
先日、職場の先輩と「三菱重工名古屋航空システム製作所資料室」という長ったらしい名前の施設に行ってきました。目的は零戦をこの目で見ること。
この施設、決して誰でもウェルカムという性格の施設ではありません。やはり資料室は資料室。
「見たいの? じゃあ、見せてあげてもいいよ。」
てな、中途半端な施設です。
見学は無料ですが、予約が必要。開館は月曜と木曜のみ。ええ、遅い夏休みを取って行って来ました。
駐車場にクルマを停めて、守衛さんに予約した名前を告げると「あっちです」と指さされるんですが、あるのは屋外の小さなドア。鍵のかかったドアの電気錠を外してもらって入ります。歓迎ムード全くなし。敷地内の細い道を進むと、おお、歴代の三菱重工製の戦闘機達が。
奥から、F-86F、F-104、T-2。右端は切れてますが海自のHSS-2です。
代表して、以前に「箱を開けたら」で紹介した縁もあるから、F-86Fのアップを。
いずれF-4も並ぶことになりそうですが、この土地ではそのスペースはなさそう。しかし、ここはこれから入る資料室と社員用のグラウンドに挟まれていて、普通の人から見えそうも無い場所。これも資料ってことか?
資料室の建物の入り口にも鍵がかかっていまして、それを開けてもらうと真正面に見えるのがトップ画像の零戦。
零戦の第一印象は、意外にデカイ。もっと小柄な戦闘機かと思ってました。
この零戦はミクロネシアのヤップ島に放置されていたものを復元した機体です。
機体に取り付けられていたプレートから、三菱製であることが分かり、三菱重工が復元に乗り出したわけですが、もしそれが中島飛行機製だったら、そのまま放置だった可能性もありますね。
(零戦は全て三菱製だと思っていらっしゃる方も多いと思いますが、数の上では中島飛行機で作られた零戦の方が多い。)
発見された時点で製造から40年経っていたそうですから、朽ち果てていた部分も多かったようですが、使えない部品は図面を元に全て忠実に復元したと、案内してくれた三菱OBの爺さんが胸を張っていました。
因みに、この脚はオリジナルの部品がそのまま使えたそうです。
他にも細部の写真があります。興味のある方はどうぞご覧ください。
零戦(1)
零戦(2)
ただね、この零戦、気になるところもあるんですよ。製造元である三菱重工が図面を元に復元したんだから、ただの模型ファンが文句を付けても何の価値もないのかも知れませんが。
まずは、脚収容庫の色。
この機体は脚収容庫内も機体下面色で塗ってあります。零戦のキットを何度か作ったことがありますが、この部分はたいてい機内色(機体の内部に塗る青みがかった色)の指定です。
上の画像は箱根にあった零戦の復元機の画像ですが、脚収容庫内は機内色で塗られています。
その疑問を案内の爺さんにぶつけると、「海軍機は海水による腐食を防ぐためにも、機内色のままということは考えられない」と否定的でしたが、どうなのかなぁ?
もう一つ気になったのは、カウリングの下側の膨らみ。
ここの復元機は零戦52型甲なんですが、52型でこのようにカウリング下側が膨らんだ機体の写真も図面も模型も見たことがない。
上は靖国神社遊就館の零戦52型の画像。カウリング下側は膨らんでいません。
私は三菱の機体がおかしいような気がするんですが・・・。この辺にお詳しい方がいらっしゃったら、ご意見をお聞きしたいところです。
ところで、ここを見学に行くのに先立って、ネットで予習をしてみると、操縦席に座らせてもらったと書いてる人もいました。「操縦席に納まった写真はいい記念になるなぁ」と期待していたんですが、修復から既に20年が経ち、安全上の理由から今では誰も操縦席には入れないとのこと。残念。風防を開けることもできず、計器類もガラス(実際はアクリル)越しに見るだけでした。
零戦以外のもう一つの目玉は、ロケット機「秋水」。ドイツから潜水艦で届いた資料を基に作られた機体です。
燃料は、濃度 80 % の過酸化水素を酸化剤に、[メタノール 57 % / 水化ヒドラジン 37 % / 水 13 %] の混合液を化学反応させるというシステム。下はそれを入れた甕。
この復元機は航空自衛隊岐阜基地に保管されていた残骸を修復したものです。下の画像はその一部で、主翼の付け根部分。武装の30㎜機関砲の熱の影響を受ける部分だけは鉄製だったために錆びてます。因みに主翼は木製。
この資料室。実は航空自衛隊の国産輸送機C-1のモックアップを製作するために作られた建物。それが不用になり、資料室に転用されたとのこと。
当時の様子を伝える雑誌(?)の写真。因みにモックアップの主翼は左翼のみが作られたとのこと。
現在の資料室の内部です。
ここからは、その他の展示物をご紹介しましょう。これが意外に面白い。
まずはMU-2。社用機として40年働いたそうです。
そのコクピット。
この機体だけは中に入れましたが、乗客6人乗りで、かなり窮屈。シートも現在のエコノミークラスよりかなり小さい。
F-2用主翼の複合材の試作品。日本の先端技術ですね。
1935年初飛行の九六式陸攻のスピナー(プロペラ中央の突き出た部分)。
↑これが九六式陸攻。当時、世界中から非難を浴びた重慶無差別爆撃で使用された機体ですね。
百式司令部偵察機の車輪。よく見ると、”ファインモールド社寄贈”と書いてあります。(ファインモールド社は豊橋の模型メーカー)
↑これが百式司令部偵察機。早そうでしょ。ウソかホントか知りませんが”ビルマの通り魔”と言われたそうです。
さて、下の柱時計とタンス、これも展示物です。戦前の昭和4年から7年にかけて、兵器製造の仕事がなく、こんなものを作っていた時代があったそうです。
そして次の展示物。行李なんてご存知ですか? 柳などでできた洋服などを入れる箱を昔はそう呼んでいました。戦後、進駐軍によって兵器製造が許されなかった時期、三菱重工は戦中の板金技術を生かして、この行李やスーツケースを作ってしのいでいました。
大企業、三菱重工にもそんな時代があったんですね。案内の爺さんも、F-Xとは口にしませんが、早く次の仕事が決まらないと技術が途絶えると心配してました。しかし、明日F-Xの候補が決まっても、生産はかなり先だろうし・・・。
今の三菱重工にはかつてのような身軽さはないでしょうね。