
タイトル画像は、名古屋市緑区にある名鉄自動車学校。仕事で現場に行くときに通る幹線道路沿いにある、自動車教習所です。でも、その自動車教習所、よく見ると他とはちょっと違う施設がある。
何だか分かりますか? この施設の屋根に見える部分は、単なる屋根じゃありうません。よく見ると段々になってませんか? 実は、かつてはスタジアムの観客席だったんです。
それも、日本で最初にプロ野球の試合が行われた、鳴海球場の名残り。
「名古屋の街角から」第4弾として、この施設が何であるか、「日本最初の○○野球の試合が行われた場所」の「○○」を皆さんに当てていただこうかなと、さっきまで考えてました。
ところが、このブログを書くための資料を集めようと、Googleで「プロ野球 発祥の地」で検索してみると、鳴海球場が出てきません。私だけでなく、この地方の方々は、この現在は自動車教習所になっている、かつての鳴海球場が日本で最初にプロ野球の試合が行われた場所と聞かされ、それを今も信じている人が多いと思います。これは調べてみねば!
調べてみると、日本で最初と言えなくもないが、かなり限定付きの日本最初であることが分かってきました。
「プロ野球 発祥の地」で検索して、割と頭のほうに出てくるのは、千葉県習志野市と東京都港区芝浦です。
まず、千葉県習志野市の由来は・・・(以下、よそからの引用部分は青字で表示します)
1934年にアメリカのメジャーリーグが来日することになり、全日本チームが結成されました。 そのチームが「大日本東京野球倶楽部」という日本初のプロ野球チームとなり、1935年にアメリカへ遠征する際に「東京巨人軍」、つまり現在の東京読売ジャイアンツになりました。 その全日本チームの最初の練習地が谷津球場というところなのです。 ここは現在バラ園になっていて、「巨人軍生誕の地」として石碑が建っているそうです。
練習地では、ちょっと「日本で最初にプロ野球の試合が行われた球場」としての資格はないですね。
次に東京都港区芝浦の方はと言うと・・・
当時の学生野球、特に大学野球の選手はスターとしてもてはやされるようになっており、その人気に溺れて学業をおろそかにしたり不祥事を起こしたりする選手が増えていたため、早稲田大学野球部部長の安部磯雄らはこの状況を憂いていた。ここで、早稲田OBであった河野安通志は、学生野球の腐敗は問題だが、かといってを押さえつけるようなことをしては「角を矯めて牛を殺す」ことになると考え、学生たちの模範になるようなプロ球団を作ることで学生野球を浄化しようと提唱する。こうして、1920年、東京府東京市芝区(現:東京都港区)の芝浦に日本運動協会(商号:合資会社日本運動協会。以下、「協会」と表記)が設立された。
上の習志野よりもこちらの方が古いですね。では日本運動協会の試合はどうかと言うと・・・
1923年(大正12年)、早稲田大学からも勝利をあげるなどチーム力も向上し、6月21日には京城(現:韓国ソウル)で日本で2番目のプロ野球球団である天勝野球団と対戦する。この、日本初となるプロ球団同士の試合は、初戦は6-5で天勝が、2戦目では3-1で協会が勝利し、1勝1敗の引き分けとなっている。この後、8月30日に芝浦球場で3戦目が行われ、これは5-1で協会が勝利した。
何と、日本のプロ球団同士の最初の試合は、ソウルで行われたんですね。でも、同年に芝浦球場でも試合は行われてますから、「日本で最初のプロ野球の試合が行われた球場」はこの芝浦球場ってことになります。
じゃ、名古屋の鳴海球場は何なのか?ってことになりますね。Wikipediaにはこう書いてありました。
1936年(昭和11年)2月9日からの3日間「巨人軍渡米送別試合兼金鯱軍結成記念試合」として東京巨人軍対金鯱軍の試合を行い、金鯱軍が第1戦に勝利した。これは、現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である。
日本運動協会と天勝野球団は解散してしまったため、「現在のプロ野球組織に属する球団同士が行った初めての試合である」って条件付であれば、鳴海球場が日本で最初になるってことなんですね。これで、何とか鳴海球場の「日本初」の面目は保たれたのかな? ちょっと苦しいか? しかし、史上初のジャイアンツ Vs. ドラゴンズ戦は、ドラゴンズの勝利だったんだ。
ついでに鳴海球場の歴史を振り返りますと・・・、
「東の神宮、西の甲子園に負けない本格的な球場を」という概念の下で設計され、1927年(昭和2年)10月17日に完成した。約20,000人収容のスタンドと、両翼106m、中堅132mという現在の野球場の国際規格(両翼約100m、中堅約122m)を遥かに上回る広大なフィールドを有していた。メインスタンドには後に鉄傘が設けられ、甲子園のアルプススタンドに倣って「伊吹スタンド」と命名された。
当時職業野球の公式戦は後楽園球場と阪神甲子園球場、阪急西宮球場の3球場を中心に開催されており、その後鳴海球場で戦前に行われた公式戦は1938年(昭和13年)4試合、1940年(昭和15年)8試合の計12試合にとどまった。戦争が激化すると、球場は日本軍に接収。金属供出のため鉄傘は取り外され、スタンドは弾薬庫となった。戦争終結後は米軍に接収され、進駐軍のレクリエーションに使用された。
名古屋鉄道(名鉄)が運営管理を行っていたが、1958年(昭和33年)限りで閉鎖された。
あまり、盛んに利用されていたとは思えませんね。確かに、今でこそ幹線道路沿いでそこそこ建て込んでいる場所ですが、建設当時は回りは畑か山林だったのでは?と思えるような場所です。
しかし、あのスタンドが一時は日本軍の弾薬庫! これからも何度も元鳴海球場の横を通ると思いますが、今までとはちょっと違う感慨を持って見ることになりそうです。
こちらで、自動車教習所内の記念碑的なものが見られます。↓
日本プロ野球発祥の地
Posted at 2012/02/04 14:02:57 | |
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