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2017年11月18日 イイね!

朝日が他人のことを言えた義理じゃないだろう、・・(^。^)y-.。o○。




朝日新聞は18日付朝刊の社説で、自民、立憲民主、希望3党の所属議員に関し「犯罪者」と国会で述べた日本維新の会の足立康史衆院議員が発言を撤回、謝罪したことについて「その軽薄さに驚く。言論の府を何だと思っているのか」と断じた。

 
その上で、足立氏が過去に国会で他党に対する「アホ」などの発言を繰り返してきたことを挙げ、「一向に改めないのは、黙認する雰囲気が国会内にあるからではないか」と論評した。

 
足立氏が学校法人「加計学園」に関する同紙社説に関し「朝日新聞、死ね」とツイッターに投稿したことにも触れ、「意見や批判は、もちろん真摯に受け止める」と表明した上で「だが、『死ね』という言葉には、感情的な敵意のほかにくみ取るものはない」と重ねて主張した。

 
さらに、今回の足立氏の件を、安倍晋三首相が昨年夏の東京都議選の街頭演説会でヤジを飛ばされた際に「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と発言したことに結びつけ、「『犯罪者』『死ね』『こんな人たち』。国策に重責を担う政治家が論争の相手を突き放し、対立と分断をあおる」と批判した。




朝日がそんなこと言えた立場じゃないだろう。お前んとこの記事だってその軽薄さ、内容の偏向傾向、ねつ造など国家を貶めること夥しいだろう。偉そうなことを言うな。他人のことを言えた義理じゃないだろう。足立議員もちょっと品がないが、別に言っていることは間違ってはいない、・・(^。^)y-.。o○。

Posted at 2017/11/18 22:34:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 政治 | 日記
2017年11月18日 イイね!

「だんなデスノート」だって、・・(^。^)y-.。o○??




「一刻も早く死んでほしい」「地獄へ連れて行って」――。こんな過激な書き込みが集まるウェブサイト「だんなデスノート」の投稿をまとめた書籍が、宝島社(東京都千代田区)から刊行された。

書名は「だんなデス・ノート ~夫の『死』を願う妻たちの叫び~」。2017年10月27日の発売直後は、Amazonの本カテゴリの「家庭生活」部門で売上ランキング1位を記録するなど、その衝撃的な内容は大きな反響を集めた。

一方、ツイッターなどでは、夫を徹底的に中傷する書き込みが並ぶサイトを本にまとめたことについて、「男性差別的ではないか」と問題視する意見もみられる。はたして、書籍化の狙いは何なのか。J-CASTニュースが、担当編集者にインタビューした。

■サイトの中身は「ある意味でエンタテインメント」

――「だんなデスノート」というサイトを書籍化された狙いは、何ですか。

「最大の理由は、このサイトがテレビや週刊誌などで取り上げられるほどの人気サイトだったからです。『妻たちが夫の悪口を書き込むだけ』というある意味、他人にとってはどうでもいいと思われるテーマが人気となった。これは、日本社会の縮図ではないかと思ったんです。夫の悪口に賛同する人がここまで多いなんて自分の想像外だった。自分も結婚しているので、妻の不平不満はよくわかっているつもりですが、『夫の死を願う』とは驚きでした。それに、『ゲス夫』たちの所業があきれる内容のものばかり。ギャンブル、借金、風俗に浮気......ある意味、『見世物』として成立すると思ったからです」

「知人から、自分の妻がこのサイトを見て溜飲を下げているという話を聞いたんです。『自分の夫はここまで酷くない、うちはまだマシなほうだ』と。このサイトを知らない人にも読んでもらえれば、救われる既婚女性がいるんじゃないかと思ったんです。ある種の『実用書』になるのではないかと」

――書き込みの内容は、かなり過激ですが...。

「ハッキリ言って、書き込みの内容は本当かウソかわかりません。こちらは投稿者に会って、一つひとつのネタの真偽を確認しているわけではありませんので。だから『だんなデスノート』というサイトは、ある意味で『エンタテインメント』だと思っているんです。書き込むほうも、サイトを見るほうにとっても」

