速いというのがSクラスのプライドであって、その上での快適性が求められているのがヨーロッパの高級車だけど、革シートとウッドパネルを組み合わせれば高級車になる、ということではない。トヨタのアドバンテージであるトヨタ的な生産品質の良さとか、「お客様は神様」という日本的な一期一会のディーラーサービスを持ち込んだことでアメリカで成功を収めたわけ。
聞き手 ソフトウエアでは新しい文化をアメリカに持ち込んだということですか。
清水 アメリカでは人生で嫌なことの一つがカーディーラーに行くこと。エンジンオイルを交換するのも予約が必要でしょう。
聞き手 なるほど。
清水 レクサスはアメリカでの高級ブランドという意味だけではなく、トヨタが世界基準でクルマを作り、新しいディーラシップでクルマを販売スル大きなチャレンジだったと思う。だからトヨタという枠の中から脱出してレクサスという新しい自動車メーカーを誕生させるくらいの信念があったはず。そこが日産インフィニティとホンダアキュラの違いかもしれない。
聞き手 つまり、高級ブランドという看板を背負った販売チャンネルとしてのレクサスではなく、新しい高級車メーカー、レクサスが生まれる、ということですか?
清水 そう、全く新しいレクサスという高級車が誕生すると思って良いだろう。しかし、トヨタは大きな失敗を犯し始めていたのだけど誰もそれに気がつかなかった。その失敗は数年後に明らかになるのだけどね
Posted at 2012/08/05 00:07:11 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年08月03日 イイね!

LEXUS EPISODE

LEXUS EPISODE LEXUS EPISODE

レクサス誕生を振り返る

 レクサスのフラッグシップであるLSがビッグマイナーチェンジでアメリカでデビューした。新しいスピンドルグリルでセクシーさを増した装いで登場したLS460とLS600hは写真よりもずっとハンサムな顔付きであった。新型LSの試乗記は8月11日にインターネットのカービューと、26日売りのゲンロク誌でレポートするが、それまでは23年の歴史を持つ日本を代表するプレミアムサルーンであるレクサスの誕生エピソードを思い起こすことにする。ここでは少しだけ日本の自動車産業の近代史を紐解いてみよう。

 メルセデスベンツでさえ100年かかった高級車をレクサスはわずか20年で成功に導いた。その理由は探ることにしよう。1970年代以降、日本の自動車産業が急成長した背景には3つの大きな通過点が存在する。自動車業界に吹き荒れた3つの逆風、そのピンチをチャンスとしたことで日本車は成功した。日本のターニングポイントは1970年に訪れることになった。
 70年代初頭、世界の自動車メーカーの頭痛の種はマスキー法だった。環境問題に積極的に取り組む米国・加州のマスキー上院議員が提案した法律は大気中に含まれる排ガスの有害成分を10分の1に低減するという厳しいものであった。困ったのは自動車メーカー。その数値をクリアする解決策を持ち合わせていなかったのである。
 アメリカのビック3はこの規制は実現不可能だと法案の取り下げを要求した。その結果、マスキー法は有名無実化する可能性さえあったが、ホンダはCVCCシステムによって、世界で初めマスキー法をクリアすることに成功したのである。それまで2輪メーカーでしかなかったホンダは4輪メーカーとして米国で認められることになった。ホンダのサクセスストーリーはここから始まったのである。その後、トヨタや日産などが排ガス規制をクリアし、日本の自動車メーカーの実力が世界中に知らしめることになったのである。こうして一つ目の逆風は見事に乗り切ったのであった。
 
 追い打ちをかけるように2つめの逆風がやってくる。それはオイルショックであった。こんどは排ガスのクリーン化ではなく、ガソリンが使いたくても使えない危機が迫ったのである。当時の原油価格は1バーレル40ドル前後であったが、一気に80ドルへと急騰した。さらに石油の供給不安も重なって、ガソリンが高騰し、トイレット・ペーパーの買いつけ騒動などが起きた。それは他の国も同じで、特にエネルギー消費大国であるアメリカは深刻であった。ガソリンスタンドに数時間も並ぶような光景が各地で見られた。そういう状況では、大きくて重いアメ車よりも、小さく軽い日本車のほうが燃費に優れているのは当然だ。このオイルショックを契機に、日本車がアメリカで大ヒットすることになった。

