まずは、訂正のような追記のようなことから。
前回の「原子力発電との折り合いをどうつけるか(1)」で、「運転している炉を緊急停止実験したことがあるのか知りたくて検索してみた。」と書いた。
確かに稼働中の炉を”実験で”停止したことはないのかも知れないが、調べてみると、2007年の新潟県中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所において運転中だった4基が、また2009年の駿河湾沖を震源とする地震で浜岡原子力発電所において運転中だった2基が緊急停止している。
柏崎刈羽原子力発電所では、地震によって発生した火災などの被害によりゴタゴタしたようだが、わずかな放射性物質の漏れが認められただけで大事には至らなかった。現在、2~4号機では点検・復旧、耐震強化工事を行っている。
日本の原子力発電所は近年でもこの2回、地震による緊急停止を実際に経験している。今回の地震を含めて、”頻繁に”と言ってもいいくらいの頻度だ。
正直な話、これほど緊急停止が多いとは知らなかった。知識のないものが原発を語るなって話だが、開き直って言えば、知らないのは皆さんも同じでは?
てことで、今回は反原発活動について。
15年程前のことだったと思う。反原発団体が名古屋の地下鉄車内に意見広告を出そうとしたが、名古屋市交通局はこれを断った。電力会社の原発推進の広告は掲示できるのに、反原発の意見広告を断るのはおかしいとして、当時、話題にはなった。
名古屋市交通局としては当然の判断だろう。継続的に多額の広告を出してもらえる電力会社にヘソを曲げられたら、大きな痛手に違いない。
ここまで事故の影響が大きくなると、もっと反原発派の意見にも耳を傾け、原発の危険性について真剣に考えるべきだったと反省する気持ちも起きてくる。
しかし、この例で分かるように、この社会の構造は反原発派の意見が我々の耳目に届き難いようにできている。彼らに潤沢な活動資金があるはずもないし、たとえ小さな単発広告であろうと、電力会社に飼いならされたマスコミが彼らの広告をあっさりと載せるはずがない。
原発とマスコミの関係を検索していたら、興味深いブログを見つけた。面白い、いや、面白すぎると言ってもいい。
ちょっと複雑だが、三橋貴明という作家のブログに寄せられた竹本秀之という元朝日新聞社員の投稿である。内容は映画にもなった「クライマーズ ハイ」の一場面を思い出させて、その点でも面白い。長いが引用させてもらう。
新世紀のビッグブラザーへ 作家三橋貴明のブログ
---- 竹本秀之様からのご投稿「浜岡原発、メディア、原子力行政の歪み」----
私が朝日新聞名古屋本社広告局で働いていた頃、中部電力浜岡原発3号機が稼働した。事件はこの3号機に関しておきた。と言っても、社内対立に過ぎないのだが。
ある日、広告のフロアに社会部の記者がやってきて、大変な剣幕で怒り出した。新聞社というのは不思議な組織で、編集(記者と校閲など)、営業(販売と広告)、その他の部局間に、ほとんど交流がない。複数の子会社が集まって、1つの組織を作っていると考えていただければ良いと思う。
この社会部記者は、広告のフロアに来て何を怒鳴ったか?
当時、広告局では中部電力と組んで、浜岡原発見学会を開いていた。中部電力にしてみれば、何とか浜岡原発への市民理解を得たいと考え、朝日新聞と組んで見学会を開くことも、1つの方策としていたわけである。
広告局から見ると、優良広告主である中部電力が広告を契約外追加出稿してくれるのだから、これほどありがたいことは無い。大体、広告局の人間で特定思想に偏った人はほとんどいなかった。
ところが、編集局、特に社会部は、浜岡原発を反原発視点で取り上げ記事にすることが多かった。ここで、編集と広告の間にコンスタントな軋轢(あつれき)が生まれた。そして、上に書いたように、ある日「正義感から我慢できなくなった」社会部記者が広告局にやってきて、
「オマエラ、何を考えて浜岡原発見学会なんか開いてるんだ!」
と、怒りを炸裂させたのだ。
広告局としては、主催は中部電力やJTBにまかせ、自分たち(朝日新聞社)は協賛くらいにとどめるという配慮はしていた。だが、それでも上記記者は、広告局が浜岡原発見学会を開くことへの怒りを抑えることができなかったのだ。
しかしである。編集局記者の高給は、まさに浜岡原発見学会のような
「カロリーの高い」広告を掲載することで支払われているのだ。
ここでは、非常に非効率的な税金使用がなされている。そもそも、社会部が原発は危ないという記事を日々載せるから、市民が不安になり、反原発運動が盛んになるのだ。
一方で、原子力発電は日本の国策であり、国からの補助金が出ており、中部電力としては、何としても、そうした不安を解消したいと考える。その解決策として、反原発の先鋒である朝日新聞に通常広告の形で、あるいは上に書いたような原発見学会という形でお金(広告料)が渡される。そのお金で、記者の高給が支払われる。そして、記者は紙面でさらに原発を叩くという、実に不毛な無限ループを引き起こしていた。
これから原子力行政をどうするか、様々な議論がなされると思う。だが、上に書いたような不毛なお金の無駄遣いは止めてほしいものだ。国からの補助金が原発に対し出ていることを考慮すると、完璧な税金の無駄遣いだからだ。
今回の福島原発に関して、現時点で何か言うような意見は無い。大体、私は原子力の専門家ではない。
ただ1つ、確実に言えるのは、反原発の人々が騒ぐことにより、本来は原発の安全確保という基本施策に使うべきお金が、ほとんど意味のない原発見学会などに消えていったという事実である。
原発推進派の読みが足りなかったのは事実だ。これは認めざるを得ない。
だが、反原発運動が原発の安全性にほとんど貢献せず、徒(いたずら)に広告という形でお金が新聞やTVという既存メディアに流れたのも事実だ。しかも質(たち)が悪いことに、記者が原発への不安を煽れば煽るほど広告局は儲かるという構図ができたのだ。
ネット利用者はまだ覚えておられると思うが、毎日新聞佐賀支局事件があった。「あの記者」も反原発運動家だった。
反原発自体は思想の自由だ。だが、記事で叩きながら、一方で電力会社から広告を追加出稿でもらうというのは、社会のモラルに反している。新聞社やTVはCSR(企業の社会的責任)を果たさなくて良いのだろうか?