――サイトを見て、「そんなに嫌だったら離婚すればいい」と思う人も多いようですが、どう思いますか。

「離婚することはそんなに簡単なものじゃないですよ。シングルマザーになれば経済的な問題も出てくるし、子どもへの影響もある。離婚できる人はこのサイトに書き込まないし、見もしないですよ。離婚したいけどできない、離婚に不安がある人たちの救いの場であるわけで。アマゾンの書評でも『嫌だったら離婚すればいい』と書いている人がいますが、おそらく未婚の人だと思います。一度、結婚して子どもをつくって家庭生活を営んでみてください。人生は思い通りに、予想通りにいくことばかりじゃないですから。これが夫婦の現実だったりもするわけです」

――どの書き込みを紹介するかについて、サイトの管理人(ハンドルネームは「死神」)と相談しましたか。

「編集サイドです。管理人は一切タッチしていません。おおよそ1万件の書き込みを全てチェックして、こちらで決めました。ピックアップの基準としては、内容のリアリティを重視しました。あとは、読者がビックリするようなもの。書き込みにはほとんど手を入れていません」

男性差別との批判は「想像外でした」

――書籍化にあたって、ツイッターなどでは「男性差別ではないか」と指摘する意見もみられます。

「その視点は、まったくありませんでした。はっきり言って1ミリもなかった。指摘を受けて、初めて気がつきましたね。内容が内容だから、嫌悪感を抱く男性はいるかと思いましたが、『男性差別』という批判は想像外でしたね」

――タレントのフィフィさんも、だんなデスノートの書籍化について、男女の立場が逆だったら大変なことになるという趣旨のツイート(11月1日付)をしていました。

「男女の立場が逆だったら、笑いにならないでしょう。なんで逆が成立しないかと言えば、笑えないからなんです。この本は、笑えるじゃないですか」

――もう少し詳しくお願いします。

「逆だったら、つまり『夫が妻の悪口を言うと笑えない』というのは結局、『奥さんがかわいそう』『妻をいじめるな』という感覚を、自分も含めて多くの日本人が持っているからでしょう。これは、まだ日本が男性上位の社会だからではないでしょうか。男女平等、機会均等と言いながら日本はまだまだ男性社会です。政府が『女性が活躍できる社会を実現しよう』なんて、いまさら言っているのはその証拠。そういう社会的合意があるから、この本は通用している。だから、もし立場を逆にした本を出したら、単なる弱い者いじめと言われてしまう。夫を批判することが、強い者いじめという構図だから、本にできたんだと思います」

――確かに、サイトで夫のことを「死ね」と罵っている女性も、離婚という選択肢を取れていないですよね。

「そうです。結局のところ、話を突き詰めれば『別れたらいい』となるんです。でも、それを選べない妻がいる。それは、シングルマザーが経済的に自立できないことが大きいと思います。こうしたサイトが存在すること自体が、現在の社会が抱える問題を浮き彫りにしているとも考えられます」

――もし、「妻デスノート」というサイトが存在して、書き込みが盛り上がっていたら、書籍化しますか?

「やるかもしれません。批判は覚悟で(笑)」

オススメ読者は「独身男性」!?

――サイトの管理人の方とは、直接お話をされましたか。

「書籍化にあたって話はしました。彼は『ただの悪口サイトにしたくはない』と言っていました。単なるガス抜きだけじゃなくて、女性にとって建設的なことができるサイトにしたいと考えているようでした。悪意や金儲けだけを目的にしたサイトだったら、本にはしていなかったかも。こうした管理人の考え、人柄に共感したのも大きかったですね」

――だんなデスノートという書籍を出版したことで、編集部に苦情などは届きましたか。

「『男性を差別しているのではないか』という内容の電話が数件ありました。でも言いたいのは、我々がやったわけじゃなくて、このサイトが元々存在したということ。我々は、それを本にして色々な人に紹介しているだけです」

――ちなみに、約1万の書き込みから、書籍化にあたって129件まで絞り込みをされました。編集作業は、どんな気分だったんでしょうか。

「編集作業の大半は別の担当者に頼んだのですが、彼は『憂鬱になった』と。もちろん私も。でも逆に、結婚を考えている独身の人たちは読んだほうがいいかも。夫婦生活に変な理想を抱かなくなるというか」

