
12月2日、父が施設で息を引き取りました。
いつ呼吸が止まったのか気づかないくらい、静かにお迎えがきたようです。
満91歳でしたから、まあ、長生きできた方ですね。
ここ2年ばかりは、介護施設や病院を出たり入ったりで、さらに直近の2か月程は寝たきりで栄養も口からではなく繋がれたチューブからでした。当初は呼びかけに頷いてもいましたが、それもやがてうっすらと目を開けて「オー」と声を上げるだけになり、本当にこちらのことが分かっているのかどうかは怪しくなって行きました。
11月の半ばころから、新型コロナの第三波の影響で他の入所者の家族は面会もできない状態でしたが、うちだけは特別に深夜でも出入りを許され、最後の二日間は誰かがずっと付き添っていました。施設側も最期が近いことがよくわかっていたんでしょうね。
正月までもう一月もありませんが、そう言えば今年の正月には一時帰宅して「雑煮が食いてぇ」と言うので、箸で餅を小さくちぎって口に入れたんでした。
年内にこの日を迎えるかもしれないことは、ある程度覚悟していましたので、慌てることはありませんでしたが、いざその時を迎えてみると、なんだか実感が伴いませんでした。
喪主は長男である私。当然、初めてのことです。
葬儀の打ち合わせの初めの段階から、私と私の弟・妹、さらにその配偶者の間で葬儀は”家族葬に準ずる形”で進めることで話はまとまりました。”家族葬に準ずる形”というのは、何せ田舎のことですので、近親者だけでというわけには行かず、どうしてもご近所にも声を掛けざるを得ないからです。
私が現役のころに勤めていた会社は、入社した頃は社員の親の葬儀などがあると、こんなんで仕事ができるのか?と思うほど大勢が仕事を抜けて葬儀に参列していました。ところが定年退職する頃には家族葬ばかりで、香典や供花だけでなく会葬もお断りのことが多く、せめてお線香の一本でもと思ってもそれすらできない葬儀が普通になっていました。三十数年の間に葬儀の形もそれくらい変化していったということですね。いや、葬儀だけでなく結婚披露宴など冠婚葬祭全てが極端に地味にというか、プライベート化して行きましたよね。
私と同世代の近親者はそうした環境の中で時代の流れを感じて働いているので、そうした形式に違和感はなく、何といっても会葬者だけでなく喪主側もそれが楽だということがよく分かってるので、家族葬を選択することには異論はありませんでした。
ところが、田舎はその辺も時間が止まってるんですよ。事前に「香典・供花は辞退します」と書いた告別式の案内チラシをご近所に配布しましたが、その時点で戸惑いを見せる方が何人も。ひょっとすると実家の近所で完全に香典辞退を実行したのはうちが最初だったのかも知れません。
葬儀でも受付で懐から香典袋を出す人何人かいて、「香典はいただけません」と説明しても「でも、これまでうちももらってたから」となかなか引っ込めずに押し問答したり・・・。
そしてついに、私の従兄の一人が恫喝まがいの大きな声を上げて無理やり香典を置いていきました。おそらくこの人を説得することは困難と思われたので、この人にだけ香典返しを送ることにしましたが・・・。
葬儀の後の喪主あいさつの最後には、後に続いてねという願いを込めて、今回の葬儀のスタイルについてお詫びも入れておきました。私と同世代以下の人には伝わったと思いたいですが。
そして、やっぱりよく分からないのが、お布施の相場。
葬儀社の人に聞くと「直接、ご住職に聞かれるといいですよ」というので、思い切って聞いてみましたが、「地域によって違いますが」というまくら言葉付きで話されるし、専門用語もたくさん出てきて何が何だかわからない。いっそ料金表のようなものを示してくれたらいいのに。どうせ当の親父の貯金から払うだけでこちらの懐は痛まないけど、少なくて嫌な顔をされるのも嫌なんで、目一杯の金額を包んでおきましたが、相場を上げてしまって人様の懐を痛めるようなことになっていなければいいんですが。
親父は、10代後半で父親(私の祖父)を亡くし、それ以降、長男として一家を支え、生涯働きづめでした。サラリーマンではないものの、典型的な昭和一桁。晩年になって車のキーを私たちが取り上げてからも、動けるうちは、押し車を押してヨロヨロと歩いて遠くの畑まで出かけて畑仕事をしていました。趣味とかもなくて、一体何が楽しみだったんでしょうねぇ?
Posted at 2020/12/06 22:26:11 | |
トラックバック(0) | 日記