久しぶりに幕末ネタで一筆。
「維新碑探訪 長州人の生きた道」で、今年5~6月と2ヶ月にわたって紹介されたのは、
高杉晋作。長州の志士達の中でも、松陰先生と並んで人気の志士です。
晋作が生まれた高杉家は、大組と言われる上級家臣。200石取りだそうで、長州藩士の
中でもお金持ちのほうです。ご近所の先輩桂小五郎も同じく大組で、石高は150石ですが、
実家の和田家は繁盛していた裕福な医者で、松陰先生への差し入れや倒幕活動に湯水の
ようにお金を使えたという話があります。
ちなみに貧乏藩士の家としては、松陰先生のご実家の杉家が26石取り、下士に相当する
無給通という位になります。大人1人が1年間普通に暮らすにはだいたい20石くらいの給料が
必要になるという説から想像すると、200石はそこそこの高給取りで、杉家の場合は
一家総出で野良仕事をしなければ食っていけないということもよくわかります。
晋作のスゴいところは、将来高給取りのエリートへの道が約束されているのに、自ら進んで
世の中をひっくり変えそうとしたところです。他の志士たちが、貧乏で食うに困っていたり
虐げられてきた世の中を変えようとするのはとても共感できますが、既得権を自ら捨てて
革命活動に乗り出した志士は、長州藩の晋作と小五郎だけじゃないかと思ってます。
そういう自由かつ破天荒さが晋作の魅力。坂本龍馬と通じ合うところもありますね。
この2人はお互い意気投合して、親密な関係だったそうで、龍馬は刀を抜くことをせず、
晋作からもらったピストルを護身用に使ったというエピソードもあります。
ただ、龍馬は脱藩して藩とは関係なく一個人として活動したのに対し、晋作や小五郎は
長州藩を背負うエリートとして行動したということはもっと知られていい事実だと思います。
自由奔放な生き方のイメージがある晋作ですが、藩主親子や周布政之助、小五郎には
頭が上がらなかったと言いますし、「
ノブレス・オブリージュ」という言葉で幕末を見ると
晋作や小五郎にあてはまるのではないかと思わることがしばしばあるのです。
とはいえ、晋作は暴れ牛と称されるくらい、御しがたく、決断と行動が圧倒的な人物でした。
まさに松陰先生の「狂」の部分を受け継いだ後継者だったのです。
晋作の維新における功績を上げるとしたら次の4つですが、そのいずれも狂をはらんだ
決断力と行動力がなければ成し遂げられなかったでしょう。
1.上海留学と軍艦購入
晋作は、長州藩の志士たちの中で最も早く海外留学に出かけてます(1962年文久2年)。
しかも長州ファイブのような密航ではなく、幕府が企画した留学です。
ちなみに小五郎は、松陰先生が密航を企てる頃には既に藩に留学を願い出ていますが
当然却下されてますし、晋作や長州ファイブが留学できる頃には藩の重役に就任してるので、
結局行けませんでした。明治の世になってようやくその夢が叶ったわけです。
で晋作の留学そのものは、問題児だった晋作の厄介払いだった面もありますが、欧米が
アジアの国を植民地化していく現状を直接体験した衝撃は大きく、帰国後長崎でオランダの
蒸気船を藩に無断で2万両で買う約束をしてしまいますwww
(大雑把にいって、武士の給料1石=1両と考えると、晋作の高給年棒の100倍です!)
