2013年05月20日
「天然ぼけ」 (11) Copyright (C) 2013 AuO2
昭子は驚愕するあまり、声すらも出ない。そんな正常な感覚を失いつつある頭にふっと、浮かんだのは、あの混合クリームの作り方が書いてあった原稿の注意書きだった。
“混ぜる比率を間違えると、染みやあざだけでなく、全体がぼける可能性があります。注意して下さい”
全体とは全身のことだったのか。この混合クリームはそんなに危険なものだったのか。それにしても市販のものを混ぜ合わせただけなのだから、ここまで危険なはずはないのに…。昭子は猛烈に悔やんだが、すでに遅い。
そうだ、あの原稿を作ったところに文句を言ってやろう、昭子はそう思った。一体どこのエステなのか。決してこのままでは済まさない。
しかし、まったくそれらしい名前が浮かんでこない。昭子はおかしいと思いつつ、よおく原稿を思い出してみた。そうなのだ。あの原稿には連絡先とおぼしき情報は何もなかったのだ。だから、忘れ物として見つけた時も取りにくるのを待つしかなかったのだ。
頭がパニック状態になっていくのが自分でもわかる。首から下も胸・腹・腰・脚と、順番に形が変わっていないか、手当り次第にさわってみた。
すると形が違う。さわる度に形が変わっていくのがわかってきたのだ。ちょうどそんな時に、夫の声が微かに風呂場に届いた。
「ただいま」
夫の声を聞いた昭子はいてもたってもいられなくなって、立ち上がろうとした。すると、足の形がやわらかい水飴のようにぼけて短くなってしまった。
よろける体を支えようと、浴槽の縁に手をかけると、今度は手が水飴のようにぼやけてしまったのだ。
驚きの声を出そうにも、口もぼやけてすでにないに等しい。髪の毛の存在すら、ぼけていく体に同化しつつあった。
手の支えを失った昭子の体はお湯の中に一度ずぶっと沈んだ。その沈む時の勢いで体全体の形が一気にぼやけてしまった。
昭子の体はすでに丸い肉の塊のようになってお湯に浮いている。かろうじて首から上、両腕、両脚があったという痕跡がわかる程度にまで体の形がぼやけてしまっていたのだ。
昭子は想像を絶する状況の中で、成す術もなく、ただもがくしかなかった。しかし、もがくといっても、ほとんど動くところのなくなってしまった昭子の体は、腕らしい部分と脚らしい部分が、もぞもぞと動くだけだった。さらに悪いことにもがけばもがくほど、体の形がぼやけていくのだ。
「あきこー」
夫は昭子の名前を呼びながら、台所に入ってきた。テーブルの上を見ると、食事の用意がしてある。先に食べてしまったのだという事も、一目でわかる。
「どっか行ったんかな」
そう言いながら居間を見る。が、いない。
「お風呂かな」
夫は昭子が風呂に入っているのかもしれないと思った。そういえば風呂場の明かりがついていたような気がする。すぐに風呂場へ向かう。
確かに明かりがついていて、服も脱いである。入っているのは確実だ。
「昭子、入ってるんかぁ」
呼んでみたが返事がない。それに風呂に入っているにしては静かすぎる。何の音も聞こえないというのはおかしい。
夫は扉を開けて風呂場を見た。そこに昭子の姿はない。
「あれ」
夫の見たものはお湯の上に浮いているなんだかよくわからない物体だけだった。相当大きい。
「なんや?」
夫は昭子が気まぐれで買ってきた入浴剤か風呂場で使う道具の一種か、何かの冗談だと思った。
昭子は夫が風呂場の扉の所に立っているのがわかり、助けを求めて声を出そうとするのだが、声は出なかった。口もなければ喉もないのである。
目も天井と思われるものしか見えていない。しかも、完全にぼけている。はっきりとは見えなかった。ちょうどカメラのピントがぼけたのと同じ状態である。
「やっぱり外へ出たんかな」
気分転換か何かで外に出たのかもしれないと思った夫は、少し外を捜してみることにした。
扉を閉め、夫はその場を離れた。
昭子は夫が扉を閉めてそこからいなくなったのを感じていた。耳もすでにないのだが、こもったような感じでかろうじて聞こえていた。
呼吸も鼻や口がないので、フィルターを通しているような感じで、かろうじてしていた。見かけからでは判断できないのだが、昭子は仰向けの状態でお湯に浮いていた。
