さて、前回は午前中に散策した、『マイントピア別子 端出場ゾーン』 をご紹介しましたが、昼食を済ませた私達は、いよいよ マチュピチュに向けて出発です!!
あっ、東洋ネ!!東洋のマチュピチュです。
画像はホンモノですが・・・。(汗)
茶番は、それくらいにしといてっと・・・。
前のブログで勘違いさせてしまった方が居ましたらスミマセン・・・。言葉足らずでした。(滝汗)
東洋のマチュピチュと呼ばれる、天空の遺跡『マイントピア別子 東平(とうなる)ゾーン』へは、『端出場ゾーン』よりもさらに、山を登っていかなくてはなりません。
そこそこ綺麗で、軽く流せそうな山道を登っていくと、本道から反れて、さらに山を登っていくのですが、その分かれ道手前で何やら警備員が立って、クルマが沢山並んで大渋滞しておりました。
ん?
と、警備員さんが、『東平ゾーンへ行かれる方は、こちらの列に並んでお待ち下さい』と。
聞くに、この先の山道は、大変険しく細くて、対向するのが大変だとの事で、時間差で登りと、下りを交代で走らせているらしいです。
そう言えば、前日下調べでマイントピア別子に電話した際、交通規制をかける場合がございます。と言っていたのを思い出しました。
う~ん、そんなにヤバいのか???
と、内心ウキウキしながら待っていると、続々と下山してきたクルマがやってきます。
そうして、下山組みが途絶え、いよいよ登り組みの番です。
これ(以下の峠の写真)は、帰りの下山する際に撮った写真なのですが、まぁ、至って普通な峠道だなぁ~と思いきや・・・、
いきなり、悪路になってきて・・・、
道幅も狭く・・・、
こりゃあ、対向無理やで・・・、
ヘアピンカーブの連続・・・、しかも舗装もところどころボロボロで、超酷道・・・。
ホントは、画像以外にももっと狭く酷い道が沢山あったのですが、カメラマンが酔いそうとの事で、これぐらいの画像しかありません・・・。(汗)
しかし、昨年の、剣山の酷道以上でしょうか・・・。(滝汗)
これは、なかなかの酷道っぷりです。
もし、アコードで来ていたなら、確実に亀となり、身動きならない状態になっていた事でしょう。
けど、登りと下りを交代走らせていたために、対向の心配が無かったので、助かりました。途中バイクの対向が何台か居ましたけど・・・。
逆にGWの混雑で、交通規制がかかって、助かったってな感じです。普段交通規制無しで登ろうものなら、途中の対向でどエライ事に・・・。
ちなみに、中腹ぐらいで直線の対向できそうな道のところで、もう一度停車し、下り組を待ち、再び登っていきます。
っで、そんな酷道をひた登る事約30、40分(途中対向車待ちあり)、ようやく到着です!!
それでは、
『失われた空中都市』
『東洋のマチュピチュ』
と呼ばれた天空の遺跡、をどうぞっ!!
まず、到着すると山頂に到着しますので、遺跡を見降ろす感じになります。
遠くに、小さく街が見えるのが分かりますでしょうか?
標高約750mと、そんなに高くはありませんが、明治時代に、こんな山奥で採掘活動をされていたと考えると凄いものです!!
明治38年、こんな急斜面に貯鉱庫を作り、大正5年から昭和5年までの間、別子鉱山の採鉱本部が置かれ、社宅・小学校・劇場・接待館が建てられるなど、昭和43年に休止するまで鉱山都市として大変な賑わいをみせていたそうです。
信じられますか??このような辺境の地に、学校や劇場と言った娯楽施設まであったんですよ!!
また、この地に、約一万人もの住人が居たと言うのだから驚きです!!
この景色!!最高でしょ♪♪
こちらは、中腹ぐらいにある、索道基地 です。
索道はスキーのリフトのようなもので、椅子の代わりに大きな容器 (搬器、パケットと呼ばれた) が付けられていたもので、それに鉱石を入れて下の端出場 (はでば) に送る。東平から端出場への一方通行なので動力を必要としない。重たい鉱石が索道を下っていく力を利用し端出場からは生活物資が送られた。東平から黒石への索道が出来たのが明治38年 (1905年)、端出場へルート変更したのが昭和10年 (1935年)。索道の長さは3575メートル、ポストは26基。搬器の間隔は75メートル、搬器のスピードは秒速2.5メートル、一日の鉱石搬出量900トン。昭和43年 (1968年) の東平坑閉鎖に伴い廃止された。
らしいです。
レンガづくりで、何とも趣がります♪♪
こちらは、東平ゾーンを下り、下から見上げたところです。
では、索道場 の全貌をどうぞ!!
どうですかっ!!
この迫力!!
何やらピラミッドみたいな建造物でありますっ!!
ちょいと逆光で見づらいですが、正面から見るとこんな感じ!!
いやぁ、圧巻ですねぇ。ホントに、遺跡みたいです!!
こんなものが、明治時代より、こんな山奥でつくられ、鉱山都市として栄えていたんですよ!!
凄いですねぇ~♪♪
で、帰りはこの階段を登らなくてはいけません。
普段運動不足な私は、ぜぇぜぇと・・・。(滝汗)
ちなみに、当時はこんな感じで線路をワイヤーで引っ張られた台車が行き来し、鉱石や生活物資などを運んでいたようです。
こちらは、第三変電所で、明治37年から昭和40年まで使われていたようです。
この変電所も今となっては、大変貴重な遺跡と化してます。
こちらは、第三変電所の近所にある第三通洞です。明治27年 に開さくを開始して明治35年貫通し、明治44年には別子山村の日浦谷と東延斜坑底がつながり、別子山村と東平が全長四千メートルでつながったそうです。通洞内はかご電車というものも走り、戦後しばらくの間まで新居浜側と別子山村を結ぶ唯一の交通手段として一般人も利用していたそうです。
これらの他にも、娯楽施設の劇場跡地、小学校、保育所跡などの、当時1万人の方が生活されていた痕跡が多数見られます。
このような景色を堪能しながら、遊歩道をハイキングし、天空の遺跡を満喫できます。
他にも、東平歴史資料館や、東平マイン工房と言って、明治期に配電所、大正期は林業課事務所、その後は保安本部として活用されていた建物を利用した、お土産の販売や下の画像のような銅版レリーフなどを製作体験し、手づくりの楽しさを味わうことができます。
こちらが、そのマイン工房です。
そして、こちらが上のマイン工房にて、手作り体験させて頂ける、銅版レリーフです。体験は、 500円でできます。
と、ハイキングがてらに、歴史を学ぶには、持って来いの場所です♪♪
そうして、私達は日が傾くまで、東平ゾーンを満喫し、別子を後にしました。
皆さんもぜひ機会がありましたら、一度行ってみて下さい!!
癒しと浪漫??をもたらしてくれる、素晴らしいところです♪♪
ちなみに、ここに行く前に嫁さんに、私が何度も何度も『ここは凄そうや!!』『空中都市やで!!』『マチュピチュやで!!』と大騒ぎし過ぎたせいなのか???、
これらを見て、うちの嫁さんは、
『ふ~ん』と・・・、(滝汗)
『もっと、街が残ってるんかと思った』と一言・・・。
汗汗汗・・・。
まっ、女性には分かるまい、男の浪漫を!!(苦笑)
ってな感じの結婚記念日を過ごしたHONDAISMでした♪♪