――若い女性にはどうなんでしょうか。

(インタビューに同席した宝島社の女性が)「私、結婚しているんですけど、だんなデスノートを読んで仕事は続けようと思いました。自立はしておかなきゃって。仕事を続けていれば、それが夫婦生活の不満のはけ口になるかなって(笑)」

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171118-00000002-jct-soci&p=1

女と言う生き物はこういうことやりそうだよな。実際に死ねと思っているんじゃないだろうけど何かあったときのはけ口として「死ね」と言う言葉が出てくるのかも、・・。男はおめでたいのか、鈍感なのか、お人よしなのか、こういうことはあまり感じないのかもしれない。そうした切実な日常生活の不満が出てこないだけ男の方が恵まれているのかもしれない。でも「男でも作ってどこかに行ってくれないか」くらいがせいぜいかなあ。まあ男と女と言うのは全く別の生き物なので良いときはともかくこじれると修復不能な関係へと落ち込んでいくのではある。最近は男が女を殺す事件も多いが、逆も少なくないようだし、・・。しかし、見ているとおぞましいねえ、・・(^。^)y-.。o○。


興味のある人はどうぞ(↓)、・・(^。^)y-.。o○。

関連情報URL : https://danna-shine.com/
Posted at 2017/11/18 11:57:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | その他 | 日記
2017年11月18日 イイね!

あり得ないことが、・・(取り敢えず最終章)




男として生きていくことと女として生きていくこととどっちが良いかと聞かれたらちょっと困ってしまうかも知れない。

 
勿論生き慣れた男として生きる方が楽に決まっているが、今のような特殊環境でならば女として生きるのも悪くはないし、結構世俗の好奇心も満たされる。

 
ただし僕の場合良い方に条件が整っていたからそれなりに悪戦苦闘しながらも何とか生きられたのだが、ずっと前にも話したとおり、換わった相手が極めて仲睦まじい新婚家庭の奥様だったとか妊娠中だったとかあるいは舅姑に夫や子供に加えて挙句の果てには小姑付きなんて家庭だったらその日のうちに逃げ出す以外にはなかったかも知れない。

 
そうするとその日から生活の手段がなくなるので本当にのっぴきならない事態へと追い込まれていたかも知れない。

 
でもそんなことはどのように生きていても天国と地獄は紙一重なので必然的にこうなったのかも知れない。これもどんなに考えても分かるはずもないことなので考えるだけ無駄だろう。そして元の自分や佐山芳恵のことも。

 
女土方は元佐山芳恵に何かしら劇的な変化が起こって今のニュー佐山芳恵が誕生したとは思っているようだが、さすがに佐山芳恵の中身が男に入れ替わったとまでは客観的には信じられない様子だ。

 
でもそれも仕方がないだろう。逆に自分の身の回りで同じ事が起こったとしても人間の中身が入れ替わるなんてそんなことを信じるバカもいないだろうし、事実を突き詰めてあくまで真実を探ろうという極めて冷静客観的な人間もいないだろう。

 
結局、女土方の結論は自分にとって都合よく変わってくれたのだからそれでよしとしてそれ以上深くは考えないようにしようということらしい。

 
僕もそんなことを深く詮索されても答えることも出来ないし、事実を言っても心情的にはとにかく実際には誰も信じないだろうから詮索しないで済ませてくれることはありがたい。何と言っても僕は女土方を生涯の同志として信じ切っているのだから。

 
僕は最近こんなことを思うんだ。科学技術が発達し、高速交通手段やデジタルネットワークなどというついこの間までは思いもつかなかった通信網が張り巡らされ物理的に世界は狭くなった。どこにでも好きなところに行けるし金さえあれば何でも好きなものが買える。

 
それでも人の生き方というのは基本的に太古の昔からさほど変わっていないのではないかと思う。世の中のしきたりに従って人生の王道とまでは行かなくても枠の中で人に付かず離れずに生きていくことが求められるし、それが個人にとっても一番生き易いのかも知れない。

 
それでも中にはそんな枠など歯牙にもかけず蹴飛ばして自由に生きる者もいれば流れに逆らって生きようとする者、岸に這い上がって流れていく者を見ている者など大勢とは異なった動きをするものがいないでもない。