果たして、これが社会の木鐸、社会の公器である新聞のやることか?
国民の財産である電波を借りているTVがやることか?
私は大きな疑問を持つのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<引用終わり>・・・・・・・・・・・・・・・
まさにマッチ・ポンプ。一粒で2度おいしい。アコギだ、新聞社。
テレビだって思い出したように原発の危険性を告発するような番組をやってる気がするが、あれは電力会社からもっと広告費を引っ張るための手段だったのではあるまいか?
しかし、この元朝日新聞社員も勘違いをしている。反原発派は原発の安全性に貢献しようなどと思ってはいない。ただ原発全廃を目指しているだけだ。
そう言えば、中部電力の「ベストミックス」なんてキャッチコピーのテレビCMがあった。火力・水力・原子力のバランスの取れた電源がベストミックスだとか言って。イメージキャラクターは確か、唐沢寿明や渡瀬恒彦だった。
芸能リポーターよ、震災以降仕事がないんじゃないのか? 世間は芸能ニュースどころじゃないからな。下らない離婚やら、お泊りデートを追ってる場合じゃないぞ。今こそ、唐沢寿明に直撃インタビューだ!
「唐沢さん、今回の福島第一原発の事故をどう思いますか? 中部電力浜岡原発は津波が来ても大丈夫でしょうか? これからもベストミックスのイメージキャラクターを続けますか?」
どうも話を茶化したくて仕方がない。これも震災ショックの後遺症かも知れん。話を戻そう。
では、反原発派はどう戦うべきか? ネットで啓蒙? 確かに15年前には考えられなかった手段かもしれない。お金もかからないし。しかし、見たい人しか見ないだろう。ネットに繋がっていない人達も取り込まなければ意味がない。
私も反原発派の声が我々の耳目に届かないのは、何もマスコミだけのせいでないのは知っているつもりだ。我々そのものが彼らの声を拒絶して来た。
毎日、不安にさいなまれながら暮らしたくはない。できれば安心して暮らしたい。明日にでも放射能漏れが起きるような警告の中で暮らしたくはない。反原発派の警告に耳を閉ざし、電力会社の「安全ですよ」の甘い囁きを信じておいた方が楽なのだ。
こんな大事故が起こってからでは既に遅いのだが、もっと反原発派の意見を聞いておくべきだった。
せめて彼らの意見がちゃんと多くの人の耳に届く環境ができないものか。
原子力関係の学者にも問題があった。そもそも彼らが研究の動機として反原発があるはずがない。原発推進の意見表明しかありえないのだ。それを聞いて安心していた我々もお人よしだった。
しかし、反原発活動は普通の人から距離がある。私は何となく左翼系の、いわゆる「プロ市民」と呼ばれるような人達がやってる活動のようなイメージを持つが、実際はどうなのか?
そうであろうが、なかろうが、(不謹慎な表現だが)反原発活動にとって今こそ勢力拡大のチャンスだ。そのためには反原発団体も脱皮が必要なのでないだろうか。実際に思想的なバックがあり、それが人を遠ざけているのなら、この際それを捨てて、組織の目的を原発全廃のみに絞り出直すべきだろう。それができないなら、誰かが中心となり新たな反原発団体を組織するのがいいのかも知れない。
事故以来、新聞には原子力発電所関係の記事が多い。海外の原子力発電所についての記事があり、計画中の原子力発電所の数では中国が群を抜いて多い。建設中の原発が27基もあるらしい。あれだけの数の国民が全体的に生活レベルが上がっていくとしたら、相当な電力が必要になる。中国とてそれを火力発電だけに頼るのはリスクが大きかろう。多数の原子力発電所が必要になる理屈は理解はできる。
だが、彼の国が安全性を第一にする国民性でないことは我々も良く知っている。情報の開示も期待できない。隣国の原発に不安感を持ち、物申したい日本人も多かろう。
だが、今回の事故で日本の原発関係者はその資格を失った。誰が日本の原発関係者の言に耳を貸すものか。
現在も他国の原発建設に意見できる資格を持つのは、反原発派だけである。その意味でも反原発派はこれから存在感も責任も持たなければならないはずだ。
我々は原発全廃に同意するしないは別にして、彼らに電力会社に伍するような力と発言力を与え、彼らが発信することに耳を傾ける努力はするべきだと思う。