随分と長い時間お湯に浸かっている。昭子はだんだんのぼせてきた。しかし、どうすることもできない。もうもがく腕も脚もない。
(助けて)
昭子は、ぼやけ、遠のいてゆく意識の中で、そう思うのが精一杯だった。
終。
Posted at 2013/05/20 20:12:11 | |
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2013年05月18日
「天然ぼけ」 (10) Copyright (C) 2013 AuO2
皺があるのはわかるのだが、線がはっきりしない。つまり、ぼけているのである。
「擦りすぎたのかな」
昭子はそう考えて、顔を鏡で見てみた。皺や染みが明らかにわからなくなっている。昨日までの時より効果がかなり高いように見える。
「ほんと、すごい効果」
そんなことを言いながら、昭子は台所に向かった。帰ってきてすぐに鏡台に向かってクリームを作り始めたので、晩御飯の用意も何もしていなかったのだ。
お肌の手入れをした後で御飯の用意をするというのも変な感じがするのだが、その辺はあまり気にしないのが昭子の性格である。
とりあえず自分の食べる分と、遅く帰ってくる(であろう)夫の分を作ってしまってから、自分の分を先に食べてしまう。帰りが極端に遅いこともあるので、待ってられないのだった。
「さあ、食べよ」
昭子は作りたての晩御飯を食べ始めた。簡単に作っただけのものなので、たいしたものはなかったが、機嫌がいいせいで美味しく感じられる。
テレビをつけてニュースを見ながら、食事はすすむ。自分で作って自分で食べるので、量も自分に合わせてある。だから、食べ過ぎとか、食べ足りないということもない。実にちょうどいい。
「ごちそうさまっと…。んー、先にお風呂に入ろうかな、ちょっと早いけど。片付けは上がってからしよ」
ひとりでそんなことをいいながら、昭子はテレビを消し、風呂場へ向かった。
昭子は服を脱ぎながら、さっきクリームを塗った腕や顔を鏡で見てみた。肌の艶は確かにいいのだが、どうも皺がわからなくなりすぎているような気がする。それに、クリームを塗ったところだけが、どうも冷たさを感じている。
「お風呂に入ったらあったまるかな」
昭子はあまり深く考えず、身に付けているものを全部脱ぎ、風呂に入った。
浴槽に体までつかり、首筋や肩に時折お湯をかける。そして、手で腕をすーっと撫でてみた。ちょうどクリームを塗る時のように。
すると、撫でるのに使った手の形がぼやけたように見えた。お湯の中にあるからだろうか。いやそんなはずはない。驚いた昭子は自分の手をあげて見た。
「なんなのよこれ!」
手の形がぼやけているのだ。指が短くなり、掌の皺もない。手の甲も関節らしい出っぱりも何もない。
わけがわからない昭子はもう片方の手も、すぐにあげて見てみた。すると、お湯から手が外に出るまでの間に、すーっと形がぼやけてしまったのだ。
「えっ、えっ、えっ」
昭子は何が何だかわからないでいた。
驚きのあまり、昭子は両手を両頬に当てた。すでに指がないような状態にまで手の形がぼやけてしまっている。
今度は首から上の形がおかしいのに気付いた。両手を頬に当てた時点で形が変わったようだった。びっくりした昭子は顔中をさわってみる。すると、さわる度にいつもと違う感触が伝わってくるのだ。
鼻や口、目のくぼみといった、顔の特徴がなくなっているのだ。すでに手の形をしていない手から伝わってくる顔の感触に、顔をさわっているという感触はなかった。
Posted at 2013/05/18 20:15:22 | |
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2013年05月16日
「天然ぼけ」 (9) Copyright (C) 2013 AuO2
家に帰る途中、昨日で足りなくなったクリームを買いに店に寄った。品切れということもなく、すんなり買うことができた。特別な人気商品というわけでもないから、手に入らなくなるという心配はほとんどない。
それに最近は夜の8時頃まで開いている普通の店も多いから、自分が帰る途中で買いに寄れて、便利である。
今日の昭子は珍しく、目的の物だけを買って帰路についた。いつもなら、つい余計な物まで買ってしまうところなのだが、よほどあの混合クリームが気に入ったのだろう。すんなりと家に着いた。