 
そんな彼らを変わり者だの頑固者だのと非難することは容易い。でもそんな彼らにもやはり止むに止まれぬ理由があってそうしているのだろうと思う。だからそんな人たちを見かけても集団の和を乱し他人に迷惑を掛けない限りそっとしておいてやって欲しいと思う。

 
そしてもしもそういう人間達が援助を申し出て来た時はそっと手を差し伸べてやれるような優しさを持ち続けることが出来れば良いと思っている。

 
僕のこの取り止めのない話もずい分長くなった。そしてこの他愛もない話に付き合っていただいたことを本当に心からお礼申し上げたい。

 
僕も女土方もクレヨンもテキストエディターのお姉さんも、そして紳士だけれどちょっと大人気ないところもある社長や男勝りだけれど意外に優しい北の政所様もきっとまた皆さんに出会うことを楽しみにしていると思う。

 
だからまたきっとどこかで皆さんにお目にかかる機会があると思うが、その時はきっと暖かく声をかけてもらえればとてもうれしい。僕たちもきっと皆さんのことを何時までも覚えているだろうから。そして笑顔であの時はありがとうとお礼を言いたいから。


Posted at 2017/11/18 10:41:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | 小説 | 日記
2017年11月18日 イイね!

長篠・設楽が原の戦いの真相は、・・(^。^)y-.。o○。




長篠の戦いは、織田信長が宿敵の武田軍を鉄砲隊の活躍で破った合戦としてよく知られる。しかし、ドラマなどでおなじみの鉄砲の3段撃ちや武田騎馬隊の突撃といった有名なシーンも、これまでの検証から虚構である可能性が高くなった。では、実際の戦いはどのようなものだったのか。佐藤優氏の「座右の書」を全面改定した『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「本当の長篠の戦い」を解説する。

■フィルムの中で輝き続ける「武田騎馬隊」の勇姿

日本映画の巨匠、黒澤明による1980年の公開作品『影武者』。そのクライマックスで描かれたシーンが、天正3(1575)年に行われた「長篠の戦い」です。果てしない荒野を土煙とともに敵陣へ疾走する武田騎馬隊の荘厳な姿は、これぞ黒澤映画の真骨頂といえるでしょう。現代ではしばしば用いられるCG技術に頼らず、膨大な数のエキストラを動員して構成された迫力の実写映像は、まさに圧巻といえます。こうした映像作品も含め、私たちが「長篠の戦い」と聞いてまず思い浮かぶのは、「織田信長が3000挺の鉄砲を使った『3段撃ちの新戦法』を発明し、『戦国最強の武田騎馬隊』を打ち破った」というエピソードでしょう。

かつては学校の授業でも「長篠の戦い」は、武田信玄の時代に全盛を誇った「騎馬隊」という旧式の戦法が、鉄砲を中心とした「新たな戦法」に敗れた歴史的事件で、中世から近世への転換点であると位置づけていました。ただ、こうした認識は現在では変わっており、「長篠の戦い」へのさまざまな検証から、これまで史実とされてきた「織田信長の3段撃ち戦法」や「武田騎馬隊」も含め、「実際の戦いの様相」はかなり異なるものだった可能性が指摘されています。それどころか「最新の日本史」では、従来、広く一般に信じられてきたことのほとんどが、実は史実とは言い難いことがわかってきています。今回は、こうした最新の研究動向から「長篠の戦い」の実像について解説します。今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

■「小説」が「史実」として広まった

Q1. 「長篠の戦い」とは何ですか? 
 
天正3(1575)年5月21日に三河国長篠(愛知県新城市)で行われた、「織田信長・徳川家康の連合軍」と「武田勝頼」による合戦です。両軍の総数は、織田徳川軍3万、武田軍1万5000とされていますが、諸説あり、実際の数ははっきりしていません。戦場は長篠城と設楽原(したらがはら)地域の2カ所で、鉄砲のエピソードで有名なのは設楽原での戦いです。
       
Q2. 戦いのきっかけは? 
 
