勇ましいタイトルでしょ。
ゴジラー1.0、もうご覧になりましたか?
もうご覧になってますよね?
これから書こうとしていることは、もろにネタバレですので、まだご覧になってない方はこの先を読まないことをお勧めします。
わざわざ映画館まで足を運んで高い料金を払って観る映画は、食事に例えるなら御馳走でなければいけないと思っている私です。その意味でゴジラー1.0は大変に豪華な御馳走でした。
旧日本海軍艦や戦闘機、幻の陸軍戦車も登場したりして、その方面のファンの方も大喜びの映画だと思います。その面でも御馳走でした。
監督の山崎貴は怪獣映画の部分と人間ドラマの部分をうまくまとめたと評価されているようです。
VFXを駆使した怪獣映画の部分については日本映画もここまで来たかと私も感嘆しました。ハリウッド版ゴジラではゴジラを含む怪獣が暴れる場面は、怖さを増すためなのかアラ隠しが目的なのか夜だったり煙で薄暗くなった場面が多い印象ですが、本作は晴天下の場面が多く、ごまかしがきかないVFXの作業が大変だっただろうなと想像します。
シン・ゴジラ、ゴジラー1.0とフルCGのゴジラが続きましたから、これ以降の日本製ゴジラを誰かが作るとしても、さすがにもう着ぐるみが模型の街を壊すなんてところには戻れなくなってしまったでしょう。
でも人間ドラマの部分では、私は納得できない部分が、特に前半でいくつかありました。
【主人公の戦争の背負い方が薄い】
本作のオープニングは、単機の零戦が大戸島の凸凹の滑走路に着陸するところから始まります。主人公の敷島(神木隆之介)は特攻隊として出撃したものの、単におじけづいただけのことなのに、母に言われた「生きて帰って来て」の言葉を言い訳にして機体が不調だと嘘をついて編隊を離脱して整備隊がいる大戸島に着陸します。
その晩、大戸島の伝説として語られているゴジラが上陸してきます。整備隊の隊長から零戦の機銃でゴジラ(この時のゴジラはまだ体長10m程度)を撃てと命じられますが、敷島はこの時も手が震えるだけでゴジラを撃つことができず、整備隊は全滅。敷島と隊長以外全員がゴジラに殺されます。
整備隊の隊長 橘(青木崇高)
戦争が終わり、東京の実家に戻ると周辺は焼け野原で両親は亡くなっていました。復員した敷島を隣家の婦人(太田澄子:安藤サクラ)が見つけ、
「あんた、特攻に行ったんじゃないのかい! よくもおめおめと帰って来れたね! あんたらが不甲斐ないせいで、うちの子3人が死んじゃったじゃないか!」
と敷島を突き飛ばしてなじります。
隣家のおばちゃん太田澄子(安藤サクラ)
主人公の敷島はこうした後ろめたさを背負っているという設定ですが、私にはこれでは説得力が弱いと感じます。これでは敷島のせいで死んだのは整備隊員だけのようにも感じられ、背負うものがまだ軽い。それに急ぎ過ぎでしょう。
まずここまでの冒頭を私ならこうする。
敷島が出征する日。玄関で敷島の母親が涙をぬぐって敷島の手を握り、「生きて帰って来て」と声を掛けます。玄関を出ると外には大勢の見送りの人々。最前列には隣家の太田澄子と3人の子が並んでいて、幼い手に日の丸の旗を握ってしきりに振っている。背後から「万歳!」の声。
→ 敷島が盃を受けて特攻の出撃前の場面 → 洋上を飛行する編隊を俯瞰した場面、徐々に1機だけが編隊の後方に遅れていく → 機内の敷島のアップ、編隊長から敷島に「どうした」との通信、「エンジンの調子が・・・」と苦しい言い訳
この後は本作通り。
これだけの場面を冒頭に挿入すれば、戦友を見捨てて自分だけ生き残った後ろめたさと3人の子を失った澄子の悲しみが実感されるのではないでしょうか。時間にして5分もかからないようにできると思うんですがどうでしょう?