 3つめの逆風はプラザ合意で起きた円高。でも本格的な円高は1970年代後半から起きていた。円が変動相場になったのは私が大学に入ったころの1973年は一ドル360円の固定相場から変動相場に切り変わり、円は一気に260円に高騰するがその後は300円前後で安定していた。某家電メーカーの輸出部に席を置いてサラリーマン生活がスタートした1977年頃から円が再び高騰しついに200円を切り180円まで登りつめた。会社からは輸出用オーディオ製品に千円札を貼りつけて売っていると経理部から揶揄されていた。その後は250円前後で安定するが、1985年のG5(先進国首脳会議)で決まった為替レートをドル安へ誘導する方針は急激な円高を招き、1986年には160円となった。
 この頃からアメリカで売れていた日本車も値上げすることになるが、安くて壊れないという評判の日本車の競争力がなくなった。その結果、ホンダはオハイオに工場を作ることを決意し、日本メーカーの北米進出第一号となったのである。
 こうした円高という逆風の中で、日本の自動車メーカーは海外進出だけでなくコストダウンにも努力し、結果としてコストパフォーマンスに優れたクルマを作り上げることで、逆に売り上げを伸ばすことに成功した。つまり、この3つの逆風をバネとして、日本の自動車メーカーは強くなっていた。こうして「排ガス規制・オイルショック・円高」という三つのサバイバルを見事に乗り越えてきたのである。

2000年頃の雑誌のインタビューで清水和夫が答える

清水 80年代後半になって、日本はバブル経済の中で世界中の資産を買い漁ったりしながら、地位を高めていった。そういう中で、自動車メーカーとしては世界に通用する高級車を作りたいという機運みたいなものが、生まれていった。そういう感じだった、あの当時はね。
聞き手 それが初代セルシオの誕生ということにつながるわけですね。
清水 しかしトヨタだけがそういうことを考えていたわけではなくて同じ時期に日産はインフィニティQ45という、漆塗りの高級車を出した。マツダも同じように、アマティというブランドでV8どころか、V12気筒を積んだ高級車の構想もあって実際に開発もされていた。
聞き手 そんなクルマもあったのですか!
清水 だからトヨタだけがレクサスを考えていたわけではないんだよ。日本の自動車産業全体が小型車からスタートして、世界に出て行って、次のステップとしてはV8の世界に行きたいというのは、自然な流れだったわけ。もっとも早くに高級ブランドを立ち上げたのはホンダでしたね。アキュラは1986年に北米で生まれました。レクサスは1989年のLS400(セルシオ)からですけど。

聞き手 でもちょっと疑問なのは、そもそも第2ブランドを作るというのは日本の自動車メーカーだけですよね? 例えばVWが大きくなっても、高級ブランドは出て来ないですよね?
清水 グループ内にアウディがありましたからね。とこころで、ブランドビジネスは家電の世界では辺り前なのです。日本国内はナショナルで、アメリカはパナソニック、さらに高級オーディオはテクニクスというようにブランドを使い分けていました。日本製品は大衆商品からスタートしてしたので、高付加価値商品を売ろうとすると、違うブランドであったほうが売りやすいのでしょうね。
聞き手 ステータスを確立するのに、トヨタブランドを進化させるよりも、ゼロかイチか、あたらしいブランドを作るほうがテッ取り早いということですか?
清水 おそらくマーケティングリサーチを含めて、そういう結果が出たのだと思います。アメリカではトヨペットで売られていたこともあるので、トイ・ペット(オモチャのペット)と聞こえやすいからトヨタ以外のブランドが必要だったと聞いたことがあります。
聞き手 それは単に高付加価値の高価なクルマを売るためにやりたかったのか。それとも、そういうクルマを作りたかったから第2ブランドが必要になったのですか?
清水 それは後者だと思うよ。エンジニアの崇高な想いで、クラウンを超える世界に通用する高級車を作りたかったというのが先にあって、それを成功させるための手法がレクサスだったということだよ。
聞き手 逆にいえば、それだけエンジニアの想いが入っていたということですね。

Posted at 2012/08/03 00:21:02 | トラックバック(0) | そうだったのか! | 日記
2012年07月31日 イイね!