「徳川家康と武田勝頼の、北三河地域をめぐる攻防」です。武田信玄の死去後、徳川家康は「北三河地域を武田氏から取り戻そう」と、奥三河の要衝である長篠城を奪還します。これに対して武田勝頼は、長篠城を三河侵攻の橋頭堡とすべく攻略に向かいます。徳川家康は長篠城からの救援要請に応えて軍勢を派遣するとともに、同盟関係にあった信長にも出兵を依頼し、「織田徳川連合軍」という形で武田軍に対峙しました。

Q3. これまでの認識では、どのような戦いだったのですか? 
 
織田徳川連合軍は、武田軍の得意とする騎馬隊による突撃を「馬防柵(ばぼうさく)」で食い止め、横1列に1000挺ずつ3段に分けた鉄砲3000挺で一斉交代射撃を行って、武田軍を撃退したというストーリーが有名です。

Q4. この話がなぜ疑わしいのですか? 
 
これは、江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵(おぜほあん・1564~1640)による『信長記(しんちょうき)』に書かれているストーリーです。ただ、『信長記』は戦いから数十年を経たあとに書かれた「小説」で、当事者または同時代に残された記録(一次史料)ではないことから、「信憑性に問題がある」とされているのです。

Q5. 内容的に正しい史料はないのですか? 
 
信用できるものは多くありません。「最も史料的価値が高い」と考えられる信長の書状などには、残念ながら戦いの顚末は詳しく書かれていません。そうした中で、信長の家臣だった太田牛一(ぎゅういち・1527~? )が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は、記述に具体性もあって全体的に正確であるとされ、誤りも幾分あるものの、「現時点では最も信頼できる史料」と考えられています。

■「1000挺一斉射撃」は荒唐無稽だ

「長篠の戦い」について、近年では『信長公記』や現地での発掘調査の結果なども基に検証が行われ、これまでとは「異なる解釈」が行われるようになっています。

【新事実1】鉄砲の数は「3000挺」ではなかった
 
戦場となった設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3000挺もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。そもそも3000という数は、小説である『信長記』に記されている話です。『信長公記』には、信長は各部将から少しずつ銃兵を集めて1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したと記されており、実際には「3000よりも少なかった」と思われます。

【新事実2】3段撃ちによる一斉交代射撃はなかった
 
いわゆる「3段撃ち」のエピソードも、やはり小説である『信長記』に書かれた話です。突撃してくる武田軍に対し、信長が「敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。1町(約100m)まで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て」と命じる場面があり、この内容が基となって定着しました。ただ、信頼できる史料では「3段撃ち」については一言も触れられておらず、『信長公記』でも、鉄砲を「さんざんに」撃ちまくったとあるのみです。一方、武田軍についても「新たな見解」が提示されています。

■騎馬隊という幻想

【新事実3】「武田騎馬隊」の活躍はなかった
 
この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍(やり)、弓などの兵を集め、戦場でもこれらの兵種が混在した形で集団行動をしていました。これは武田氏でも同じです。つまり、「騎馬隊」と呼べるような兵団は存在しませんでした。さらに、当時の軍役から兵種を分類してみると、「武田軍の騎兵の割合は全体の1割程度」だったこともわかっています。ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は、体が小さい種類でした。現代のサラブレッドは体高がおよそ150~170cm超ありますが、当時日本にいた馬は120cmほど。今でいう「ポニー」に近い体型でした。

【新事実4】「戦いの舞台」は、広大な平原ではなかった
 
「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原は、「原」という地名からは開けた場所がイメージされます。しかし戦場となった場所は、南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川(連吾川)が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠いロケーションでした。

【解釈5】両軍は「平地」で戦っていなかった
 
決戦時、織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していました。特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀(からぼり)や土塁、切岸(きりぎし)を築くと、全体に柵(さく)をめぐらせ、高低差を利用して武田軍を迎えました。そのため、この戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というよりむしろ「城攻め」に近く、馬での戦闘には不向きでした。

Q6. ところで、最初の目的だった長篠城はどうなったのですか? 
 