玄関の鍵を開け、ドアを開く。ドアを開いてから、ポストが何となく気になって、何か入っていないか見てみる。
が、何も入っていない。
昭子はちょっと気が楽になって、家の中に入り、すぐに風呂場へ行った。後ですぐに入れるように沸かしておくためだ。
全自動式なのでスイッチは台所にもあるのだが、玄関からだと直接風呂場へ行った方が近いので、風呂場へ行っただけのことだ。
スイッチを入れるとすぐに鏡台の前に行って、今日買ってきたばかりのクリームを取り出し、蓋を開ける。
「これで今日も作れるわね」
そう呟きながら、開けた蓋を閉じ、鏡台の上に置いた。
昭子は買ってきてすぐのものをすぐに開けたくなる性格なのだった。
「うーん、どうしようかなあ」
後で風呂に入るので今クリームを作って塗っても、あまり意味はないのだが、買いたてほやほやのクリームを使いたいという衝動にかられていた。
「まあいいや、先にちょっとだけつーくろ」
昭子は衝動に負けてしまい、混合クリームを作り始めた。
「あっ」
作り始めてすぐ、買ってきたばかりのクリームを多く出しすぎてしまった。
「どうしようかなあ。ちょっと多めになったけど、まっ、いっか」
掌でクリーム類を混ぜる昭子。なんとなく、掌に冷たさが染み込んでくるように感じる。
「こんなに冷たかったかなあ」
そんなふうに言いつつも、昭子は作り続けた。結局、昨日よりも量が多い。
「うん、もう塗ってしまおう」
昭子は風呂に入るとわかっていて、顔や腕、手の甲などに塗り始めた。しかし、昨日までの感触とは違い、妙に冷たく感じる。ちょうど、湿布を貼って熱く感じるのを冷たくしたような。
体の中にまで染み込んでくるような冷たさだった。
それでも昭子は気にせず塗り続けた。
一通り塗り終わってクリームを混ぜた掌を見てみた。最初に冷たさを感じたのが掌だったからだ。
「あれ?」
気のせいか、掌の皺がぼけたように見える。皺だけではない。指紋までぼやけたように見えるのだ。
Posted at 2013/05/16 19:58:54 | |
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2013年05月14日
「天然ぼけ」 (8) Copyright (C) 2013 AuO2
昭子は店にきてから、又倉さんや他の人にもコピー原稿のことを聞いてみた。すると、確かに昨日、引き取りにきた人がいたという。どんな人だったかと聞いてみても、いわゆる普通の人でこれといって特徴がなく、説明のしようがないという。
男性か女性かを聞いてみると、女性だったということしかわからない。
いずれにしても、昨日引き取りにきて、昨日のうちに昭子の家のポストに入っていたのだから、自分が店にくる前(午前中。昭子は午後から店に出る)に引き取りにきて、自分が店にいる間にポストに入れたとしか、考えられない。
「コピーの忘れ物がどうかしたんですか」
又倉さんが気になったのか、昭子に聞いてきた。
「えっ、ええ。この間のコピー原稿の忘れ物があったでしょう。あれが家のポストに入ってたんですよ。昨日」
「ほんとお」
又倉さんは不思議そうな顔をしている。
「どんな内容のものなんですか」
「どこかのエステか何かかなあ、クリームの作り方が書いてあるんですよ。試しにやってみたんですけど、すごく効きますよ」
そう言われて、又倉さんは昭子の顔を見た。
「それで、今日はつやつやしてるんですね」
「わかりますぅ」
「わかりますよ」
昭子は嬉しくなった。思わず両手を頬に当て、微笑んでしまう。昨夜の夫にしてもそうだが、はっきりと見てわかるほどの効果が出ているのだ。あの混合クリームはそこまで効果が高いのだ。
「なんでしたら、教えましょうか」
昭子は又倉さんに言ってみた。正直なところ、自分だけの秘密にしたい気分なのだが、話の流れから、そう言ってしまったのだ。
「いえ、別にいいです。私はそこまで、しませんから」
又倉さんはあっさりとしたもんだった。彼女は化粧などはほんの気持ち程度しかしていない。自然派というかナチュラル派というか、そういう感じなのだろう。
「そうですか」
一応、昭子は残念そうに言ってみる。内心では喜んでいたのだが。