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その7

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その7
四駆は曲がらない?

~~~~~前回のレビュー~~~~~~~~~~~~~~
加藤 エンブレムまで作っちゃうんだもん。
伊藤 まずは見方から騙さないとね。GTRのエンブレムを実物で見せたのは、発表の何ヶ月か前に、ディーラーの店主とか社長とかに見せる場でした。ディーラーを呼んで説明会を開きましたが、車種のところはGTX。クルマだけGTRのバッチが付いてる。
加藤 もう時効なので、現物おみせしようと
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

清水 四駆のスポーツカーの操縦性に苦労していましたね、最後まで曲がらなかった?
加藤 はぁ
伊藤 時間がなかったですね。四駆に決めたのが1987年ですから。四駆でやろうと思ったのですが、ミッションの設計部隊ができませんって言った。量産は初めてだしね。
清水 相当困りましたね
伊藤 とにかく耐久性が問題というなら、まずそれを確認しようとなりました。一応四駆で話を進めるけど、もしダメだという結果がでたら元に戻す。だからやれと「ゴー」をかけたのです。
清水 凄いチャンレンジですね
伊藤 死にものぐるいでした。そのときに同じような機構を持つ電子制御の多板クラッチがポルシェ959でパリダカとルマンに出場したのです。ポルシェも多板クラッチの耐久性で苦労しているというのは知っていた。こっちはもしダメならビスカスを使おうと思いました。そのためにスペースを25㎜くらい確保していました。
清水 センターデフに?
伊藤 そうです。だから市販車にもスペースが空いている。
加藤 関係者しかしらない秘密。
清水 保険かけた。
加藤 要はビスカスが隆盛を極めていた時代で、その時代と逆行するように、電気と油圧を使い重たいも乗せて、一体何のメリットがあるんだという人が社内にもいたのです。
清水 敵ですね。タイヤだバネだショックだというアナログのシャシー性能から一気にデジタルの世界に突入していったのですがセットアップはどうやって成し遂げたのですか。
加藤 全部自分でやるしかない。相談相手がいないしね。自分を信じるしかなかった。
清水 電子制御の操舵と駆動。ぐちゃぐちゃになりそうですね。
加藤 自分は最初からグチャグチャですから(笑)。エンジニアみたいに時間をかけてマトリクスを埋めていくのだったらいいのですが。
清水 勘でやっていたの?
加藤 そうですよ、時間もないし。そこは自分しか信じるものがなかった。伊藤さんも必死でしたからね。
清水 加藤さんが最後に悩んだところはどこなんですか?
加藤 リヤがステアして動いたのがわかる人がいると言われました。「オレにもわからないのにシロートがわかるかのかよ」って腹では思ったのですが、これを言われたらオレの負けだなって。自分も電子制御が効いている感じがわかるのは大嫌いですから。
清水 7thスカイラインのハイキャスは明らかにわかったよ。
加藤 アレはおれがやってませんから(笑)
清水 それをわからせないように自然なコーナリングを目指した?
加藤 そうです。ところが時間がなくて、カウンターあてる領域は見ていなかったのです。そしたら、試乗会のときに清水さんがドリフトして走っていてカウンターあてるとお茶目な動きするぞって言われました。
清水 雑誌NAVIに書きましたね。「死に馬に蹴っ飛ばされ感じだ」と。
加藤 参りましたね。
清水 先輩もいない、手本もない、論文もない、まったく新しい領域の技術だったので孤独でしたね。
加藤 はい。四駆のABSも初めて。忘れもしない、村山のバンクに入るときに、入り口で探るじゃないですかブレーキを。そしたら、そのままバンクを登っちゃったのですよ。ABSがバカになっちゃって。それを言ってもエンジニアが信じない。彼らのアタマの中にそんなことはあり得ないわけです。つまり全開のまま左足でブレーキを踏むと言うロジックがないわけですよ。それが四駆なわけで、余計にアタマがこんがらがる。「だったらおまえがヤレ」ってなりました。
清水 そこまでチャレンジした当時のモチベーションは?負けたくないという気持ちですか。
伊藤 そうですねゴールまでは責任を果たさないといけないという責任感です。
清水 ゴールとは欧州車と肩を並べるということですね。
伊藤 いや、抜くということ。だって90年に世界一って言ってしまったからはね。
Posted at 2012/07/31 07:31:50 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年07月23日 イイね!

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その6

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その6

~~~~~前回のレビュー~~~~~~~~
伊藤 エンジニアに直せっていっても直さないのです。なんやかんやと理屈を言って。
清水 当時の日産のエンジニアは理屈をこねる人が多かった記憶があります。
伊藤 結構いますね。そのエンジニアを怒っていたのです。相手の意見をチャント聞いておかないとね。
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設計部門と評価部門の意思疎通がスムーズに