結局、藩でお金が用意できなかったため、この話は流れてしまいますが、その4年後の
慶応2年、第二次長州征伐がはじまる直前に、今回もまた藩に無断で3万6千両で蒸気船
を購入、その船で長州に戻って来てますwwwこれに驚いた小五郎や井上聞多が藩に
かけあって支払いを済ませました。払えた藩もスゴイですけど。
2.4カ国連合艦隊との講和交渉
天皇と幕府の間に結ばれた攘夷決行の約束を唯一実行した長州藩ですが、そんな無法
行為に黙っている外国ではありません。ただちに報復攻撃を行い、さらにダメ押しに
英仏米蘭の連合艦隊が総攻撃をかけ、あっという間に下関が占領されてしまいます。
この時の講和交渉を任されたのが晋作。ハッタリを駆使して、負けた癖に偉そうな態度で、
外国の要求をはねのけます。大河「花神」での名シーンです。通訳を務めた伊藤博文が
あっけに取られたというところも面白いですよ。外交はこれくらい図々しくないといけません。
結局賠償金は幕府に払わせるという奇策が成功。これの支払いで幕府はますます弱体化
するわけで、まさに起死回生・一石二鳥の一手でした。
また、彦島を外国の占領地とすることは断固拒否。下関が第二の上海となることを
未然に防ぎました。現代でも領土問題に悩んでいる日本ですが、余計な火種を
抱えなくてほんとに良かったと思います。
3.功山寺決起
藩内クーデターに成功したことです。第一次長州征伐と外国からの報復でボロボロの
長州藩では、なんとしても存続のためには幕府に恭順するしかないと考える幹部が
藩を掌握、小五郎・晋作ら倒幕派は命を狙われます。倒幕派をサポートしてきた重役
周布政之助は切腹、井上聞多も襲撃されてしまいます。
小五郎が出石・城崎に潜伏してた頃、晋作も福岡に逃げていました。しかし、大恩ある
政之助の切腹の報を受け、藩内クーデターを決意、下関に戻り周囲の反対を押し切って
功山寺で挙兵したのです。味方は伊藤博文の力士隊以下84名。これで2000人以上と
言われる藩正規軍と戦って勝つのだから、凄い。日本史に残る名戦の一つでしょう。
この結果、恭順派は粛清され、長州藩は倒幕へ一気に舵を取ることになりました。
ちなみに、俗論派VS正義派という呼び方が一般には知られていますが、自分はこの
呼び方には少々抵抗がありますので、恭順派VS倒幕派という言い方にしてます。
4.第二次長州征伐(四境戦争)
晋作のクーデター成功後、桂小五郎が新しいリーダーとして迎えられ、軍師村田蔵六の
もとで、軍制改革が進みます。薩長同盟が成り、新型兵器も揃い、いよいよ幕府軍を
迎撃する準備が整いました。
蔵六(この頃はすでに大村益次郎ですが、自分は蔵六が好きなのでこちらで統一します)
の作戦は、周防大島の防衛を捨ててその分の戦力を長州藩本土の防衛に回すというもの
でしたが、大島が幕府軍に占領された報を聞いた晋作は、1.で購入した軍艦「丙寅丸」で
夜襲をかけ、大打撃を与えます。大島奪回自体は、このあとで別の戦いによるものですが、
幕府軍に大ダメージを残し、その後の長州軍の士気を高めた功績は大きかったと思われます。
そしてクライマックスが小倉口での戦い。勢力で勝る幕府軍を圧倒し、火を放たれた
小倉城は、幕府の凋落を印象づけるのに十分なものでした。
こうしてみると晋作は、
久坂玄瑞に引き続き長州藩を倒幕へと導き、その勢いを加速させた
人生だったと言えるでしょう。その行動原理は、松陰先生の仇討ちだったのかも知れません。
晋作が維新を生き延びたら、どういう世の中にしたかったか、どういう生き方をしたのか、
そこのところははっきりとした定説はないようです。
例えば竜馬なら、世界を股にかけた商売に乗り出したでしょう。
小五郎なら、日本にいち早く民主主義を広めたかったでしょう。
晋作のビジョンは晋作にしかわからず、凡人は想像するしかないのでしょうね。
あの有名な辞世の句から。。。
このブログの「幕末関連記事」バックナンバー
松陰先生
近藤勇
鍋島直正
桂小五郎と薩長同盟
久坂玄瑞
吉田松陰と安政の大獄
江川太郎左衛門英龍
桂小五郎と恵美須ヶ鼻造船所
毛利敬親
久坂玄瑞
松下村塾出身の技術者たち