
早いものですね。あれからもう一月経ったんですね。
あの日、あの地震をたまたま東京にいて経験したという話は3月13日の日記「
東京で経験した東北地方太平洋沖地震」で書きました。
今日は、その日、何の目的で東京に行ったのかって話です。
あの震災さえなければおそらく今回の内容を3月13日あたりにアップしていたことと思います。
私の学生時代の終わり頃から就職して暫くの間、建築界では「ポストモダン」なる言葉が大流行していました。もう、その頃の建築関係の雑誌には例外なくその言葉が載ってました。
「ポストモダン」を説明するには「モダニズム」から説明しなきゃいけないわけで、更にその前も・・・てなことになります。
19世紀あたりまで、建築家の仕事は一握りの王侯貴族や宗教のためのものであり、そのデザインには様式や装飾が切り離せないものでした。20世に入って工業化が進展し、様々な物が大量生産されるようになり、建築技術の面でも鉄筋コンクリート造や鉄骨造の技術が確立され、空間も大量生産できるようになりました。そこで、建築も他の工業製品と同じように大衆化されるべきだという「モダニズム」運動が起こりました。
モダニズムのデザインの特徴は、機能を優先し装飾を排すること。それがずーっと続いたわけです。それでどうなったかというと、世界中に同じような建物が建つことになりました。
そして、1980年代になると、それを批判する勢力が現れ、建築に歴史性、地方性、装飾の復権を求める活動が起きました。それが「ポストモダニズム」。
日本人建築家でこの時期に最も脚光を浴びたのが磯崎新。そして彼の設計した筑波センタービルが日本におけるポストモダンの代表作とされています。
それは世界中の様々な歴史的建造物からの引用で満ちた建物でした。
じゃ、日本におけるモダニズムの代表者は誰かと言うと、旧都庁と現都庁を設計した丹下健三や黒川紀章でしょうね。当時、丹下がモダニズムの立場から新建築という雑誌に「ポストモダンに出口はあるのか」と題した論文を発表すると、大論争になりました。
まあ、建築の特にデザインの分野において熱い時代でした。
で、今はどうなの?って話ですよね。正直、私も答えようがありません。どうなっちゃんでしょう? 私の目から観察した状況から回答するなら、ポストモダンも消費されちゃったってことでしょうか。結局、一過性の流行だったような感じ。せいぜいメニューの一つとしては残ったってことでしょうか。
建築界にはそんな経緯があったんですが、白井晟一は世間の雑音とは全く無縁に活動していました。世間でポストモダンがどうのこうのと話題になる前から、ずっと一貫して、ぶれることなく様式と装飾を重んじ、哲学的とも言われる建築を作り続けました。
その孤高の姿勢が学生時代からこの年までずっと気になってました。
そして「建築家 白井晟一 精神と空間」展が2011年1月8日(土)から2011年3月27日(日)まで東京で開催されたわけです。
この展覧会に行くからには、東京にある白井の二つの作品も観ておきたい。中でも松涛美術館は、学生時代と就職してから2回も行ってるのに2階とも閉館中。今度こそはと予め開館日を電話で聞くと、13日までは開館してるが、3月はそれ以降は閉館とのこと。当初はもっと会期の終わり頃に行くつもりでしたが、それを聞いて急遽11日に行くことに決めたというわけです。
展覧会で彼の軌跡を追った後、向かったのはその松涛美術館。渋谷区の高級住宅街である松涛にある美術館です。
エントランスと中庭に面したホワイエの窓。ちょっと宗教建築物風の趣きもあるかな。しかし、この外観だけで中を想像することは困難でしょう。
この美術館の見所は内部。内部に楕円形の吹き抜けを設け、底面に水を張り、そこに橋を渡すというダイナミックな手法を使っています。
吹き抜け見上げ。
やわらかな曲線で作られた階段。
続いて、六本木にあるノアビル。
飯倉交差点に面した目立つビルですから、「ああ、これのことか」と思われる方もいらっしゃるのでは? 見ようによっては墓標のような象徴的な建築物。これでもオフィースビルです。
一般階の平面図。事務所としては使いづらいかもしれませんね。
楕円が松涛美術館との共通性を感じさせます。
ここで、建築写真のお約束のようなお話。
普通に撮れば、高い建物は上の写真のように上に行くほど小さくなってしまいます。そこで、建築物の竣工写真などでは、こうします。
垂直な線はそのまま垂直に見えるように修正します。かつてはシフトレンズを使って撮影時に修正していたわけですが、今はおそらく私のようにソフトで修正しているものと思われます。
下部のレンガ張り部分のクローズアップ。彫刻らしきものが壁面に取り付けられています。ただ、全体的に汚れが目立ちますね。
ノアビルのホームページを見ると、フロアがかなり空いているようです。壁面を化粧直しするような費用がないと思われます。
因みに、手前は機動隊のバス。ロシア大使館が近いので常駐しています。
実はすでにかなりの白井作品が解体されています。ひょっとするとこのノアビルの寿命も長くはないのかも知れませんが、少しでも長く、その姿を留めてほしいと願います。
この写真を撮り終えて暫くして、地震を経験することになります。
えらい目には遭いましたが、白井晟一の一端とは言え、触れることができたのは収穫でした。
Posted at 2011/04/11 22:03:27 | |
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建築 | 日記