伊藤 プリンスのときはホンネで議論していました。論争するときには職位の関係はなかったのです。部長だろうが課長だろうが新入社員だろうが。それは、中島飛行機の時代の精神が残っていたのですね。戦闘機はホントにいいものを採用しないと国が滅びるのですから。
清水 富士重工もそうですね。生きるか死ぬか、堕ちるか落とすか。
伊藤 そう言う風に叩き込まれていたからプリンスの血を受け継ぐ村山では技能員みたいな身分はなかった。日産でびっくりしたのは身分差があったのです。シャシー設計なのに課長と直接話をしたことありませんなんて。
清水 ホントにいいものとは何かってことでしょう。
伊藤 そう。それは本音でやる。社内の試乗会は嫌いなのだけどね。ぼくはいいけど、重役試乗会で「何々重役がこうおっしゃったとか」。僕はそんなの放っておけと言いましたよ。ドライバーが一番だと。そういう仕事をやらないと、R32みたいのはできない。
清水 なんでエンジニアをそういう風に教育しちゃうんでしょうかね。
伊藤 だから日産も1985年に久米さんが社長になって、社内を変えようといったときに、「~さん」と呼ぶことにしました。部長とか課長と呼ぶのをやめて。ぼくはもともとプリンス出身だったので、課長部長なんて言ったことない。だからやめましょうと。それくらいフラットな組織にして本音でやらないといけないと思いました。
清水 そこがポイントかもしれないですね。
伊藤 たとえばデザイナーもプライドが高いから、自分がやったデザインに文句を言われると素人が何言うのかって。だけどエンジン屋だって、実験屋だって、お客さんなのだから口を出していい。「自分がそう思ったら意見を言え」とみんなに言わせたのです。他の仕事に対して口だししろとね。エンジンなんて、こんなヘボイエンジンから、せっかく良い足を作ってもダメだとかね。こんなにエンジンが良くてもシャシーがコレじゃダメだとか。他人のところに土足で入って言い合いしました。
清水 いままではそんなことなかったですよね。やっぱり真剣に開発していたのですね。

R32の実験評価、雰囲気とか

加藤 やりたいようにやらせてもらったと思います。評価要素をたくさん描かされたという思い出はありますね。ポルシェ959、アウディスポーツクワトロ・グループB、10数年前に1000万円以上のクルマだらけ。あとはプジョー205ターボ16、ポルシェ944ターボは数知れず、ベンツは190の2.3リッター16。後はなにがあったかな?なんでも載せてもらったのです。ポルシェ911もあったしね。R32の開発にあたって、なんでも買ってくれた。959とかクワトロ、プジョーに乗れとね。「こいつら何を考えているのだろうか」と思ったことは覚えています。ポルシェ924、944,ドリフトやれと言われて、他の連中はみんなできない。こんなにやりやすいクルマないだろうって言ったら、お前見どころあるからきて運転しろとね。みんなはスピンする。オレはこんなにやりやすいクルマはないと思いました。結果は、バカ者扱いされてチームに呼ばれたのです。
清水 サスが全部変わってしかも四駆システムを装備して。
加藤 「これはタイヘンだなと」と。伊藤さんはオンロード四駆というイメージは持ってなかったですからね。生活四駆のちょっとスポーツ版くらいかな。それにしてもタイヘンだと。このクルマがGTRだなんて発表会まで知らなかった。写真なかったので、自分はGTXの開発担当者だと思っていました。
清水 GTRって知らされてなかったの?
加藤 はい。R32のハンドルって結構印象的なカタチで真ん中にGTRって描いてあるでしょ。オレが乗っていたテストカーはGTXって描いてあったのです。GTのトップモデルだけどGTRじゃないよとね。
清水 でもね、伊藤さん、なんで隠していたの?
伊藤 GTRっていうと、みんな興奮しちゃうから。いろんな情報も漏れたりするから最初からGTRは使わないつもりでした。
清水 GTXの「X」で「R」を隠したのですね。スバルのインプレッサと同じだ。WRXの「X」でWRCを隠したそうです。頭隠して尻隠さずw。
加藤 エンブレムまで作っちゃうんだもん。
伊藤 まずは見方から騙さないとね。GTRのエンブレムを実物で見せたのは、発表の何ヶ月か前に、ディーラーの店主とか社長とかに見せる場でした。ディーラーを呼んで説明会を開きましたが、車種のところはGTX。クルマだけGTRのバッチが付いている。
加藤 もう時効なので、現物お店しようと思ったのですけれど、出てこないんですよ。
Posted at 2012/07/23 13:27:55 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
2012年07月18日 イイね!

