例年、年末なり年始なりにご挨拶の記事を書いてきましたが、今年に関しては大晦日に総括せざるを得ないと思い、非常に珍しく休日のこの時間帯にPCに向かっています。
毎年私は「あたなにとって最良の一年となりますよう」と幸運を願う文言を述べてきました。
しかしどうでしょう、この2011年という年は本当に、本当に酷い年になってしまいました。
あまりにも色々なことがありすぎて、いくつかの月の記憶がゴッソリ抜けてしまっているほどです。それでも「こんなことがあったよね」と言われれば思い出すのですが、時期や順序が曖昧になっています。
3月11日、私は普通に職場で仕事していました。金曜の午後の私は、15時からの会議に備えてデスクに向かっていました。
14時46分を少し回った頃、事務所がグラリと揺れ、それはやや大きい揺れではありましたが、私はそのままPCに向かっていました。しかし、十数秒後でしょうか、揺れは次第に大きくなり、私の頭上には落ちてきそうなものは何もありませんでしたが、神棚の飾りが今にも落下しそうな揺れとなり、そこで私ははじめて「大変なことが起きている」と感じ、デスクに備え付けのヘルメットその他安全保護具をフル装備し、次の行動に備えました。
まず私が行わなければならなかったのは私の職場のプラントが破損していないかどうか、です。多量のガスや可燃物および薬品を取り扱う職場ですから、設備や配管の破損による漏洩は大事故に直結します。余震が続き時折身の危険を感じながら設備の上から下まで隅々まで点検してから屋外へ避難しました。
その時点で、近隣の工場から黒い煙が立ち昇っているのが確認できました。しかしそれは停電によって排気が上手くいかなくなってのことで、爆発等の異常はなかったようですが。
少し経って、本震による被害がないことが確認され、社員はみな事務所へ戻りました。そして、宮城で震度6強(まだ7の情報はなかったと思います)の情報が事務所内を駆け巡った刹那、窓の外で爆発音が響きました。コスモ石油のガスホルダーが爆発炎上したのです。1回目の爆発は音しか感じず、一応屋外へ出てその状況を撮影しましたがかなりの黒煙は立ち上っていましたが炎はよく見えませんでした。
しかし、事務所へ戻ってしばらくすると、窓の外がカッと赤くなり、事務所内に居るのに顔に熱えを感じました。そして次の瞬間、これまで聞いたこともない爆発音が轟き窓ガラスが激しく震えました。コスモ石油の2回目の爆発でした。爆発はその後2回起きましたが、この2回目の爆発は本当に核攻撃でも受けたのかと錯覚するほどのもので、それまで40年強の人生の中で感じたことがなかった恐怖を感じました(その数秒後に「これはガス爆発によるファイヤーボールだ」と気付いて我に返るのですが)。
近隣の工場で災害が起きた場合、全く別会社であっても応援に駆けつけることがあります。私はその場合に備え完全装備を解かないまま行動していました。夕方には津波到達が予想されていたので、近隣で最も高い架構によじ登り、少しだけ見える海面の上がり下がりに注視していました。幸い実害はなく済みましたが。
その時点で自宅の妻と連絡は取れており、人も猫も家も無事で水だけが出ないことは分かっていました。また、電車も全て止まっていることは分かっていたので、夜遅くになってから社有車で、なるべく内陸のルートを選んで帰路に着きました。飲料水確保のため、会社にあったボトルウォーター12リッターを1個と、身の回りに合ったあらゆるペットボトルに水道水を詰めたものを載せて。
浦安へ帰るにはどうしても一度海岸沿いへ出なければなりません。その時点で相当の時間が経っており、津波リスクは低いと考え、カーナビ非装備の社有車で海沿いへ出ると、海浜幕張辺りは液状化で噴出した泥が道路に堆積していました。この時点で、浦安周辺の壊滅的な状況を覚悟するに十分な状態でした。もっとも、会社を出るときには「新浦安駅前が酷いことになっている」との情報を得てはいましたが。