「おう、今日の調子はどうや。やっぱり天然ぼけか」
店長がやってきて、昭子に声をかけた。
「うーん、ちょっとだけ」
昭子はあきらかに冗談とわかる言い方で、答えを返した。
「ほんまかいな」
店長もわざとらしく抑揚を極端にした言い方で、それに答えた。こういうことには実にのりのいい人である。
そうこうするうちに今日の本屋での時間が終わっていった。
若干の天然ぼけをやりながら…。
Posted at 2013/05/14 20:44:17 | |
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2013年05月12日
「天然ぼけ」 (7) Copyright (C) 2013 AuO2
家に着いてポストを見てみると、自分が見た混合クリームのコピー原稿が入っていた。この近所に宣伝のつもりで入れたのだろう。昭子は最初そう思った。
しかし、よく見ると、店で見たコピー原稿と同じに見える。紙の端の折れ具合やコピーのかすれ具合など、どう見ても店で見たものと同じ感じがする。
それだけではない。よくよく考えてみると、混合クリームの作り方なんて宣伝するだろうか、普通なら企業秘密にするのではないか。
そう考えて、ようやく昭子はこのコピー原稿を誰が入れたのか、という疑問を持った。(明日店に行ったら、聞いてみよ)
そう思ってから昭子は、変に気にするのをやめた。今考えてみたところで何もわからないのだし、明日店に行けば、何かわかるだろうとすんなり思ったからだった。
そう思い直すと昭子は、すぐに鏡に向かって、昨日クリームを塗ったところを見てみた。
確かに染みがあったはずなのだが、よくわからなくなっている。言い方は悪いがぼけてしまったという感じだろうか。こんなに効果が高いものは初めてである。
効果のほどを確認すると昭子は、さっきまで見ていたコピー原稿を鏡台の上に置き、また混合クリームを掌で作り始めた。昨日、一度作ったので要領はわかっている。
作り始めてから気が付いたのだが、一つ、クリームの量が足りない。もともと、残り少なかったところに加えて、昨日使ってしまったからだった。
「うーん、どうしようかな。まあ、少し足りないくらい、いいでしょう」
そう自分で言って納得し、混合クリームを作り始めた。
さすがに今日は夫は早く帰ってこない。まあ、そう毎回毎回早く帰ってくるはずもないと、頭ではわかっているのだが、感情の方はそうはいかない。ついつい、今日も、と期待してしまう。
静かな時間の中で昭子はクリームを顔に塗ってみた。染みなどがわからなくなるだけでなく、肌の艶や張りも良くなるように思えたからだ。昨日塗った部分に関しては確かに良くなったように見えるし、感じる。
全体に薄く塗り、指先を器用に使ってクリームをさらに薄くのばしていく。
何度も混ぜて作るのは面倒だし、第一、一つのクリームはもう足りないのだ。つまり、今日はこれ以上作れないのだ。
(明日買ってこよ)
昭子はクリームを顔にのばしながら、そう思った。
一通り塗り終わってから、家事を済ませ、再び鏡を見てみた。
「うーん、いい感じ」
思わずそう口に出してしまうほど、効果が出ていたのだ。肌の艶と張りが今までとは明らかに違う。身をもって実感できる。
「これ、発売したら、きっと売れるやろなあ」
そんなことを言いながらも、昭子は鏡を見続けている。
「ただいまー」
突然、夫の声がした。驚いて時計を見ると、さっきから随分と時間が経っている。相当長い間鏡を見続けていたようだった。昭子自身こんなことは初めてだ。
鏡台の前を離れ、玄関に出迎えに行く。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
そう言いながら夫は昭子の顔を見た。
「なんか、雰囲気が違うな。顔がてかてかしてるような気がするな」
昭子はにっこりと微笑んだ。夫が気付くくらいなのだから、効果の高いことが証明されたようなものだ。
「ごはん、できてるよ」
「おう」
二人は台所に入っていった。
Posted at 2013/05/12 21:20:47 | |
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