R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その5


R32GTRチーフエンジニアの伊藤さんとインタビュー その5

~~~~~前回のレビュー~~~~~~~~
伊藤 メカタイプは基盤技術の開発でしたね。
清水 電子制御四駆と四輪操舵のハイキャスしかもマルチリンクサスペンション
伊藤 そうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

新しいサスの開発をGO!

伊藤 それはR32の企画をするときに、絶対にサスは変えると決めていました。スカイラインの前はFF車を担当していましたが、CG(カーグラフィック)の小林さんから「ところで最近の日産は技術で遅れてきたんじゃないですか?」と言われたのです。当時は7thスカラインはフロントがストラットタイプで、リアはセミトレでした。
清水 トヨタとかホンダが新しいサスを開発しているけど、日産はいまだにストラットのセミトレで進化していない。
伊藤 清水さんにも言われましたね。走りはスカイラインで頑張っているよと。
清水 7thは頑張っていないですけど(笑)
伊藤 それがアタマにあったのです。ストラット+セミトレは70年台にでた3代目スカイラインのGC10から使っていました。
清水 他社も新しいサスをやっていたしね。
伊藤 僕もシャシー屋だから興味があったのです。だからサスは全部やる。四輪ダブルウィッシュボーンで。最初はマルチリンクじゃなかったですけど、途中からマルチリンクになりました。
清水 中央研究所で先行開発していましたね。
伊藤 リアのマルチリンクですね。実際に実用化したのはR32の前のローレルからでした。
清水 200Km/hの世界を考えると、セミトレはいろいろ問題があったのですね。
伊藤 とにかくリアのスタビリティを確保することを重視していました。たまたまベンツのリヤサスペンションにE型マルチリンクが採用されました。日産もコレだ!と思ってやったのです。リアはマルチリンク、フロントも同じようにマルチリンクにすると私が決めたのです。
清水 前も後のサスも新しくする。時間も3年しかない。その間に煮詰めると決心しましたのですね。失敗をおそれずに挑戦したわけですか。
伊藤 ぼくもいろんなクルマやらせてもらいましたけれど、途中からのリリーフが多かった。R32で先発完投は初めて。最初の企画から最後まで責任持ってあたりました。
加藤(評価ドライバー)伊藤さんが主管というのは安心感がありましたが、設計のエンジニアからはかなりおっかない方だったと思います。と言っていました。
清水 R32開発のときには伊藤さんは加藤さんにどういう指示をだしたのですか?
加藤 「オレはわかんないからお前の好きなようにしろと」。そう言われたらヤルしかないですよね。一番クルマに乗らない主管だったかもしれません(笑)
伊藤 アンタがいないときに乗っていたんだよ(笑)
加藤 私の前では絶対に乗らなかったですね(笑)
伊藤 日産はクルマの開発では組織の壁が強いのです。いわゆる部署間の壁というヤツですね。「あんたにそんなこと言われる筋合いはない」とか「ウチの部署の方針はこうだ」とか。実務的には実験部の中にでもドライバーがテストをし、それをエンジニアが聞いてから、私に報告する。
清水 ドライバーのとなりにチーママがいるのですね。
伊藤 ややこしいですね。伝言ゲームみたいに途中で意見が変わったり、ドライバーの意見がそのまま通らなかったり、ドライバーが何か言ってもエンジニアがオレの計算と違うと。
清水 設計エンジニアの色に染まるわけですね。
伊藤 そこで、栃木でエンジニアを集めて言ったのは、ドライバーの声は神の声だと思って聞けと。
清水 さすがです。
伊藤 エンジニアが自分の独断みたいなことでヘンなことでオレに報告するなと。必死にテストしているのは結局ドライバーですから。それまでははっきり言ってドライバーの発言力が弱かったのです。
加藤 というか厚木(設計部門)に呼ばれることがあまりなかったですね。厚木に行く機会が増えたのはR32からです。
清水 直接設計部門と何を話すようになったのですか?
加藤 評点は10段階なのでわかるでしょう。でも、コメントになってくるとエンジニアが通訳しないとわからない。ケツが流れたとか、リアの追従性が悪いとか、まあわかったような、分からないような言葉の伝言ゲームとなってしまいます。それが積み重なってくると、いつの間にか何がどうなっているのか、分からなくなりますね。伊藤さんはそれをキラってドラバーの話しを直接聞け!と設計部門に仰ってくれたのです。
伊藤 エンジニアに直せっていっても、直さないのです。なんやかんやと理屈を言って。
清水 当時の日産のエンジニアは理屈をこねる人が多かった記憶があります。
伊藤 結構いますね。そのエンジニアを怒っていたのです。相手の意見をチャント聞いておかないとね。
Posted at 2012/07/18 01:32:58 | トラックバック(0) | 感動シリーズ | 日記
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