習志野の海沿いは全て停電し信号機も街灯も消えて真っ暗でした。そんな中、皆「とにかく帰る」という同じ目的で車が渋滞していました。何十分も、1mmも動かないような渋滞です。しかし、交差点では皆譲り合い、ホーンを鳴らす者など一人も居ませんし、路肩を走行する者も居ません。皆、静かに行動していました。
車中ではずっとNHK-FMを聴いていました。鳴り止まない緊急地震速報、被災地の壊滅的な状況を伝えるニュース、そして福島第一原子力発電所が全停電し電源車を派遣中との報も車中で聴きました。絶望的な情報が次々入ってくる中、泣き出したいのを堪えてハンドルを握り、通常1時間15分のところを6時間半かけて自宅へ帰り着きました。
3時間程度しか眠れず起きた震災翌日の朝、実は3月末に入居する予定だった新居の様子を見るため妻と出かけました。新しいマンションなので建物は無事として、駐車場や外回りはいくらか被害を受けていましたが、入居に支障はありませんでした。しかし周辺道路は液状化のため凸凹で泥が至る所に堆積し、マンホールもあちこちで浮き上がっていました。そのあたりは報道でご存知の通りです。
その時点で新居は断水していましたが、元の家も断水中のため、妻と猫は妻の実家へ疎開させ、私は一人で6日間の断水の中生活しました。朝夕には水汲み、通勤は社有車、洗濯と風呂は職場でできましたから、被災地浦安の住人の中ではかなり恵まれた環境で過ごせたと思います、まして、東北の皆さんと比べたら私の苦労なんてちょっとしたアクティビティのようなものです。
3月の下旬、千葉県北西部の水道水から放射性物質が検出されました。人間はまぁ40歳を過ぎてそう色々心配しても仕方ない年頃ですが猫はまだ子供です。そもそも小動物ですから、人間が飲んで問題ないようなものでも心配ですから、それから暫くの間は猫の飲み水に非常に気を使うこととなりました。一般のミネラルウォーターは飲ませられませんから、当初は妻の実家の井戸水を、その後は硬度が低い軟水ボトルウォーターを買って与えました。その対応は、つい先月まで続けました。
そして、私の中ではこの震災による「特別な対応」は終了しました。
しかし、東北の被災地の復旧復興にはまだ道険しく、原発も一向に収束の目処が立たず、今も放射性物質を撒き散らせています。
決して忘れられない年になってしまいました。
その他、個人的にも最悪の1年と呼ぶに相応しい状況はありました。老朽化したプラントが駄々をこねてほぼ2ヶ月間ロクに休めもせず「過労死」の3文字が脳裏を過ったこともありました。忘れかけていましたが、台風の直撃により新居の外構が破壊され、マンション全体として数千万円の被害となったのも今年の出来事です。
その他、自然災害や世界情勢については省きますが、これほど重大な出来事がひとつの年に集中して起きるなどということがこれまであったでしょうか?
実は私は今年が厄年でした。本当に酷いことになってしまいました。どうしてこんな目に遭うのだと嘆いたのは5回や6回ではない、散々な年でした。
来年は、どう考えても今年ほど様々なことは起きないと思いますが、今年起きた様々な「状況」は、現在もリアルタイムで進んでいます。
今年起きた様々な状況は、10年も20年も忘れることはないし、決して忘れてはならないし、何十年何百年先の子孫に語り継がねばならないと思っています。
大晦日ということで、頭の整理も含め少し書き出した格好になりましたが、未だ何も問題は解決していません。今年の私はこれまでの人生の中で最も色々なことを考え、絶望的な状況の中でも決して絶望することなく「生き抜いた」と自負しています。来年も、新たな状況が生まれずとも苦難は続くでしょう。しかし、絶望せずにやれると思います。
私にはその程度の能力はあることが、今年ハッキリと分かりましたから。
皆様、来年も負けずに生き抜きましょう。
本文は推敲していません。
間違いや言い回しがおかしい部分もあるでしょうが、今年の〆の言葉として嘘偽りないものであることをご理解頂きますよう。
Posted at 2011/12/31 20:43:45 | |
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