信長が派遣した別働隊により、設楽原での決戦の日に救援されました。決戦の前日、信長はひそかに自らの親衛隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、翌日の設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救いました。これで、織田・徳川連合軍の当初の目的だった「長篠城の救援」は達成されたうえに、設楽原でも「武田軍本隊に壊滅的な打撃を与える」という思わぬボーナスが追加されたため、勝利の印象がより鮮烈なものとなりました。

■「新たな史料の発見」で日本史は大きく変化している

戦国時代後期には、鉄砲が戦場での主要兵器となり、「合戦の様相」はそれまでとは大きく変わりました。信長はこの鉄砲にいち早く着目し、鉄砲の力で天下統一を目指したことは間違いありません。ただし、彼の前に立ちはだかるライバルたちも、鉄砲を手にしていました。なかでも大坂の石山本願寺は、鉄砲の製造と使用に秀でた雑賀衆(さいかしゅう)とともに激しく抵抗を続け、信長はその攻略に11年もの歳月がかかったことで、道半ばで生涯を閉じる結果となったのです。

日本史では「新たな史料」の発見や研究の成果により、しばしば「史実」が置き換わっています。教科書でそれまで「常識」とされていた内容でも、変更や削除、まったくの新事項の追加が行われています。特に「最近の記載の変化」は目まぐるしいものがあります。今回の「長篠の戦い」のように、「かつて学校で習った日本史」と「最新の日本史」では、実態が大きく異なるケースが多々あります。ぜひ「最新の日本史」を学ぶことで、その違いを実感しつつ、「大人に必要な教養」までいっきに身につけてください。




長篠・設楽が原の古戦場は何回も行って見てきたが、東西を低い山地に挟まれて中央に川が流れる幅が200mくらいの低湿地、現在は水田、で馬が駆けまわったりするような場所ではない。織田・徳川連合軍は西側の低山地に野戦陣地を作って柵を設けて侵攻してくる武田軍を迎え撃ったようだ。織田方の鉄砲の数は3千丁から千五百丁まで様々だが、甫庵信長記にあるように三段撃ちが行われたかどうかは明らかではない。甫庵信長記は徳川幕藩体制が確立されてからの物語で面白おかしく書いてあるし、徳川への配慮もあるので歴史資料としては信用性が低いらしい。信長さんと光秀君の確執もここから出た創作だし、信長さんが狸の奥さんと長男を殺させたというのも神様になったタヌキが奥方や息子を殺したのではよろしくないということで事実を枉げたそうだ。実際はタヌキが自分の言うことを聞かない奥さんと長男を理屈をつけて殺したらしい。話は戻るが、信長公記にも一日中銃声が鳴り響いていたとあるし、武田方の主だった武将は馬防柵の手前で多く討死しているので川を渡って低湿地を侵攻してくる武田軍を織田方が銃撃で殲滅したのは事実のようだ。当時の鉄砲隊は大体100人くらいを足軽大将が率いていたそうなので射撃順序を決めておくということもできたかもしれない。織田軍は柵から出るなと言う指示が徹底されていたそうだが、徳川軍は柵から出て武田軍と白兵戦を行ったそうだ。それにしても場所が狭くてあんな猫の額のようなところに5万もの部隊がいたのか、それもちょっと不思議ではある。それを言うと関ヶ原もそうだが、・・。信長さんが鉄砲などの長距離火力を重視したのは尾張勢が白兵戦に弱かったからと言う説もあるし、兵を失うのを嫌ったからと言う説もある。武田軍も鉄砲はあっただろうけどあまり重要視されず、帝国陸軍のように白兵突撃が重視されたのは兵自体が強兵でそれに自信があったからだろう。信長さんは装甲船や重火器を使って毛利水軍を撃破したりしているが、本願寺との戦いでは雑賀の鉄砲隊にずいぶん痛い目を見たようだ。本願寺包囲戦に攻城砲なり大型の重火器を使ったら結果も変わったんじゃないかと思うが、佐久間君はそう言う知恵が出なかったんだろうな。長篠・設楽が原の戦いでは鉄砲はあまり使われなかったんじゃないかとか、さほどの大きな戦いはなかったんじゃないかとか、いろいろ言われているが、武田軍が崩壊寸前まで撃破されているのでやはり鉄砲を使った大掛かりな戦があったんだろう。でもここが戦場と言う場所を見ると「え、こんなに狭いところなのか」とは確かに思う場所ではある。最近は歴史も随分と見直されていて昔の知識など通用しないところもあるが、新事実が出てきて過去が明らかになるというのもなかなか興味深いものではある。
Posted at 2017/11/18 10:36:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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