相変わらず続きます広島旅行編^^;
今回は、広島平和記念公園Photo編です^^v
もちろんのこと
本気モード撮影によるブログなのですが、
ただそれだけでなく、しっかりと皆様に平和の大切さを学んでいただくために、
解説をつけます^^v
難しい内容があるかもしれませんが、是非本気モードPhotoとご一緒に、何かをかんじとっていただければ幸いです^^v
長文ですが、是非最後までお付き合い下さい!
旅行2日目朝一より訪れた平和記念公園。
いきなり迎えてくれたのが、そう、原爆ドーム。
原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建物)です。
もとは広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は
広島県産業奨励館と呼ばれていました。
ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、“二度と同じような悲劇が起こらないように”との戒めや願いをこめて、とくに負の世界遺産と呼ばれています。
皆、無言のまま、何かを感じながらゆっくりと歩きました。
橋の上からは、寂しそうな原爆ドームの姿と、高々とそびえ立つビル達。
当時からは想像の付かない風景でしょう。
こちらは、『動員学徒慰霊塔』です。
第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるために作られました。
<学徒動員とは>
政府は労働力の不足を補うため、1944(昭和19)年8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制されました。
また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員されました。広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となりました。
私にはこの女神像が泣いているようにしか見えませんでした。
周りにはたくさんの千羽鶴が鮮やかに飾られていました。
こちらは、『元安川』
1945年8月6日に原爆が落とされた際、熱線や放射線・爆風で傷ついた多数の被爆者たちが水を求めてこの川まできて亡くなったため、毎年8月6日夜には犠牲者を弔う灯籠流しがおこなわれています。
今では川沿いにお洒落なオープンカフェが並んでいます。
早朝であったためまだオープン前でした。
こちらは前回のブログでもご紹介した『原爆の子の像』
三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)があります。(高さ9m)
<佐々木禎子さん>
2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長しました。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955(昭和30)年10月25日に短い生涯を終えました。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けました。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれています。
こちらは、『平和の灯(ともしび)』
全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945(昭和20)年8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火されました。
この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。
毎年、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が行われています。また、1994(平成6)年に広島市で開催されたアジア競技大会の聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されています。
こちらは、『原爆死没者慰霊碑』
<碑文>
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから 」
中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2007(平成19)年8月6日時点で、91冊(253,008人の名前が記帳された90冊と「氏名不詳者 多数」と記された1冊)になっています。
そしてこちらが、『平和記念資料館』
1949(昭和24)年9月、広島市中央公民館に「原爆参考資料陳列室」が設置され、原爆被災資料の展示が始まりました。また、同年公布された「広島平和記念都市建設法」に基づき、平和記念公園の中に、1955(昭和30)年6月に平和記念館が、8月に平和記念資料館が開館しました。1994(平成6)年6月、展示・収蔵機能や平和学習の場を充実するため、平和記念館を建替え、2館を一体化した新たな「平和記念資料館」として開館し、現在に至っています。
2006(平成18)年7月5日には、平和記念資料館の本館部分が国の重要文化財に指定されました。戦後建築としては初めての重要文化財となります。
ここから資料館内です。フラッシュ撮影以外は撮影OKとのことです。
このブログを見ていただいている皆さんに何か感じていただくために、数枚UPいたします。
資料館のHPは
こちらです。詳細をご覧下さい。
こちらの
赤い球が、原爆の爆心地。
デルタ地帯(三角州)の真中に原子爆弾が投下されました。爆風や熱線を遮る物があまりなかったため、爆心地から離れていても外傷を受ける確率は高かったようです。爆心地から1キロメートル熱傷をおった人々は一週間以内に死亡したとのことです。 建物は爆心地から約3kmほどまで倒壊しました。
いかに威力が強いことかお解かりになりますでしょうか?
止まった時計…
爆撃にて止まった物でしょうか。それ以来時を刻むことはありません。
こちらが被爆後の、広島。
建物は遥か遠くまで、ほとんどと言って良いほど無くなっています。
爆撃のすごさを物語っています。
これは被災直後の写真です。皆の哀れな姿が写されていました。
自分がこの場に居たら、何をしていたでしょう。
こちらは、こちらは、女学生の夏服です。
焼け千切れた当時の服がそのまま残されていました。
これがもし、自分の娘の服だと考えると・・・
こちらは、ご覧の通り三輪車。
小さいお子さんが楽しんで乗っていた物でしょう。
椅子は溶け落ち、錆びでボロボロです。
こちらの鉄筋。
矢印を見てください。直線だった物が、爆撃でこんなに歪が出ています。
どれほどの威力なんでしょう。
そして、こちらが、『黒い雨』
被爆後の調査で、爆心地から11~19キロメートルの範囲で大雨が、15~29キロメートルの範囲で小雨が降ったと分かりました。この「黒い雨」は、原子爆弾の爆発20~30分後頃から広島市の北西部に降り始めました。雨の間は夏にも関わらず急に気温が低下して裸や薄着で逃げ回っていた人々は寒くてふるえました。しかも、降り始めの1~2時間は爆発の時の泥やほこり、すすなどを含んだ黒い大粒の雨で、しかも強い放射線が含まれていて、池や川の魚がたくさん死んで浮き上がったと言います。雨の降った地域で水を飲んだ人の多くは下痢になったりその後雨に含まれていた放射能のため体調を崩したりしました。
ご紹介したのは、もちろんのことほんの一部です。
中にはカメラを向けることも出来ないほど残酷なものも。
何度訪れても、自分がもしこの場に居たら…と考えてしまいます。
今の平和があり、笑顔で毎日を過ごせる事が、どんなに幸せなことか。
この辛い思いをされて亡くなった皆様の教えを、ずっと胸にいだいていたいと強く思いました。
戦争は2度と起こしてはならない。
戦ったとしても、辛い思いをするのは、自分達だということ。
この資料館を後にしたとき、妙に家族に会いたくなりました。
今の自分は、本当に幸せなんだなぁと。
Posted at 2010/12/21 22:46:24 |
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