【ゴジラと原水爆の関係は?】
最初のゴジラ(第1作)は1954年11月3日の封切りで、アメリカによるビキニ環礁の水爆実験が同年の3月1日ですから、その影響で古代生物が巨大化して出現したとの説明が成り立ちますが、今作は時代設定が1947年ですから、それより前のこと。ゴジラー1.0の中でゴジラと原水爆との関係の説明ってちゃんとあったかな? 私の記憶が飛んでるだけかもしれませんが、はっきりした説明はなかったような・・・? 単に戦争の申し子としてのゴジラ? でもゴジラの通った後には放射線が検出されてるし、吐くのは放射熱線だし。分からん。とにかく原水爆との結びつきが弱い。これを無理なく結びつけるのは難しそう。
【どうして典子を探さない?】
東京に上陸したゴジラは銀座を襲います(予告編でよく見る場面)。銀座で働く典子(浜辺美波:タイトル画像)が心配になった敷島は銀座に駆けつけ、逃げ惑う群衆の中に典子を見つけて一緒に逃げますが、ゴジラが吐いた放射熱線の強烈な爆風が敷島たちに向かってきます。振り返って迫りくる爆風に気づいた典子はビルとビルの隙間に敷島を突き飛ばし、自分は爆風に飛ばされてしまいます。爆風が納まった後に、典子が見当たらないことに気づいた敷島は、やっと見つけた生きる希望を失って悲嘆にくれます。
この後に敷島が典子を探す場面が無いんですよ。もう生きていないと思ったとしても普通は探すでしょう。その場面が無いのがいかにも不自然。
泥まみれになって必死にがれきをどかしながら典子を探して、見つからずに呆然と立ち尽くす場面を挿入。2分もあればいいでしょ。
【ゴジラ対策は誰が仕切ってるの?】
実際にゴジラのような巨大生物が今の日本を襲ったら、政府や官僚はどう動くかに重点を置いて、家族だとか恋愛だとかの人間ドラマが見えなかったのがシン・ゴジラであり、それゆえに海外で評価されなかったようですが、今回のゴジラー1.0はその辺うまく作ってあって海外でも受け入れられそうです。ですが、今度は逆に誰がゴジラ対策を仕切ってるのか、だれがその権限を与えてるのかがさっぱり見えてこない。
今作の設定は1947年。戦争が終わって2年。ですからまだ進駐軍がいた時代ですが、在日米軍はソ連を刺激したくないので動かない。自衛隊の前身である警察予備隊もまだ設立されていない時代です。ですから民間有志でゴジラと戦ったという設定なんですが、無理がある。シンガポールでイギリスに接収された重巡高雄が対ゴジラ戦に戻って来るとか民間だけじゃ無理。少しはGHQなり日本政府なりの拠り所を示す場面が欲しいですよねぇ。
とは言え、国会議事堂跡は巨大なクレーターになっているので、政府は機能していないという裏設定があるのかも知れません。
【エンディング】
典子も重症を負いながらも生きていてハッピーエンド。まさかゴジラ映画のエンディングで泣かされるとは思ってもみませんでした。
話は変わりますが、私は演技がうまい子役が気持ち悪くて嫌いなんですが、今作の子役はわざとらしさが無くて自然でいい(まあ、ぎこちなさも感じたが)。典子に拾われて敷島との間にできた子のような役柄で、劇中では典子とのことを「お母ちゃん」と呼んでいます。
ゴジラを退治して敷島とその子が入院中の典子の元に駆けつける場面。泣ける場面なんですが、その子が敷島の後ろでじっとしてるんですよ。ここは「お母ちゃん!」と言って典子に飛びつかなきゃ嘘だろ! それが日本映画の常道だし、泣かせには必須だ。
あきこ(永谷咲笑)
長々と勝手なことを語りましたが、脚本だけで3年かかってるそうなので、私が考えるようなことは選択肢の一つとしてあったことかも知れませんが、切り捨てられたことなんでしょう。
現在の日本映画の一つの頂点を示す映画であることは多くの人が認めるところだと思います。おそらく後に続く作品が出てくると思います。それにも期待したいですね。
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Posted at
2023/11/12 10:58:20